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2021年6月21日 (月)

「タブー」の意識とオカルト 3

近代人は、「タブー」のもともとの意義を見失ったので、もっぱら、「恐れから避ける」という否定的な意味で、「タブー」を実践してしまっている。特に、それまて信じられて来た、「オカルト的なもの」一般は、広くタブー化され、「葬り去られる」ことになった。

しかし、その、葬り去ったはずのものは、心の奥に潜伏しつつ、ことあるごとに浮上して、我々をつき動かす。それで、その葬り去ったはずのものを、何らかの意味で想起させるようなものは、「悪物」として、「排除」することを繰り返すことになる。「魔女狩り」は、今も至るところで、継続しているのである。

そのような排除の対象は、超能力者や、霊能力者、あるいは新興宗教の教祖などが典型的だろうが、「統合失調者」もまた、そうなのである。

「タブー」の意識は、こうして、「排除」を生み続けるということである。

しかし、実は、根源的には、「原初の排除」こそが、「タブー」の意識を生んだのだという説がある。まず、根源的な排除があり、多くの者による、その排除の共有によってこそ、「聖なるもの」と「タブー」の意識が、共同化される形で生まれたということである。

たとえば、農耕民的な共同体にとって、その外部や境界を移動する、漂泊民などの<異人>は、恐れ、忌避される存在であると同時に、「聖なるもの」として、歓待される存在でもあった。(記事『「無縁」の原理と「死」』参照)

まさに、両義的な存在のわけだが、このような、異人の「聖性」と、その裏返しの「タブー」の意識は、農耕民的な共同体から排除されることによってこそ、生み出され、保証されるということである。

このようなことは、たとえば、人民の上に立つ、王という存在についても、言える。王は、統治する人民からは排除され、隔離されるがゆえに、「聖なるもの」として、人民の上に君臨できるのである。

民俗学者の赤坂典雄は、これらのことから、「聖なるもの」と「タブー」の起源について、次のように言っている。(『異人論序説』ちくま学芸文庫)

<聖なるもの>は正・負いずれであれ、なんらかの疎外過程を根底にもつ。いわば、“排除の構造”のある歴史的・文化的表象として<聖なるもの>をとらえかえすことが可能である。ここに、穢れや禁忌といった観念も付着している。
  原初に、もっとも根源的な排除がある。内部と外部の分割をめぐる<神話>として、その大いなる排除は不断に更新され、反復されつづける。そして、排除された領域は、<聖なるもの>という観念を生み、今度は逆に、人間たちの意識を呪縛しはじめる。それが穢れであり、禁忌である。

前々回の記事で、タブーの意義の一面は、王などについて、その意識を共有することによって、共同体の結びつきを強めることにあるとした。この説も、そのような視点の延長上にあるものと言える。

ただ、私は、タブーの意識には、他の一面として、「オカルト」的(「霊的、エネルギー的」)な視点から、それ自体がもたらす「聖なるもの」としての感覚があるともしていた。だから、「聖なるもの」の起源として、「排除の構造」のみを認めることはできない。

しかし、それが、多くの場合に当てはまる、一つの「真実」であることは、認めざるを得ない特に、「聖なるもの」の感覚が、失われたり、薄まったりしたときには、そのようにして、「聖なるもの」の意識が再生産されざるを得ないのだと思う。多くの人間にとって、ウチとソトの分割とは、生存するのに、根源的なもので、そのためには、分割線としての、「聖なるもの」を必要とするのだ。「聖なるもの」でなければ、その根拠は薄く、それを維持することができないからである。

そして、このように、排除こそが原初的で、根源的なものとすれば、我々は、それを、容易に克服できないことになる、という意味でも、この説は重要な問題を提起している。

このような、「原初の排除」と「タブー」の意識は、生け贄の起源と結びつけると、よりはっきりする。神々にささげるために殺される「生け贄」こそが、「原初の排除」を最も象徴するものだからである。

それは、「供犠」(犠牲として供されるもの)であり、「スケープゴート」(多くの者の罪を背負って殺される贖罪の羊)でもある。共同体が、共同体として成り立つためには、「生け贄」という強力な排除を必要としたということである。

赤坂は、『性食考』(岩波書店)という本で、女神が殺されるセラム島の神話と、少女が殺されることで、それを再現する儀礼の例をあげ、「はじまりの死は殺害であった。それが全員一致の暴力としての供犠であってみれば、はじまりの死は生け贄としての殺害でなければならない」とする。

さらに、共同体にとっての、生け贄の意義について、次のように言っている。

この贖罪の生け贄は、変身のテーマを強いられ、いっさいの分散していた憎悪を背負わされる異形の存在となる。共同体の内なる「緊張、怨恨、敵対関係といった一切の、相互間の攻撃的傾向」を吸収して、たったひとり、全員一致の暴力を差し向けられるのである。軋轢の種は解消されて、ひとつの共同体が現れる。

ただし、それは、つかの間の平和をもたらすに過ぎず、生け贄は常に新たに供給されなくてはならない。ただ、それは、共同体にとってよりダメージの少ない、儀礼化される形で繰り返されることになる。たとえぱ、人間ではなく、動物に変えられるなどである。

私は、記事でも何度か述べているように、生け贄は、「オカルト的」な観点から、実際に、捕食者的な存在に捧げられたものとするので、やはりこの説も、そのまま認めることはできない。しかし、それが、このように、共同体にとって、必要なものとしてなされる面があることは、認めざるを得ない

赤坂が言うように、共同体が、全員一致で、特定の者の殺害をなすことがポイントである。特定の者の「殺害」を共有することは、その「罪の意識」、「後ろめたさ」の共有であり、以後そのことには、「触れたくない」という強力な思いの共有でもある。つまり、これ以上に、共同体としての「団結」を強めるものはなく、また、「タブー」の意識を強めるものはないのである。

人間の共同体が成り立つとき、このような、強力な排除をまず必要としたということは、確かにあったことだと思う。

このことには、機会があったらまた触れたいが、実は、私が、このような説を持ち出したのは、これまで述べて来た、近代人による「オカルト的なものの排除」こそ、まさに、このような意味の原初の排除に通じるもの、つまり、強力な「生け贄」そのものだったと思うからである。

記事、『日本人が「霊的なもの」を認めない理由』では、日本人が、近代に、「霊的なものを葬り去った」ということは、かつて親密につき合った異性を、蹴るようにして捨てたのと同然のことなので、もはや、「よりを戻す」気にはならないのだということを述べた。しかし、この場合、「かつてつきあった異性」では、たとえとして、弱過ぎる。葬り去ったものには、実際に、それまで崇拝され、生活の糧とされて来た、「神々」を含むのである。それは、まさに、そういった神々を、「生け贄」として殺したに等しい。だから、「生け贄」として排除したということこそ、ふさわしいのである。

その後ろめたさと、罪悪感があるために、それは、強力なタブーを形成するのである。そもそも、「オカルト的なもの」の排除には、それに対する、本能的な恐怖がある(※)のだったが、さらに、そこには、生け贄として殺したことの、後ろめたさがつけ加えられ、その意識を一層強力に塗り固めているのである。だからこそ、「オカルト的なもの」は、触れるだけで、嫌悪を感じるようなものとなる。

西洋でも、ニーチェは、「神は死んだ。我々が殺したのだ」と言ったが、まさに、人間が、神を殺して、その後ろめたさとともに、近代という秩序はできあがったのである。

だから、前回述べた以上の意味で、いったんは葬り去った「オカルト的なもの」を、新たに捉え直すことは、容易ではないことになる。それはまさに、強力な、「タブーの侵犯」であり、「本当に触れたくないこと」をあえて蒸し返すことである。

また、それが、原初の排除としての生け贄に通じるのだとしたら、たとえ、「オカルト的なもの」を捉え直したからと言って、それが、容易に「排除の克服」に結びつくものとも限らないことになる。

私も、「オカルト的なもの」を捉え直せば、容易に「排除の克服」がなされるとは思わない。しかし、少なくとも、そうしない限り、無意味なタブーの拡大と、排除の繰り返しは、止めようがないのは確かと思う。

 

※ この「本能的な恐怖」には、「オカルト」が必然的にはらむ「未知なるもの」と同時に、本当は「既知なるもの」と言うべきものが、もたらすものも含まれる。それは、記事『日本人は皆「捕食者」を知っている!?』でも述べたように、「捕食者」についての潜在的な記憶である。ドンファンも、子供の頃、誰もが「捕食者」を見る体験をしているが、恐怖のあまり記憶から抹消してしまうのだと言っていた(『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』)。

オカルトにつきまとう「おどろおどろしい」イメージや嫌悪感、タブーの意識の根源は、やはりこちらの方にこそあると言わざるを得ない。それは、「魔女狩り」の最も強力な背景でもあるし、近代が「オカルト」全般を葬り去るに至った最源的な理由でもある。いわば、「捕食者」を葬り去るべく、「神々」その他のオカルト全般が、「生贄」に捧げられたのである。

オカルトにつきまとう嫌悪感とタブーの意識の理由を図にまとめると次のようである。

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