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2018年9月 9日 (日)

『精神に疾患は存在するか』

前回に続いて、精神医学関連の本の紹介になります。今回は、北村俊則著『精神に疾患は存在するか』(星和書店)という本です。

精神科医の書いたものですが、久しぶりに、精神医学の根本に関る部分を、鋭く問い直す、重要な書です。精神医学関連の出版社から出されている専門書風の体裁ですが、明解で読みやすく、説得力もあり、是非多くの人に読んでほしいものです。『関連基本書籍の抜粋』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-d140.html)にも、追加しています。

趣意は、要するに、「脳に器質的な障害があるわけでもない、精神の領域に、<疾患>なるものを認めるのは、根拠のあるものではない」ということです。

それは、ある意味、「当たり前過ぎるくらい当たり前」のことですが、精神医学の内部において、正面から、まともに、このことを認めることには、十分の意義があると思います。

このブログでも、「精神の領域に<病気>というものが、実体として存在するわけではない」ということを、何度も述べて来ました。「病気」というのは、社会的な観点からの一つの「評価」であり、「価値観」にほかなりませんが、それを、脳などの機能の「障害」として、固定するのは、そのような社会的な発想を、個体の内部の問題にすり替えようとする、「イデオロギー的」なものです。そして、それは、「優生思想」とも結びついています。

精神医学の外部からは、内海医師の本や、民俗学者赤坂憲雄の本などもとりあげて、このような見方については何度も触れて来たので、今さら特にとりあげる必要もないと思われるかもしれません。

しかし、先に述べたように、精神医学の内部から、しかも多くの研究をとりあげつつ、穏当かつ説得的に説かれた本書には、独自の意義があると思います。特に、精神医学に、何らかの形で関っている人には、必読ともいえる書です。

「精神疾患なるものがあるわけではない」ということの根拠は、大体、次のようなことです。

 「疾患」というものがあるなら、「ある」か「ない」かになるはずだが、精神疾患と言われるものの現れの実際は、一般の多くの人の間に連続的に広がっているもので、そこには境界があるわけではない

つまり、精神疾患とされるものも、体重や体温の数値と同じように、生理的な連続量の違いと、本質的には変わらない現象だということです。このことが、症状の分布をヒストグラムにした、多くの研究の分析から、明らかにされています。最近明らかにされたような、「自閉症スペクトラム」の場合と同様のことが、精神疾患そのものについても言えるということです。

多くの人も、「うつ」などでは、このことが納得しやすいと思います。しかし、「統合失調」となると、認め難いと感じる人も多いでしょう。確かに、「幻覚」や「妄想」などは、「あるかないか」の、特異な現象のようにもみえます。しかし、私も、記事『無意識レベルで「声を聞く」ということ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post-582d.html)で示したように、多くの人は無意識領域では「声」を聞いているのであり、ただ、それを意識することがほとんどないというだけです。それで、「妄想」というのも、極端な形では現れにくいというだけなのです。「統合失調状態になりやすい体質」というのは確かにありますが、それは、このような声を意識にのぼらせやすい(遮断しにくい)体質ということに過ぎません。

著者のあげる研究でも、統合失調の場合でも、その分布は連続的であることが示されています。

2  脳や遺伝子の研究から、ある精神疾患に対応するものとして、脳の(特異な)状態や遺伝子が見い出されることがある。しかし、その関連は「交絡」(一種の錯誤)である可能性があり、そうではなくとも、その関連というのが、「病理性」を証明することには何らならない

「交絡」というのは、ある事柄(A)と事柄(B)に相関があるようにみえる場合でも、実際には、それらとは別のある事柄(C)によって、AとBの事柄が生じていたために、そのようにみえたに過ぎないというものです。AとBの間に、実際に関連があるわけではないのです。

たとえば、「うつ」と脳の「海馬の減少」ということに、相関があるとされたことかありました。ところが、これは実際には、「うつ」も「海馬の減少」も、「虐待」という事態によって生じていることが明らかになって、本当に相関があったわけではないことが分かったという例が、あげられています。

「統合失調」の場合でも、「脳の特定の部位の委縮」などとの相関が見い出されたとされることがありますが、これなどは、「統合失調」と診断されたがために起こる様々な事柄との、「交絡」の可能性があります。

たとえば、精神薬の服用によるという可能性があるし、病院その他の周りの者の酷い扱いから来る、ある種の「虐待」の結果という可能性もあります。

また、そうでなくとも、脳の状態または遺伝子について、ある関連が見い出されたからといって、それがその「疾患」とされることの、「病理性」を証することにならないのは、明らかなことのはずです。ある「精神的」または「生理的」な状態に対応する、ある脳の状態または遺伝子の働きがあるということ自体は当たり前のことで、それが「病理性」の根拠となるものではないからです。

私も、記事『「怒り狂っている人」のたとえ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-ee25.html)で、これと同様のことを述べています。「怒り狂っている人」にも、脳の特異な状態は見い出されますが、それは疾患とはされないのです。

「疾患概念」は、初めから前提とされているのであって、要は、これらの関連は、初めから、精神疾患は「脳の機能的異常である」とか、「遺伝子の異常である」という見方のもとに、見い出されるときに、その見方を「裏付ける」ものであるかのように、みなされるだけなのです。科学史家トーマス・クーン風にいえば、特定の「パラダイム」を埋める「パズル合わせ」のようなものです。

ただし、それは、是非ともそうあらねばならないという、社会的な「要請」に基づいてなされるだけに、容易には覆えされないことであるのは、何度も述べたとおりです。実は、そちらの方こそ、本質的な問題なので、私はそちらの方こそをしつこく述べています。本書は、それを指摘しているわけではないですが、やはり、そのことを、浮き彫りにせずにはおかないはずです。

「うつ」「統合失調」その他の精神疾患とされる状態は、進化的には、適合した反応であった可能性がある

「うつ」にしても、「統合失調」にしても、本来は、生体を保護し、あるいは環境的な条件によっては、より適応的な反応であったという可能性が示されています。それが、ある度合いを超えたり、現在の社会的な環境との関係では、マイナスの状態として現れることもあるということです。そのような反応は、本来的な「疾患」とは呼べないものでしょう。

著者は、触れていませんが、統合失調の幻覚も、本来は、シャーマンの霊的な能力として、社会的に認められ、必要とされていたもののはずです。

4 それでは、「疾患」と呼ばれることの実質は何か。それは、「社会的不適応」あるいは、「社会的な少数者」の陥いる状態という可能性はあるが、必ずしもそうともいえない。そこには、「不適応」とか、「少数」という事実に関る事態とは別の、社会の「価値観」に基づく「評価」が入り込んでいるからである。実際に、「不適応」な現れをすることはあるが、それは個体内部の問題ではなく、社会的環境との相互作用の結果生じるものである

初めにも述べたことですが、要するに、「病気」とは、その状態を好ましくないとする、社会の側の「価値観」であり、「評価」以外の何ものでもないということです。私も、それが、実際に「不適応」を起こし、「少数者」の陥る、困難な状況となることがあるのは認めます。しかし、それを、「脳の問題」などとするのは、社会との関係を看過し、問題を個体の内部に押しつけて、「固定」しようとするものでしかないというべきです。

著者は、そのようなことから、「疾患」という見方は廃すべきとしています。実際にも、偏見や弊害を生み出すもとだからです。ただし、実際に、「不適応」という現れを起こしている以上、「治療」ということではなく、本人の意思に基づく「援助」は必要とします。さらに、本人が判断能力を失っているときには、「強制的」な援助も認められていいとしています。

この点は、「判断能力」の判定がいかようにも曲げられる可能性があるし、中途半端の感を免れません。しかし、いきなり精神医療をなくすこともできないとした場合、大枠的な方向性としては、「オープンダイアローグ」とともに、今後の精神医療のあり方として、有力な候補と思います

ただ、途中でも述べたように、現状では、「疾患」概念こそが、精神医療に根拠と権威を与えているのだし、その根拠と権威こそが、社会的には是非とも「必要」なものなので、残念ながら、それを廃することは、社会の考え方そのものが変わらない限り、難しいことでしょう。

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コメント

良さそう本をご紹介いただきありがとうございました。早速読んでみます。精神医学の立場からこういう本が出てくれるのはホント有難いです。大きな力づけを得ます。
オープンダイアローグを知ったとき思い出したのは、上田紀行さんの『悪魔祓い』でした。村の一人に悪魔がついたとき、シャーマンは村人全員と共に夜通し儀式をするというものでした。精神疾患をそのように捉える時代が早く来ないかなと思います。

nomad soul さん、ありがとうございます。

『精神疾患は存在するか』は、もっと話題になってもよさそうな、説得力のある、鋭い問いかけの本です。専門書風の体裁ですが、一般の人が読んでも、決して難しくなく、読みやすいと思います。今は無理でも、いずれこのような理解が、標準として行き渡ってくれればと思います。

上田紀行の『スリランカの悪魔払い』は、私も読みました。なかなか面白かったです。この「悪魔」は、「悪魔」といっても、多義的な面があって、単純な「悪」を意味しているわけではないですね。また、「共同体」の多くの人が、このような「悪魔」の理解と関わりを共有していることで、「悪魔払い」が「癒し」として、よく機能するのですね。

このようなことは、現代の社会では、やはり難しいことと思わざるを得ません。現代の社会の人が、これに類することをやろうとしても、おそらく、文字通りの単純な、「悪魔払い」になってしまうことでしょう。

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