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2021年7月

2021年7月20日 (火)

現代にみる「コロス」

前回、ギリシャ悲劇の起源は、「コロス」と呼ばれる合唱隊にあり、それは、大衆の集合的な情念や精霊の声など、「個的な人間」を超えた、混沌たる「ディオニソス的なもの」を現していることを明らかにしました。(「ディオニソス的なもの」は、理性や形象を象徴する「アポロン的なもの」に対置される原理)

この「コロス」的なものは、現代においても、前回みた、救急車両のサイレンの他にも、さまざまにみることができます

シェイクスピアの戯曲は、ギリシャ悲劇をモチーフにしたものでしょうから、当然とも言えますが、やはり、コロスやコロス的なものが出てきます。

『ヘンリー五世』では、説明役として、「コロス」が出てきますが、ギリシャ悲劇と違って、複数ではなく、1人であるところが、近代的な個の幕開けを反映していると言えます。

『ハムレット』では、暗殺された王が「亡霊」として出て来て、ハムレットに暗殺の真実を告げ、復讐を迫る重要な役をなしますが、この亡霊も「コロス的」です。ただ、「集合的な大衆」や「精霊の声」と異なり、具体的な個としての人間の亡霊であるところが、やはり、近代的な改変を受けていると感じさせます。

「コロス」は、「コーラス」の語源ともなっています。現代のグループの歌手やバンドの「コーラス」にも、やはり「コロス的なもの」がみられます。

内山田洋とクールファイブなど、昔懐かしい昭和のコーラスの、単純な「ワワワワ♪」なども、メインボーカルの歌を盛り上げ、あるいは同意を与える「コロス」とみれます。

最近のコーラスは、メインボーカルの歌を様々な形で補充したり、掛け合ったりして、より膨らみを与えていますが、やはり「コロス」的です。

記事『ブログを読むときのBGM 推奨曲』でとりあげた、人間椅子というバンドの「虚無の声」という曲(タイトル自体、既に「コロス」的ですが)では、ギターのボーカルに対して、ベースとドラムのコーラスで唱えられる「般若心経」が、まさに「コロス」そのものです。

これは、単にメインボーカルを補助するというよりも、こちらこそが、背後で真実を告げるものであり、精霊ではないですが、観自在菩薩が舎利子に説いたものであることも、その感を強めます。

宮澤賢治の詩や童話も、「コロス的なもの」に満ちているとみると、少しは分かり易くなるでしょう。

たとえば、詩集『春と修羅』の序では、「わたくしという現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という風に、途中でカッコで補われている言葉が、「コロス」のような役をなしているとみれます。

あるいは、逆に、「わたくしという現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」が「コロス」の言葉で、カッコの中の言葉が、賢治がそれに対してつけた注釈という風にみた方がいい気もします。

「やなまし」という童話では、二匹の蟹の子供らのセリフ、「クラムボンはわらったよ」とか「クラムボンはかぷかぷわらったよ」などのセリフが「コロス」的です。

蟹の会話というところが、既に「コロス的」な設定なのですが、こういう「意味」のとりにくい、訳の分からないセリフは、まさに「精霊の声」の特徴なのです。「かぷかぷわらったよ」などという表現も「コロス」的です。()

その他、賢治の童話に出てくる、特徴的なオノマトペも、「コロス」的と言えます。

『注文の多い料理店』の序では、これらの物語は、賢治が、「虹や月明かりからもらってきた」のだと述べていますが、まさに、賢治は、「コロスの声」を現代に伝える役をなしていたように感じます。

そして、前回も触れましたが、統合失調の者の聴く「声」もまた、「コロスの声」そのものと言えます。それは、大衆の集合的情念を反映することもありますが、まさに「精霊の声」そのものなのです。だから、個を超えたもので、リアルであるとともに、人を強くひき込みます。

「個を超えたもの」を理解できず、怖れる人は、それを、この世的に、「組織的」とか「グルになっている」とか解釈して、妄想の世界に入り込んでしまうことにもなります。

そろそろ、人間も、この広大な世界ないし宇宙における、我々の設定した閉じられた世界の根底、または背後には、人間以外のさまざまな生命が満ちているという当然のことと、それを古代人は、「コロスの声」として聴いていたということに、改めて目覚めるべきときでしょう。

 

※ この物語も、「虹や月明かりからもらった」もので、賢治にも「よく分からない」ものだとしたら、「クラムボン」とは何かを問うのは野暮なことかもしれません。ただ、あえて私が考えるとすれば、これはやはり、他に出てくる、明確に表現されている生き物や物とは異なるものだからこそ、あえて「クラムボン」と表現されているのだと思います。つまり、川底に住む、蟹の子供らにははっきりと見えて、名前もついているが、人間には知られていない、「何らかの(精霊的)存在」なのだと思います。「笑ったり」「死んだり」するものですから、生きた存在です。しかし、蟹の子供らにとっても、理由は「分からない」、どこか距離のある存在です。

人間の小さな子供が、大人には見えないが、お互いに共通認識のある何者か見て、何かを言い合っているシーンを想像すると、それに近いものだと思います。

この「クラムボン」が、川底の世界の、幻想的でありつつ、生と死のはかない無常なあり様を象徴するものとして、初めに出てくるのですから、とても重要なものであることに違いありません。

2021年7月 4日 (日)

「危ない」ところで鳴るサイレンと「精霊の声」

記事『お笑い系?宇宙人シャーの語り』でとりあげた宇宙人シャーのユーチューブ動画で、シャーが何か大事なことをしゃべろうとすると、緊急車両のサイレンが鳴ってかぶってしまう、ということがよくあった。で、シャーは、これについて、「本当のことをしゃべると鳴るのよね」と、さりげなく言っていた。

実は、これに類することは、私にもよくある。「本当のことをしゃべると鳴る」とシャーは言うが、これは、もう少し広く一般的にとれば、「<危ない>ところで鳴る」という風に言え換えられると思う。

シャーの言う、「本当のことをしゃべる」というのも、ウソばかりが浸透しているこの世の中において、「危ない」ことの一つなのだ。

前々回、タブーとその侵犯について述べたが、「危ない」とは、「タブーを破る」ようなことと言い換えてもいい。

緊急車両のサイレンは、かなりの音量でうるさいし、決して快い音ではなく、我々の心を強く刺激するものがある。「緊急」車両の出動ということで、何か危険な(危ない)ことが起こったことを、意識させるものでもある。だから、それは、我々の日常的な流れをつんざき、強く不安を喚起させる。

「集団ストーカー被害者」は、緊急車両に(頻繁に)遭遇することも、「嫌がらせ」の一つとするのだが(実際に、自分らのために出動させていると信じてしまうことの信じ難さはおくとして)、そこに攻撃的な意味合いを感じ取ってしまうこと自体は、理解できないことではない。

つまり、緊急車両のサイレンの音=何か非日常的な、「危ない」ことが起こっている(まさに起こる)ことを知らせる音である。そして、これは、心の深い部分を感情的に刺激するので、実際に、「危ない」という意味において関連する出来事を、引き寄せる効果があるのだ。つまり、「共時性現象」を引き起こしやすいということである。

私の場合、単純に、何か、「危ない」ことを考えていると、緊急車両のサイレンが鳴るということもよくあるが、シャーのときのように、動画や本などの中で、「危ない」と感じるところで、鳴る(自分の周りで鳴ることも、その動画なら動画の中で鳴ることもある)ということもよくある。

そして、これは、下の話になるが、AVなどを見ているときに、「危ない」場面に差しかかるところで、サイレンがよく鳴る(自分の周り、またはそのAVの中で)ということがあったのである。(あくまでも若い頃によくあって、不思議に思っていたことです(笑))

この場合、「危ない」とは、要は、「猥褻」感の高まるところということである。日本に限らず、法律では猥褻罪というものがあるから、AVでも、猥褻は一応、抑えられているのだが、ときには、これは、やばいと感じさせるものがあったりする。日本は、性器の露出が猥褻とされる分、結構、実質的に、「猥褻」なものがあったりするのだ。しかし、そういうときに限って、サイレンが鳴って、水を差されるのである。

まあ、「猥褻」というのも、「性」というものが抑えられている日常においては、一つの「真実」を現す「危ない」ものとも言え、あるいは、「タブーを破る」ものとも言える。

ともあれ、こういった「危ない」という状況や事態と、緊急車両のサイレンは、意味的に結びついて、同時的に起こりやすいのである。

さらに言うと、「サイレン」の語源は、「セイレーン」というギリシャ神話に出て来る女神(精霊)(半人半獣の怪物)の名前である。

セイレーンは、海に住んでいて、船で航海している人などを、誘惑的な歌声で誘いこんで、海にひきずりこんでしまうという。まさに、魅惑的で人の興奮を誘うと同時に、「危ない」ものを告げる存在の声である。

この「セイレーンの声」も、広く、「精霊の声」を象徴しているものと捉えると、単なる比喩なのではなく、緊急車両のサイレンの実質を、見事に映し出しているものがあると思う。もちろん、サイレンの音そのものが精霊の声ではないが、サイレンは、精霊の声を代弁するような働きをしている、ということである。

ニーチェは、『悲劇の誕生』で、ギリシャ悲劇の起源は、人の対話や舞台にあるのではなく、「コロス」と呼ばれる合唱隊にこそあると示した。

「コロス」は、劇の中に出て来て、「劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈する」、「劇中の一般大衆の代弁をする」、「登場人物が劇中語れなかったこと(恐怖、秘密など)を代弁する」などの役割をなす(ウィキペディア)。後には、単に補助的な役割しかなさなくなったが、元々は、一人の俳優と対話をなす主役のような位置にあったのである。

そして、この「コロス」は、ディオニソス神の祭りで、コーラス隊として踊りまわるサティロスという半人半羊神に始まっている。まさに、これも本来、「精霊の声」そのものなのである。(サイト『ギリシャ悲劇まとめ-演劇史考ー』には、ギリシャ悲劇の起源について、簡単な説明があるので参照)

「コロス」は、興奮し、熱狂した、大衆の情念を反映しもするが、本来、個別的な人間のものではなく、その根底、または、背後の「自然」の領域にある、混沌たる「ディオニソス的なもの」の現われなのである。

それは、「見えない」領域から、この世界に、根底的な叡智を伝えるべく現れ出た、「意志」とも言える。それが、(合唱隊を通して)「声」という形で現れるのが、「コロス」なのである。まさに、「精霊の声」そのものとも言えるものである。

呪術師ドンファンは、風で音を立てる葉っぱやカラスの鳴き声を、同意や出来事の暗示として受け取り、その重要性をカスタネダによく聞かせていた。この「葉っぱの音」や「カラスの鳴き声」もまた、自然の事物を通して現れ出る、「コロス」そのものであり、「精霊の声」であると言える。

そして、このような「声」は、実は、「統合失調症者」が「幻聴」という形で、聴くものでもある。「統合失調症者」の聴く「コロスの声」は、非難や嘲笑という敵対的な意味合いの強い強力なものだから、セイレーンの歌のように、「海にひきずり込まれる」可能性の高いものともなるが。

ともあれ、結局、緊急車両のサイレンもまた、この「コロス」そのものであり、「精霊の声」の現われと言えるのではないかということである。

緊急車両のサイレンは、現代という環境において、「コロス」のように、大衆の集合的な情念を反映すると同時に、セイレーンに代表されるような、(危ない)「精霊の声」をも代弁するものがある、ということである。

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