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2020年7月

2020年7月30日 (木)

「捕食者好み」のウイルス

捕食者とウイルスの、本質的な類似性については、このブログの最近の記事でも、また、『オカルトの基本を学ぶ』の『「捕食者の心」と「ウイルス」』という記事でも、述べています。

それにしても、現在騒がれている、新型コロナウイルスは、格別に「捕食者好み」のウイルスということが、言えそうです。

捕食者は、それ自体の作用というよりも、人間に、実体のはっきりしない、曖昧な現象を仕掛けて、自ら、想像力とイメージを膨らませることにより、恐怖と不安に陥らせて、そこから抜け出られないような事態を創出することを好むことは、何度も述べたとおりです。

それは、「統合失調状況」においても、「集団ストーカー被害状況」においても、典型的に、みられることでした。

ところが、今回の、コロナウイルス騒動にも、この要素が、存分に発揮されているとみられるのです。

もともと、ウイルスは、「目に見えない」もので、どのように感染し、どのように作用するのか、実体の見えにくいものではあります。しかし、今回のコロナウイルスは、これまでのウイルスに比しても、より実体のはっきりしない、曖昧なものといえます。

感染しても、症状に現れない場合が多く、現れても、かぜまたはインフルエンザ程度のもので、重症化するのは、高齢者か、もともと持病があったり、免疫力を弱らせている場合です。(※1)

それ自体は、大したことがなく、騒ぎ立てるほどのことはないはずなのですが、今回は、様々な要素が絡んで(※2)、不気味な恐怖が膨らまされ、割とスムーズに、騒動に結びつけられていると思えるのです。また、収束しそうで、なかなか収束せず、長い間、じわじわと、実体のはっきりしない恐怖を醸し出し続けています。

もちろん、マスコミや政府機関、御用学者等の煽りの影響は大きいし、そこには、それぞれの思惑もあります。しかし、その背後には、捕食者の働きかけも大きくあり、それと相まって、元々、このウイルスの性質自体にも、「捕食者好み」の恐怖を煽らせる面が、多分にあると思うのです。

かつての、ペストや天然痘のように、強力で、はっきりした症状が現れるものも、もちろん、強烈なインパクトがあり、多大な恐怖をもたらします。しかし、それは、ある意味、「見たまま」、「そのまま」のものであり、そのとおり受け止めて、できる対処をするしかないものです。また、その恐怖は、「それ自体」がもたらすものなので、捕食者が、殊更作り出したものとは言えません。

ところが、今回のコロナウイルスは、一定の感染力はありますが、その症状はまちまちであり、はっきりしません。健康に自信がある人は、気にしないでしょうが、そうでない人は、不安になってもおかしくないものです。時代的、社会情勢的には、健康に不安な人が多くいるのも、不思議ではない状況です。

感染しても、症状に現れない人が多くいるということは、そこら辺の、普通に道行く人が、感染者かもしれないということでもあります。あるいは、自分自身も、症状に現れないでも、感染者として、人に移してしまう可能性があるということです。特定の症状に現れている人を、隔離すればよいというような、分かり易い対処の仕方では済まないものがあります。

それ自体が、大したことはなくても、人によっては、また長い間続く状況では、不安を駆り立てる要素には、事欠かないということです。さらに、そこには、ただでさえ人との関係にストレスを抱えている人を、ますますギスギスさせ、争いや疑いの種をもたらす要素が多くあります。マスクの着用や自粛の働きかけは、ますますそのような要素を、強めることになります。

実際、ストレスが免疫を弱めること、既にみたように、ウイルス自体も、恐怖の感情を自己増殖の促進材料にしていると考えられることからすると、そのような、不安や恐怖を駆り立てられること自体が、このウイルスが収束することなく、威力を発揮し続けることの、要因となっていることをうかがわせます。一種のループを形成しているということです。

その意味では、「集団ストーカー」という観念を広めて、人を疑心暗鬼に陥らせ、地獄的な事態から抜け出せなくすることと、非常に似たものがあります。

このように、それ自体は大したことなくても、人間自身の想像力に訴えかけることで、恐怖と不安を拡大させ、収拾のつかない事態を作出させてこそ、捕食者自身が、特別にもたらした事態と言えるのです。それは、捕食者の自己顕示欲を刺激するという意味でも、「捕食者好み」の事態です。あるいは、人間自身の「愚かさ」を殊更に拡大して、現出させているという意味で、「愉快」なのでもあるでしょう。

もちろん、そのもとには、捕食者自身が、人間から発する、ネガテイブな感情エネルギーを継続的に収奪するという、本来の目的があります。その目的によく適うという意味では、このウイルスは、「進化形」なのかもしれないということです。

※1 この点については、 バシャールにも、新型コロナに限らず、ウイルス全般に共通する本質的な作用として、述べたものがあります。が、それは次回にとり上げることにします。

※2  ウイルスの発生が、武漢という、中国の振興の都市で、レベル4のウイルス研究機関のあるところだったことも、影響しているでしょう。あるいは、コウモリのような野生動物が、食用として売られているところという、「野蛮」なイメージも影響しています(北京や上海というメジャーな都市だったら、もう少し違ったイメージだったかもしれません)。結果として、一地方だけでなくて、世界的に広まっていることも、大きな理由です。その他、様々な「イメージ的要因」が重なっていると思われます。

 

2020年7月 1日 (水)

「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱

記事『「狂気」と「唯物論」』で、「組織に迫害される」などの「妄想」を信じることは、「何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与え」ると言いました。ここで、「常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して」というのは、正確には、「常識<ではなく>、一般の感覚を大きく逸脱して」というのが正しいです。

「常識」というのは、実は、「妄想」というのと本質的には変わりなく、「一般に共有された妄想」とも言い得るものです。「妄想」というのは、端的には、一つの、「思い込み」であり、「決めつけ」ですが、それは「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」て信じられる、ということがポイントでした。

「常識」というのも、まさに、そのように、「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」るからこそ、あえて「形成」されるものです。そして、「決めつけ」的な作用を及ぼすのも同じで、一旦「常識」として形成されれば、周りの者にも、それこそが「正しい」ものとして、事実上押しつけられていきます。

ただ、それが、「妄想」のように、個人的なものではなく、他の多くの者と「共有」されているので、「妄想」とはみなされずに、強力に、その作用を発揮するのです。

だから、「妄想」の方も、そのように、他の多くの者に共有されて、「常識」のような位置へと近づくことを目指します。それで、ことさら人に訴えかけられるのですが、それゆえ、逆に、多くの者の、排除の抵抗を受けることにもなるのてす。

言い換えると、「常識」というのは、「感覚」レベルのものではなく、観念レベルで形成された、「固定化」されたものだということです。「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と感じるのは、このように観念的な「常識」によるのではなく、もっと「感覚的」なレベルでの(感性的な)反応と言うべきなのです。

中村雄二郎という哲学者は、『哲学の現在』(岩波新書)という本で、「常識」としてできあがったものは、固定化された融通の効かないものですが、その形成の元となるものに、「共通感覚」というものがあると言います。それ自体は、五感を超えた統合的、全体的な感覚で、「常識」として観念化される以前の、生きた働きです。「常識」という言葉の元となった、「コモンセンス」には、この意味があると言います。

「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と思うのも、このような意味の、「共通感覚」によると言っていいと思います。それは、必ずしも、明確に「観念化」して説明できないけれども、感覚的なレベルでは、「おかしい」ということを、明白に、動かし難いものとして感じるのです。

あえて、それを観念的な形に表現するとすれば、

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

といったことになると思います。これは、統合失調的な 「妄想」だけでなく、最近の「集団ストーカー被害」を訴える人にも当てはまることでしょう。

ところが、「妄想」を訴える人は、自分の妄想を、「そういう組織には、それだけの技術があるのだから可能なのだ」というように、「観念的」なレベルで、つまり、「感覚」に訴えるのではなく、「常識」に寄せて、論理に訴える形で、説明しようとするのです。それで、ますます、多くの者にとっては、感覚的レベルとの齟齬が激しくなり、「おかしい」という思いを強めることになるのです。     

「妄想」が、このように「常識」に寄せて、観念レベルで訴えかけようとするのは、先にもみたとおり、必然のところがあり、まさに、「常識」に反すること、かけ離れてしまうことを、恐れるがゆえなのです。一見、常識から逸脱するようにみえても、実は、そうではなく、「常識」に適っているのだということを、躍起になって説明しようとするのです。

ところが、皮肉なことに、論理的に、常識レベルに訴えかけるほど、一般の「(共通)感覚」との齟齬を強めてしまう結果になるのです。

実を言うと、一般に対して、「常識に反する」という形の反応(反感)を呼び寄せるのは、私のように、統合失調の基礎には、「霊的なもの」が働いているなどという説明の方です。現在は、大分変わって来ましたが、まだまだ、「霊的なものがある」とか、さらに、それが「統合失調の基礎にある」などというのは、「常識」からは逸脱したものです。だから、このような説の説明は、「常識」として形成されているものの、観念や論理の危うさをついて、それを問い直すことを通じて、訴えかけるしかありません。

一方、一般の方も、このような説は、「常識に反する」ので、信じ難いとは思っても、「妄想」の場合のように、共通感覚的に、「おかしい」というのとは、また違った反応になります。

そして、この場合の「常識」というのは、記事『「狂気」と「唯物論」』でもみたように、「唯物論的な発想」ということになります。必ずしも、「唯物論」そのものとして、積極的に「物質的なものだけが存在する」と信じられているのではなくとも、その方向に沿うような、近代社会一般に浸透している発想です。

「組織に迫害される」というような「妄想」を訴える人は、感覚レベルでは、とにかく、これまでの日常に照らして、信じ難いような、「尋常でない」ことが身に起こっているということは、疑いようもなく感じています。それが、本当は、「常識」に反する、何か「未知」の事柄である可能性も、どこかで感じているはずなのです。

しかし、それを認めることができない故、それは、決して「常識に反する」のではなく、「組織による迫害」など、「常識」の延長上に理解できるものとして、「常識」を信じる側に、訴えかける必要があるのです。本当は、そうすれば、そうするほど、かえって、「無理」を押し通し、共通感覚的な「おかしさ」を招き寄せることになるのですが、それには、目をつぶって、そうする必要があるということです。()

「妄想」は、単純な「病気の症状」などではななく、このように、世間一般に信じられている、「常識」との関係で生じるもので、また、そこから逸脱することの恐れということが、深く影響していることを、改めて認識する必要があります。

「妄想」を訴えかける人、あるいは「集団ストーカー被害」を訴えかける人にアドバイスがあるとすれば、「組織による迫害」など、解釈または観念のレベルで、「決めつけ」的に訴えかけるのではなく、感覚レベルでどういうことが起こっているのか、まずはしっかりと説明することです。

普通は信じられないかもしれないが、「自分のことが周りの者に知られている」と<感じる>とか、行きかう人が、いろんなことを言ってくると<感じる>。あるいは、とても偶然とは思えない頻度で、人が自分につきまとっていると<感じる>などです。

恐らく、それを訴えても、「そんなのは気のせいだ」とか、「思い込みだ」と言われてしまう可能性が高いし、「病気だから病院に行った方がいい」(これは、「共通感覚的な反応」ではなく、まさに「常識という固定観念」による反応ですが)という人も出てくるでしょう。

「妄想」を訴えかける人は、このような反応が多いからこそ、そのレベルではなく、「常識」に寄せた、「組織による迫害」という解釈、観念のレベルで訴えようとするのですが、それが先にみたとおり逆効果で、ますます一般には、受け入れられることがなくなるのです。

感覚レベルで訴えかけることのリスクが高いのは、理解できますが、世間一般ということではなくとも、家族など、どうしても理解してほしい人には、そのレベルで、起こっていること、感じていることを、率直に訴え続けるしかないのです。多くの人でなくとも、ある一定の人たちは、(それを事実として認めるかはともかく)「そのような感覚を持っているがゆえに苦悩している」ということは、必ず理解してくれるものと思います。

いずれにしても、私に言わせれば、「妄想」を訴えかける方も、世間一般の方も、唯物論的な発想という「常識」の土俵の上で、やり合っていますが、それでは、互いにかみ合うことはなく、決して埒はあかない、ということです。

この場合には、唯物論的な発想という「常識」そのものを、問題とする必要があるのです。

※ 共通感覚的に「おかしい」ということを「共有」できず、逸脱してしまう理由を、動機のレベルから説明すれば、こういうことになります。しかし、感覚レベルでいえば、「妄想」の基礎にある感覚レベルでの体験には、強烈なリアリティを感じており、それが共通感覚的に「おかしい」ということを上回っているからです。このリアリティは、あくまで感覚レベルの体験にあるものですが、「妄想」として観念レベルに築かれたものに対して、働いてしまっているわけです。

 

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