「悪者」の排除―「魔女」から「感染者」へ、そして「オカルト」へ
前回の記事で紹介した、村上陽一郎著『科学史・科学哲学入門』では、近代科学の誕生は、「聖俗革命」に基づくとされていた。ただし、この「聖俗革命」は、単純に、「聖」と「俗」が取って代わられたのではなく、自然や人間を超越した絶対的な「神」がすべてを統べるという、一神教的な発想は受け継がれつつ、その「神」の位置が「人間」に取って代わられたということである。
人間が、自然を超越した、神の万能の理性を受け継ぐ知により、(その超越した位置から)唯一の自然法則を知り、操って、支配・操作するのが、科学という営為であるとされたわけだ。
だから、「近代科学」とは、その意図に反して、決して「普遍的なもの」ではなく、特殊西洋的な発想を引き継いでいるのである。
このように、ある発想の転換がなされたとされる場合でも、実は、その発想の元にある見方そのものは、形を変えて存続していて、その後も影響を与え続けていることがよくある。しかし、その発想は既に転換されたということで、その元にあるものが存続していることは、見えにくくなっているので、見逃されてしまうのが問題だ。
たとえば、最近の、コロナウイルスの「感染者」に対する恐れや排除の発想も、実は、かつての「魔女」に対する恐れや排除の発想の継続以外の何ものでもない。つまり、「魔女狩り」の元にある発想が、現在も継続しているのであり、実質、「魔女狩り」そのものだということである。
「魔女」や「悪魔」というものを信じる発想は、近代に至って、転換され、確かに、一応「切り捨て」られた。しかし、「魔女狩り」の発想の元にある、社会に不安をもたらす、ある現象の原因となる「悪者」を、強引に決めつけ、恐れ、糾弾し、「排除」しようとすることは、その後も何度となく繰り返されているのである。
かつての「魔女」の位置が、「感染者」に変わり、その背後にある「悪魔」の位置が、ウイルスなどの「病原体」に変わっただけである。
要は、表面上、ある見方、発想を、単純に、丸ごと「切り捨て」れば、その見方のもたらす問題は克服できるかのように、思ってしまったのである。そして、その実質を顧みることは、なくなったので、かえって、その問題は、幾度となく、繰り返されることになるのである。
実は、先の例の、「近代科学」の場合も、「魔女狩り」の場合も、ほぼ、表面上「切り捨て」られたという発想は、同じである。
近代科学の場合は、それまで、社会を支配した、一神教的な「信仰」や「教義」、「魔術」全般であり、「魔女狩り」の場合は、やはり、その一神教がもたらす「悪魔」信仰や民間の「呪術」「魔術」信仰である。
それらが、近代の「科学的な発想」の誕生を阻害した、社会に「悪」をもたらす、「魔女」と「悪魔」の信仰を広めたということで、迷信として、「切り捨て」られたのである。そうすれば、その問題は克服されると期待されたわけだが、実質、その元にある発想は継続しているので、決してそうはならないのである。
それどころか、実は、表面上、一神教的な「信仰」や「教義」、「呪術」や「魔術」を、「悪者」として「切り捨て」るとは、実質、「魔女狩り」の元にある発想、つまり、「社会に不安をもたらす、ある現象の原因となる「悪者」を、強引に決めつけ、恐れ、糾弾し、「排除」しようとすること」そのものなのである。
つまり、「魔女狩り」では、「魔女」や「悪魔」が「悪者」とされて「排除」されたが、それが、よくないこととされると、今度は、それまでの、「信仰」や「魔術」が、「魔女狩り」をもたらした「悪者」とされ、それを「排除」すれば、済むかのようにみなされたのである。だから、「魔女狩り」の「反省」自体が、「魔女狩り」的になされているのである。既に、その段階で、「魔女狩り」の実質的発想は、継続しているということである。
実際には、一神教的な「信仰」や「教義」、「呪術」や「魔術」が「近代科学」を阻害したという見方も、「魔女狩り」をもたらしたという見方も、非常に一面的で、表面的な見方に過ぎない。その「信仰」や「教義」、「呪術」や「魔術」とは何かという実質的なことや、そこに問題があるとして、具体的に、どういう面が問題なのかなどのことは、何ら顧みられていないのである。
これら、「信仰」や「教義」、「呪術」や「魔術」は、現在では、「理性」に反する「オカルト」として、総称されるものとなっている。それらは、既に「切り捨て」られたはずだが、それは、表面上のことなので、本当には、決してそうなってはいない。それは、現在も、影響を与え続けつつ、頭をもたげては、「魔女狩り」的に、「悪者」として、「排除」の槍玉にあげられることを、繰り返している。
しかし、本当は、「オカルト的なもの」そのものというよりも、それが醸し出す「未知なるもの」、あるいは「制御不能の(と思われる)もの」への恐れこそが、その発想の元にあるので、それこそが、形を変えて、今もずっと存続しているのである。
最近の記事でもみたように、「感染者」の「排除」をもたらす、ウイルスや「病原体」に対する恐れにも、このような「オカルト」に通じる、「未知なるもの」、「制御不能のもの」への恐れが、見え隠れする。
そして、そのような「未知なるもの」、「制御不能のもの」への恐れは、「悪者」を決めつけて、表面上排除することでは、決してなくならないばかりか、深いところに潜み続けて、余計に拡大するのである。
ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の最初の方でも述べているように、現代は、改めて、「オカルト」とは何か、何が「嫌悪」をもたらすのか、問題があるとしたら何が問題なのか、今後の我々の生き方にとって、どのような意味をなすのか、などのことを、改めて問い直す必要があるのである。
次回も、「オカルト」的なものとの関係で、「タブー」の意識とは何なのかについて、改めて述べたい。
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