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2019年8月

2019年8月29日 (木)

『千と千尋の神隠し』と「カオナシ」

最近、テレビで放映されて既に大分たちますが、私にとって印象深い映画の一つなので、ここで、少し述べることにします。

私は、映画で公開されたときに、映画館で見ましたが、さらにテレビで2,3回は見ています。そのごとに、結構新しい発見があったりします。

この間見たときも、まず感じたのは(初めに映画館で見たときは、それ以上の感慨がありましたが)、それぞれの場面、特に、千尋が入り込んだ「異界」の情景描写の細かさとリアルさです。これは、最近のアニメーションの傾向で、技術の進歩により可能になったものでしょうが、それにしても、この「異界」の情景を細やかに表現することは、単純な想像力では難しいことだと思います。

私は、この「異界」描写に、3つ位の意味で、「デジャビュ」がありました。
一つは、一連の体験で、私自身が遭遇した、「精霊的な存在」を思い起こさせるものだったということです。映画に出て来る存在たちは、私と出会った存在たちとも、多くの点で、似通っていて、異様な姿形や醸し出す雰囲気など、そっくりです。

もう一つは、私は、夢で、異国や異界に行くものをよく見ますが、それらとの類似も多かったです。夢では、建物や自然の景色の情景が、細部まで、かなりリアルに見えますが、それらともよく重なるものでした。恐らく、宮崎駿氏自身も、夢から、多くのアイデアを得ていたと思われます。

さらに、もう一つは、後に行くことになった中国で見た情景とも、多く重なるものでした。実際、「異界」の建物の多くは、中国の飲食店街をモチーフにしたものと解されますが、私は、この時点では、中国に行く予定もつもりもなかったにも拘わらず、この映画を見た時点で、中国の情景についての「デジャビュ」があったのです。

しかし、この映画の本当の意味合いは、何と言っても「内容」そのものにあります。それは、一言で言えば、「本当のこと」、「真実」を現しているということです。だからこそ、多くの人に、感動をもたらすことができるのだし、多くの人が、実際、どこかの部分で、そのリアリティを感じているはずなのです。

この世にありつつも、ふとした機会に、この世とあの世の境界に紛れ込み、人間が、人間以外の存在と交流することはある、ということです。そして、それは、「イニシエーション」的な意味合いをもたらします。千尋も、この「異界」で、生死に関わる、様々な経験をし、試練を乗り越えて、無事に、この世に戻ることができました。その後のことは描かれていませんが、この経験は、千尋に大きな「成長」をもたらしたはずなのです。

千尋は、まさに、先住民文化や昔の文化であれば、成人儀礼を受ける頃の年です。しかし、このイニシエーション的な経験は、成人儀礼以上のハードなもので、それを越えています。むしろ、このような大きな体験をしてしまった千尋が、その後、人間の世界に適応できたかどうか、心配になります。

私も、千尋の「異界」での体験は、自分自身の一連の体験と重なり合うので、感情移入して見ることになり、大きな「カタルシス」を得ました。一連の体験で、「虚無との遭遇」の後、いわばリハビリに向かうことになったのですが、その後すぐ読んだ『影の現象学』と『オルラ』が、自分の体験とも重なるところが多く、大きなカタルシスになったことは述べました。この映画も、そのときのものに、匹敵するものがありました。

「異界」の存在たちは、映像描写もさることながら、そのキャラクターも、よく描写されています。これらの存在は、全体として(「ハク」など一部を除いて)、人間に対しては、冷たいというか、厳しい態度をもって臨んでいるのが、分かります。この、「異界の存在」と「人間との関係」というのが、この映画の、一つの重要なテーマとなっていると思われます。

私も、一連の体験で出会った存在たちの、人間に対する、どこか刺々しい、冷たい態度には、辟易し、理解に苦しみましたが、この存在たちの千尋に対する態度は、その辺りも、よく表現しています。

ただ、彼らは、あからさまに排他的とか、敵対的とか言うのではなく、どこかで受け入れているような、受容的な態度を示したりもするのです。魔女である「湯婆婆」ですら、子供の「坊」には、滅法甘く、弱いとか、ときに千尋を頼ったりするような、「憎めない」ところを見せたりします。

これらの存在には、人間にはない、どこか「憎めない」「ドライさ」があったりもするのです。それらの感じも、よく描写されていると思います。

しかし、彼らの、人間に対する冷たい態度には、人間の側にも理由があると言えます。初め、千尋の両親は、この世界に入るなり、店にあった食べ物を勝手に食べあさってしまい、豚にされてしまいました。思慮、遠慮のない、この食べあさる姿は、まさに、豚を彷彿とさせるものでしたが、そこには、自業自得というべきところもあると言えます。

千尋が働くことになった銭湯に、「腐れ神」が来て、ヘドロのような大変な廃物を吐き出しますが、その廃物は、まさに人間世界の(産業)廃棄物そのもののようでした。それが、細部まで、非常にリアルに描かれているのも、強烈なインパクトがありました。「腐れ神」は、そられを吐き出した後、元の奇麗な姿に戻って、喜んで飛び立つのですが、この神を「腐れ神」にしたのは、人間の人工物だったということになります。そこにも、人間の影響がみてとれます。

彼らが、人間を嫌い、冷たい態度になるのには、理由があると言わざるを得ません。

また、「異界」の存在の中に、「カオナシ(顔なし)」というのがいます。まさに、「顔のない」、「個性がなく」、「影の薄い」存在なのですが、金を生み出すなど、特別の力を持っています。それが、千尋には、ひかれたか、ストーカー的につきまとったりします。

この存在は、「主体性」はないのですが、自分が食べて、飲み込んだ者に、いわば内から乗っ取られ、操られるようになるのです。そのようにして、飲み込んだ者の、強烈な欲望のもとに動くようになり、まったく、豹変するのです。彼が飲み込んだ「カエル」は、「カオナシ」が生み出す金を、周りにばら撒く代わりに、店の食事を全部持って来こさせたり、奉仕をさせるなど、好き放題をするようになります。

店の者達も、競って、金をもらおうと、「おねだり」し放題です。この辺りの描写は、なにか、いたたまれないほど、「人間的なもの」を感じさせます。そして、ここでも、この「カオナシ」が食べた、莫大な量の食事の残骸が、非常に細かく、リアルに描かれていて、強烈なインパクトがあります。この、「食べ物の残骸」というのも、先の廃棄物と同じく、人間の(無駄に)廃棄するものを象徴していて、彼らに嫌われる理由の一つかもしれません。

また、この「カオナシ」は、私には、日本人を象徴しているようにも思われます。個々人は、主体性はないにも関わらず、何かに、乗っ取られると、そのものの性質を一気に帯びて、強力に突き進むところがあるということです。現在の日本は、とりあえず、アメリカを飲み込んで、内から、アメリカに乗っ取られているということができるでしょう。

千尋も、「カオナシ」に、あなたは、「ここにいるからいけないのだ」と言い、「銭婆」のところへ行かせますが、とにかく、主体性がなく、周りに染まりやすいのが、この存在のもたらす問題なのです。

その他、「異界」の存在の中では、やはり「ハク」が、際立っています。私も、この存在が、ある「川の神」であって、かつてその川で、溺れかかった千尋を助けたことがあるというところでは、グっと来てしまいました。この川の神ということを止めることになったのにも、確か、人間の開発による、汚染が関係していたと思います。

「ハク」は、名前を奪われることで、かつて「高貴な」神だったことも忘れ、「湯婆婆」の手下として、働くことになります。ところが、千尋との関わりで、名前を思い出すことで、真の自分を取り戻します。

この「名前を奪う」というのが、「湯婆婆」の「魔術」ないし「洗脳」のやり方なのですが、この名前は、単に「名前」というのではなく、その者の「真の記憶」であり、「本来の存在」ということを意味するのでもあるでしょう。たとえば、人間であれば、「前世の記憶」を奪われることで、この世に閉じ込められ、さらに、本来の「霊的本質」を忘れることで、自分を見失い、「魔術」的に支配される、ということに通じてきます。(『エイリアン・インタビュー』では、この「霊的本質」を、「IS-BE」と表現していました)。

千尋も、「千」という名前を与えられることで、千尋としての生を忘れ、そのまま「湯婆婆」の手下として、奴隷的な生を送ることになったかもしれません。しかし、「ハク」との関わりで、千尋として、この世に帰ることができたわけです。

しかし…、この「異界」の「湯婆婆」の支配する世界の描写は、「カオナシ」の描写が日本人を象徴するように、全体として、人間の「この世」の有り様を、象徴するものがあるともみられます。別の世界のようであって、本質的には、全く、別の世界ではないということです。だとすると、無事この世に帰って来た千尋も、決して「奴隷的」、「支配的」な世界のあり様から、解放されるということにはならないことになるでしょう。

ただ、千尋は、「異界」の体験によって、そのような世界に対処するに必要な知恵を、いくらかとも身につけたのは、間違いないことと言えるでしょう。

 

2019年8月 5日 (月)

ムーと縄文の「テクノロジー」について

ミナミAアシュタールの『新・日本列島から日本人が消える日』で、情報源のさくやさん(呼び捨てでは呼びにくいし、氏というのも合わないので)は、「縄文文明は、高度の<テクノロジー>を有していたが、それは現代のテクノロジーとは違うものだ」と言っていた。ただ、その具体的な記述はほとんどなかったので、それがどのようなものか、気になっていた。

ところが、この度、ブログ(https://ameblo.jp/kuni-isle/entry-12500124278.html)の方で、このことを少し詳しく述べていた。

(※かつて、記事の転載をしていましたが、転載は禁止ということなので、当該記事をお読みください)

「テクノロジー」と言っているが、それは、現代の物質文明的なテクノロジーとは、全然違うものであることがよく分かる。

私も、縄文に、ある種の「高度」の「文明」と「技術」があったことは、疑いないとみていたが、それは、たとえば、土器製作や建築の技術とか、稲作の技術とか、形に現れるものから、推し量られるものではないと思っていた。一種の「精神文明」ということである。しかし、このようなものは、はっきりと形には残らないだけに、想像的に推理するしかなく、具体的にイメージすることは難しい。

もちろん、さくやさんも指摘するように、縄文土器は、高度の燃焼技術がないとできないことや、渡辺豊和著『古代日本のフリーメーソン』(学研)も明かにするように、石の配置と結びつけて、夢で得た情報を遠隔地に送信する、「繩文夢通信」という、高度な通信技術があったことなど、形に現れる要素もあるにはある。しかし、それらも、精神的なものと連動することによって、初めて意味をなすものであり、精神文明と融合したものであったことは、当然予想された。

今回の、さくやさんの記述では、縄文文明が、テレパシーや、テレポート、念動力などの精神的技術が、広く一般に行き渡る、一種の「精神文明」であることが、はっきりと述べられている

テレパシーが、日常において当然のように行われることは、アポリジニーなどの「先住民文化」でもみられることだし、「先住民文化」の、シャーマンを中心にした儀式などでは、それを人々の間で共有するのに、テレパシー的な伝達が、重要な要素であることは、何度か指摘した。

だから、縄文にも、それは当然予想されることだったが、テレポートや念動力なども、日常的に行われていたということには、多少の驚きはある。

それ以前の、「超古代文明」といわれる、アトランティスと併存した、ムー文明は、縄文の元となる文明として、テレポートのような、高度の精神的技術はあっただろう。また、物質文明的にも、現代からすれば、未来に属するような高度の技術を有していた可能性がある。しかし、一応、歴史的にも、現代に連なる、縄文において、このような高度の精神技術が発達していたとしたら、やはり驚きの部分はある。

しかし、何よりも、さくやさんの記述で、重要なことは、このような「技術」は、「超能力」ではなく、あくまで「テクノロジー」と呼ぶべきものだとしていることである。「超能力」であれば、誰か特殊の「能力」をもった人物が、それを独占することになる。しかし、それは、「波動エネルギー」の知識をもつことによって、誰もが発揮し得たものだから、「テクノロジー」そのものだと言うのである。

私も、たとえば、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」に絡めて、そのようなことを演出する「技術」があるにしても、それは、霊的な存在の「能力」によって可能なものだと、何度も指摘して来た。それは、「テクノロジー」と言った場合、現代文明の、物質的な機器を利用した、「技術」の延長上に理解されるものなので、それとは異なることを、はっきりさせるためである。「テクノロジー」というのが、そのようなものとして解されている限り、それは、やはり、混同されてはならないと思うのである。

しかし、さくやさんのような観点から、「テクノロジー」を捉えるなら、やはり、そのような「能力」も、広く、知識に基づいてなされる、「テクノロジー」と言ってよく、ただ、現代に言う「テクノロジー」とは、性質の違うものということになるだろう。

「宇宙人」の技術は、意思ないし思考と、物質的な技術が連動したものであることを、何度もみたが、むしろそれこそが、「テクノロジー」ということの本来のあり方とみられる。だとすれば、その全体を捉えて、それを「テクノロジー」と呼ぶことは、むしろ理に適っていることになるだろう。

我々の現代の、物質一辺倒的な「テクノロジー」というものが、本来の「テクノロジー」ということからは、逸脱したものであるということである。

とは言え、現代において、そうしたものこそが、「テクノロジー」として捉えられている限り、あるいは、超能力的な能力が、事実上、特殊な能力でしかあり得ない限り、少なくともその間は、やはり、そういうものは、「テクノロジー」とは区別して、「能力」と呼ぶのが適当と思うのである。

 

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