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2019年12月

2019年12月28日 (土)

『幽幻医学』

奥山輝実著『幻覚妄想と向き合う 幽幻医学 五次元波動へのパスポート』(ヒカルランド)を読んだ。

著者は、元脳外科医で、現在は自然医学に基づく独自の療法による開業医をしている者である。私は、『マイナスエネルギーを浄化する方法』(記事 参照)のときと同様、医師等の書いた、この手の「(軽い)スピリチュアル」風の療法には、警戒心を抱き、あまり読もうとしないのだが、幻覚・妄想を問題の中心に据えたもので、プロローグを読む限り、共感するところも多かったので、読むことになった。

結果として、それは、私のこのブログで説いてきたこととも、(視点は異なるものの)大きく重なるもので、大枠で、十分受け入れられるものだった。

むしろ、私も、旧来の精神医療のほか、この書でとりあげられるような症例の、「受け皿」がないことをずっと懸念していたが、それを一手に引き受けるようなことをなしていることには、率直な驚きがあった。

特に、プロローグの次の文書を読んでもらえば、現状の認識として、いかに私の述べてきたことと一致するか、分かると思う。

2018年は精神医療の嘘と闇が一気に暴かれ始めた年となりました。もう個性や才能を精神病だと決めつけて向精神薬漬けの廃人にしてしまうことが難しくなってきたのです。

精神医療の瓦解は素晴らしいことです。新しい世界の幕開きを実感できます。

しかし一方で、幻視や幻聴などの幻覚や妄想に悩む人たちが急増しているのも事実です。

旧来の向精神病薬では幻覚妄想は治せません。

それは症状を抑え込む対症療法だっただけでなく、脳機能も精神機能もズタズタに破壊して今生を再起不能にしてしまう恐ろしい薬物治療でした。減薬断薬するにしても、何年もの間、患者さん本人もその家族も地獄の苦しみを味わわなければならないこともしばしばでした。

そんな精神医療が消え去るのは大歓迎すべきことですが、「では、幻覚妄想をどう治療するの?」という受け皿がないことも事実です。

そのような状況で、これらの人たちの「受け皿」となるようなものが必要だが、その必要上生まれたのが、著者のいう「幽幻医学」ということである。

「幽幻」とは、字のごとく、「幽き幻」の領域という意味で、それは、「三次元領域」と、人類がこれから移行しようとしている「五次元領域」の、中間的な領域(のある部分)を表している。つまり、「幽幻病」とは、この物質的、感覚的世界と純粋な霊的世界(単に「物質的な領域」というだけでなく、霊的なものの「闇」の側面も越えた領域)との中間領域にはまり込むことで、起こっている様々な精神状態を表している。

それは、五次元領域に「ジャンプアップ」してみれば、「幻」であることが分かって、解消されてしまうものなので、「幽幻」領域の「病」と呼ばれているのである。後にみるように、私というより、シュタイナーのいう「霊界の境域」とも十分重なる

それで、その治療法というのも、五次元領域への「ジャンプアップ」を、支援するようなものが中心となっている。

著者には、『霊障医学』という本もあって、そちらの方では、ネガティブな「霊障」というものを多くとり上げていたが、この書では、「スピリチュアル」にある程度詳しい人なら、一見して「スピリチュアル」なものとの関わりで生じていると分かるような、混乱や問題が多くとり上げられている。

しかし、旧来の精神医療では、このようなものも、すべて「病気」として扱われて、精神薬が投与されることになるので、霊的な方向への移行の機会はつぶされてしまうのである。

ただ、この書では、『霊障医学』では、かなり具体的に示されている治療法については、あまり記されていないので、それを読まないと、具体的には捉えにくいかもしれない。

基本は、食事療法や生活養生。精神薬を飲んでいる場合は、減薬・断薬。前世に遡って、起こっていることの意味を知る、前世療法などで、しっかりと足のついたものである。霊的な世界への移行を支援すると言っても、この世での生活こそがまず問い直されるし、それを、おろそかにするものでは決してないということである。「霊障」についても、霊的なものを「祓う」という発想より、こちらの方が主である。

ただ、それらの療法は、現に「霊的な世界」からの支援でなされていることを、はっきりと述べているものもある。ブラジルやフィリビンなどには、このように霊界からの支援でなされる医療が多くあるが、この医師も、そのような役割を負っているようである。

(このように言うと、類似の症状に悩む人は、この医師に頼りたくなるかもしれないが、私としては、基本的に受け入れられ、共感できるものとは言えても、その効果を保証できるものでは、全くない。各自が、本を読むなり、情報を調べて、しっかりと判断してほしい。)

さらに、私の観点から、興味深いのが、あらゆる領域を越えた世界として、「空と無の世界」を語っていることである。それは、「龍神」の泳ぐ世界ということで、それに関する医療を、「龍神覚醒術」などとも言っている。()

先に、「五次元領域」は、「幽幻」的な現象を、まさに「幻」として、「解消」すると言ったが、こちらの「空と無の世界」は、「今このとき」をあるゆる領域から、根源的に「リセット」するとされている。

これについての文章を、あげておくと、次のようである。

幻覚妄想などの幽幻病には、この空と無の世界はとても役立ちます。過去生、未来生、平行次元に由来する幻覚妄想も、この空と無の世界で今の意識体から洗い流すことができるからです。軽い幽幻病なら無の世界にすべてを投げ入れて捨て去ってしまえば、今の意識体から消し去ることができます。

空と無の世界は時空間も多次元宇宙も超越したハブのような空間なので、どの時代にも、どんな星や銀河にも、どんな神々にもアクセスできます。

この世界もまた、私のいう「虚無、闇あるいは無限」の領域と、通じている。私の場合は、既に体験のところで述べたように、「五次元領域」というよりも、この「闇」の作用によって、「幽幻」領域の現象が幻であることを即座に知ることも、すべてが一旦「リセット」されることも、起こったのである。

このように、『幽幻医学』と、私のこれまでの述べてきたこととの通じる面は、次のように図にしてみると、分かり易いと思う。

「幽幻医学」の場合

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 「霊界の境域」の乗り越えの場合

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 『龍神覚醒術』(三和書籍)も読んだ。
 治療法の中で浮かびあがって来た「龍神」や「神々」とのやりとりを、物語形式でつづったもので、とても面白く読めるし、興味深い。人生の節目における「選択」ということが、「平行次元」的な現実の分かれ目になることを、改めて意識させられる。
観音様が、さんざん「悪」の役割を果たし終えた人に、「よくやってくれました。また今度もよろしくお願いしますね。」(「そろそろ卒業しては?」という促しでもあるのだろう)」とやさしく迎え入れる場面は、感動的だった。
ここにいう「龍神」は、生まれたときから、一人ひとりについているとされる「龍神」で、一種の「守護精霊」といえる。それを、来るべき五次元世界への移行に向けて、目覚めさせることが必要ということだが、これは、ヨガでいう「クンダリーニの蛇」と通じるし、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」とも通じている。

2019年12月17日 (火)

「無縁」の原理と「サンカ」

記事『「無縁」の原理と「死」』で、「非人」は「無縁の原理」を体現するものであることを述べました。

それは、本来、そのとおりなのですが、しかし、「人に非ず」とされる「非人」も、多かれ少なかれ、制度的に抱え込まれた身分の一つということになると、当然、多くの制限を施されます。

ところが、そのように、制度的に抱え込まれるということ、つまり、「社会的な身分」ということからも外れて、人里離れて独自に生活した、一群の人たちがいます。その中でも、「サンカ」と呼ばれる「山の民」は、最も、「無縁の原理」を体現するものと言えるでしょう。

「サンカ」とは、山間部を生活の基盤とし、川魚漁、竹細工などを主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民です。明治以降の戸籍からも外れる、全くの「制外者」です。政府は、このような「無籍、無宿」の者を絶滅させようと、取り締まりを強化しましたが、1950年代後半頃までは、生き残っていたとされます。

「サンカ」は、「山家」とも「山窩」とも書かれます。

後者は、山に隠れ住む「犯罪者集団」というイメージを、そのまま表しています。明治以降、特に警察の作り上げたこのイメージが、浸透した影響です。さらに三角寛という作家が、そのイメージの延長上に、猟奇的なサンカ小説を多く売り出したことで、このイメージが定着したと言えます。

しかし、それは、様々な社会不安と、定住せず、戸籍も持たない、得たいの知れない者に対する、我々の恐れから来る虚像に過ぎません。このような発想には、やはり、「非人」などの被差別民に対する差別と、同根のものがあります。

本では、五木寛之著『サンカの民と被差別の世界』(ちくま文庫)が、分かり易くまとめられていますし、沖浦和光著『幻の漂泊民・サンカ』(文春文庫)は、かなり詳しく、サンカについて、様々な研究と自分自身の調査も交えて、鋭い考察をしています。

柳田国男は、「サンカ」を、『遠野物語』などにも出て来る、山に住む「異形」の民族、「山人」とつながるものと解しました。そして、それらは、古代大和王朝が制定した、律令制に基づく農本主義的同化政策を忌避して、山中に入って隠れ住むようになった先住民の系譜と解しました。

要するに、多くの縄文系の先住民は、大和王朝に征服され、あるいは同化されて、支配下に置かれましたが、一部の者たちは、それに従わず、山に逃げ込んで、独自の生活を維持しながら存続してきた。その系譜に連なるのが、「山人」や「サンカ」ということです。

ところが、先の沖浦は、そのような説には、文献的な根拠もなく、無理があり、サンカ」は、江戸末期に、飢饉を逃れて山に逃げ込んだ人たちに、起源を有するとします。(恐らく、「先住民説」は、差別に結びつきやすいことも、考慮されていると思われます。())

沖浦が言うように、確かに、かつての「先住民」の系譜と、明治以降知られるようになった「サンカ」との間には、表面上、「断絶」があるのかもしれません。しかし、私は、「サンカ」が、単に飢饉を逃れるために山に逃げ込んだという「消極的」な理由で、独自の生活を始めた者たちとはとても思えません。あるいは、そのような人たちも、多くいたかもしれませんが、そこには、あえて農耕民的な定住を拒否し、自分らの生き方を貫こうとした、「先住民」的な気概というものを感じるのです。

つまり、集団の物理的な系譜はおくとしても、文化的、あるいは、さらに言えば、「精神的、霊的」な意味で、先住民文化から引き継いだものを、継承しているものがあると思うのです。

それを象徴するのが、「サンカ」が「無縁」の原理を体現すること、そのままの表現と言えるような、次の文章です。

「メンメシノギとは、各自が各自の独裁独立自由の生活をすることである。誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままの生活をして、しかもサンカの仲間として立派にやっていく。これが彼らの生活のモットーである。自主的に自由に生活してしかも則を越えない。これは完全なアナーキストである。放浪のアナーキストたるサンカは、人の干渉を極度にきらう。この間の彼等の心理を理解し得る者は、彼らに親分がないことをよく了解し得るであろう。」

「サンカ人の生活様式を端的に表す言葉に『一所不住、一畝不耕』なるものがある。言いかえれば「非定住、非所有」という思想である。国家の支配・締めつけを拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、同時に被差別者としての烙印を身に受けることである。その烙印を焼きつけられてなお、所詮権力がつくったシバリに過ぎぬと歯牙にもかけず、それより価値あるもの・守り通すものとして、「自然とともに生きる漂泊人、自由人」の道を選んだ。その核となる思想が「無」なのである。もののないことに苦しむのではない。むしろ何ももとうとしない無なのだ。この「無」に対しては、支配・束縛の入り込む余地はない。ゆえにすべての呪縛からの解放がある。そしてただ自然とともに在る。」

いずれも、先の沖浦著『幻の漂泊民・サンカ』にとりあげられているもので、前者は、後藤という研究者のもの。後者は、自らサンカのルーツにつながるという作田という人のものです。

まさに、これまで述べて来た、「無縁」の原理そのままを体現するのであることが、分かると思います。このような積極的な生き方が、飢餓から逃れるという消極的理由から発生したとは、とても考えられません。

ちなみに、『新・日本列島から日本人が消える日』で、さくやさんも、信長、秀吉、家康は、縄文とつながる「サンカ」の出であることを述べています。「サンカ」について、特に詳しい説明はないですが、縄文からの文化または精神性を受け継ぐものであることは、はっきりしています。

あるいは、組織としても、明治以降知られる「サンカ」というのとはまた異なった形で、一種の「秘密結社」的なものが存続していたのかもしれません

今回は、ざっと触れるだけになりましたが、いずれ、機会があれば、また「サンカ」について、もう少し詳しく述べたいと思います。

※ 私自身は、『遠野物語』に出てくる「山人」、あるいは、柳田のいう「山人」には、「イエティ」とか「野人」などと同類の「未確認生物」に通じるものがある、あるいは、それとの混同があると思います。いずれにしても、「先住民」ということは、「文明開化」がうたわれた明治維新後、さらに戦後の経済成長期には、「未開」の時代に逆行する人たち、あるいは人間以下の生物ということで、「差別」に結びつく見方が強かったと思われます。

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