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2019年10月

2019年10月14日 (月)

「無縁」の原理と「支配層」

「無縁」の原理は、世俗的な関係や権力が入り込めない、という原理ですから、民衆にとっては、世俗的なものに支配されることのない、「自由」の原理となります。また、争いとは、何がしかの世俗的な関係、所有の意識などに基づいて起こるのですから、人が「無縁」のものとなる、「無縁」の場では、争いは起こらず、「平和」の原理ともなります。

もちろん、それらは、あくまで「原理」的なことで、実際には、そのとおりにはいかないこともままあるでしょうが、「原理」としては、そういうものとして保持されていたということです。

世俗的な権力が入り込めないということは、また、その「無縁」の場を、その場を形成する人たちが、自治的に運営するということになります。たとえば、もとは「無縁」の場たる「市」から発展した、商業都市堺などは、そのようにしてできた、商人たちの自治都市という面があります。

しかし、現実には、その「無縁」の原理、自由な「自治」を成り立たせるのに、権力による保護を受けるなどして、権力の力に頼るということも、どうしても起こることです。自然領域ならいざ知らず、実際に、人間が築き上げた場においては、「無縁」の原理は、まったく、権力(「力」の発想)を排除した形で、なかなか成り立つものではないということです。

逆に言えば、「権力」あるいは「支配層」の側からすれば、「無縁」の原理は、民衆の「自治」の原理として、彼らの支配領域を狭めるものですから、何とかそれに干渉することで、いずれは、なし崩しにしたいと欲することにもなります。

網野善彦の『無縁・公界・楽』においても、中世以降、「無縁」の原理が、権力の側に、初めは保護するという形で、取り入れられ、しかしそのうち、懐柔されるなどして、結局はその原理そのものが、弱体化され、骨抜きにされるような歴史の流れも、述べられていました。

しかし、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という意識は、近代以前には、「支配層」自身も持っていたもので、それに対する「畏れ」もあるでしょうから、無暗に無視できるようなものではなかったはずです。それで、なかなか、一辺にはできないことだったにしても、徐々に、長い時間をかけて、取り込みつつ、弱体化していき、結局は、なし崩しにすることに成功したということが言えるでしょう。もちろん、これには、民衆自身の「聖なるもの」についての感覚の移り変わりや、「無縁」の原理の、一種の「堕落」的なあり方による面もあったと思われます。

いずれにせよ、江戸時代の頃までは生き残っていた「無縁」の原理も、明治維新による近代化を迎えると、ほとんどなくなってしまいます。網野は、その代わりに、天皇に「無縁」の原理が託されたと言いますが、その原理への思いというのは、近代以降も確かにあって、自分たちに失われた代わりに、「天皇」という存在に一身に託された、ということがみてとれます。

「無縁」の原理への思いは、近代以降も、日本人に相当強くあり、今もかなり生き残っていると思われるのです。

しかし、「支配層」は、近代以降、ついに、「無縁」の原理そのものを、民衆のものとしては、実質、なきものにすることに成功したと言えます。それは、「無縁」の原理のもととなる、「聖なるもの」という領域を、なきものにするということで、可能となったものです。

「聖なるもの」あるいは、「あの世のもの」と言ってもいいですが、それがなきものになるということは、「この世」の原理がすべての領域を支配するということです。つまり、この世の「支配層」が、完全に世を支配するということになります。

明治以降も、一辺にそれがなされたわけではないですが、一旦は、「天皇」に仮託する形をとりながら、結局は、それをも失しめることで、戦後には、ほぼ完全に「この世」の原理の支配を成し遂げたと言えます。

もちろん、「自由」「平和(平等)」の原理としては、近代以降も、西洋流のものが輸入され、それこそが、民衆にとっても、望まれるものになりました。

しかし、この西洋流の「自由」「平和(平等)」の原理は、民主主義や人権思想に基づく、あくまで「この世」的な原理としてのイデオロギー的なものです(もとはキリスト教的な発想に基づくとしても)。「この世」的なものなので、この世の「支配層」が、その原理のもとの部分を押さえることによって、決して、コントロールできないものではありません。

そのようにして、日本的な「無縁」の原理は、「支配層」によって、ほぼ完全に取り崩されてきたということが言えます。

しかし、先に述べたように、現在でも、「無縁」の原理を、少なくとも一時的に体現するような場が、ないわけではありません。

たとえば、年中行事の「お祭り」や、「無礼講」ともいわれる「宴会」、住んでいる場所から離れて行く、「観光旅行」や「山登り」などもそうと言えます。あるいは、「市場」や「ショッピングセンター」における、「賑わいの場」での「買い物」という行為も、その要素があります。

要は、日常から離れて、「何者でもない者」(「無縁」のもの)となり、非日常的なもの(「聖なるもの」)と「交わる」または「一体になる」ことです。本来、「神々」と「まつり合う」ことを意味する、「お祭り」が一番分かり易いですが、上にあげたものには、それぞれ、その要素があることが分かると思います。

ただし、それはあくまで、一時的なものであり、かつてのように、「聖なるもの」と関わるという意識が、保たれているわけでもありません。それは、あくまで、「日常性」に疲弊することを避けるための、一時的な「慰め」あるいは「気休め」のようなもので、むしろ、日常性への回帰こそを際立たせるものとも言えます。実質、「日常性」=「この世」的な支配の原理への隷属をこそ、強めるものになっているということです。

先にあげた例で、「買い物」というのが、「無縁」の原理を体現するというのは、貨幣経済が日常化した現代では、理解しにくいかもしれません。しかし、もともと、「市」が「無縁」の場として興ったように、貨幣によって、物を交換する(商品を買う)ということ自体が、共同体の人々にとっては、非日常的な「聖なる」行いだったのです。

そもそも、「貨幣」そのものが、「無縁のもの」であり、「聖なるもの」でもあって、だからこそ、あらゆる「物」と交換することのできる、万能の「財」となるのです。

そのような、貨幣による交換は、共同体の内部からは発生しないもので、「市」という、「この世」を離れた場での、誰でもない者(「無縁」のもの)同士の行いとして、可能となるものです。網野も指摘しているとおり、貨幣経済及び資本主義社会というのは、そのように、「無縁」の原理から発展してきたものと言えるのです。だから、そこには、「この世」的なものではない、「お祭り」的な要素が多分にあって、人々の気分を高めるものがあるのです。

このように、資本主義社会というのも、本来、「聖なるもの」という要素があるのですが、その資本そのものが、「支配層」によって、押さえられてしまえば、その意味合いは、大きく変わってしまいます。そして、それが、現在のように、「この世」の原理として、唯一の原理のように行き渡れば、それは、むしろ、「この世」的な「支配」の原理と化してしまいます

このように、近代以降の「支配層」は、あらゆる「無縁」の原理を、なし崩しに、なきものとして来た。あるいは、それを、「この世」の原理として、独占的に取り込むことによって、巧に「支配」を貫徹して来たということが言えるのです。

例としてあげた、「貨幣経済」以外にも、かつて「無縁」のものたる、「非農耕民」や「非人」が、生業や技能として築きあげて来た「技術」や「芸能」などにも、「この世」的な原理として取り込まれることになったものは、多くあります。それらを具体的にみることは、とても興味深いのですが、それについては、また機会があったら述べることにします。

 

2019年10月 6日 (日)

「無縁」の原理と「死」

網野善彦著『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー)によれば、「非人」はまた、「無縁」の原理を体現するものでもありました。

「無縁」の原理とは、「有主」「有縁」たる「この世」の縁や規制の及ばない領域ということで、この世的な「関係」や「権力」が入り込めない、日本的な「自由」「平和」の原理です。この本でも、初めに、「駆込寺」の例から説明していますが、女性が逃げ込んだら、もはやこの世的な規制が及ばない、「駆込寺」は、その典型と言えるでしょう。

西洋的には、「アジール」といわれる、権力の及ばない避難所と通じるもので、実際、先住民文化から前近代までは、広く世界的にあったものです。その日本的な現われが、「無縁」、あるいは「公界」、「楽」という言葉で表される原理なのです。

時代とともに、その原理は、権力に依存し、また利用されるなどして、衰退し、堕落して来たのですが、現代では、現実の場としては、このようなものは、ほとんどなくなってしまったと言えます。ただ、その原理への郷愁のようなものは、かなり、生き残っていると言えるかもしれません。著者は、西洋の文化を取り入れた日本も、近代以後は、「天皇」にその原理を託しているという指摘をしていますが、それはあると思います。

私も、「無縁」という言葉には、強く惹かれ、憧れるものがありますが、それは、やはり、「この世的なしがらみ」(私は本当に少ない方だと思いますが、それでもないわけではありません(笑))を強く意識するからだと思います。しかし、一方で、それは、容易には適わない、厳しくも、及び難いものという思いもあります。また、「無縁」であることは、「自由」であると同時に、「孤独」で、「恐ろしい」ことという思いも、やはりあります。

実際、この原理には、後にみるように、両義的な面があって、「自由」「平和」というプラスの価値ばかりをみることはできません

この原理ですが、まず、原点として、そこに「この世」の規制が及ばないのは、要するに、その場が、この世的なものを超えた、「聖なる領域」とみなされるからです。この点では、もともと「聖なるもの」に関わる「非人」が、「無縁」の原理を体現するというのも、当然の面があります。

ただ、「聖なる領域」と言っても、必ずしも、仰々しいものではなく、要するに、「この世」的な境界を超えたものは、すべてそうと言えるのです。平地の村落に定住する、一般の農耕民的な「共同体」の人たちからすれば、その「共同体の外部」、あるいは、その外部と接する「境界」は、本来、すべて「聖なる領域」であったと言えます。

場所としては、人里から離れた、あるいは、それとの境界をなす、山や川などがそうです。そして、同時に、そのような場を渡り歩く「遊行民」や、そういった場で生活する、非農耕民的な「職人」などは、そういうものを体現するものとみなされます。

「市」や「宿」(前回「湯屋」もそうであることをみました)などが、「無縁」の原理の働く場となるのも、もともと、そのような境界に、そういった者たちが集まって、築いた場だからです。「寺」や「神社」なども、そういった場に建てられることが多いです。後にみるように、「墓所」もそうです。そして、それらは、互いに、「無縁の場」として、通じ合っていました。()

要するに、「無縁」のものとは、「有主」「有縁」でないことであり、「この世的な枠組み」の外にあるものということができます。それは、「聖なるもの」であり、「神々」や「精霊」のものという意味合いも持ちます。しかし、あくまでも、「この世」の方からみられた原理であり、「この世」の原理との関係で生じているのです。

「この世的な枠組み」というのは、かつては、現代とは違って、農耕民的な「共同体」というのが、それを形成していたので、その「共同体」の外部ないしそれとの境界は、すべてそのようなものとして認識されたということです。

しかし、本質的には、現代においても、そのあり方が、決して変わったわけではありません。現代も、「この世」というのは、一つの「物質的な世界」としての「枠組み」を形成し、その外部は、「霊的な世界」として、認識されます。そして、その霊界と交わる「境界」である「霊界の境域」こそが、現実にそれらと出会う「場」です。さらにそこは、「虚無」、「闇」あるいは「無限」(以後「虚無」で代表させます)が、顔をのぞかせる場でもあるのです。それは、「この世」的なものを、「無化」させる、「無縁」の原理そのもの、というよりも、むしろ、その原理をもたらす源となるものとも言えるのです。

図で、それらを対比的に表せば、次のようになるでしょう。両者が、互いに、通じ合うものであることが、分かると思います。

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Photo_20191006014001

(「霊界の境域」の図は、より分かり易く示した、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の記事『「霊界の境域」の危険性』にあげたものを用いました。)

また、同時に、このように、「虚無」との関係でみると、「無縁」の原理が、一種、破壊性を帯びた、「両義的」なものであるのが分かると思います。

実際、だからこそ、「無縁」のものは、恐れられもし、貶められ、事実、そのように時代とともに推移して来たと言えるのです。現代でも、「無縁」は「無縁社会」を意識させ、非常に、孤独で、マイナスのイメージです。

著者によると、「無縁」も「公界」も「楽」も仏教からきた言葉で、「無縁」はまさに「縁」「条件」がないこと。「公界」は「世間」の意味があり、私的なものでなく(私的なものを断ち切った)、公的な場という意味があります。「楽」は浄土経典から来ている言葉で、まさに、浄土の「苦のない世界」を表しています。

著者も、「楽」はともかく、「無縁」と「公界」には、孤独で厳しく、「暗い」イメージがあると言います。この言葉自体に、かなり「両義的な面」が塗り込まれているのです。「この世」が「苦」だと徹底すれば、確かに、そこを離れた世界は、「楽」かもしれませんが、「この世」を離れることは、また「孤独」であり、「厳しく」「暗い」ものを連想させます。

私は、これは、結局、「無縁」「公界」「楽」のいずれも、「死」を媒介にしているとところから来ていると思います。「死」は、「この世」的なものから離れる、最も現実的なものです。「無縁」という言葉は、「虚無」の意味合いと同時に、「死」の意味合いも帯びていると言えます。それは、明らかに、マイナスの、暗いイメージをも帯びます。「楽」も、「死」を媒介にする言葉ですが、「浄土」の観念によって、マイナスのイメージが、表に現れないだけなのです。

著者も、実際に、「死」または「死人」も、「無縁」のものとされ、「墓所」も無縁の場であったことを述べます。「墓所」も、共同体の境界に作られますが、かつては、河原などによく死体が埋葬されていたようです。「清目」と呼ばれる「非人」は、そういった葬送に携わる者も多く、そのような「死者」との関わりから、「無縁」のものとされる面もあります。()

そのような「非人」が、被差別的な存在に貶められるというのは、その「死」の意味合いが、よりマイナスなものに固定されることと平行しているとすれば、理解しやすいでしょう。「死」と同様に、排除され、忌み嫌われるものとなったということです。

「無縁」という「自由」「平和」の原理は、本来は、積極的で、現代でも顧みるべき、力のあるものです。たとえば、民衆も、「一揆」のときは、「異形」の装いをし、「無縁」の原理を体現するものとなっていたのです。

しかし、それは、この世の人間からすると、「死」と「無」の陰影をまとった、両義的なものでしかあり得ないというのも、確かなことに思われます。

※ 10月23日

「墓所」や「寺社」(門前)が、「無縁」の場として「死」と関わるのは分かり易いでしょうが、「市」もまた、「死」と大いに関わっています。「市」もまた、死者を葬る、共同体の境界に建てられるということもありますが、それは、たまたまではなく、積極的なつながりがあるからです。「市」における売買など、「祝祭的な行為」(次の記事『「無縁」の原理と「支配層」』参照)そのものが、その地に眠っている、死者との交感であり、死者の鎮魂という意味合いがあるのです。「市」から発展した、「都市」や「盛り場」というのにも、現にこの要素があります。もともと、死者の「葬送」というのにも、ともに「饗宴」し、「共食」するという、祝祭的な要素がありました。

ただし、現代では、それは、死者との交感ではあっても、「鎮魂」ではなく、死者との「欲望的憑依」という、マイナス面のみが際立つものになっています。私も、若い頃は全くの無意識でしたが、ある時期から、実際に、それを肌で感じることも多いので、賑わいの場が苦手になっています。

本文では、「無縁」の原理が「死」を媒介にしているということが、どこか抽象的で観念的なものに聞こえるかもしれないですが、それは、このように、具体的なものだということです。

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