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2022年8月18日 (木)

日本人のコロナ恐怖は「世間」絡み

安倍元首相の暗殺事件は、やはり、山上容疑者の個人的な思いつきによる単独犯とは、とても解せない状況である。だが、政府や警察からは、重要な情報が出されず、メディアは、旧統一教会の問題にすり替えていて、この問題を追う気がない。結局、真相は、このまま闇に葬られるのが明らかである。

ただ、ユーチューブ等では、この問題の真実に迫るべく、独自に追及している人が何人かいるし、ミナミAアシュタールは、近いうちにこの問題について言及するそうなので、いずれ、それらを踏まえつつ、私もいくらか、改めて考えを述べることにしたい。

今回は、日本人のコロナ恐怖とは、「世間」絡みの恐怖であり、だからこそ厄介で、捕食者の戦略にもハマり易いものであることを述べたい。

コロナは、感染者数は相当に増えたが、当初より確実に弱毒化され、重症化する割合は非常に少なくなっている。新型コロナウイルス感染症対策分科会の有志ですら、インフル並の対策への変更を提言している状況である。また、厚労省ですら、この夏、熱中症対策を踏まえて、外ではマスクを外すことを提言している。

しかし、ほとんどの日本人は、この暑い夏の日ですら、外でもマスクを外そうとしない。それは、コロナそのものを恐れる故かと言うと、決してそんなことはない。もはや、十分明らかになっているように、コロナ自体の「実質」が問題なのではない。問題は、コロナ自体なのではなく、あくまで、「世間」との絡みでの、「コロナ」なのである。

 それは、「世間」が「コロナ」というよりも、「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いをかけられた者をどう扱うか、ということであり、世間にとってのコロナ」ということである。

この長い間に、メディアを主として作られた、コロナについてのイメージは、その実質がどうあろうと、そう簡単に変わるものではない。それは、実際の症状よりも、世界を騒がす、強力な伝染力の方に、恐れをもたらす重点がある。症状として、はっきり現れていなくとも、あるはむしろ、そうであればこそ、感染者として、人に移す/移される可能性があることが問題である。

「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いのかけられた者は、「世間」から嫌がられ、排除され、のけ者にされることが、多くの者にとって、手を取るように分かるのである。

それは、かつてであれば、「穢れ」をもたらすもの、あるいは「エンガチョ」をつけたものとして、差別された者である。

今の日本人にとっても、その習性は、決してなくなってはいない。日本人にとって、「世間」というのは、唯一の宗教的権威と言っていいほどの、力をもつものであることは、何度も述べたとおりである。本当に怖いのは、その「世間」から排除されることなのである。

マスクというのも、実質、コロナの感染(移す/移されること)を防ぐかどうかというのは、大した問題ではない。ただ、一般に、そう思われている、あるいは、「そういう意味づけを与えられている」ことが重要である。マスクは、目に見える形で、自分がコロナ感染に対して、ちゃんと対策をとっている者だということを、世間に向けてアピールのできる、「印」なのである。

ほかにも、ワクチンや手洗いなどのコロナ対策とされるものはあるが、それらは、必ずしも、人に対して見えるものではない。しかし、マスクは、人に対して、目に見える形ではっきりと示すことができる。マスクをすることは、「世間」に対して、「私は、世間の真っ当な一員として、コロナ排除の意思を共有する」ということを、アピールする、重要な示唆なのである。逆に言えば、マスクを外すなどということは、世間を尊重しない、とんでもない行いである。

マスクをつけていることが、コロナ感染者でないことを意味するわけではないし、コロナ感染者にならないことを意味するのでもない。しかし、マスクをつけていることで、たとえコロナ感染者になってしまった場合にも、世間に対して申し訳が立つし、世間の側も、やることはしたうえでの仕方のないこととして、許すことができる。いわば、マスクは、「免罪符」のようなものでもある。

そして、そのように、世間に対してアピールのできる場とは、外を出歩くときこそである。この場合の「世間」とは、具体的には、近所の人や知り合いなどだが、そういう人たちに、あいつはマスクをしない、世間の掟を守らないやつだと思われたら、大変である。

だから、むしろ、「外を出歩くときこそ、マスクは外せない」のである。

「外を歩くときぐらい、マスクを外そう」ではないのである。

多少、大げさに聞こえるかもしれないが、これが現実であり、日本は、今も相変わらず、「世間」に逆らうことの難しい国であることを、改めて実感せざるを得ない。

今後もコロナが、実質恐いものでないことがますます明らかになっても、一定の感染力があって、多くの人の注目に上るものである限り、この事態は変わることはないだろう。変わるとすれば、コロナの感染力が、大きく落ちて、しかもかなりの長い間、そのまま何もなくなり、話題にも上らなくなったというような状況だろう。これは、政府もメディアもそうする気がないから、当分は望めない状況である。

もし、今の状況で、マスクを外すというなら、「世間」みんなが全体で号令を掛けて、一斉に行うぐらいでないと、無理だろう。「コロマスク みんなで外せば、こわくない」というわけである。

そもそも初めの頃は、コロナは、諸外国に比べて、日本人にはあまり作用できずに、大した感染状況も、症状も与えられないと思われていた。それは、確かにそのように見えたが、ここに来て、オミクロン株になったとき、むしろ日本人にこそ、大きな影響を与えるものとなった。実際、諸外国では、インフルや風邪と同じ扱いで、特別の扱いの必要でなくなったところが多い。しかし、日本では、そうはいかない。それは、「世間」が絡むからである。

コロナと似たような症状を発して、疑いをもたれる状態は、耐えがたいから、多くの人は、まじめに検査を受ける。症状がない人も、気になる人は、検査を受ける人も多い。それで陰性の判定を受ければ、一安心だが、陽性であれば、ちゃんと人から離れて、治療なり、療養をする。世間に対して、やるべきことをやり、申し訳が立つことが重要なのである。

そうやって、多くの人が検査を受けるから、ますます感染者数は増え、医療はひっ迫し、感染力の見かけが減ることはない。

そもそも、コロナそのものは、大したものではなくとも、その恐怖を必要以上に煽ることで、パンデミックを起こし、混乱と自由の剥奪をもたらすことが、捕食者の狙いだった。このやり方は、初め日本には、あまり適合しなかった。しかし、今や、この狙いは、日本にこそ、大きくハマるものとなった。

記事『日本人は皆「捕食者」を知っている!?』や『「世間」との「折り合い」』で述べたように、日本では、「世間」の背後にこそ、「捕食者」が潜んでいて、世間を通して、我々に働きかけるからである。コロナも、それ自体ということではなく、この「世間」を通してこそ、特有の恐怖と混乱を与えることができるのである。

日本人にとって強力な、「世間という神」こそが、改めて問題にされなければならないということである。(なお、日本人にとって、「世間」とは何かを問うものとして、記事『「人と人の間」と「霊界の境域」』、及び『「世間教」の二本柱』も参照のこと)

 

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