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2021年5月29日 (土)

「タブー」の意識とオカルト 1

「オカルト」には、独特の「嫌悪」の感情と、それに触れてはならないという、「タブー」の意識がつきまとう。それが、前回みたように、「悪者」として「排除」する発想にもつながっている。

今回は、この「タブーの意識」とは何なのかについて、改めて考えてみたい。

「タブー」という言葉は、ポリネシアの禁忌の習俗から来た言葉のようである。それを近代人が使うのは、それは、「未開」の民の「迷信」に基づくものという思いがある。つまり、未開人が、迷信的に何ものかを恐れ、「何々してはならない」という禁忌をかつぐということを、(自分らはもはや克服したこととして)「不合理」で、意味のないこととして、捉えているということを意味しているのである。

近代人にも、不合理なタブーの意識というものはあるが、それは、本来、未開の民の、不合理な発想でしかないから、そんなものに囚われてはならないという意味合いが、込められているのだ。

確かに、タブーとして恐れられる物事には、不合理で、意味のないものも多いかもしれない。しかし、先住民の文化に発し、近代以前に、何らかの形で受け継がれて来た、禁忌の習俗の中には、決して、「不合理」とか「意味がない」などとは言えないものも多い

一つ、見えやすいものとして、そのように、禁忌の意識と行いを、共同体として共有することが、「掟」や「秩序」を守るというような、集団的、社会的な意味合いがある。禁忌の共有により、共通の権威や信仰のもとに、「平和的」に暮らすことができるということである。このような禁忌は、後にみるように、日本にも多いから、理解しやすいだろう。

しかし、タブーの意味は、決してそれだけではない。具体的に、個々のタブーについても、「聖なるもの」についての感覚、あるいは、「霊的、エネルギー的」視点からみるならば、十分理に適っているというべきものは多くあるのである。

近代人が、それらを「迷信」として、まさに「排除」したが故に、今では、その意味が分からなくなっているに過ぎない、ということである。

『金枝篇』のフレーザーは、タブーは、「聖なるもの」としての王または祭司に多くつきまとうことを指摘している。王自体が守るべきタブーもあれば、王を取り巻く周りの者たちが守るべきタブーも多い。王に触れてはならない、王の持ち物に触れてはならないなどである。王がタブーと宣言したものは、誰にとってものタブーとなるということもある。

日本の王たる天皇にも、タブーは多くつきまとっていたし、今もつきまとっている。世代によっては、知らないだろうが、昭和天皇が崩御したとき、メディアや店、会社など、多くのところに、喪に服すかのような、タブーと自粛の嵐が巻き起こった。

王は、超自然的な力をもった神のような存在とされ、自然現象(神々の意志)をも左右し、共同体の運命を担う。その超自然的な力を保つためには、王自身も、周りの者にも、様々なタブーが要求されるのである。また、先にみたように、多くの者による、タブーの共有によってこそ、王の「聖なるもの」として権威と、共同体としての一体性が保たれるという面もある。

実際、王にそのような力がなくなったとみなされたときには、王は殺され、その王を殺した者が、その王の超自然的な力を引き継ぐ(更新する)とされる。役目を終えた王は、神々の元へと返される(生け贄に供される)のである。

このようなことには、共同体としての社会的、集団的な意味合いはあるにしても、「超自然的な力」や、「聖なるもの」についての感覚がなければ、とても理解しにくいものだろう。

また、フレーザーは、死に関わるタブーが多くあるが、それらは、死とは「魂が体から抜け出る」ことと考えると、理解できるものになるという

たとえば、誤って魂が抜け出ないようにするための、タブーとか、邪悪な霊や妖術士から魂を誘い出されないために、守られるべきタブーなどである。死に限らず、魂の状態が、生命の状態や病気に関わるとすれば、その魂の状態を弱めないためのタブーというものが、多くあることも分かる。魂が体にしっかりと結びくためのタブーである。出産に関する禁忌にも、これが多くある。

また、フレーザーは、呪術には、「類感呪術」と「感染呪術」があると言う。類感呪術は、意味的に似たものが影響を与え合うことで、呪術的な力を及ぼす。たとえば、その人物の持ち物とか、人形などある人物と似たものに害を加えることで、本人に害を及ぼそうとする呪術は、その典型である。日本にも、「丑の時参り」というものがある。一見、不合理のようだが、これはユング的に言えば、意味的に関連するものが同時的に起こる、「共時性の原理」そのものでもある。

感染呪術は、ある力が、(見えない経路を含めて)他に感染することで、呪術的な力を及ぼす。これも、見えない「超自然的な力」(「マナ」、中国では「気」)というものが伝播の媒介になるとすれば、理解しやすいものになる。恐らく、これには、今で言う病原体による、感染症の伝播というようなものも、含まれていたであろう。

これら、呪術的な力の影響を避けるという意味のタブーも多いのである。

類感呪術では、日本でも、数字の四や九が忌み嫌われるのは、まさに、意味的に、「死」や「苦」に通じるからである。四や九の数字が、実際に、「死」や「苦」の出来事を呼び寄せるという発想である。一種の「言霊」でもある。感染呪術では、「穢れ」の感染(伝播)ということが、忌み嫌われたのが、最も典型的であろう。

後にみるように、死や出産、血などの穢れは、感染するとされたので、様々なタブーに取り巻かれている。

昔、私たちが子供の頃にあった、「エンガチョ」という遊びは、まさにこの穢れの伝染をモチーフにして、「エンガチョ」をつけられた者が鬼になる遊びである。

日本では、このタブーの意識は、「忌み」「物忌み」、あるいは「斎み」という言葉で表される。「忌み」という言葉には、「恐れて避ける」という、消極的な意味合いがあるが、「斎み」という言葉には、むしろ、「聖なるもの」に近づくための積極的な、「努力」とか「精進」の意味がある。(新谷尚紀監修『日本の禁忌』青春出版社 参照)

まさに、本来の、タブーの意識には、この両面があると言うべきなのである。

つまり、単純に、「恐れ」から消極的に避けるということではなく、「聖なるもの」を「畏れ」、「尊ぶ」感覚に基づいて、それに近づくために、自分の状態を清める(他から離れて籠もる、あるいは、穢れを払うなど)ということが含まれていたのである。タブーの意識には、「両義的」な面があるということである。

実際、俗なる人間にとって、「聖なるもの」とは、「恐ろしく」、遠ざけたいものであると同時に、「敬い」「憧れ」、近づきたいものでもあるということである。

前に、先住民ナバホの儀式に関して、河合隼雄が、次のように言っているのを紹介した。(記事『伝統文化の儀式と幻覚剤、分裂病』 )

儀式の前提としては、超人間的、超自然的な存在への信仰ということがある。そのような超越的存在に対して、人間が普通に近づくときは、たちまちにそれに圧倒されてしまう。したがって、適切な儀式を行うことによってそれに接近し、それとともに人間は非日常的なエネルギーの流れを体験する。……儀式や祈りを通じて、人間は超越的存在に触れ、それによって自分という存在が深く根づいていることを感じるし、そこから得た偉大なエネルギーによって事を運ぶことができる。 

シャーマンだけでなく、多くの者も、超越的存在のような、「聖なるもの」と交わることを望む。しかし、「聖なるもの」は、儀式という厳格な過程を通して、間接的に露にされないと、その力は、日常性を脅かす、無際限で、統制のとれないものとなり、危険なのである。儀式の厳格な手続には、そのための多くのタブーも伴っている。タブー、禁忌の意識とは、まさに、聖なるものと関わるうえでの、儀式とも通じ合っているのである。

柳田国男の『禁忌習俗事典』(河出文庫)には、当時日本の各地に残っていた、多くの禁忌の例があげられている。

まず、驚かされるのは、禁忌の量が、あらゆる面にわたって非常に多いことである。確かに、これらの多くが、「不合理」な恐れから来ていて、「無意味」に拡大されているというのは、率直に感じられる。このような禁忌をもたらす発想自体を、丸ごと捨て去った方がいいと思ったとしても、不思議ではない面がある。

実際、その後、そのような方向に行ったわけだが、決してそれが完結しなかったことは、現在も、普段はともかく、祝い事や葬儀などの際に、面倒くさいほど多くの禁忌がはびこっていることからも分かる。前回もみたように、表面上捨て去ったつもりでも、本当にはそうできてはいないのである。

それは、禁忌の対象を恐れるというよりも、禁忌を共有すること自体の、集団的意味合いを重視する面が強い(常識あるいはマナーのようなもの)とも言える。それは、確かに、日本の特徴で、いわば、「禁忌を共有しない者」とみなされて、集団から排除されることが恐ろしいのである。

しかし、決して、それだけに尽きるのではなく、捨て去ったつもりのものへの、やむにやまれぬ、本能的な恐怖があるのも、明かと言うべきである。()

柳田が、これらの禁忌を集めたのは、明治以降に民俗として残っていたものだから、さほど古くからあるものではなく、「恐れ」から「避ける」という、我々が普段禁忌として意識する、否定的な意味合いを思わせるものが多いのも頷ける。しかし、一方で、「聖なるもの」として尊ぶ感覚から来ることが推測されるものも多く、それは、古くからあるものほど、そのような面が強いと思われるのである。

これらの禁忌には、火に関わる禁忌が多いことにも驚かされる。また、喪や出産などの「忌み」の状態にあることも、「火が悪い」、「火の内」など、火に関する言葉が当てられることも多い。「火」に関する忌みが、忌みの代表のように扱われているのである。

その他には、出産や血、さらに死に関する禁忌が多い。これらは、「穢れ」として日常に入り込むことが、忌み嫌われたのである。また、山や海などの「聖なる」場所が、侵すべかざるものとして、禁忌の対象となることも多い。あるいは、住処として特定の場所、何かを行うときに、特定の日時や方角などが、風水的、陰陽道的な発想で、忌みとされることも多い。さらには、あるものの名を直接呼ぶことは、それを呼び寄せることになるということで、禁忌となることも多い。まさに、「言霊」である。

当時恐れられた、狐は「キャツ」(彼奴)、天狗は「山の人」、その他、各種の魑魅魍魎は「夜の人」と呼ばれたそうである。(今なら、キャバクラのおねえちゃんなどをそう呼ぶであろうが(笑)、要は、「海の物とも山の物ともつかない」のが、「夜の人」になるのだろう。)

これらは、それぞれに、興味深く、考えさせるものもあるが、それぞれを論じていたらきりがないので、今回は、火に関する禁忌に代表させて、少し具体的にみてみよう。

火は、特に電気が当たり前に普及する以前には、生活にとっての重要な要であり、大事にされたであろう。しかし、同時に、火は、火事や火傷をもたらす、危険なものでもある。いわば、聖なるものであると同時に、危険な恐るべきものでもある。

だから、多くの禁忌がつきまとうことも納得はいく。これらの禁忌にも、単純に、それ自体を「危険」なものとして、「恐れる」という意味合いもみてとれるが、火は、「聖なるもの」として、「穢す」べからざるものとされていたのが分かる。

たとえば、典型的なものとして、「喪や出産の忌の家の火で煮炊きされた食事を食べてはならない」、というのがある。要するに、忌の状態の者は、他の者と火をともにしてはならないのである。

火が穢れることを恐れるのは、火は、あっという間に広がる性質があるから、穢れの伝染性を広めやすいと考えられたのもあるだろう。あるいは、火の神を怒らせることで、間接的に、火事や火傷などの事態がもたらされることを恐れるという意味合いもあるだろう。また、食べることから、暖をとること、その他生活に密着する火を穢すことは、生活全般を穢すことに通じるのであろう。特に、食事は、火そのものの性質が入り込み、それを人が体に取り入れるという意味合いがあったのだろう。

しかし、本来、火を穢すことを恐れるのは、もっと本質的なもので、火そのものの聖性の意識から来ているものと思う。火には、聖なるもの故の危険も当然伴うが、穢すことは、その危険の面を引き出すと考えられたのでもあろう。

火については、私も、一連の体験で、ビジョンを見る、物質化現象を受けるなど、さまざまな体験をしているので、「聖なるもの」としての感覚と「怖さ」の両方が、よく分かるのである。記事『「火」の両義性と「クンダリニー」』でも、火の両義性ということを述べていた。

また、これらの禁忌が侵された場合に起こることとして、「火負け」ということが言われる。それは、身体や心に異常が起こることなどを意味している。

この「火負け」というのも、感覚的によく分かるものだ。火は、直接触れるというのでなくとも、その周辺にいただけでも、あるいは、その火を視ただけでも、ある「影響」を受けるものと言える。まさに、「見えない力」が、感染するように、伝わるのだ。こちらの意識が、しっかりとしていなれば、「火負け」してしまい、心身に不調をもたらすことになる。

出産や血、さらに死の忌みも、既にみたように、それ自体が、「穢れ」として、日常生活に持ち込まれることを避けるという意味合いもあるが、もとは、それ自体が、一つの「聖なる行い」てあるからこそ、その行い自体を、慎んで、(他から隔離して)厳格にとりおこなうという意味合いがある。

また、「穢れ」というのも、一つの「見えない力」の伝播であり、日常性を超えた性質があるからこそ、恐れられるのである。その意味では、「聖なるもの」の両義性の一つの側面と言える。

面白いのは、「孕みが付く」という禁忌で、死の場に、孕み女が入ると、死人がその生命力を受けて、いったん生き返ることがあるので、避けられるというのがある。死人は、穏やかに、方式にしたがって、死の世界に赴かせるべきということであろうが、孕む-出産ということに、穢れと同時に、明らかに、特別の「生命力」か認められているのである。

以上、いくつかの例をあげて、みて来たが、何しろ、このように、禁忌というものには、本来、両義的な意味合いがあるということである。これを、近代人は、「恐れ」から「避ける」という、否定的な意味で一方的に受け取ってしまったところに問題があるのだが、それについては次回述べる。

 

※ 現在のコロナ騒動における、マスクや自粛、酒類の禁止などは、すべて、合理的なものと言うよりも、ここで述べている、現在もはびこっている「禁忌」そのものであるのが、分かるであろう

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