「無縁社会」と貨幣経済
「無縁」の原理については、すでにみたように、現代では、「無縁社会」というように、否定的なイメージでとらえられています。
そこで、今回は、「無縁社会」といわれる否定的な状況が、もともとの「無縁」の原理と照らしつつ、どのように生じて来ているかについて、簡単に述べたいと思います。特に、前回触れた、「貨幣経済」との関係でみます。
「無縁」の原理は、もともと、「市」や「寺社」、「墓所」など、「共同体」の外部または境界に関わる原理でした。言い換えれば、通常、共同体の内部には、「有縁」の原理が行き渡っていた訳で、そこから離れたときに、初めて、「無縁」の原理が働くということです。
共同体の内部では、お互いが、「どこどこの誰かさん」として、この世的な関係で強く結びつき、相互扶助的なあり方で、生活が営まれていました。そこには、さまざまな掟や、主従の関係もあり、互いが互いを縛る、不自由な関係もあったでしょう。しかし、そのような、「有縁」的な結びつきがあるからこそ、運命共同体的な、「絆」も生まれていた訳で、言わば、いい意味で「有縁」の原理が働いていたと言えます。
ところが、現代の「無縁社会」的なあり方が、これと決定的に異なるのは、「社会」の内部そのものに、「無縁」の原理が浸透し、しかも、否定的な意味合いで、働いていることです。
かつてのような、共同体の内部の、「有縁」的な結びつきが失われ、お互いが、お互いと切り離された、孤独な「個」同士の、最低限の、疎遠な関わりとなりました。あるいは、そのような、最低限の関わりさえ、失われつつあります。
それでは、そこに、かつてのような、自由の原理としての「無縁」の原理が働いているかというと、そんなこともありません。人によっては、自由と感じる人もいるかもしれませんが、それは、かつてのような、「聖なるもの」の感覚に結びついた、積極的なものではなく、単に「面倒ではない」という、消極的なものです。さらには、かつてのように、権力的な作用が入り込めないものではなく、むしろ細部にまで、権力的な作用が入り込む余地のあるものです。
このような、「無縁社会」をもたらした要因として大きなものは、前回もみた、「貨幣経済」の行き渡りとみられます。
本来、貨幣経済は、共同体の内部では発生せず、共同体の外部ないし境界に建てられた「市」で行われるものです。かつては、共同体の内部では、相互扶助的な「互酬性」、つまり、互いが互いに(あるいは共同体全体に循環するように)贈与的な交換をすることが行われていました。
貨幣経済は、共同体の内部では調達できない物資を得る手段でもありましたが、「市」という「無縁」の場での、共同体の外部の者(または「存在」)との、祝祭的な交感でもありました。「無縁」の場では、この世の関係を断ち切った、「無縁」の者としてこそ、互いに交感がされるのです。また、そもそも「貨幣」そのものが、何とでも交換できる万能の財として、「聖なるもの」としての意味合いを帯びていました。
しかし、この貨幣経済が、物を交換する唯一の原理として、社会の内部に行き渡れば、その意味合いは、全く変わって来てしまいます。貨幣経済に、日常を離れた、「聖なる」意味合いはなくなり、単純に、「商品を買う」手段として、日常的で、機械的なものとなってしまいます。
貨幣経済は、確かに、人を特定の「誰か」ではなく、「誰でもない者」として、「無縁」の者とさせます。しかし、それが、日常的に、原理として入り込むことは、本来の、人と人の「有縁」的な絆を、日常レベルで、断ち切り、切り離すことを意味します。「貨幣」にも、「聖なる」意味合いは失われ、ただの交換手段的な「もの」として、「量」的、あるいは「数値」的な意味合いのものになります。当然、それを使う者には、計算による、利害関係だけが、働くようになります。
そのような、貨幣こそが、唯一の原理として、社会を統べるようになれば、人が貨幣を使うのではなく、人が貨幣によって使われるようになります。それは、人が、貨幣のように、「量」化され、あるいは「数値」化されることを意味します。
そのような「貨幣」を、根本的なところで支配し、操作するのは、「支配層」です。ですから、「貨幣に支配される」ということは、結局、人が数値化されて、機械的に、「支配層に支配される」ということを意味するのです。
それは、前回みたように、支配層が、「無縁」の原理を巧みに取り込みつつ、最終的に、その積極的な意味合いをなし崩しにしたことによっています。「無縁」の原理の、否定的な意味ばかりが取り残されて、利用され、行き渡らされているのです。
そのような結果として、行きついたのが、現代にみる、「無縁社会」という状況だと言えます。人と人の結びつきが失われて、人は孤独になり、心は荒む一方で、支配層の支配は、一層効果的に、突き進められていくのです。
そのような状況が変えられるとすれば、やはり、これだけ社会のすべてを支配するに至った、貨幣経済を、根本的に見直すことしかないと思います。「貨幣」が悪いわけではありませんが、それに全面的に依存する社会の異常性には、気づくべきです。そして、これだけ「無縁」化した社会の中で、少しずつでも、かつてのような、「互酬性」的な経済のあり方を取り戻せるか、あるいは、より新しい「互酬性」的な経済あり方を、生み出せるかということが、問題ということになるでしょう。
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