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2021年7月 4日 (日)

「危ない」ところで鳴るサイレンと「精霊の声」

記事『お笑い系?宇宙人シャーの語り』でとりあげた宇宙人シャーのユーチューブ動画で、シャーが何か大事なことをしゃべろうとすると、緊急車両のサイレンが鳴ってかぶってしまう、ということがよくあった。で、シャーは、これについて、「本当のことをしゃべると鳴るのよね」と、さりげなく言っていた。

実は、これに類することは、私にもよくある。「本当のことをしゃべると鳴る」とシャーは言うが、これは、もう少し広く一般的にとれば、「<危ない>ところで鳴る」という風に言え換えられると思う。

シャーの言う、「本当のことをしゃべる」というのも、ウソばかりが浸透しているこの世の中において、「危ない」ことの一つなのだ。

前々回、タブーとその侵犯について述べたが、「危ない」とは、「タブーを破る」ようなことと言い換えてもいい。

緊急車両のサイレンは、かなりの音量でうるさいし、決して快い音ではなく、我々の心を強く刺激するものがある。「緊急」車両の出動ということで、何か危険な(危ない)ことが起こったことを、意識させるものでもある。だから、それは、我々の日常的な流れをつんざき、強く不安を喚起させる。

「集団ストーカー被害者」は、緊急車両に(頻繁に)遭遇することも、「嫌がらせ」の一つとするのだが(実際に、自分らのために出動させていると信じてしまうことの信じ難さはおくとして)、そこに攻撃的な意味合いを感じ取ってしまうこと自体は、理解できないことではない。

つまり、緊急車両のサイレンの音=何か非日常的な、「危ない」ことが起こっている(まさに起こる)ことを知らせる音である。そして、これは、心の深い部分を感情的に刺激するので、実際に、「危ない」という意味において関連する出来事を、引き寄せる効果があるのだ。つまり、「共時性現象」を引き起こしやすいということである。

私の場合、単純に、何か、「危ない」ことを考えていると、緊急車両のサイレンが鳴るということもよくあるが、シャーのときのように、動画や本などの中で、「危ない」と感じるところで、鳴る(自分の周りで鳴ることも、その動画なら動画の中で鳴ることもある)ということもよくある。

そして、これは、下の話になるが、AVなどを見ているときに、「危ない」場面に差しかかるところで、サイレンがよく鳴る(自分の周り、またはそのAVの中で)ということがあったのである。(あくまでも若い頃によくあって、不思議に思っていたことです(笑))

この場合、「危ない」とは、要は、「猥褻」感の高まるところということである。日本に限らず、法律では猥褻罪というものがあるから、AVでも、猥褻は一応、抑えられているのだが、ときには、これは、やばいと感じさせるものがあったりする。日本は、性器の露出が猥褻とされる分、結構、実質的に、「猥褻」なものがあったりするのだ。しかし、そういうときに限って、サイレンが鳴って、水を差されるのである。

まあ、「猥褻」というのも、「性」というものが抑えられている日常においては、一つの「真実」を現す「危ない」ものとも言え、あるいは、「タブーを破る」ものとも言える。

ともあれ、こういった「危ない」という状況や事態と、緊急車両のサイレンは、意味的に結びついて、同時的に起こりやすいのである。

さらに言うと、「サイレン」の語源は、「セイレーン」というギリシャ神話に出て来る女神(精霊)(半人半獣の怪物)の名前である。

セイレーンは、海に住んでいて、船で航海している人などを、誘惑的な歌声で誘いこんで、海にひきずりこんでしまうという。まさに、魅惑的で人の興奮を誘うと同時に、「危ない」ものを告げる存在の声である。

この「セイレーンの声」も、広く、「精霊の声」を象徴しているものと捉えると、単なる比喩なのではなく、緊急車両のサイレンの実質を、見事に映し出しているものがあると思う。もちろん、サイレンの音そのものが精霊の声ではないが、サイレンは、精霊の声を代弁するような働きをしている、ということである。

ニーチェは、『悲劇の誕生』で、ギリシャ悲劇の起源は、人の対話や舞台にあるのではなく、「コロス」と呼ばれる合唱隊にこそあると示した。

「コロス」は、劇の中に出て来て、「劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈する」、「劇中の一般大衆の代弁をする」、「登場人物が劇中語れなかったこと(恐怖、秘密など)を代弁する」などの役割をなす(ウィキペディア)。後には、単に補助的な役割しかなさなくなったが、元々は、一人の俳優と対話をなす主役のような位置にあったのである。

そして、この「コロス」は、ディオニソス神の祭りで、コーラス隊として踊りまわるサティロスという半人半羊神に始まっている。まさに、これも本来、「精霊の声」そのものなのである。(サイト『ギリシャ悲劇まとめ-演劇史考ー』には、ギリシャ悲劇の起源について、簡単な説明があるので参照)

「コロス」は、興奮し、熱狂した、大衆の情念を反映しもするが、本来、個別的な人間のものではなく、その根底、または、背後の「自然」の領域にある、混沌たる「ディオニソス的なもの」の現われなのである。

それは、「見えない」領域から、この世界に、根底的な叡智を伝えるべく現れ出た、「意志」とも言える。それが、(合唱隊を通して)「声」という形で現れるのが、「コロス」なのである。まさに、「精霊の声」そのものとも言えるものである。

呪術師ドンファンは、風で音を立てる葉っぱやカラスの鳴き声を、同意や出来事の暗示として受け取り、その重要性をカスタネダによく聞かせていた。この「葉っぱの音」や「カラスの鳴き声」もまた、自然の事物を通して現れ出る、「コロス」そのものであり、「精霊の声」であると言える。

そして、このような「声」は、実は、「統合失調症者」が「幻聴」という形で、聴くものでもある。「統合失調症者」の聴く「コロスの声」は、非難や嘲笑という敵対的な意味合いの強い強力なものだから、セイレーンの歌のように、「海にひきずり込まれる」可能性の高いものともなるが。

ともあれ、結局、緊急車両のサイレンもまた、この「コロス」そのものであり、「精霊の声」の現われと言えるのではないかということである。

緊急車両のサイレンは、現代という環境において、「コロス」のように、大衆の集合的な情念を反映すると同時に、セイレーンに代表されるような、(危ない)「精霊の声」をも代弁するものがある、ということである。

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