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2022年8月

2022年8月31日 (水)

さくやさんの「茶番-生きている説」について

ミナミAアシュタールの動画 で、安倍元首相の事件について、とりあげられた。

宇宙人のさくやさんが、「エネルギーを読んで」捉えたことということだが、真相は直接は語れないので、他の星での出来事として、間接的に、概要だけが語られている。しかも、さくやさんはほとんど語ることなく、あつし氏が語ることに頷くだけという形になっている。

だから、詳しいことは分からないのだが、一言で言えば、安倍氏は死んでおらず、「茶番-生きている説」ということになるのは、はっきりしている。

これは、安倍氏の事件の当初、ツイッター等ではもちあがった説だが、ここに来てほとんど顧みられない説であり、一般には、衝撃以外の何ものでもなかろう。

ただ、私は、「茶番-生きている説」自体は、記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも、あり得ることとしていたし、それは、今も変わっていない。

しかし、この動画の説明から受ける印象では、私の考えていた、「茶番」ということとは、かなり相違があり、やはり驚きは大きい。

私としては、さくやさんの本やブログ、動画などを通しての説明は、これまで、多くの点で、納得のいくものであり、私の見方との共通点も多いことを感じている。だから、さくやさんのこの事件に関する説も、とても捨ておく気にはなれず、基本的には、受け入れられるという前提に立つ。

そもそも、この事件については、不可解な謎が多く、映像や奈良医大の福島教授の話などと整合する説が、いろいろ考察されてはいるが、単独犯説、スナイパー等による別人の暗殺説など、いずれも決定的ではない。

だから、「茶番-生きている説」も、決して成り立たないと決めつけられるものではない。

ただ、私としては、さくやさんの説は、かえって謎を深めてしまう感がある。

そこで、今回は、私の考えを特に述べることはしないが、さくやさんの説の概要を紹介し、その疑問点を整理しておくことにしたい。私の考えは、いずれもう少しまとまった時点で、述べることにする。

さくやさんの説の概要

安倍氏の暗殺事件は、自民党と安倍氏が組んで仕掛けた、茶番の演出である。安倍氏は、実際は撃たれておらず、今も生きている。しかし、当初は、死ぬことは想定されておらず、奇跡の復活を遂げる予定だった(A案)。ところが、マスコミの報道とは別に、事件の動画や写真などが出回り、「茶番」も疑われる状況となったので、死んだことにすることになった(B案)。

このような演出を仕掛けた理由は、参院選について、与党及び改憲勢力の劣勢が見込まれていたので、その起死回生の挽回を図る。さらに、安倍氏が、逮捕の可能性もある、モリカケ問題等の問題を抱えていたので、その解消を図る、ということである。

安倍氏のいる場所を言うことはできない。ただ、安倍氏の出自や旧統一教会、満州国の建設の話との絡みで言うと、北朝鮮と思われる。

山上容疑者のことは、一切語られない。ただ、暗殺の理由とされた、旧統一教会のことには触れられ、初め、報道では、「ある団体」として伏せられたが、選挙後、外国のメディアが名を出したことから、表に出たとする。現在、マスコミで叩かれているのは、自分らを排除しようとした自民党の勢力を貶めて、発言力を高めたい、公明党グループの目論みも関係している。

疑問点

記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも述べたが、このような壮大な茶番を演出するのは、大変で、リスクの大きなことであり、よほどの理由とメリットがなければ、できないことである。

しかし、さくやさんの話から窺える限りでは、仕掛けたのは、自民党という国内レベルの政治組織であり、理由も、安倍氏の責任逃れという、個人的な色彩が強い。参院選での、改憲勢力の勝利は、上からの指令である可能性があり、そこには、その指令に従う必要もあったかもしれないが、大枠、国レベルの仕掛けとして、このような壮大な茶番が仕掛けられたということなら、それはとても信じ難い。

9・11も一種の茶番だが、これは、米国が主導と言えども、さらに上の組織(恐らく宇宙人の技術も絡む)が、世界レベルの効果を狙って起こしたものであり、同列には論じられない。

(ただし、記事『「世界統一政府」と国の首長』で述べたように、世界統一政府の樹立を急ぐ、(宇宙人を含む)支配層の危急の策としてなら、私はあり得ることと思うし、恐らくさくやさんの説も、後にみるように、実際には、そういうことを含むという可能性はある。)

演出とすると、奈良県警はもちろん、奈良医大、報道関係その他、多くの関係組織を丸め込み、予め知らせたうえ、実行されなくてはならない。

奈良県警は、まさしく、(演出にしても暗殺にしても)寄与したとしか考えられない状況だが、安倍氏の手術を担当した奈良医大の福島教授の話は、予め用意されたウソとは解しにくい。山上容疑者の銃撃とは一致しない、心臓にまで達した頸部の銃創などの話をしているからである。もっとも、当初の怪我だけの予定から、死んだことにするという混乱を受けて、話も錯綜したものになったという可能性はある(後に司法解剖で、一応の辻褄合わせが図られた)。

安倍氏の責任逃れの点についても、これだけの演出と、多くの組織の丸み込めをするなら、検察も抑え込められなかったのかという気がする。

茶番であるならば、山上容疑者もグルということになるが、それでは、わざわざ自民党にとって不利になる旧統一教会のことが、理由としてあげられるのも、(初めは名は伏されたにしても)解せないことである。

安倍氏にとっても、奥さんとも別れて、(何らかの指令と影響力の行使はその後もあるのかもしれないが)実質権力を失う「雲隠れ」を実行するというのは、よほどの理由と決断がないとできないことのはずである。

そのほかにも、いくつかあるが、とりあえず、大きな疑問点は以上である。

もし本当に、さくやさんの言うとおりのことが行われたのなら、日本は、もはや完全に、救いようもなく、「終わっている」としか言いようがない。こんなことをする国の言うことなど、1ミリたりとも聞く気は起こらない。

ただ、ミナミAアシュタールのコンセプトは、「ピラミッド社会の真実を知って、そっと離れる」ということにあるので、多少、その「真実」を強調して、一面的に話す傾向はあるようである。

それに、繰り返すが、今回のさくやさんの話は、ほんの概要だけで、詳しい背景などには一切触れられていない。今後、そのような話も出されてくるかもしれず、そうすれば、実際には、もっと違った印象になる可能性があるし、多くの疑問も解消する可能性はある。

今回は、とりあえず、ここまでとする。

2022年8月18日 (木)

日本人のコロナ恐怖は「世間」絡み

安倍元首相の暗殺事件は、やはり、山上容疑者の個人的な思いつきによる単独犯とは、とても解せない状況である。だが、政府や警察からは、重要な情報が出されず、メディアは、旧統一教会の問題にすり替えていて、この問題を追う気がない。結局、真相は、このまま闇に葬られるのが明らかである。

ただ、ユーチューブ等では、この問題の真実に迫るべく、独自に追及している人が何人かいるし、ミナミAアシュタールは、近いうちにこの問題について言及するそうなので、いずれ、それらを踏まえつつ、私もいくらか、改めて考えを述べることにしたい。

今回は、日本人のコロナ恐怖とは、「世間」絡みの恐怖であり、だからこそ厄介で、捕食者の戦略にもハマり易いものであることを述べたい。

コロナは、感染者数は相当に増えたが、当初より確実に弱毒化され、重症化する割合は非常に少なくなっている。新型コロナウイルス感染症対策分科会の有志ですら、インフル並の対策への変更を提言している状況である。また、厚労省ですら、この夏、熱中症対策を踏まえて、外ではマスクを外すことを提言している。

しかし、ほとんどの日本人は、この暑い夏の日ですら、外でもマスクを外そうとしない。それは、コロナそのものを恐れる故かと言うと、決してそんなことはない。もはや、十分明らかになっているように、コロナ自体の「実質」が問題なのではない。問題は、コロナ自体なのではなく、あくまで、「世間」との絡みでの、「コロナ」なのである。

 それは、「世間」が「コロナ」というよりも、「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いをかけられた者をどう扱うか、ということであり、世間にとってのコロナ」ということである。

この長い間に、メディアを主として作られた、コロナについてのイメージは、その実質がどうあろうと、そう簡単に変わるものではない。それは、実際の症状よりも、世界を騒がす、強力な伝染力の方に、恐れをもたらす重点がある。症状として、はっきり現れていなくとも、あるはむしろ、そうであればこそ、感染者として、人に移す/移される可能性があることが問題である。

「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いのかけられた者は、「世間」から嫌がられ、排除され、のけ者にされることが、多くの者にとって、手を取るように分かるのである。

それは、かつてであれば、「穢れ」をもたらすもの、あるいは「エンガチョ」をつけたものとして、差別された者である。

今の日本人にとっても、その習性は、決してなくなってはいない。日本人にとって、「世間」というのは、唯一の宗教的権威と言っていいほどの、力をもつものであることは、何度も述べたとおりである。本当に怖いのは、その「世間」から排除されることなのである。

マスクというのも、実質、コロナの感染(移す/移されること)を防ぐかどうかというのは、大した問題ではない。ただ、一般に、そう思われている、あるいは、「そういう意味づけを与えられている」ことが重要である。マスクは、目に見える形で、自分がコロナ感染に対して、ちゃんと対策をとっている者だということを、世間に向けてアピールのできる、「印」なのである。

ほかにも、ワクチンや手洗いなどのコロナ対策とされるものはあるが、それらは、必ずしも、人に対して見えるものではない。しかし、マスクは、人に対して、目に見える形ではっきりと示すことができる。マスクをすることは、「世間」に対して、「私は、世間の真っ当な一員として、コロナ排除の意思を共有する」ということを、アピールする、重要な示唆なのである。逆に言えば、マスクを外すなどということは、世間を尊重しない、とんでもない行いである。

マスクをつけていることが、コロナ感染者でないことを意味するわけではないし、コロナ感染者にならないことを意味するのでもない。しかし、マスクをつけていることで、たとえコロナ感染者になってしまった場合にも、世間に対して申し訳が立つし、世間の側も、やることはしたうえでの仕方のないこととして、許すことができる。いわば、マスクは、「免罪符」のようなものでもある。

そして、そのように、世間に対してアピールのできる場とは、外を出歩くときこそである。この場合の「世間」とは、具体的には、近所の人や知り合いなどだが、そういう人たちに、あいつはマスクをしない、世間の掟を守らないやつだと思われたら、大変である。

だから、むしろ、「外を出歩くときこそ、マスクは外せない」のである。

「外を歩くときぐらい、マスクを外そう」ではないのである。

多少、大げさに聞こえるかもしれないが、これが現実であり、日本は、今も相変わらず、「世間」に逆らうことの難しい国であることを、改めて実感せざるを得ない。

今後もコロナが、実質恐いものでないことがますます明らかになっても、一定の感染力があって、多くの人の注目に上るものである限り、この事態は変わることはないだろう。変わるとすれば、コロナの感染力が、大きく落ちて、しかもかなりの長い間、そのまま何もなくなり、話題にも上らなくなったというような状況だろう。これは、政府もメディアもそうする気がないから、当分は望めない状況である。

もし、今の状況で、マスクを外すというなら、「世間」みんなが全体で号令を掛けて、一斉に行うぐらいでないと、無理だろう。「コロマスク みんなで外せば、こわくない」というわけである。

そもそも初めの頃は、コロナは、諸外国に比べて、日本人にはあまり作用できずに、大した感染状況も、症状も与えられないと思われていた。それは、確かにそのように見えたが、ここに来て、オミクロン株になったとき、むしろ日本人にこそ、大きな影響を与えるものとなった。実際、諸外国では、インフルや風邪と同じ扱いで、特別の扱いの必要でなくなったところが多い。しかし、日本では、そうはいかない。それは、「世間」が絡むからである。

コロナと似たような症状を発して、疑いをもたれる状態は、耐えがたいから、多くの人は、まじめに検査を受ける。症状がない人も、気になる人は、検査を受ける人も多い。それで陰性の判定を受ければ、一安心だが、陽性であれば、ちゃんと人から離れて、治療なり、療養をする。世間に対して、やるべきことをやり、申し訳が立つことが重要なのである。

そうやって、多くの人が検査を受けるから、ますます感染者数は増え、医療はひっ迫し、感染力の見かけが減ることはない。

そもそも、コロナそのものは、大したものではなくとも、その恐怖を必要以上に煽ることで、パンデミックを起こし、混乱と自由の剥奪をもたらすことが、捕食者の狙いだった。このやり方は、初め日本には、あまり適合しなかった。しかし、今や、この狙いは、日本にこそ、大きくハマるものとなった。

記事『日本人は皆「捕食者」を知っている!?』や『「世間」との「折り合い」』で述べたように、日本では、「世間」の背後にこそ、「捕食者」が潜んでいて、世間を通して、我々に働きかけるからである。コロナも、それ自体ということではなく、この「世間」を通してこそ、特有の恐怖と混乱を与えることができるのである。

日本人にとって強力な、「世間という神」こそが、改めて問題にされなければならないということである。(なお、日本人にとって、「世間」とは何かを問うものとして、記事『「人と人の間」と「霊界の境域」』、及び『「世間教」の二本柱』も参照のこと)

 

2022年8月 2日 (火)

「ボタン一つで朝になる」の言葉再考

記事『ボタン一つで…』では、一連の体験時に、身近に接した、「アニマ」と名づけた存在の印象に残る言葉をとりあけた。それは、「そのうちボタン一つで朝になるのよ」という、シュールなものだった。

それは、私が、現在の文明は、「何でもボタン一つでできる便利さを追求した結果、荒廃した」みたいなことを考えていた折りに、発せられたものである。私は、当時、これらの存在の発する言葉を、文字どおり真に受ける(即物的に解す)傾向があったから、これは、近いうちに、「人工太陽のようなものができ」て、文字通り、「ボタン一つで朝になる」ということを言っているのだと思った。

しかし、記事では、それを、振り返って、それは、「何でもボタン一つで」という我々の浅はかな考えを皮肉って、できるわけのない、「シュール」なことを述べた、諧謔のようなものだったのだろう、と述べていた。

このように、これらの存在が、皮肉めいた言葉を好み、よく発するのは確かである。しかし、そのような解釈には、どこか、しっくり来ないところがあったのも事実である。

そんな折り、最近、『よひとやむみな』の中に、次のような言葉をみつけて、ハッとした。

ボタンひとつで世界は動くぞ。

人間同士でつながって、込み入ってしまった霊線を、人から神へと付け替えるぞ。

身魂を磨けば、自ら付け替えることが出来るのぞ

ここでも、「ボタン一つで」という言葉がとられている。それは、「一瞬にして」という意味の比喩で、やはり、我々が、何でもボタン一つで解決しようとすることに対する、皮肉の意味合いが込められているようではある。しかし、そこでは、むしろ、全体として、明らかに、そのような意味合いを超えたことが、示されている。人間のいう「ボタン」などという機械的なものではなくて、それを超えた、一瞬の「神」の仕掛けで、宇宙そのものが動く(ひっくり返る)という、「魔法」のようなことを意味しているのである。

つまり、「大峠」という、「暗闇」の時代が、神の経綸により、一瞬にして「明ける」ということの一例が示されているのである。

私は、アニマの発した言葉を思い出し、それにも、やはりこのような意味合いが込められていたのではないかと、思わざるを得なかった。アニマは、捕食者的な精霊とは違って、天使的な面も持ち合わせている。そして、この言葉は、単なる「皮肉」にふさわしくなく、淡々としてはいたが、優しく包み込むように、言われていたのである。

私は、当時、「夜」そのものと言うべき、「暗闇」の状態から、永遠に抜け出せる望みもない状態をさまよっていた。実際、それは、「宇宙の死」といった、「世界の終わり」に向けて、確実につき進む過程にあった。

しかし、私に関する限り、その過程は、最終的には、実体として押し寄せた「闇」に包まれることによって、一瞬にして、吹き飛ばされ、「明けた」のである。積極的に、「光」に覆われたというような意味合いは薄いが、少なくとも、それまで当たり前のように続いた「夜」は、嘘であったかのように、一瞬にして、「明ける」ことになった。つまり、「朝」になったのである。

アニマの言葉の、「ボタン一つで」というのが、一つの比喩なら、「朝になる」というのも、「物理的に朝になる」ことではなく、やはり、一つの比喩と解した方が、適当かもしれない。つまり、「そのうちボタン一つで朝になる」とは、(今は、明けることのない夜だとしても)そのうち、「一瞬にして夜が明け、朝になる」ということを、予告していたものと解される。そして、それは、私に関する限り、そのまま実現した。

しかし、この言葉は、私だけに向けられた、個人的なものとは、とても思えないのである。私が、現在の人間の文明のことを、考えていたときに、発せられた言葉であるのも、そのことを物語っている。

つまり、『よひとやむみな』と同様、現在の地球の人間全体について、言われているものとも思われるのである。

地球全体、特に日本が、本格的な「夜」に向かうのは、前回述べたように、これからのことである。だから、その「夜」が明けて、「朝になる」とは、まだまだこれからのことで、今はまだ、現実味の薄いものかもしれない。

しかし、それが本格化したときには、改めて、この言葉が、思い起こされるだろうし、それが、本当のことを述べていたことに、気づかされることになる日が来るのかもしれない。

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