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2022年6月

2022年6月30日 (木)

『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い

カスタネダの『無限の本質』は、遺作にふさわしく、最後の場面もとても印象的である。それは、何を隠そう、統合失調と思われる精神異常者との出会いで終わっているのである。

その出会いを語るためには、それまでの流れを簡単に振り返らなければならない。

カスタネダは、ドンファンら呪術師たちが、「無限」と一体となる最後の旅をするべくこの世界を去って、一人残されることになる。しかし、カスタネダも、ドンファンから、最後の旅をするべくこの世界を去るか、それまでの道を一人でさらに進むべくこの世界に戻るかの、最終的な選択をする課題を与えられる。その課題とは、高い崖から谷底の深淵に向かって、飛び込むという過酷なものである。

その、死が間近に迫る極限状況における「内的沈黙」の状態で、最終的な決断がなされなければならない、とされるのである。

しかし、ドンファンには、それがなされる前に、既にお前は、ここに残る合意がなされたと言われる。実際、カスタネダは、崖から谷底の深淵に向かって飛び込むことになる。すると、次の日、カスタネダは、その場所から遠く離れたカルフォルニアの自宅で寝ている自分を発見する。

崖から飛び込んだにも拘わらず、死んではおらず、しかも、物理的にはあり得ない時間で、その場所から、自宅に移されたことになるのである。

つまり、いずれにせよ、ドンファンの言うとおり、カスタネダは、この世界を去ることにはならず、この世界に戻されたのである。

何か、ヘルマンヘッセの『荒野の狼』に出てくる「魔術劇場」のような「夢幻的」な話に聞こえようが、カスタネダとしては、確かに物理的な次元で、谷底に飛び込んだという自覚がある。そして、その間、「無限」と向き合ったという自覚があり、「意識の暗い海」といわれる、その本質的な要素に包まれて、死を避けられ、自宅に戻されたと解すことになる。

実際、物理的次元で行われたのか、これも「カラスになって空を飛んだ」ときと同様、一種の「中間的現象」なのか、分からないが、いずれにしても、「無限」と遭遇したという点が重要だ。

ドンファンのように、「無限と一体となる旅」に出ることはできないが、少なくとも、「無限」の体験をしたのであり、それだけでカスタネダにとっては、十分過ぎるほど衝撃的なことだった。

カスタネダは、一人残されたが、それは、もはやただの人としてではなく、「無限」を体験し、戻って来た者として、もはや、「この世ならぬ」者としてだった。

そんなとき、カスタネダがいるレストランに、近くの病院に通っている精神異常者が入って来た。その者は、カスタネダを見るなり、大声で叫んで逃げ出した。カスタネダは、この者が一体自分に何を見たのか、聞きたくて、追いかけたが、その者は一層大声で叫んで、逃げてしまった。

カスタネダは、レストランの人に「どうしたの?」と聞かれて、こう言った。

「友達に会いに行っただけさ」

そして、この遺作の最後は、次のようにして閉じられる。

「この世でたったひとりの友達なんだ」私は言った。それは真実だった。もしも「友達」を、人が纏っている覆いの中身を見抜き、その人が本当はどこから来たのかを知ることができる人間と定義できるならば。

統合失調と思われる精神異常者こそ、「無限」と出会って戻って来たカスタネダを、よく見抜くことのできる者だったということだ。なぜなら、この精神異常者もまた、「無限」との何らかの遭遇をして、その恐ろしさを知り、この世にありながら、この世ならぬあり方をしている「友達」だから。

私は、初めにこの本を読んだとき、自分の体験した「捕食者」についての見事な説明に驚いたのみならず、この最後の場面にも大きな衝撃を受けた。

そして、今は大げさに感じるけれども、次のような妄想じみた思いも抱くことになった。

かくして、カスタネダのドンファンシリーズは、狂気の者との出会いにおいて、幕を閉じた。それは、今後カスタネダを理解するのは、狂気の者のみであるということ、さらには、カスタネダを引き継ぐことのできる者がいるとしたら、狂気の者でしかあり得ないということを意味している。

その「狂気の者」とは……、自分でしかあり得ないのではないか?

 

2022年6月 3日 (金)

「捕食者」に出会っていなかったら、その存在を信じていたか

私が、一連の体験を通して、捕食者に出会っていなかったら、現在、捕食者の存在を信じていたかということを、たまに考える。

結論から言うと、本当には信じていなかった可能性があり、信じるとしても、半信半疑、よくても7割方くらいの感じでだろうと思う。

私は、一連の体験をする前に、カスタネダシリーズを読んでいたから、捕食者について記された遺作『無限の本質』は、捕食者の体験をしていなかったとしても、読むことになっただろう。

それまでのカスタネダシリーズには、小説的な色付けや誇張を感じつつも、「真実を含む」という確かな手応えも感じていてた。だから、『無限の本質』の捕食者についての記述にも、信じ難い思いは持ちつつ、それなりのリアリティを感じたことと思う。それでも、それを本当に信じることは難しく、半信半疑か、そうでなくとも、どこか自分の日常からはかけ離れた、遠い世界の話のような感じで、受け取っていたと思うのだ。

だから、私は、多くの人にとって、捕食者のことが受け入れられなかったり、今一つ、「ピンと来ない」、「なじめない」という感じをもつのは、自然のことと思うし、理解もできる。そして、それについて、とやかく言う気も起こらない。

むしろ、直接体験したことがないにも拘わらず、捕食者のことを、固く信じることのできるという人がいるなら、その人は、固定観念に縛られない、柔軟で、直感力の優れた人だと思う。

もっとも、現在は、私が体験した頃(既に31年前)に比べれば、捕食者に関する情報や、レブティリアンに関する情報も多くあり、それらが、現実に起こっている様々な出来事との関係でも、受け入れられやすくなっているのは、間違いないことだろう。

それにしても、捕食者の存在を受け入れるということは、人間以外の、非物質的な知的存在を認めるということ。それも人間にとって苦痛な、人間の上に立ち、支配する存在を認めるということ。さらに、我々を縛る、善悪の観念を離れて、宇宙的なエネルギー循環の観点から、他の存在を認めるということを意味している。これは、広く行き渡っている、一般的な固定観念からの何段階かの飛躍によって、初めて可能になることなので、容易なことではないはずである

私自身、記事で述べたように、捕食者に直接出会った当初は、非常な衝撃と驚きを感じ、ある個性と実体をもった、確たる存在であることは、疑い様がなかったが、それがいかなる存在であるのか、容易に判断できなかった。

ただ、物質的な身体を持たない存在であることは、明らかであったし、その尋常でない攻撃的な性質や強力な威圧感、言って来ることの、人間とは思えない内容などから、それが人間以外の存在であることも認めざるを得なくなった。それで、いわゆる、「魔」、あるいは「悪魔的な存在」と解するほかなかったわけだが、それにしても、そのように解するまでにも、かなりの紆余曲折を経ることになったのである。

そして、それまでは、それらの存在が、当然地球上のものと思っていたわけだが、接して行くにつれ、どうもそれらは、地球的なものという枠組みを越えた、もっと宇宙的なものであることが、察せられるようになった。

また、接するにつれ、それらの存在は、私だけでなく、多くの人にも影響を与え(多くの人も無意識領域では、それらの存在に服従していて)、言わば人の上に君臨する存在であることも分かって来た。

しかし、一方で、それまでは、恐怖と無力感のもとに接していたのだが、あるとき、私の怒りが爆発し、断固たる態度をとると、それまでの強力な攻撃性を失ったように感じたことや、明らかに、私の恐怖をエネルギーとして吸収することで活性化しているのを、肌で感じるということがあった。それで、それらの存在は、どうも、思っていたほど恐れる存在ではないことを感じとることになった。

さらに、その時点では、それまでの信じがたい体験を通して、「善とか悪」とかいうことも、自明なものではなくなっていて、これらの存在も、単純に「悪」なのかどうかも分からなくなっていた。

そのようなことを通して、この存在を、単純に「魔」とか「悪魔的存在」として受けとることはできなくなったのである。

ただ、当然ながら、捕食者なる概念はもっていなかったので、「捕食者」として捉えたわけではないが、実質的には、捕食者という概念が当てはまるのに近い形で、それらの存在を捉えるようになっていたのだった。

だから、後に、この存在のことを、見事に説き起こす、カスタネダの『無限の本質』を読んだときは、本当に、ひっくりかえるほど、衝撃を受けた。(ディービッド・アイクも、私と同様、捕食者の体験をしていて、それをどう捉えていいか思い悩んでいたとき、この本と出会って、あまりに自分の体験を見事に説明するものだったので、本当に椅子から転がり落ちるほど、衝撃を受けたという。)

私は、その前に、シュタイナーの「アーリマン存在」と「ルシファー存在」という二系統の悪魔的存在論に出会っていて、そこで説明されていることは、私の出会った存在の中に、確かに二系統の性質の異なる存在があるのを、見事に説明するものだった。

しかし、カスタネダの『無限の本質』での捕食者の説明は、それ以上に、私の体験していた存在を、ことごとく、ふに落ちる形で、見事に、説き明かしてくれていたのである。それで、それらの存在は、「捕食者」として捉えるのがふさわしいと、心底、納得することができた。

そういうわけで、私は、現在では、自分自身の、捕食者として捉えるのがふさわしい存在との出会いを通して、「捕食者」なる存在を、疑いもなく信じている、というより、それは、「自明の事実」となったのである。

しかし、その存在を証明することなどは、当然できないし、自分自身のそこに至るまでの紆余曲折を顧みても、他の者にそのことを納得させたり、説き伏せたりなどはできないこともよく分かる。だから、そのようなことには興味はないし、そうするつもりもない。

ただ、今後、捕食者のことが、多くの人にとっても、事実として受け入れざるを得なくなる可能性は、十分あると見込んでいる。恐らく、宇宙人「レプティリアン」としてだろうが、彼らの行動があまりにもあからさまで、表に現れて来るものになれば、その存在が、確たるものとして知られるようになる可能性は十分考えられるのである。

また、ミナミAアシュタールもよく言うように、現代の閉塞した、ピラミッド社会から離れたいと思う場合には、ピラミッド社会の頂点に、捕食者的なレプティリアンが存在していることを認めずしては、とても無理なことと思う。ただ表面的に、政権や社会の体制などを変えたとしても、その頂点にレプティリアンがいること自体が変わらなければ、実質何も変わりはしないからだ。

そのためには、捕食者としてのレプティリアンについて、それなりに多くを知り、その支配を脱する方法を学ぶ必要が出て来るということである。

さらに、このブログで主題として扱っている統合失調や、最近の集団ストーカー被害の問題にしても、そこに多大の影響を与えている捕食者について知ることがなければ、それを本当に脱することは、到底適わないというべきである。それらの、酷く混乱した状態は、捕食者による攻撃や戦略によって、そこに陥らせて、抜け出せなくすることで起こっているので、正面から捕食者の存在を認めたうえで、その影響を脱することを考えない限り、本当には難しいからである。

特に、集団ストーカー被害は、その観念からして、そこに引き入れる捕食者の戦略であることが理解できないと、永遠に人間による集団ストーカーを訴えるだけで、一向にらちがあかないことになる。

そういうわけで、現在においては、捕食者のことが知られる必要性―むしろ「必然性」と言った方が適当だが―が高まっていることには、疑いないだろう。

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