「タブー」の意識とオカルト 2
前回みたように、禁忌というものには、「恐れ」から来る、否定的意味だけでなく、「聖なるもの」を尊ぶ感覚による、積極的な意味もある。そして、それらには、「霊的、エネルギー的」観点から、理に適ったものも多くある。
これを、近代人は、「恐れ」から「避ける」という、否定的な意味で一方的に受け取って、それらは、かつての民俗の、不合理さや、迷信深さに過ぎないとして、嘲る。しかし、それは、「聖なるもの」の感覚、あるいは、「霊的、エネルギー的な観点」を失ってしまったため、その実質的な意味が分からなくなってしまったからである。
「聖なるもの」の感覚や、あるいは、「霊的、エネルギー的」な観点は、不合理な、「オカルト的なもの」として、(まさに恐れから)「表面上」まるごと捨て去ってしまった(避けた)のである。
その実、図らずも、近代人の蔑む、「タブーの意識」を、もっぱらそのように、否定的な意味で実行してしまっているのは、近代人の方なのだ。克服したつもりでいて、単に表面的に「排除」したのみだから、そのような意識が、今も潜み続けて、影響を与え続けるからである。しかも、その本来の感覚を失った近代人にとって、タブーの意識は、もっぱら、漠とした、曖昧なものとして、「不合理」に、心を規定し続ける。そうして、その「排除」したはずのものは、ことあるごとに浮上し、その度に、我々を不安にさせ、「排除」を繰り返すことになるのである。
特に我々日本人にとっては、このような漠とした、否定的な意味の禁忌と排除が、集団的、社会的に、強く現れやすく、それに囚われる。そして、それは、無意味に拡大する傾向がある。
前回みたように、柳田国男が、明治以降に集めた、禁忌・習俗は、既に、無意味に拡大されていると言えるものが多かった。タブーの意識の本来の意味が失われ、漠とした、曖昧なものとなるほど、そのように無意味に、我々を規定しつつ、拡大して行くのである。
逆に言えば、タブーの意識の本来の意味を、ちゃんと、実質的に顧みるならば、そのように無意味に拡大し、囚われるということはなくなるはずである。「タブーの意識の本来の意味」とは、「聖なるもの」の感覚、あるいは「霊的、エネルギー的」観点、つまりは、我々が表面上捨て去った「オカルト的なもの」によっているので、結局は、「オカルト的なもの」の本来の意味を、改めて捉え直すことしかないのである。
私自身も、無意味なタブーの意識の拡大は、排したいと思っている。しかし、人間が、人間を超えたものとみる、「聖なるもの」に、一定のタブーの意識をもつことは、理由があると思うし、前回みたように、聖なるものが、直接この世に現れ出ることは危険なので、厳格な儀式と同様に、一定のタブーが伴うことは、必要なことでもあると思う。だから、最小限のタブーの意識は、認められていいと思う。
しかし、表面的にではなく、実質的に顧みたうえで、本当に、それら「オカルト的なもの」に囚われること自体が、「不合理」で「無意味」なことと結論づけられるなら、実際、そのようにすればよいのである。ただし、その場合には、もはや、そのような「無意味なタブー」に囚われることは、なくならなければおかしい。
いずれにしても、オカルト的なものを本当に捉え返さない限り、無意味なタブーの拡大と、それへの囚われは、今後もずっと存続することになる。
ところで、禁止としての「タブー」というのも、本来は、ただ、闇雲に守られるだけのものではなく、また、「破られる」ものでもあったのである。
イザナギとイザナミの神話でも、イザナギは黄泉の国に赴いたイザナミの「見てはならない」というタブーを侵すことで、全身にウジがわき、膿にまみれ、雷神がとりついたイザナミの姿を見る。つまりは、「死」の「正体」を知る。そこで、恐れをなして、黄泉の国から逃げ帰って、黄泉の国との境を塞ぎ、生の世界と死の世界の混交が解かれ、新たな分断が始まる。
昔話でも、「鶴の恩返し」などで、人間が異類である鶴と婚姻するが、人間が「見るな」のタブーを破ることで、妻の異類としての正体が明らかになり、婚姻は解消され、離れ離れになる。
タブーが破られることによって、恐ろしい事態が露になり、それまでの「安定的」な世界が終わりを迎えるのは事実である。しかし、「おどろおどろしい」もの、「受け入れ難い」ものではあっても、それは、一つの「真実」の暴露であり、それによって、それまでの安定した流れが変わって(停滞が突破され)、新たな展開が起こるのである。
儀式でも、タブーは、直接日常を越えた力にさらされないための、いわば、一般向けの、「安全装置」である。しかし、シャーマン等は、それらのタブーを超えたからこそ、直接、それらの力と交流する能力を得たのである。一般の者も、タブーが施されているとは言え、何ほどかの意味において、それを越えない限り、そのような力と真に交わることはない。
タブーの禁止に取り巻かれる、神聖な王にしても、王としての能力が失われたとみなされたときには、殺されるのであり、いわば、あえてタブーが侵されるのである。神聖な祭りや儀式においても、日常では禁止されることが、あえて積極的に破られることが多い。
この観点から言うと、「統合失調」というのも、「タブーの侵犯」そのものと言える。「霊界の境域」は、侵してはならない危険な境界領域なのであるが、統合失調者は、(自ら望んでではないにしても)そのタブーの領域を侵したからこそ、そのような状態に陥ったのである。しかし、そのタブーの侵犯によって、それをくぐり抜けたときには、そうしなかったら得られなかったはずの、多くのものを得ることができるのも、確かなのである。
タブーとその侵犯は、両方がセットになって、初めて成り立つ、両義的な仕掛けである、と言うこともできる。それが、ただ、一方的に守られるだけでは、安全かもしれないが、日常性は、大きく停滞する。それを破ることには、大きな危険を伴うにしても、何らかの意味で、それを破ってこそ、日常性を越えた、聖なる領域に入ることができるのである。そして、それは、結果として、何らかの意味で、日常性に変化をもたらすことになる。
現代においても、タブーは、危険を冒してまで、「真実」に近づくことを避けるという形で、はびこることが多い。メディアの報道などもそうだし、教育や、学問的な研究においてもそうだろう。多くの者にとっては、「真実」よりも、心地よい「虚偽」の方が好まれるということである。しかし、そのようなタブーは、侵されてこそ、初めて「真実」と出会われる可能性もあることになる。
ショルジュ・バタイユという思想家は、「エロティシズム」は、タブーの侵犯によってこそ、高まるとしたが、これもまさに、タブーとその侵犯の関係を明らかにする一つの例である。
タブーとして、捨て去ったはずの「オカルト的なもの」を、実質的に捉え直すということは、まさに、「タブーを侵す」という試みである。それは、決して簡単なことではないし、これまでの日常性を大きく壊すことにもなるが、そうしてこそ、「真実」に触れること、無意味な虚偽のはびこりを、解消することにつながるのである。
次回は、タブーの意識による「排除」について、実は、原初の排除こそが、タブーの意識を生んだという説をとりあげつつ、さらに考えてみたい。
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