「日月神示」の言葉 3
今回は、『日月神示』の文庫版(電子書籍版)、『一二三』(文芸社)を読んだので、前と同様、印象に残った言葉を2、3掲げておきます。
主意である、「神一厘の経綸」については、既に記事『「神一厘の経綸」について』 、『「神示」が語る「悪の仕組み」』で十分述べたので、ここにあげるのは、本筋からは外れるかもしれないが、特に印象に残った言葉となります。
記事『「日月神示」の言葉』、『「日月神示」の言葉2』のときと同様です。
「食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのじゃぞ。」
最近は、「食べない人たち」(※)が、かなり表に出て、多く知られるようになっている。「食べるからこそ死ぬ」ことも、慢性病が異様に拡大した現在、「食」の問題が取りざたされて、頷けることにはなっている。だから、さほど衝撃的というわけではないかもしれないが、強烈に逆説が効いた言葉である。当時としては、受け入れ難いほど、衝撃的な言葉であったに違いない。
現在でも、「食べない人たち」がいるのは知っていても、やはり、普通は「食べなきゃ死ぬだろう」と思っている人の方が圧倒的に多いはずだ。現実に、途上国その他で、「食べられない」が故に、餓死している人も多いのでは、ということにもなるだろう。
しかし、「餓死」というのは、「食べない」ことが直接の原因ではないとも考えられる。たとえば、様々な環境的条件により、免疫系を衰えさせ、感染症を招くなどの理由が考えられる。「食べなければ死ぬ」という、文化的、社会的信念体系の影響も大きい。
とはいえ、私も、誰もが、そう容易く、「食べない人」になれるとも思えない。その意味では、「食べないで死ぬことない」というのは、「本来は」という、本質論上の話というべきものである。
それは、本来は、「誰もが超能力を持っている」というのとも、同じような次元の話で、それはそうでも、現実にそれを発揮する人は、少ないのである。
それにしても、実に、本質的なことを、見事に、さらりと、提示してくれている。
「悪を食って暮らさねばならん時、近づいたぞ。悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化してくだされよ。」
これも、「食」に関する言葉。「悪」とは、「捕食者」とした場合、これも非常に逆説に満ちた言葉である。
本来は、「悪」が我々を食うのであるが、我々の方が、「悪」を食って暮らさねばならない時代が近づいたという。悪を「食う」とは、それを、他の神示の言葉に照らして言えば、悪を「抱き参らせる」ということであり、そのうえで、それをよく消化して、受け入れ、「浄化」していくということになろだろう。
とはいえ、本来、「悪」の方こそ、「捕食者」なのであるから、よほど注意して、噛んで食わないと、我々の方が食われてしまうことになりかねない。まあ、「食うか食われるか」というのは、本来の、自然状態では、当たり前のように行われている状況なのではあるが。
しかし、「悪」が我々の食糧源となるのであれば、これほど、食に恵まれた時代もまたとないといえよう。なにしろ、現代では、我々を取り巻く、そこら中が、「悪」であふれ返る状況なのだから。
そして、この「悪」を、皆で目出度く食いつくしたとき、1で述べられたように、我々も、晴れて「食べない人」となることができるのかもしれない。
「そなたは、つまらんことにいつも心残すから、つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すということは、霊界との繋がりがあることぞ。」
これは、私も、よく経験することであるが故に、少しショックだった。かつては、そんなことはなかったはずだが、最近は、「つまらないこと」に「心を残す」と、ほとんどすぐさま、それが、何らかの形で、「出てきてしまう」ように思う。まるで、時間的猶予のない「カルマ」のようである。
たとえば、『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」』という記事でも、「つまらないこと」に囚われて、それに「心を残した」途端、それをつくようにして、「ハイブリッド」と思われる存在に、「つまらない」「絡み」を受けたことを述べた。
「心を残す」ということは、「霊界との繋がりがある」ということで、「つまらない」ことは、「つまらない」(低級な)霊界に通じてしまうのである。そして、その「つまらない」ことをとっかかりにして、彼らの影響を大きく呼び寄せてしまう。その結果、「つまらない」ことが、拡大されて、現実に「出てきてしまう」のである。
まあ、こういうのが「すぐさま」出て来てくれた方が、その原因が自分の「思い」にあることが分かりやすいし、その修正もまた、しやすいことにはなる。
「つまる」ところは、「つまらない」ことに、心を残さないということである。
※ ここに、「食べない人」(ブレサリアン)に関する概括的な記事があるので紹介しておきます。
「ブレサリアン」には、心をぶれサリアンされた人も多いかもしれません(笑)。
私も、記事で述べたように、一連の体験中、20日間ほど一切食事をしなかったことがあります。が、これは、あまりにも張りつめた意識状態にあったため、「空腹感」が一切生じなかったのと、食事をとるという余裕(行動意欲)すらなかったことによります。
今思っても、一番つらい時期ではありました。まだ、「霊的なもの」の作用であるという確信も持てず、何がなんだか分からず、いいように振り回されていた時期です。
ただし、一日2箱ほどのタバコと2本ほどの缶コーヒーは必需品でした。「ブレサリアン」ではなく、「ニコチニアン」または「カフェイニアン」ということになりましょうか。いずれにせよ、最強、眞逆の「不健康状態」ですね。
しかし、この「食べない」状態を「理論上は」、続けられ得るということは、このとき十分実感したし、「空腹感」というのも、意識の問題であることを実感しました。
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