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2022年4月

2022年4月13日 (水)

「共通感覚的に<あり得ない>」

前回述べたように、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」のだった。が、だとすれば、「統合失調症」や「集団ストーカー被害」の人が訴える「妄想」的な事柄も、「あり得ない」などとは言えないことになる。

それは、実際にそうで、そういった「妄想」も、(論理的に)「絶対にあり得ない」ということではないのである。

そういった「妄想」は、記事『「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱』でも述べたように、言うならば、「共通感覚的に<あり得ない>」のである。(論理的に)「絶対にあり得ない」わけではないが、多くの人が、共通感覚として、そんなことは「あり得ない」と感じる、というよりも、そういうことを、疑いもなく確信して行動することを、「おかしい」と感じるということである。

その理由は、論理的に明確には説明しにくいが、あえて言葉で説明するならば、次のようになることを、記事でも述べていた。

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

注意すべきは、この「共通感覚」というのも、それが「正しい」のではなく、要は、多数の者が共通して感覚することであって、多くの者の背景となる、文化や時代の影響を受けるものである。

しかし、精神医学は、「妄想」を、「間違った信念を確信して、訂正できないこと」と定義している。

これは、それ自体が、物事を「あり得ない」と決めつける発想に基づいている。「間違っている」というのは、「あり得ない」と判断することから来る評価で、多分に決めつけ的なのである。

「妄想」は、本当は、「間違っている」かどうかよりも、「共通感覚からずれる事柄を、確信して、他の可能性を顧みず、他の者に対しても、それが当然の事実であるかのように行動して来る」ということの、理解しがたさに重点がある。

「訂正不能」というのは、一応それに近いが、やはり多分に決めつけ的であり、「あり得ない」という発想が元になっているから出て来る表現である。

このように、精神医学は、そういった状態に陥った者を、「病気」と規定して、多分に強制的で、身体に多大な影響を与える「治療」を施す必要から、「妄想」の病的な性格を際立たせようとする。それで、(「あり得ない」という発想で)「間違っている」、「訂正不能」という、強固な、「決めつけ」的な内容を与えるのである。

ところが、実際には、そうやって決めつけるから、相手にも反発を招き、余計に頑なにさせてしまうのである。「妄想」に陥った者も、ますます「決めつけ」的に、その共通感覚からずれた事柄を、事実として、確信することになる。

いずれにしても、「妄想」を「事実」と訴える側も、「病気」だから治療しろ、という側も、ともに、「あり得ない」という旧態依然たる発想をしているのである。

「あり得ない」という発想同士が、お互いに、ぶつかり合って、対立しているということである。

これを図に示すと、次のようになる。

Photo_20220413223901

記事でも述べたが、「妄想」を訴える側が、「実際に起こっている」というのは、感覚レベルで、多くの人が自分につきまとったり、いやがらせをして来るなどと、「感じる」ということである。感覚的なことなので、実際には、これを言葉で説明することは難しい。あえて言えば、「<それ>が起こっている」とでも言うしかない。

ところが、この<それ>を、既成の観念で、短絡的な解釈をして、その解釈をそのまま確信してしまうのが、「妄想」なのである。「組織に狙われる」とか、「集団ストーカーにつけ狙われる」などである。これらが、感覚としての、<それ>に入れ替わって、事実であるかのように、確信されてしまっている。そして、そこには、そうでしか「あり得ない」という発想が、強く働いている。

病気という側も、先にみたように、「共通感覚的にあり得ない」という感覚を、論理的な問題、あるいは、事実そのものの問題にすり替えて、「間違っている」、「病気」などとして、押しつけているのである。

だから、「妄想」を訴える側にしても、「病気」として治療を押しつける側にしても、このような、「あり得ない」という、硬直した発想が、問題を起こしているという面が大きい。                                                            

これを、前回みたように、現代の若者の感覚として行き渡りつつある、「そんなことある?」くらいの、柔軟な発想で捉えることができれば、事態は大分、軽減するのである。

「病気」と決めつけずに、「組織に狙われる」、「集団ストーカーにつけ狙われる」なんてこと「ある?」くらいに、軽く問い返せば、本人も、改めて、ことを問い直す余地(余裕)が生まれるかもしれない。あるいは、少なくとも、自分の訴えが、多くの人にとって、共通感覚的には、「あり得ない」ことであることを、改めて自覚するきっかけになるかもしれない。

妄想を訴える側も、実際に起こっているのに、「病気なんてことある?」と軽く問い返せば、多くの人も、この人は、訴えの内容の信じ難さはとりあえずおいても、何事かを実際に起こっていることと感じていることを、改めて感じることができる。そして、何が実際に起こっているのか、に興味を移し、なぜ、そのような感覚が生じるのかについて、互いに、考えることができるようになるかもしれない。

「妄想」を訴える側は、実際に、切迫した危機を感じるからこそ、そのような妄想を訴えるのだし、「病気」という側も、そのような者を前にして、動揺し、混乱するからこそ、病気として納得しようとする。

互いに余裕がないから、「あり得ない」という硬直した発想をするわけで、確かに、それを変える、柔軟性をもつことは難しい状況である。

しかし、社会全体が、少しずつでも、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」という発想。「そんなことある?」くらいの柔軟な発想に移行できれば、このようなことも、さほど難しいことではなくなるだろう。

2022年4月 2日 (土)

「そんなことある?」

記事『「あり得ない」という言葉も死語』で述べたように、かつて若者によく使われた「あり得ねぇ」という言葉は、もはや死語となり、使われなくなった。そして、最近それに代わって、同じような意味合いで使われ出した言葉がある。それは、「そんなことある?」というものである。

かつての「あり得ねぇ」という言葉の使われ方や、それが使われなくなったことについて、記事では次のように述べていた。

ここでは、「あり得ない」は、もはや「絶対あり得ない」ことではなくなっている。言い換えると、「あり得ない」と言っても、もはや「絶対あり得ない」などということは、「あり得ない」ので、「あり得ない」という言葉が、実際には、「あり得る」ことに対して使われているのである。それは、反語的な強調の意味だとしても、そこには、「あり得ない」ということの、それ自体の「危うさ」、「相対性」のようなものが、はっきりと塗りこめられている。つまり、この世代の若者にとって、「あり得ない」という感覚は、もはや「自明」のものではなく、「あやふや」なもの、「みかけ」上のものでしかなくなっているのである。

それは、明確に意識されたものではないにしても、かつて、「絶対あり得ない」などということが、容易に信じられたことからすれば、むしろ、真をついた、一つの感性的な「進化」といえる。

ただし、ここでは、まだ一応、「あり得ない」という言葉が使われてはいる。それは、もはや、「揺ら」ぎ、「あやふや」なものにはなっているけれども、「あり得ない」という感覚自体は、まだ「あり得る」かのように使われているのだ。

しかし、その後最近は、もはやこの「あり得ない」という言葉自体が使われることもなくなった。ほとんど死語になったと言ってもいい。

つまり、この流れは、ここに至って、ついに、「あり得ない」などということ自体が、「あり得ない」ことになったのだ。言い換えれば、「どんなことでもあり得る」という感覚の方が、現在では、むしろ、多くの若者の感覚に沿うものになっているのだ。

この「あり得ない」などということ自体が、「あり得ない」という感覚は、その後さらに進んで今に至っている。そこで、かつての「あり得ねぇ」という言葉に代わって、それと同じような意味合いで、「そんなことある?」という言葉が使われ出しているのだ。

もはや、「あり得ない」などということが、「あり得ない」だけではない。そこには、「ある物事が<ある>か<ない>かなどを、容易に決められるものではない」という感覚がある。そんなことは、客観的に確定できるようなものではなくなっているのだ。

だから、この言葉を使う側も、「ある」とも「ない」とも断定せずに、「そんなことある?」と、疑問形で人に問う形になっている。そんなことは、「なかなかない」というレア感、あるいは、あるにしても可能性の薄い感じはありつつも、それ以上のことは言えないので、疑問形で、人に問うことしかできないのだ。

要は、この言葉は、「ある物事が、<ある>か<ない>かなどは、結局、人のものの見方、感じ方によるしかない」ということを指し示しているのである。

このような若者の感性は、かつて以上に、「ある」とか「ない」ということの「真実」をつかんだ、適切なものと言うべきだ。

私のこのブログで述べていることも、当初は、「そんなこと(絶対)あり得ない」という思いで読んでいた人が多かったに違いない。しかし、記事『「あり得ない」という言葉も死語』を書いた頃には、もはや時代は進み、必ずしも「あり得ない」という意味ではなく、「あり得ねぇ」というくらいの感覚で、受け取られ始めていたのでもあろう。

そして、現在はというと、……そう。「そんなことある?」という感じで受け取っている人が多くなっているはずなのだ。

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