『R.D.レインと反精神医学の道』と隠喩としての「精神の病」
R.D.レインについては、私も、「最も分裂病理解に近づいた一人」として、記事『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』 』及び『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』でとり上げている。
『「自己の脆弱性」/『ひき裂かれた自己』』では、主著である『引き裂かれた自己』をかなり詳しく解説し、それは、分裂気質の者のあり方を、これ以上ない程に内面深く切り込んで、鋭く分析していることを明かにしている。ただし、それは、否定的な面のみに偏り過ぎて、問題もあることを指摘した。
そして、『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』 』では、レインが、その問題を大きく修正し、分裂病体験は、「霊的な旅路」として、現状の行き詰まりの突破となり得ることを明確に示したことを、大きく評価した。そこには、レインの、「正常」といわれる状態こそ、現代の「疎外された社会」での適応状態に過ぎず、そこからの逸脱は、むしろ、その疎外された状態の突破の契機となる、という認識も大きく働いている。
とは言え、レインは、『引き裂かれた自己』でみた分裂気質の者のあり方を否定したわけではなく、分裂病体験の否定的側面も十分認めているのである。だから、決して、「狂気を美化」したのでもなく、分裂病が、単に、「家族や社会によって作られたもの」に過ぎないとしたわけでもない。
このように、レインには、分裂病そのものへの深く鋭い視点が厳としてあり、その点で、他の反精神医学者とは一線を画す、ということも述べていた。
この度、ズビグニェフ・コトヴィチ著『R.D.レインと反精神医学の道』(日本評論社 )という本が出ていたので、読んでみた。これは、レインの思想の移り変わりや、その背景、他の反精神医学者との相違、キングスレイホールのような実践のあり様、レインへの批判などが、簡要にまとめられていて、参考になる。レインを読んだことがない人には、理解が難しいかもしれないが、読んだことがある人には、理解を深めてくれるものになるはずである。
著者の視点も、上のような私の考えに近く、大枠で納得できるものでもある。レインへの批判も紹介しつつ、それらの多くが、的を得ないものであることが、指摘されている。
主著『引き裂かれた自己』を高く評価する人は、後のレインの転換を、後退とみる人が多いが、決してそうとは言えないことも、指摘されている。ただし、著者が、後の転換の方を高く評価するのかどうかは、曖昧である。
病者と分け隔てなく共同生活をするキングスレイホールの実践も、失敗に帰したとみる人が多いが、レインにとっては、それは文字通り、社会の中での「実験的意味」だったので、何も、治療できることを標榜したわけではない。
晩年、レインは、分裂病の解説や治療からは離れて、詩人あるいは文学者に帰した観があるが、これも、レインにとっては、「分裂病者」よりも、「疎外された社会」の方が、絶望的に問題となっていたということで、理解できるはずである。
ところで、この本では、レインではないが、サースという反精神医学者の「病気」に対する見方が紹介されていた。サースは、レインのように、分裂病そのものへの深い切り込みはないようだが、「病気」という見方については、レイン以上に鋭い突っ込みがあったようである。
私の考えていたこととも重なる、重要なものなので、とりあげてみる。
「サースは、「精神疾患」という言葉が隠喩に過ぎないと論じている。冗談の「趣味が悪い」(シック)とか経済が不振(シック)とかの意味でのみ、こころは病気(シック)となりうるのだ。」
端的に、「精神疾患」の本質をついた言葉と言うべきである。要するに、精神の病気というときの「病気」とは、身体医学で病気というときの「病気」を、精神の領域に比喩として借用した、「隠喩」に過ぎないということである。
例えば、経済が不振であるとか、冗談の趣味がよくないなどのときに、英語では、病気を意味する「sick(シック)」」が「隠喩」として使われるが、それと同じような意味で、精神の領域にも、「sick(シック)」 が使われるに過ぎないということなのである。
日本でも、同じように、「不調」とか、「具合が悪い」という意味で、「病気」や「病的」という言葉が、いろいろな方面で使われるから、これは理解しやすいことだろう。
何しろ、経済そのものや人の冗談に、何か実体として、「病気」というものがあるわけではない。それと同じように、精神の領域にも、「病気」なるものがあるわけではないのである。ただ、「隠喩」として使われているに過ぎないのだが、精神医学は、それを、実体としてあるかのように、みなしてしまったのである(あるいは、「敢えてみなした」のである)。
私も、「精神の病気」に言う「病気」とは、「たとえ」であるということを、記事で述べようと思っていたところなので、これは、まさしく、我が意を得たりというものであった。
ただ、私に言わせれば、そもそも「身体医学」にいう「病気」というのも、決して「実体」とは言い難く、相当に怪しい「観念」に過ぎない。ただ、仮に、身体医学に言う「病気」を認めたとしても、精神の領域でそれが使われるのは、その「隠喩」に過ぎないのだ、ということで理解してほしい。
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