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2020年12月19日 (土)

『無限との衝突』と「空なるもの」

スザンヌ・シガール著『無限との衝突』(ナチュラルスピリット)という本を読んだ。

女性による体験記で、ある日バス停でバスを待っているとき、突然「無限」または「空」と「衝突」し、以後「自分という基点」を永遠に失ったという。ロバーツの「自己喪失の体験」と似ているが、ロバーツの体験とは違いも多くある。また、「狂気」との関りは、ロバーツ以上に深く、私の「闇」または「虚無」との遭遇体験と、重なる部分も多い。

著者は、この体験をする前には、スピリチュアルな傾向があったわけでも、特に修行をしたわけでもないが、TM瞑想に関わったことがある。が、マハリシというよりも組織のあり方に疑問を持ち、スピリチュアルそのものにもよくない印象をもったまま、結局離れることになる。だから、この体験は、望むことも、予期するこもなく起こったもので、まったく理解できないのである。特に、「覚醒」の体験なら、喜びがあるはずだと思っているので、恐怖しか感じないこの体験は、なにものなのかといぶかるのである。

その後も、思考や感情という「マインド」の活動自体は存続するが、そこに「自己という基点」は一切なくなり、そのことが、非常な恐怖と混乱をもたらす。著者は、「病的なもの」との疑いももち、何人かのセラピストに相談に行くが、そこでは、セラピストが、その体験を恐怖の故に頭から認めず、自分の「精神分析」的な解釈にただ無暗に当てはめて、「解離性障害」などと病的な規定をし、(洗脳的に)セラピーを施していくというあり方に接し、そこにも多くの疑問をもち、やはり離れていく。

その後、著者は、覚醒や悟りに関する指導者(いまや欧米にもそのような人は多い)と多く会う機会を得、また仏教などとも出会うに従い、自分の体験が、覚醒をもたらす、「空」の体験そのものであることを受け入れるようになっていく。また、多くの指導者も、それが真正の覚醒体験であることを保証してくれる。

そのようなことから、著者は、「自己の基点」は失うが、あらゆるものが「空」の広大さそのものの現われであり、「一なるもの」であることにも目覚めていく。「自己の基点」は、元々なかったもので、「マイント」が生み出した「幻想」のようなものと悟るのである。そして、それまで、「空」の体験が、覚醒の体験なら、喜びをもたらさず、恐怖をもたらすことに疑問を感じていたが、その疑問も解け、静かな喜びをもたらすことになる。

その後、「空」と「一なるもの」の関係、「空」の体験後も、「マインド」そのものは存続し、思考や感情を失うものではないことなどの洞察と解説がかなり詳しく展開される。それらは、非常に鋭く、的確なものと感じられる。「マインド」の存続、特にネガティブな思考や感情の存続ということには、私も、多くの疑問をもっていただけに、大いに参考になった。

著者の体験は、かなり特異ともみられようが、ロバーツさらに私の場合と比較すると、より明確に浮き彫りになると思われる。

まず、ロバーツの場合と比較すると、「自己の完成」あるいは、「統一意識」というものを、経たうえで、起こったのではないことが、大きく違っている。その点では、私の場合と同じである。だから、より受け入れるのが難しく、より恐怖や混乱をもたらすのである。しかし、著者は、その後、「一なるもの」としての「統一意識」も経験し、結果として、それを受け入れることができるようになる。ただ、ロバーツの場合と比較すると、やはり、最後まで、不安定で、危うい感じは、つきまとう。

ただし、私の場合と違うのは、その体験によって、「自己という基点」そのものは、明確に失ったと感じ、その後もそれがずっと続いていることである。私は、体験時には、明らかに「自己の基点」を失ったが、その後は、それがなくなったわけではない(希薄なものとは化したが)と感じている。それは、やはり、その体験に至るまでの経過の違いによるということができる。

私は、その体験が起こる前に、「統合失調状態」という「狂気」そのもののような状態にあったが、著者は、その体験前は通常の状態にあり、体験の後、自己の基点を失ってから、「狂気」まがいの恐怖と混乱に陥ったのである。

私の場合、「空の体験」は、それら「統合失調状態」で起こったことを、「幻想」のようなものとして、解消する役をなしてくれた。が、著者の場合は、その体験によってこそ、「自己」の状態を失って、「狂気」めいた状態に陥ったのである。

結局、「空」の体験そのものは、いかようにもパターン化できないし、色づけできないということを、改めて感じる。こうなったら現れるとか、こうでなければならないなどということとは、無縁なのである。

それは、著者も言うように、ただ、本来の「ありのまま」の状態であり、ただ「マインド」の作り出した「自己」という幻想が、それが現れることを遮っているに過ぎない。その「マインドの遮り」が、取り払われる状態でなら、それがいつ現れても不思議はないのである。ただ、それをどのように体験し、消化し、受け入れるかは、人それぞれのあり方によるとしか言いようがない。「マインド」の抵抗が激しければ、「狂気」となり得るし、「マインド」の抵抗がなければ、喜ばしい体験として、その状態に安住していられるということにもなる。

また、それは、その体験が起こるまでの経過にもよる。私のように、「狂気」の状態の果てに体験した場合、それは、その「狂気」を吹き払う、「治癒」的な働きをなすことにもなるが、著者のように、いきなり体験すれば、その体験の「異常」さが際立って、「狂気」をもたらすことにもなり得る。

ただ、総じて言うならば、ロバーツの場合のように、まず「自己の完成」または「統一意識」に至って、その「自己」を全体として抜け落とすということになるのが、最も危険が少なく、十全な結果をもたらしやすいことにもなるだろう。ただし、それは、そうでなければならないのではなく、あくまで、「事実上」のことである。

私の説明では、「自己」の完成の方向は、「水平的方向」であり、「空」による「自己の喪失」は、「垂直的方向」である。ところが、人は、この「空」の体験も、「水平的方向」の延長上にあるものと、みなしてしまいやすい。それで、「空」の体験も、人格の成長の果てにあるものとか、当然に、肯定的な結果をもたらす、喜ばしい体験であるとみなしてしまうことになる。しかし、それは、「空」を恐れるがゆえに、まさに「マインド」が、そうあってほしいと思っていることを信じているだけのことである。ところが、垂直的方向の体験は、本来、そういったこととは、一切関わりないのである。

著者を取り巻く人たちの、無理解の反応や、その体験を「病的」なものとみなそううとするセラピストたちも、まさに、そのような反応をしているだけということである。この本は、それらの人たちの反応の問題をも、よく浮き上がらせている。

著者の本自体は、このように、この体験を肯定的に受け入れられるようになったところで終わっている。が、実は、編集者によると、著者は、その後、またいくらか混乱をもよおし、幼少期の頃の、虐待の記憶が戻って、それが自分の体験にも影響していることを認めるようになったという。そして、その後、脳腫瘍を患い、まもなく死亡したという。

このようなことは、先にみたように、「空」の体験が喜ばしいものであるべきという「マインド」の視点でみると、疑問や矛盾と感じるかもしない。しかし、私は、ある意味で、多くの「覚者」の最晩年に、何らかの形でつきまとう、ある種の「悲哀」あるいは「味」とすら思う。ブッダの最晩年にも、このような要素は漂っている。

繰り返すが、そのような要素があってはならないと思うのは、「マインド」であって、それは事実とは関わりない。

私も、本を読んでいるとき、著者の体験は、「解離」または「離人症」的なところがあると思ったし、恐らく「虐待」と関係しているのではないかと思った。それは、実際、そういう面があったのだろうが、これまでみて来たとおり、「空」の体験自体、「狂気」の状態と、すなわち、「解離」のような状況とも併存し得るのである。私の場合は、「統合失調」状況との併存だったが、著者の場合は、おそらく、幼少期の虐待の影響もあって、「解離」との関りが強かったということである。

そもそもで言うと、「一なるもの」といわれる、根源的な「絶対的な存在」自体、記事『「神」も「解離」する!?』でもみたように、自分を取り巻く「未知なるもの」を意識し、それを探索したいとの思いから、「解離」のようにして、多くの「分身」を作り出したのだった。

そもそも、「空なるもの」は、あらゆる存在にとって、「解離」と本質的な関りがあると言えるのである。著者の体験は、ある意味で、それを踏襲しているだけである。

(また、「死」の点について言うと、「空なるもの」は、人間の肉体という枠組みとは、どうしても、共存し難いものがある。それで、いずれは、肉体の「死」ということに、向かわしめるものがあると言える。)

ただし、ロバーツの場合は、「自己喪失」の前に「統一意識」を体験していたので、「自己喪失」をもたらす「空なるもの」には、「一なるもの」をも超えたものがあることを、感じとっていたと解される。「一なるもの」にとっては、「未知なるもの」としか言いようのない要素である。ところが、著者の場合は、「空」の体験後に「一なるもの」の体験をして、肯定的に受け入れたので、両者が同等のものとして、混同されている節がある。

「空なるもの」には、「一なるもの」を超えたものがあること、「一なるもの」には汲みせないものがあることを、十分意識できていれば、その体験には、「解離」のような現象との併存もあり得ることも、受け入れやすかったかもしれない。

 

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