『千と千尋の神隠し』と「カオナシ」
最近、テレビで放映されて既に大分たちますが、私にとって印象深い映画の一つなので、ここで、少し述べることにします。
私は、映画で公開されたときに、映画館で見ましたが、さらにテレビで2,3回は見ています。そのごとに、結構新しい発見があったりします。
この間見たときも、まず感じたのは(初めに映画館で見たときは、それ以上の感慨がありましたが)、それぞれの場面、特に、千尋が入り込んだ「異界」の情景描写の細かさとリアルさです。これは、最近のアニメーションの傾向で、技術の進歩により可能になったものでしょうが、それにしても、この「異界」の情景を細やかに表現することは、単純な想像力では難しいことだと思います。
私は、この「異界」描写に、3つ位の意味で、「デジャビュ」がありました。
一つは、一連の体験で、私自身が遭遇した、「精霊的な存在」を思い起こさせるものだったということです。映画に出て来る存在たちは、私と出会った存在たちとも、多くの点で、似通っていて、異様な姿形や醸し出す雰囲気など、そっくりです。
もう一つは、私は、夢で、異国や異界に行くものをよく見ますが、それらとの類似も多かったです。夢では、建物や自然の景色の情景が、細部まで、かなりリアルに見えますが、それらともよく重なるものでした。恐らく、宮崎駿氏自身も、夢から、多くのアイデアを得ていたと思われます。
さらに、もう一つは、後に行くことになった中国で見た情景とも、多く重なるものでした。実際、「異界」の建物の多くは、中国の飲食店街をモチーフにしたものと解されますが、私は、この時点では、中国に行く予定もつもりもなかったにも拘わらず、この映画を見た時点で、中国の情景についての「デジャビュ」があったのです。
しかし、この映画の本当の意味合いは、何と言っても「内容」そのものにあります。それは、一言で言えば、「本当のこと」、「真実」を現しているということです。だからこそ、多くの人に、感動をもたらすことができるのだし、多くの人が、実際、どこかの部分で、そのリアリティを感じているはずなのです。
この世にありつつも、ふとした機会に、この世とあの世の境界に紛れ込み、人間が、人間以外の存在と交流することはある、ということです。そして、それは、「イニシエーション」的な意味合いをもたらします。千尋も、この「異界」で、生死に関わる、様々な経験をし、試練を乗り越えて、無事に、この世に戻ることができました。その後のことは描かれていませんが、この経験は、千尋に大きな「成長」をもたらしたはずなのです。
千尋は、まさに、先住民文化や昔の文化であれば、成人儀礼を受ける頃の年です。しかし、このイニシエーション的な経験は、成人儀礼以上のハードなもので、それを越えています。むしろ、このような大きな体験をしてしまった千尋が、その後、人間の世界に適応できたかどうか、心配になります。
私も、千尋の「異界」での体験は、自分自身の一連の体験と重なり合うので、感情移入して見ることになり、大きな「カタルシス」を得ました。一連の体験で、「虚無との遭遇」の後、いわばリハビリに向かうことになったのですが、その後すぐ読んだ『影の現象学』と『オルラ』が、自分の体験とも重なるところが多く、大きなカタルシスになったことは述べました。この映画も、そのときのものに、匹敵するものがありました。
「異界」の存在たちは、映像描写もさることながら、そのキャラクターも、よく描写されています。これらの存在は、全体として(「ハク」など一部を除いて)、人間に対しては、冷たいというか、厳しい態度をもって臨んでいるのが、分かります。この、「異界の存在」と「人間との関係」というのが、この映画の、一つの重要なテーマとなっていると思われます。
私も、一連の体験で出会った存在たちの、人間に対する、どこか刺々しい、冷たい態度には、辟易し、理解に苦しみましたが、この存在たちの千尋に対する態度は、その辺りも、よく表現しています。
ただ、彼らは、あからさまに排他的とか、敵対的とか言うのではなく、どこかで受け入れているような、受容的な態度を示したりもするのです。魔女である「湯婆婆」ですら、子供の「坊」には、滅法甘く、弱いとか、ときに千尋を頼ったりするような、「憎めない」ところを見せたりします。
これらの存在には、人間にはない、どこか「憎めない」「ドライさ」があったりもするのです。それらの感じも、よく描写されていると思います。
しかし、彼らの、人間に対する冷たい態度には、人間の側にも理由があると言えます。初め、千尋の両親は、この世界に入るなり、店にあった食べ物を勝手に食べあさってしまい、豚にされてしまいました。思慮、遠慮のない、この食べあさる姿は、まさに、豚を彷彿とさせるものでしたが、そこには、自業自得というべきところもあると言えます。
千尋が働くことになった銭湯に、「腐れ神」が来て、ヘドロのような大変な廃物を吐き出しますが、その廃物は、まさに人間世界の(産業)廃棄物そのもののようでした。それが、細部まで、非常にリアルに描かれているのも、強烈なインパクトがありました。「腐れ神」は、そられを吐き出した後、元の奇麗な姿に戻って、喜んで飛び立つのですが、この神を「腐れ神」にしたのは、人間の人工物だったということになります。そこにも、人間の影響がみてとれます。
彼らが、人間を嫌い、冷たい態度になるのには、理由があると言わざるを得ません。
また、「異界」の存在の中に、「カオナシ(顔なし)」というのがいます。まさに、「顔のない」、「個性がなく」、「影の薄い」存在なのですが、金を生み出すなど、特別の力を持っています。それが、千尋には、ひかれたか、ストーカー的につきまとったりします。
この存在は、「主体性」はないのですが、自分が食べて、飲み込んだ者に、いわば内から乗っ取られ、操られるようになるのです。そのようにして、飲み込んだ者の、強烈な欲望のもとに動くようになり、まったく、豹変するのです。彼が飲み込んだ「カエル」は、「カオナシ」が生み出す金を、周りにばら撒く代わりに、店の食事を全部持って来こさせたり、奉仕をさせるなど、好き放題をするようになります。
店の者達も、競って、金をもらおうと、「おねだり」し放題です。この辺りの描写は、なにか、いたたまれないほど、「人間的なもの」を感じさせます。そして、ここでも、この「カオナシ」が食べた、莫大な量の食事の残骸が、非常に細かく、リアルに描かれていて、強烈なインパクトがあります。この、「食べ物の残骸」というのも、先の廃棄物と同じく、人間の(無駄に)廃棄するものを象徴していて、彼らに嫌われる理由の一つかもしれません。
また、この「カオナシ」は、私には、日本人を象徴しているようにも思われます。個々人は、主体性はないにも関わらず、何かに、乗っ取られると、そのものの性質を一気に帯びて、強力に突き進むところがあるということです。現在の日本は、とりあえず、アメリカを飲み込んで、内から、アメリカに乗っ取られているということができるでしょう。
千尋も、「カオナシ」に、あなたは、「ここにいるからいけないのだ」と言い、「銭婆」のところへ行かせますが、とにかく、主体性がなく、周りに染まりやすいのが、この存在のもたらす問題なのです。
その他、「異界」の存在の中では、やはり「ハク」が、際立っています。私も、この存在が、ある「川の神」であって、かつてその川で、溺れかかった千尋を助けたことがあるというところでは、グっと来てしまいました。この川の神ということを止めることになったのにも、確か、人間の開発による、汚染が関係していたと思います。
「ハク」は、名前を奪われることで、かつて「高貴な」神だったことも忘れ、「湯婆婆」の手下として、働くことになります。ところが、千尋との関わりで、名前を思い出すことで、真の自分を取り戻します。
この「名前を奪う」というのが、「湯婆婆」の「魔術」ないし「洗脳」のやり方なのですが、この名前は、単に「名前」というのではなく、その者の「真の記憶」であり、「本来の存在」ということを意味するのでもあるでしょう。たとえば、人間であれば、「前世の記憶」を奪われることで、この世に閉じ込められ、さらに、本来の「霊的本質」を忘れることで、自分を見失い、「魔術」的に支配される、ということに通じてきます。(『エイリアン・インタビュー』では、この「霊的本質」を、「IS-BE」と表現していました)。
千尋も、「千」という名前を与えられることで、千尋としての生を忘れ、そのまま「湯婆婆」の手下として、奴隷的な生を送ることになったかもしれません。しかし、「ハク」との関わりで、千尋として、この世に帰ることができたわけです。
しかし…、この「異界」の「湯婆婆」の支配する世界の描写は、「カオナシ」の描写が日本人を象徴するように、全体として、人間の「この世」の有り様を、象徴するものがあるともみられます。別の世界のようであって、本質的には、全く、別の世界ではないということです。だとすると、無事この世に帰って来た千尋も、決して「奴隷的」、「支配的」な世界のあり様から、解放されるということにはならないことになるでしょう。
ただ、千尋は、「異界」の体験によって、そのような世界に対処するに必要な知恵を、いくらかとも身につけたのは、間違いないことと言えるでしょう。
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