「自ら望んで地球に生まれる」ということ
前回述べたように、地球では、物質的な「体」という、ある意味不便で、自由の利かないものを身にまとって生きることになる。その体を受け入れて、「大事」にするという意識を持つためには、そのような地球に、「自ら望んで生まれた」ということを、改めて自覚することも必要となるだろう。
地球にいて、地球上の人間や動物を中心にみている限り、「体」をまとうなどは、当たり前のこと過ぎて、特に意識することもないかもしれない。しかし、地球でも、目に見えない「霊的な存在」や「異次元的な存在」を体験するなどして、それらの存在が多くいることに思いを寄せれば、必ずしも、物質的な体があることが、生命として当然のことではないのが分かる。
さらに、この宇宙には、数限りなく宇宙的な生命があり、それらの多くが、「霊的な存在」や「異次元的な存在」と同様、必ずしも、体をまとうものではないことが分かると、むしろ、地球において、体をまとうという生命のあり方が、かなり特殊のものであることも分かって来る。
実際、宇宙人のアシュタールや、最近とりあげたシャーも言うように、宇宙からみれば、地球人というのは、物理的な次元に特化した、強度の制限を伴う、かなり特殊な存在である。だが、それは、そのような環境でこその体験をしたくて、自ら望んで生まれたのだという。
それは、金星から来たオムネクも言っていたように(記事『「次元降下」して地球に生きる「金星人」』参照)、宇宙(アストラル次元)では、望んだことはすぐ適うので、不便や苦悩はないが、反面退屈で、停滞しやすく、地球のような物質的な環境でこそ、体験できることも多くあることによっている。
「自ら望んで生まれる」ということでは、たとえば、池川明医師の、子供の中間生の記憶研究でもみられたように、子供が「親を選んで生まれた」ということを、はっきりと語るということがある(記事『「子どもが親を選ぶ」ということ』とその前の記事 参照)。
「親を選んで生まれる」ということは、ともあれ、地球に、体をもって生まれるということが前提となっていて、その中で、さらに自分なりの条件を選んで生まれる、ということを意味している。
ただし、記事でもみたように、その「選ぶ」ということは、主体的に明確な意志によるというより、何となくとか、周りの存在に促されるなど、かなり「適当」で「曖昧」な要素もあるようだった。
恐らく、それは、「自ら望んで地球に生まれる」という場合にも、言えることのはずである。そして、それは、「適当」とか「曖昧」どころか、もっと否定的に、「騙されて」、などという場合も、多いのではないかと思う。地球は捕食者的存在による搾取の星だから、その場合には、当然、捕食者的存在に騙される、ということになる。
いすれにしても、「自ら望んで生まれる」と言っても、その意志が明確でない場合や、たとえ、その段階では、明確だったとしても、実際に生まれてみると、それが予想とは違ったとか、完全に忘却してしまうことなどのため、そのことを意識することは、難しいものと思われる。
私も、記事『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」』で述べたように、その頃には既に、地球に生まれてしまったことの、違和感というか、多分、予想とあまりに違った(酷すぎた)ための後悔のようなもので、もはや、そこから(「体」からでもある)離れて、「帰りたい」という気持ちを持っていたようである。違うところから来たことを意識しているわけではないので、「帰りたい」と意識するわけではないが、感じとしては、それに近いものがあったのである。
それは、常に意識していたというわけではないし、楽しいことも結構あったのだが、その後もずっと持ち続け、10代の後半から20代位には、かなり強いものになっていた。
そして、その思いは、「死」への関心ということに、つながっていたようである。ただし、単純に「死にたい」と思うのではなくて、「死の先にあるもの」への関心というか、死によって起こることへの関心である。それは、「死後の世界」への関心であると同時に、もっと虚無的な意味合いも含まれていて、自分という、個としての意識から解放されたい(解体されたい)という思いも強力にあった。
フロイトは、「タナトス(死への欲動)」ということを言い、それは、「無機物にまで解体されたい」という根源的な欲求としていたが、まさにそれに近い。
私は、10代の後半の頃、バイクで、タクシーと衝突し、死んでいてもおかしくない事故をやってしまった(実際には、膝に軽いけがをするだけで済んだのだが、これも、最終的に、自分が選択したのが分かる)のだが、それにも、そのような「タナトス」的な意識が影響していたことが分かる。
私の前半生は、その思いに、かなり強くとりつかれていて、それが、自分の人生を大きく導いたとしか言いようがない。
そして、このブログで一連の体験として述べた、「統合失調」体験にも、その意識は強く働いていたのである。というより、ある意味で、この体験こそ、タナトス的な意識が導いた事態の集大成というべきものである。ブログ記事でも述べたように、それは、「死の体験」そのものというべき体験で、「死」の要素に大きく彩られていた。それは、「死後の世界」ではなく、「死そのもの」へと深く入っていく体験であり、実際、自分という「個の意識の解体」ということに関わるものだったのである。
そして、それは、最終的に「虚無」または「闇」との遭遇に行き着いたが、それこそ、「死そのもの」の最深部に潜んでいるものということだったのである。私の、否定的な意味合いの強い、「死への関心」は、結局は、「虚無」ないし「闇」への通路のようなもので、それを体験することに向けられていた。そして、実際にそれを招き寄せたのである。
何が言いたいかというと、私のこれらの体験は、まさに、自らが「それを体験すべく自ら望んだもの」ということである。「統合失調」体験、さらに「死そのもの」へと深く入っていく体験などは、「物質的な体」という制限があり、明確に「死」ということのあるところ、しかも地球のように、捕食者的な「闇」の支配しているところでしか、体験しようのないことである。
だから、私は、それらの体験を通して、最終的に「虚無」または「闇」を体験すべく、「自ら望んで地球に生まれた」としか言いようがないのである。
もちろん、これは、あくまで私の場合である。「物質的な体」という制限のあるところでしか体験できないことは、他にもいろいろあるし、多くの人は、単純にその体験を楽しみたいと思って来たのであろうから、このような、かなり特殊なことを望むのは、珍しいことだろう。
それに、私も、これが唯一の望みというわけではなく、結構「欲深く」いろいろ体験したくて来たようであるから、この体験で全ての望みを達したわけではない。
ただ、私の前半生は、このメインとなる望みに集約化する形で進んで行って、それは結果として、目論み通り達せられたということは言える。だから、ある意味で、それ以後の「生」は「余生」のようなものだが、それはそれで、しっかり楽しもうというのが、最近の思いである。
かつては、この「余生」というような思いのために、(地球上での)「生」(従って、「体」というものでもある)を、軽んじる傾向につながっていた面もある。「自ら望んで地球に生まれた」ことの自覚が薄まっていたというか、多少、限定して捉え過ぎていたのである。
しかし、「地球に生きることの面白さ」は、これからが本番ということも言える。
たとえば、もし、地球が、この先、私が生きている間に、「アセンション」などとも言われるが、「霊化」する事態を肌で感じるほどに体験できるなら、それは申し分のないことである。シュタイナーは、「地球という物質的な世界」に生まれることの意義は、霊的な世界では行き詰ってしまった、更なる「霊的な進化」をすることにある、と言っていたが、実際に、その一部を目の当たりにできることなのだから。
ともあれ、最近は、このように、私も、「自ら望んで地球に生まれた」ことを、はっきりと自覚するが、それを本当に自覚できたのは、割と最近になってからなのである。
「虚無」または「闇」の体験をするまでは、「自ら望んで地球に生まれた」など、あり得るわけもないことで、あるいは、もしそうだとしても、それは「勘違いによる失敗」のようなことでしかあり得なかった。
「虚無」または「闇」の体験をしてからも、それがすぐに自覚されたというわけではないし、むしろ、その体験と地球で普通に生きることとのギャップが大き過ぎて、(もはや「タナトス」的な思いはなくなっていたが)、その後の生き方に、多少吹っ切れなさをもたらしたようである。
しかし、最近になって、「自ら望んで地球に生まれた」ことの自覚が、いかに重要かということを、改めて感じるようになったのである。アシュタールやシャーのような宇宙人が、チャネリングを介して、そのような意識を改めて喚起してくれたとも言える。
ただし、繰り返すが、私ならずとも、地球という、「闇」の支配する、生きにくい環境の中で、これを自覚することは、やはり、大変なことには違いない。特に、物事に追われて、余裕のない、若いうちは、とてもできにくいことだろう。
適当に「遊ぶ」くらいの感じで来た人は、いいかもしれないが、特に、「騙されて」来た人などは、「自ら望んだ」などと言っても、納得しかねておかしくない。
ただし、たとえ「騙された」のだとしても、そこに、自ら「望んだ」からこそという要素が入っていることも、確かなことである。だから、少なくとも、地球にいる間には、その「自ら望んだ」要素を顧みて、それに沿う方向で、積極的に生きるしかないはずなのである。また、その「騙された」という体験は、教訓として、その次の選択には、生かされて来るはずのことである。
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