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2021年4月

2021年4月22日 (木)

ワクチンの意図は2の「慣例路線」が明確に

最近の記事『支配層の今後に向けてのワクチンの利用価値』で明らかにしたように、支配層は、ワクチンを、

2  人体に「異物」を挿入することの慣例化、抵抗の削減=将来的に、チップや人工臓器など、情報管理や操作の可能な技術と結びついた物質を挿入させるための、伏線(「人間のロボット化」)

という路線で利用したいのが、かなり明確になって来たと思う。

3  宇宙人の技術による、超科学的な、支配-操作の可能性

のように、今回の騒動による(一回的な)ワクチンの接種によって、チップ等による支配-操作のできる、決定的な結果をもたらしたいと思っているとしたら、何が何でも、世界的に、強引にワクチンの接種に向かわせるはずなのである。

コロナ騒動は、ワクチンの一定数の接種があっても、変異株の影響ということもあって、一向に収まらず、今後も増えていく見通しである。ワクチンの効果が実際あるのかどうか、これではあまりに曖昧である。

だから、「ワクチンの供給を急げ」という声を拡大させようとしているともみれるが、本当に、今回のワクチン接種で決定的なことをなそうとしているなら、さっさとワクチンの供給を世界的に行き渡らせ、コロナ感染者が減少している操作をしてでも、ワクチンの効果を演出し、強引に世界中にワクチン接種を行き渡らせるはずなのである。

支配層は、今回のワクチンでコロナ騒動が収束するようなことはしたくなく、変異株(RNA型ウイルスが速く変異を繰り返すこと自体は、自然なこと)の脅威もうたって、あるいは、新たなタイプのウイルスの開発も見込んで、何度もワクチンを接種することが必要という方向に持って行きたいのである。

そのためには、ワクチンの効果は、必ずしも明確でなく、曖昧にしておく必要がある(はっきり効果があるという演出は避けたい)し、一方、実際、効果がないことがばれるようなこともないように、あまり急いで世界中に行き渡らせることもなく、接種によっても収束しないことの理由(変異株の影響等)は、ちゃんと用意しておく。

そのうえで、ウイルス騒動とワクチンの接種のいたちごっこのようなことを繰り返しつつ、異物の慣例化を押し進めたいと考えていると思われるのである。そうして、デジタル化の推進や高度のチップの開発、実用化が進んだ頃には、それらの人体への挿入も抵抗なく成し遂げたいと考えていると思われる。

それに、こういった、長期的に不安や混乱を長引かせる路線の方が、支配層や捕食者の観点からも望ましいのである。ワクチンによって、騒動が収まりそうで収まらない。かといって、ワクチンを打たないという選択は、多くの人にはできにくい。こういった、にっちもさっちもいかない状況を長引かせることで、多くの人を疲弊させ、弱体化できるとともに、捕食者的には、不安と混乱のエネルギーを継続的に回収できる。(捕食者的には、人間の完全なるロボット化は、本来望むところではない。あくまで、窮余の策なのである。)

我々にとって、本当に怖いのは、最終的に、体内のチップ等とつながった、AIによる一元管理体制ができることなので、この路線は、我々にとっては、それまでの猶予期間とも言えるものである。だから、我々が、その間に、その流れに服しない方向にはっきりと歩みを進めない限り、そのような結果を止めることは難しいということになるはずである。

 

2021年4月10日 (土)

「自ら望んで地球に生まれる」ということ

前回述べたように、地球では、物質的な「体」という、ある意味不便で、自由の利かないものを身にまとって生きることになる。その体を受け入れて、「大事」にするという意識を持つためには、そのような地球に、「自ら望んで生まれた」ということを、改めて自覚することも必要となるだろう。

地球にいて、地球上の人間や動物を中心にみている限り、「体」をまとうなどは、当たり前のこと過ぎて、特に意識することもないかもしれない。しかし、地球でも、目に見えない「霊的な存在」や「異次元的な存在」を体験するなどして、それらの存在が多くいることに思いを寄せれば、必ずしも、物質的な体があることが、生命として当然のことではないのが分かる。

さらに、この宇宙には、数限りなく宇宙的な生命があり、それらの多くが、「霊的な存在」や「異次元的な存在」と同様、必ずしも、体をまとうものではないことが分かると、むしろ、地球において、体をまとうという生命のあり方が、かなり特殊のものであることも分かって来る。

実際、宇宙人のアシュタールや、最近とりあげたシャーも言うように、宇宙からみれば、地球人というのは、物理的な次元に特化した、強度の制限を伴う、かなり特殊な存在である。だが、それは、そのような環境でこその体験をしたくて、自ら望んで生まれたのだという。

それは、金星から来たオムネクも言っていたように(記事『「次元降下」して地球に生きる「金星人」』参照)、宇宙(アストラル次元)では、望んだことはすぐ適うので、不便や苦悩はないが、反面退屈で、停滞しやすく、地球のような物質的な環境でこそ、体験できることも多くあることによっている。

「自ら望んで生まれる」ということでは、たとえば、池川明医師の、子供の中間生の記憶研究でもみられたように、子供が「親を選んで生まれた」ということを、はっきりと語るということがある(記事『「子どもが親を選ぶ」ということ』とその前の記事  参照)。

「親を選んで生まれる」ということは、ともあれ、地球に、体をもって生まれるということが前提となっていて、その中で、さらに自分なりの条件を選んで生まれる、ということを意味している。

ただし、記事でもみたように、その「選ぶ」ということは、主体的に明確な意志によるというより、何となくとか、周りの存在に促されるなど、かなり「適当」で「曖昧」な要素もあるようだった。

恐らく、それは、「自ら望んで地球に生まれる」という場合にも、言えることのはずである。そして、それは、「適当」とか「曖昧」どころか、もっと否定的に、「騙されて」、などという場合も、多いのではないかと思う。地球は捕食者的存在による搾取の星だから、その場合には、当然、捕食者的存在に騙される、ということになる。

いすれにしても、「自ら望んで生まれる」と言っても、その意志が明確でない場合や、たとえ、その段階では、明確だったとしても、実際に生まれてみると、それが予想とは違ったとか、完全に忘却してしまうことなどのため、そのことを意識することは、難しいものと思われる。

私も、記事『「地獄」「監獄」としての「幼稚園」』で述べたように、その頃には既に、地球に生まれてしまったことの、違和感というか、多分、予想とあまりに違った(酷すぎた)ための後悔のようなもので、もはや、そこから(「体」からでもある)離れて、「帰りたい」という気持ちを持っていたようである。違うところから来たことを意識しているわけではないので、「帰りたい」と意識するわけではないが、感じとしては、それに近いものがあったのである。

それは、常に意識していたというわけではないし、楽しいことも結構あったのだが、その後もずっと持ち続け、10代の後半から20代位には、かなり強いものになっていた。

そして、その思いは、「死」への関心ということに、つながっていたようである。ただし、単純に「死にたい」と思うのではなくて、「死の先にあるもの」への関心というか、死によって起こることへの関心である。それは、「死後の世界」への関心であると同時に、もっと虚無的な意味合いも含まれていて、自分という、個としての意識から解放されたい(解体されたい)という思いも強力にあった。

フロイトは、「タナトス(死への欲動)」ということを言い、それは、「無機物にまで解体されたい」という根源的な欲求としていたが、まさにそれに近い。

私は、10代の後半の頃、バイクで、タクシーと衝突し、死んでいてもおかしくない事故をやってしまった(実際には、膝に軽いけがをするだけで済んだのだが、これも、最終的に、自分が選択したのが分かる)のだが、それにも、そのような「タナトス」的な意識が影響していたことが分かる。

私の前半生は、その思いに、かなり強くとりつかれていて、それが、自分の人生を大きく導いたとしか言いようがない。

そして、このブログで一連の体験として述べた、「統合失調」体験にも、その意識は強く働いていたのである。というより、ある意味で、この体験こそ、タナトス的な意識が導いた事態の集大成というべきものである。ブログ記事でも述べたように、それは、「死の体験」そのものというべき体験で、「死」の要素に大きく彩られていた。それは、「死後の世界」ではなく、「死そのもの」へと深く入っていく体験であり、実際、自分という「個の意識の解体」ということに関わるものだったのである。

そして、それは、最終的に「虚無」または「闇」との遭遇に行き着いたが、それこそ、「死そのもの」の最深部に潜んでいるものということだったのである。私の、否定的な意味合いの強い、「死への関心」は、結局は、「虚無」ないし「闇」への通路のようなもので、それを体験することに向けられていた。そして、実際にそれを招き寄せたのである。

何が言いたいかというと、私のこれらの体験は、まさに、自らが「それを体験すべく自ら望んだもの」ということである。「統合失調」体験、さらに「死そのもの」へと深く入っていく体験などは、「物質的な体」という制限があり、明確に「死」ということのあるところ、しかも地球のように、捕食者的な「闇」の支配しているところでしか、体験しようのないことである。

だから、私は、それらの体験を通して、最終的に「虚無」または「闇」を体験すべく、「自ら望んで地球に生まれた」としか言いようがないのである。

もちろん、これは、あくまで私の場合である。「物質的な体」という制限のあるところでしか体験できないことは、他にもいろいろあるし、多くの人は、単純にその体験を楽しみたいと思って来たのであろうから、このような、かなり特殊なことを望むのは、珍しいことだろう。

それに、私も、これが唯一の望みというわけではなく、結構「欲深く」いろいろ体験したくて来たようであるから、この体験で全ての望みを達したわけではない。

ただ、私の前半生は、このメインとなる望みに集約化する形で進んで行って、それは結果として、目論み通り達せられたということは言える。だから、ある意味で、それ以後の「生」は「余生」のようなものだが、それはそれで、しっかり楽しもうというのが、最近の思いである。

かつては、この「余生」というような思いのために、(地球上での)「生」(従って、「体」というものでもある)を、軽んじる傾向につながっていた面もある。「自ら望んで地球に生まれた」ことの自覚が薄まっていたというか、多少、限定して捉え過ぎていたのである。

しかし、「地球に生きることの面白さ」は、これからが本番ということも言える。

たとえば、もし、地球が、この先、私が生きている間に、「アセンション」などとも言われるが、「霊化」する事態を肌で感じるほどに体験できるなら、それは申し分のないことである。シュタイナーは、「地球という物質的な世界」に生まれることの意義は、霊的な世界では行き詰ってしまった、更なる「霊的な進化」をすることにある、と言っていたが、実際に、その一部を目の当たりにできることなのだから。

ともあれ、最近は、このように、私も、「自ら望んで地球に生まれた」ことを、はっきりと自覚するが、それを本当に自覚できたのは、割と最近になってからなのである。

「虚無」または「闇」の体験をするまでは、「自ら望んで地球に生まれた」など、あり得るわけもないことで、あるいは、もしそうだとしても、それは「勘違いによる失敗」のようなことでしかあり得なかった。

「虚無」または「闇」の体験をしてからも、それがすぐに自覚されたというわけではないし、むしろ、その体験と地球で普通に生きることとのギャップが大き過ぎて、(もはや「タナトス」的な思いはなくなっていたが)、その後の生き方に、多少吹っ切れなさをもたらしたようである。

しかし、最近になって、「自ら望んで地球に生まれた」ことの自覚が、いかに重要かということを、改めて感じるようになったのである。アシュタールやシャーのような宇宙人が、チャネリングを介して、そのような意識を改めて喚起してくれたとも言える。

ただし、繰り返すが、私ならずとも、地球という、「闇」の支配する、生きにくい環境の中で、これを自覚することは、やはり、大変なことには違いない。特に、物事に追われて、余裕のない、若いうちは、とてもできにくいことだろう。

適当に「遊ぶ」くらいの感じで来た人は、いいかもしれないが、特に、「騙されて」来た人などは、「自ら望んだ」などと言っても、納得しかねておかしくない。

ただし、たとえ「騙された」のだとしても、そこに、自ら「望んだ」からこそという要素が入っていることも、確かなことである。だから、少なくとも、地球にいる間には、その「自ら望んだ」要素を顧みて、それに沿う方向で、積極的に生きるしかないはずなのである。また、その「騙された」という体験は、教訓として、その次の選択には、生かされて来るはずのことである。

 

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