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2019年9月

2019年9月20日 (金)

「異形の存在」と「非人」

『千と千尋の神隠し』には、インパクトある「異形の存在」たちがたくさん出て来て、楽しませてくれました。前回も述べたとおり、この「異形の存在」は、単に想像の産物なのではなく、実際に、「精霊的な存在」の、人間からすれば、異質といえる姿形を、よく現しているのです。

私が、一連の体験で出会った存在も、やはり、そのように、「異形」というほかない存在でした。先住民文化から伝わる、儀礼に出て来る、仮面や蓑をかぶった「存在」も、そのような「異形の存在」を現しています。「なまはげ」なども、まさにそうです。

映画では、よくもまあこれだけ、という位のたくさんの存在が描かれていましたが、中には、いかにもマンガチックな、「ひよこ」のような存在もいて、それはちょっと安易な感じがして、残念でした。しかし、それも、子供向けにあえて描かれた「異形性」だとすれば、ご愛嬌かもしれません。

網野善彦著『異形の王権』(平凡社ライブラリー)という本は、このような「異形の存在」と「非人」の関係を、歴史的に考察していて、とても面白いです。

絵巻などに描かれる「非人」は、一般の人とは区別され、まさに様々に「異形」な姿形をしています。特別な色の服を着ていたり、蓑や覆面をかぶったり、独特の棒を持っていたりなどです。顔そのものも、独特の風貌で、やはり「異形」に描かれています。

こういった「非人」は、後に差別の対象になりますが、南北朝の動乱の頃までは、「畏れ、敬われる」存在でもありました。そして、その「異形」の身なりも、今で言う、ファッションのように、多くの人たちに感化を与え、とり入れられたりしていました。また、「華美な服装で飾りたてた伊達な風体や、はでで勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい」を意味する、「婆娑羅」というような風潮も、それら「非人」の影響から来ています。

一方で、「悪党」と言われるような、一種の反社会的な勢力も、「非人」を装って、それに紛れるようにして、存在したりしていました。その影響力が強いからこそ、なりすまして、利を得ようとする者も増えてくるのです。(「悪党」に限らず、社会から逸脱した人たちが、「非人」を装うということは、よくあったようで、そのことが、後に差別に結びつく理由の一つにもなっているようです。単純に、「異民族」に結びつけられた、というのも一つの理由です。))

何しろ、「非人」は、もともと、決して差別の対象として卑賎視されたのではなく、社会に、力をもたらす、特別のエネルギーのある存在でもあったのです。

そして、そのような力は、「聖なる存在」との関わりから来ています。その「聖なる存在」こそが、まさに、「異形の存在」としての「精霊的存在」なのですつまり、「非人」というのは、その精霊的存在の「異形性」を、そのまま体現している、特別な存在ということです。

そもそも、「非人」とは、「人間に非ず」ということで、「人間でない存在」を意味しています。「人間でない存在」とは、現在では、人間より下の存在であることを連想させるでしょうが、本来は、人間より上の存在でもあるのです。

記事『日本で「魔女狩り」に相当する事件』でも述べたように、これらの「被差別民」は、元々何らかの形で、「聖なるもの」と関わっていた人たちであり、シャーマンのように、「聖なるもの」と通じる存在でもありました。しかも、それは、多くの場合、「狩猟民的な」(非人間性の強い)精霊であり、農耕民的なイメージからは、「異形性」も格別の存在だったと言えます。

映画の「異形の存在」たちは、このような、かつて「非人」と呼ばれていた、異形の存在たちを彷彿とさせるものも含めて、よく描かれていたと思うのです。宮崎駿が、そのことを意識していた可能性も十分あります。()

ところが、このような「非人」が、後に、差別の対象になるということは、その力の源である「聖なるもの」そのものの見方に、変化が起こったということです。
「聖なるもの」は、単純に「畏れ、敬われる」存在でなくなり、特に、「異形性」の強い、「狩猟民的な精霊」などは、むしろ、「恐れ、蔑まれる」存在となっていった、ということです。(「妖怪」と呼ばれるような存在が、そのことをよく現しています。)

そして、そのようなことと連動して、それを体現するとみなされた、「非人」もまた、差別の対象として、蔑まれることになっていくのです。

私の接したものを含めて、これらの「異形の存在」たちが、現在では、人間に対して、冷たい態度をとっているようにみえることを述べました。しかし、それは、このような「差別的な見方」に対しての、当然の反応ということもできるでしょう。明示はしていませんが、その辺りの「感じ」もまた、映画では、よく暗示的に示されていたと思うのです。

※ 今、網野善彦の『無縁、公界、楽』という本を読んでいます(これも、日本的な「自由」「平和」の原理を歴史的に探ったもので、『異形の王権』同様面白いです)が、それによると「湯屋」というのは、元々「市」や「宿」同様、遍歴する「非人」たちの集まり、宿る「無縁」の場だったようで、それからしても、宮崎駿は「非人」との関係を明らかに意識していたと言えそうです。

 

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