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2021年3月

2021年3月27日 (土)

「体を大事にする」ということ

よく病気の人などに向かって、「(体を)お大事に」などど言うことが挨拶として行われる。しかし、この「体を大事にする」ということが、実際にはどういうことなのか、改めて問われるということはほとんどない。

あるいは、たとえ病気のときだけ、「大事」にしたとしても、普段粗末にしているなら、また病気になることが、目にみえている。

私も、若い頃というより、かなり最近まで、普段「体を大事にする」などということは、ほとんど考えないでいた。「体」とは、要するに自分のものなので、自分がどう扱おうと勝手だという意識があったし、それで特に問題も感じないでいた。

また、私は、「霊的なもの」を意識し出してからは、むしろ、物質的な「体」というものは、軽視する傾向にあり、それは、即、体を粗末にするということにつながっていた。「体」は本質ではないから、「霊的なもの」を意識していれば、特に重視する必要はないというような感覚を、スピリチュアル傾向の人は持ってしまいやすいのだ。

しかし、最近は、年のせいもあって、かつてのように思うように体が動かないことを意識することも多くなった。激痛を伴う、通風のようなこともやってしまった。また、「物質的なもの」への視点も、かつてとは変わり、「霊的なもの」とは別に、「体」には独自の意義があり、それにはそれで、敬意を払うというような意識も持つようになった。

それで、私は最近、割と、普段の食にも、体の健康維持にも、結構気を配るようにはなっている。それが、まさに「大事」なことであるのも自覚する。最近は、病らしい病気は全然していない。

ところで、これまでにも何度かとりあげた、「大日月地神示」には、「体」の意味と、「体を大事にする」ということについての神示もあったので、とりあげてみよう。

2020.9.24 続大日月地神示より (https://ja-jp.facebook.com/groups/kamihito.hihumi/ )

「御身体、地の大神さまの分身でありますのじゃぞ。人民、お貸し頂いて生きておりますのじゃ。日々、御身体に地の大神さまに御礼申すのが、真の教えでありますぞ。
御身体に、毒入れるでないぞ。生命の設計図、書き換えるでないぞ。貴き仕組み、穢すでないのぞ。
人が人で無くなってしまいて、みな狂いますぞ。」


「地の大神さまの分身」というのは、大仰に聞こえるかもしれないが、要は、「地球の分身」ということだ。

「体には、体独自の意義がある」と言ったが、それは本当に、我々の意識と協同しながら、あるいは、ほとんどそれとは別に、独自に働いてくれる、驚くべきシステムである。まさに、「貴き仕組み」である。

しかし、体のシステムは、驚くべきものである反面、環境や我々の意識の影響を受けて、無理や障害の起こりやすいものでもある。まさに「穢され」やすいのである。だから、「大事にする」ということが、必要になるのでもある。      

そして、そのようなシステムとして典型的なのが、(体に備わった)自然の免疫システムであろう。感染症などに対抗するのも、普段から、この自然の免疫システムを高めておくのが基本となるはずである。直接(自然の免疫システムをくぐって)病原となるものを注入して、無理やり抗体を作らせるワクチンなどは、むしろ、この自然の免疫システムを阻害するものといえる。

「御身体に、毒入れるでないぞ。生命の設計図、書き換えるでないぞ。」とは、まさに、最近の、遺伝子書き換え新型コロナワクチンについて言っているかのようである。「人が人で無くなってしまいて、みな狂います」という。まさに最近述べた、「人間ロボット化計画」そのままである。

体は、ちょっとケガや病気をすると、思うように動けず、痛みや不快もあり、不便に思うこともあるが、それは体の言うことを聞かず、無理をかけて来たこと、大事にしなかったことの、当然のツケでもあろう。

ただ、そのような意識を本当に持つためには、我々が、体というもののある地球に、(自ら望んで)生まれたということを、改めて自覚することも必要となるはずである。

それについては、次回述べようと思う。

2021年3月16日 (火)

ウイルスによる感染症にも「病気」という見方が故の問題

前回、反精神医学者サースの言葉をとりあげつつ、精神疾患にいう「病気」とは、「隠喩」に過ぎないこと。しかし、これが、精神医学では、実体としてあるかのような、「病気」とみなされたことを述べた。

精神の領域において、このように、「病気」とみる見方がもたらす問題は、記事『「病気」という見方が故の問題』でとりあげた。

いくつか重要な点を再掲すると、

「本人も、周りの者も、その元にある状況という、実質的な面よりも、このような「病気」という「覆い」にこそ振り回され、支配されることになる。その元にある、状況と、主体的に関わる機会は奪われ、それが何であるのかについても、ほとんど学ぶ機会はない。」

「結局、全体として、「病気」という見方が、その実質を覆い隠す、強力な「覆い」として作用し、それ以上の考察を妨げ、思考を停止させる働きをなしているのである。」

「「病気」というのは、それ自体は、特に内容をもたない「観念」に過ぎない。しかし、それは、その元にある「訳の分からない」状況に、覆いをする強力な働きをする。そこで、「病気」という「覆い」が、それ自体、一つの、強力な「事実」のように機能し始める。その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。

そうして、「病気」ということが、社会をあげて「治療」すべき、巨大な「害悪」と化す。この「恐るべき病気」という、それ自体において肥大した観念が、本人にも、周りの者にも、その実質と向き合う可能性を、阻害する。」
                                             

これは、「精神の領域」について述べたものだが、最近のコロナ騒動においてもみられるとおり、ウイルスによる感染症においても、十分当てはまることと言うべきである。

特に、「その「覆い」は、元にある「訳の分からなさ」(未知性)を、幾分とも反映するから、それ自体が、「訳の分からない恐ろしさ」を孕み、膨らませる。」というところは、多分に、「訳の分からなさ」(未知性)をはらむ、ウイルスによる感染症にも、まったく当てはまる。コロナ騒動の多くも、このことによってこそ、醸し出されている面が大きいのである。

そして、これは結局、精神の領域のみならず、身体医学的な領域においても、「病気」という観念は、実質を覆い隠す働きをし、さらに、それ自体が独り歩きして、「恐るべき病気」、「社会をあげて治療すべき病気」という「巨大な害悪」を作り出す、ということになることを意味している。

明らかに、社会は、「病気という観念」に振り回されているのである。

また、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』と、次の『「病気」ということの「イデオロギー」的意味2』では、精神の領域において、「病気」ということのイデオロギー的な意味を明らかにした。

それについても、重要な点を再掲すると、

「第一段階は、社会的に放置できない、一定のパターンの精神的状態を、医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。この場合の「病気」は、必ずしも、身体医学的な意味の「病気」ではない。精神の「病気」であれ、何であれ、とりあえず、それを「病気」として、医学の対象に取り込み、「治療」の必要な「害悪」と、規定することが重要なのである。

次に、第二段階は、身体医学に引き寄せて、「病気」という規定をなしたことである。ここでは、もはや「病気」とは、単なる「病気」でも、「精神の病気」という曖昧なものでもなくなった。身体医学の対象と同じく、身体の病気なのであり、特に「脳の病気」とみなされたのである。そこで、精神薬のような薬物療法が、治療手段として主流となり、人手のかからない、合理的、マニュアル的な対処が可能となった。

第二段階では、身体医学に引き寄せて、それまで「精神の病気」とされたものは、実際には、「脳の病気」であり、精神薬という物質的手段により、治療されるものである、という「イデオロギー」が浸透されたのだった。

この「イデオロギー」を象徴するのが、前回もみた、「ただの病気に過ぎない」という言い方である。言い換えれば、それまでは、(精神の)「病気」としても、その原因や治療法など、謎めいたものを多く孕んだままであった。が、ここにおいて、「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされたのである。つまり、身体医学の領域に引き寄せることで、「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化されたのである。」

これも、精神の領域について述べたものだが、身体医学の領域についても、やはり当てはまるものと言うべきである。

精神の領域において、「身体医学の領域に引き寄せ」て、「病気という規定」をしたということで、「病気という観念のイデオロギー性」が露になったわけだが、そもそも、身体医学の領域において使われる、「病気という観念」自体が、既に「イデオロギー」的なものだった、ということである。

特に、「「病気」ということで、一応とも「分かった」ことにされた」ということ。「「病気」ということ自体が、謎めいた現象についての、一つの「結論」としての意味を帯び、それに基づいて、治療法などの対処の仕方も、明確に単純化された」ということは、身体医学の領域においても、まさになされたことなのである。

だからこそ、「病気」という観念が、実際に起こっていることの「実質」を、覆い隠す働きをなすことができるのである。

もちろん、この場合の「病気」とは、近代以降の西洋医学にいう意味の「病気」である。要するに、「病気」とは、身体という機械的なシステムに支障を来すことで、その原因は、内部的なものであれ、病原体のような外部からの侵入によるのであれ、「物質的なもの」であるということである。

従って、よく分からない、恐ろし気な「病気」も、表面上は、「病気」として「分かった」ことにされ、薬を中心とする「物質的な」治療法が確立される。あるいは、ただ、その「害悪」を取り除けばよいというだけのこととなる。それは、社会に、「安心」や「期待」をもたらすようでありながら、実際には、その「よく分からない」実質の多くの部分が、覆いをされ、隠されたままに残されているのである。

従って、もともとある「訳のわからなさ」(未知性)は、その隙間から、常に顔をのぞかせざるを得ないのである。それが、「病気」という観念にも反映されて、「恐るべき病気」「社会をあげて治療すべき病気」というような、騒々しい観念を膨らませていくのである。

そのようなことが、最近のコロナ騒動をみても、如実に浮きびあがっているのが分かる。

東洋では、もともと、「病気」という観念は、「気を病む」ということを意味していた。これならば、「気」という、身体と精神をつなぐ領域に目を向ける、的確なもので、「病気」というのも悪くないだろう。ところが、近代以降の「病気」という観念は、そのような見方を覆して、物質的なもの一辺倒の見方に変えてしまい、実際には、実質を覆い隠して、ただ、「病気」という観念を肥大化させて行き渡らせてしまうことになったのである。

 

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