「無縁」の原理と「支配層」
「無縁」の原理は、世俗的な関係や権力が入り込めない、という原理ですから、民衆にとっては、世俗的なものに支配されることのない、「自由」の原理となります。また、争いとは、何がしかの世俗的な関係、所有の意識などに基づいて起こるのですから、人が「無縁」のものとなる、「無縁」の場では、争いは起こらず、「平和」の原理ともなります。
もちろん、それらは、あくまで「原理」的なことで、実際には、そのとおりにはいかないこともままあるでしょうが、「原理」としては、そういうものとして保持されていたということです。
世俗的な権力が入り込めないということは、また、その「無縁」の場を、その場を形成する人たちが、自治的に運営するということになります。たとえば、もとは「無縁」の場たる「市」から発展した、商業都市堺などは、そのようにしてできた、商人たちの自治都市という面があります。
しかし、現実には、その「無縁」の原理、自由な「自治」を成り立たせるのに、権力による保護を受けるなどして、権力の力に頼るということも、どうしても起こることです。自然領域ならいざ知らず、実際に、人間が築き上げた場においては、「無縁」の原理は、まったく、権力(「力」の発想)を排除した形で、なかなか成り立つものではないということです。
逆に言えば、「権力」あるいは「支配層」の側からすれば、「無縁」の原理は、民衆の「自治」の原理として、彼らの支配領域を狭めるものですから、何とかそれに干渉することで、いずれは、なし崩しにしたいと欲することにもなります。
網野善彦の『無縁・公界・楽』においても、中世以降、「無縁」の原理が、権力の側に、初めは保護するという形で、取り入れられ、しかしそのうち、懐柔されるなどして、結局はその原理そのものが、弱体化され、骨抜きにされるような歴史の流れも、述べられていました。
しかし、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という意識は、近代以前には、「支配層」自身も持っていたもので、それに対する「畏れ」もあるでしょうから、無暗に無視できるようなものではなかったはずです。それで、なかなか、一辺にはできないことだったにしても、徐々に、長い時間をかけて、取り込みつつ、弱体化していき、結局は、なし崩しにすることに成功したということが言えるでしょう。もちろん、これには、民衆自身の「聖なるもの」についての感覚の移り変わりや、「無縁」の原理の、一種の「堕落」的なあり方による面もあったと思われます。
いずれにせよ、江戸時代の頃までは生き残っていた「無縁」の原理も、明治維新による近代化を迎えると、ほとんどなくなってしまいます。網野は、その代わりに、天皇に「無縁」の原理が託されたと言いますが、その原理への思いというのは、近代以降も確かにあって、自分たちに失われた代わりに、「天皇」という存在に一身に託された、ということがみてとれます。
「無縁」の原理への思いは、近代以降も、日本人に相当強くあり、今もかなり生き残っていると思われるのです。
しかし、「支配層」は、近代以降、ついに、「無縁」の原理そのものを、民衆のものとしては、実質、なきものにすることに成功したと言えます。それは、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という領域を、なきものにするということで、可能となったものです。
「聖なるもの」あるいは、「あの世のもの」と言ってもいいですが、それがなきものになるということは、「この世」の原理がすべての領域を支配するということです。つまり、この世の「支配層」が、完全に世を支配するということになります。
明治以降も、一辺にそれがなされたわけではないですが、一旦は、「天皇」に仮託する形をとりながら、結局は、それをも失しめることで、戦後には、ほぼ完全に「この世」の原理の支配を成し遂げたと言えます。
もちろん、「自由」「平和(平等)」の原理としては、近代以降も、西洋流のものが輸入され、それこそが、民衆にとっても、望まれるものになりました。
しかし、この西洋流の「自由」「平和(平等)」の原理は、民主主義や人権思想に基づく、あくまで「この世」的な原理としてのイデオロギー的なものです(もとはキリスト教的な発想に基づくとしても)。「この世」的なものなので、この世の「支配層」が、その原理のもとの部分を押さえることによって、決して、コントロールできないものではありません。
そのようにして、日本的な「無縁」の原理は、「支配層」によって、ほぼ完全に取り崩されてきたということが言えます。
しかし、先に述べたように、現在でも、「無縁」の原理を、少なくとも一時的に体現するような場が、ないわけではありません。
たとえば、年中行事の「お祭り」や、「無礼講」ともいわれる「宴会」、住んでいる場所から離れて行く、「観光旅行」や「山登り」などもそうと言えます。あるいは、「市場」や「ショッピングセンター」における、「賑わいの場」での「買い物」という行為も、その要素があります。
要は、日常から離れて、「何者でもない者」(「無縁」のもの)となり、非日常的なもの(「聖なるもの」)と「交わる」または「一体になる」ことです。本来、「神々」と「まつり合う」ことを意味する、「お祭り」が一番分かり易いですが、上にあげたものには、それぞれ、その要素があることが分かると思います。
ただし、それはあくまで、一時的なものであり、かつてのように、「聖なるもの」と関わるという意識が、保たれているわけでもありません。それは、あくまで、「日常性」に疲弊することを避けるための、一時的な「慰め」あるいは「気休め」のようなもので、むしろ、日常性への回帰こそを際立たせるものとも言えます。実質、「日常性」=「この世」的な支配の原理への隷属をこそ、強めるものになっているということです。
先にあげた例で、「買い物」というのが、「無縁」の原理を体現するというのは、貨幣経済が日常化した現代では、理解しにくいかもしれません。しかし、もともと、「市」が「無縁」の場として興ったように、貨幣によって、物を交換する(商品を買う)ということ自体が、共同体の人々にとっては、非日常的な「聖なる」行いだったのです。
そもそも、「貨幣」そのものが、「無縁のもの」であり、「聖なるもの」でもあって、だからこそ、あらゆる「物」と交換することのできる、万能の「財」となるのです。
そのような、貨幣による交換は、共同体の内部からは発生しないもので、「市」という、「この世」を離れた場での、誰でもない者(「無縁」のもの)同士の行いとして、可能となるものです。網野も指摘しているとおり、貨幣経済及び資本主義社会というのは、そのように、「無縁」の原理から発展してきたものと言えるのです。だから、そこには、「この世」的なものではない、「お祭り」的な要素が多分にあって、人々の気分を高めるものがあるのです。
このように、資本主義社会というのも、本来、「聖なるもの」という要素があるのですが、その資本そのものが、「支配層」によって、押さえられてしまえば、その意味合いは、大きく変わってしまいます。そして、それが、現在のように、「この世」の原理として、唯一の原理のように行き渡れば、それは、むしろ、「この世」的な「支配」の原理と化してしまいます。
このように、近代以降の「支配層」は、あらゆる「無縁」の原理を、なし崩しに、なきものとして来た。あるいは、それを、「この世」の原理として、独占的に取り込むことによって、巧に「支配」を貫徹して来たということが言えるのです。
例としてあげた、「貨幣経済」以外にも、かつて「無縁」のものたる、「非農耕民」や「非人」が、生業や技能として築きあげて来た「技術」や「芸能」などにも、「この世」的な原理として取り込まれることになったものは、多くあります。それらを具体的にみることは、とても興味深いのですが、それについては、また機会があったら述べることにします。
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