『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い
カスタネダの『無限の本質』は、遺作にふさわしく、最後の場面もとても印象的である。それは、何を隠そう、統合失調と思われる精神異常者との出会いで終わっているのである。
その出会いを語るためには、それまでの流れを簡単に振り返らなければならない。
カスタネダは、ドンファンら呪術師たちが、「無限」と一体となる最後の旅をするべくこの世界を去って、一人残されることになる。しかし、カスタネダも、ドンファンから、最後の旅をするべくこの世界を去るか、それまでの道を一人でさらに進むべくこの世界に戻るかの、最終的な選択をする課題を与えられる。その課題とは、高い崖から谷底の深淵に向かって、飛び込むという過酷なものである。
その、死が間近に迫る極限状況における「内的沈黙」の状態で、最終的な決断がなされなければならない、とされるのである。
しかし、ドンファンには、それがなされる前に、既にお前は、ここに残る合意がなされたと言われる。実際、カスタネダは、崖から谷底の深淵に向かって飛び込むことになる。すると、次の日、カスタネダは、その場所から遠く離れたカルフォルニアの自宅で寝ている自分を発見する。
崖から飛び込んだにも拘わらず、死んではおらず、しかも、物理的にはあり得ない時間で、その場所から、自宅に移されたことになるのである。
つまり、いずれにせよ、ドンファンの言うとおり、カスタネダは、この世界を去ることにはならず、この世界に戻されたのである。
何か、ヘルマンヘッセの『荒野の狼』に出てくる「魔術劇場」のような「夢幻的」な話に聞こえようが、カスタネダとしては、確かに物理的な次元で、谷底に飛び込んだという自覚がある。そして、その間、「無限」と向き合ったという自覚があり、「意識の暗い海」といわれる、その本質的な要素に包まれて、死を避けられ、自宅に戻されたと解すことになる。
実際、物理的次元で行われたのか、これも「カラスになって空を飛んだ」ときと同様、一種の「中間的現象」なのか、分からないが、いずれにしても、「無限」と遭遇したという点が重要だ。
ドンファンのように、「無限と一体となる旅」に出ることはできないが、少なくとも、「無限」の体験をしたのであり、それだけでカスタネダにとっては、十分過ぎるほど衝撃的なことだった。
カスタネダは、一人残されたが、それは、もはやただの人としてではなく、「無限」を体験し、戻って来た者として、もはや、「この世ならぬ」者としてだった。
そんなとき、カスタネダがいるレストランに、近くの病院に通っている精神異常者が入って来た。その者は、カスタネダを見るなり、大声で叫んで逃げ出した。カスタネダは、この者が一体自分に何を見たのか、聞きたくて、追いかけたが、その者は一層大声で叫んで、逃げてしまった。
カスタネダは、レストランの人に「どうしたの?」と聞かれて、こう言った。
「友達に会いに行っただけさ」
そして、この遺作の最後は、次のようにして閉じられる。
「この世でたったひとりの友達なんだ」私は言った。それは真実だった。もしも「友達」を、人が纏っている覆いの中身を見抜き、その人が本当はどこから来たのかを知ることができる人間と定義できるならば。
統合失調と思われる精神異常者こそ、「無限」と出会って戻って来たカスタネダを、よく見抜くことのできる者だったということだ。なぜなら、この精神異常者もまた、「無限」との何らかの遭遇をして、その恐ろしさを知り、この世にありながら、この世ならぬあり方をしている「友達」だから。
私は、初めにこの本を読んだとき、自分の体験した「捕食者」についての見事な説明に驚いたのみならず、この最後の場面にも大きな衝撃を受けた。
そして、今は大げさに感じるけれども、次のような妄想じみた思いも抱くことになった。
かくして、カスタネダのドンファンシリーズは、狂気の者との出会いにおいて、幕を閉じた。それは、今後カスタネダを理解するのは、狂気の者のみであるということ、さらには、カスタネダを引き継ぐことのできる者がいるとしたら、狂気の者でしかあり得ないということを意味している。
その「狂気の者」とは……、自分でしかあり得ないのではないか?
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