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2020年5月 3日 (日)

「感染症」と「文明病」

前回、「感染症」と「狂気」の本質的な類似性について述べた記事、『「伝染病」と「狂気」』をとりあげました。

実は、その次の記事、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でも、「感染症」やウイルスについて、「進化」という長いスパンでみた、「病気」の意味という観点から、考察しています。

前回の記事では、「感染症」と「狂気」、「唯物論」が本質的に絡み合いつつ、「文明病」を構成していることをみました。

「狂気」、「唯物論」が「文明病」であることは、これまで何度も述べて来たことから、明らかと思います。いずれも、近代社会以降に、爆発的広まったもので、それ以前には、ほとんどなかったか、ある種の知恵をもって処されていました。

一方、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』の方では、「感染症」を含めた多くの病気そのものが、「文明病」というべきものであることを述べています。たとえば、次のようにです。

医学も薬もない時代から、そうやって、人間はそれらの細菌やウイルスと格闘しながら、ともに進化して来たのであり、人間は、本来、これらの病原に対する免疫や、対抗力を身に備えているのである。

だから、本来、自然状態では、「病気」とは、それほど恐れるに足りないものである。しかし、最近のエイズにしても、様々に変異したインフルエンザにしても、文明の中での人為的な働きかけによって生じたもので、「文明病」というべきものである。

細菌やウイルスによる感染症を「文明病」ということに、抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、山本太郎著『感染症と文明』(岩波新書)でも、感染症は文明によって広がったことが、はっきりと示されています。文明以前は、感染症を育む定住社会ではなかったし、ある集団があったとしても、その集団の中で、一定の人が感染症にかかることで、「集団免疫」が獲得され、それは終息に向かっていたのです。だから、それほどの脅威ということは、ありませんでした。

また、この本では述べられていませんが、記事『「<癒し>のダンス」』でみたように、先住民文化は、本来、感染症のようなものさえ癒してしまう、儀式に基づく「癒しの技」をもっていました。

さらに、『感染症と文明』では、感染症の拡大は、近代以降のグローバルな人や物資の移動によってこそ、押し進められたことが示されています。そこには、高度産業社会の技術の飛躍的な発展も、働いています。そのような技術の発展こそが、人や物資のグローバルな移動を可能にしたものだし、技術的な開発による自然への介入が、感染症の温床となった例も多いからです。

さらに言うと、最近の様々な変異的なウイルスは、高度な技術からこそ直接生み出された、「人工的な創出」であることを、予想させるものです。

もちろん、一方で、それは、薬やワクチンの開発も可能にしましたが、記事『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でみたとおり、結局は、一種の「いたちごっこ」であり、「文明病」の発展を後押しするものにすらなっています。その部分をあげると、次のとおりです。

現代の病気と治療は、「文明病」対「文明薬」の闘いになっているわけで、どちらが勝っても、体にとっては、不自然な結果になる。あるいは、結局、「文明病」と「文明薬」は、一見闘っているようで、実は手を組んでいるのであり、ともに体の「自然」に敵対して、蝕んでいく。

要するに、「感染症」も「狂気」も、まさにそれ自体が「狂気」じみている、「唯物論」という信念も、いずれも、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、絡み合っているということです。それらを、単独で問題にしても、実質的な解決が望めるはずがなく、そうするためには、「文明」そのもの、少なくとも、近代社会以降の社会システムを問題にしなければならないということです。

これは、結果としてですが、現在のコロナウイルス騒動も、そのような機会に結びつけ得る可能性は、いくらか出て来てはいますけどね。

 

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