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2018年6月29日 (金)

一連のシリーズの総括および今後の予定

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という「観念」について、問い直しをして来ましたが、これらは、とりあえず、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」についての、「総まとめ」となります。重要な事柄は、すべて織り込んだつもりですが、何よりも、「観念」そのものが、「戦略」であることこそが、重要なポイントです。これらは、「捕食者の戦略を知る」という意味でも、格好の題材となるものです。

とはいえ、「観念」そのものが、「戦略」であるのは、記事『「テクノロジー犯罪」という発想』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-4691.html)でも述べたとおり、対立する、「統合失調」なる「病気という観念」についても、同じことです。これは、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」とは逆の方向から、同様の状況にある者を、抱え込もうというもので、全体としてみれば、いわば「両面からの抱え込み戦略」です。どちらに与しても、その観念に捕らえられて、その世界から容易に抜け出せなくなるとともに、対立と葛藤をますます深めることになるのです。(※)

それを、避けるには、どちらの「観念」にも与せず、これらの観念が捕え込もうとしている、根底にある「事実」または「状況」を、虚心坦懐に、浮かび上がらせるしかありません。もちろん、それは、このブログが、初めから試みていることです。

いずれにしても、「捕食者」を相手にするということは、このような手の込んだ「戦略」に、対処しなければならないということを、意味しているのです。その「戦略」は、人間を全体として、俯瞰する位置から、人間同士の対立を煽り、葛藤を深めるべく、人間の心理を読んだうえで、巧みに仕掛けられるものです。

まずは、そのような、「人間レベルを超えた」戦略に、率直に驚嘆すべきです。しかし、そのうえで、そのような戦略的なあり方こそが、彼らの「生命線」であることに気づけば、それに左右されることも、少なくなるでしょう。「戦略」を知ることこそが、彼ら自身を知ることになる、ということです。

今後は、記事『本年の予定と昨年のぺージビュー数トップ5』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-d365.html )で述べたように、本来の「狂気」の方のテーマについて、分かりやすいホームページを作成する準備に取りかかります。このブログの更新の頻度は、かなり減るかと思いますが了承ください。なお、近いうちに、『オカルトの基本を学ぶ』というブログの開設もしたいと思っています。

※  この「両面からの抱え込み戦略」を図で表すなら、次のようなります。 「統合失調」という観念と「集団ストーカー」・「テクノロジー犯罪」という観念を、事実または状況を掬う「バケツ」のようなものとして表現しています。

 7月5日 図に、「捕食者」が事実または状況のレベルでも影響を与えていることを織り込みました。この戦略の「凄み」がより浮き彫りになると思います。Photo

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コメント

いつも記事を拝見させて頂いております。

一つお聞きしたいことがあるのですが、統合失調型パーソナリティ障害、
いわゆるスキゾタイパルと呼ばれる軽度の統合失調症スペクトラム及び類縁疾患に
分類される人の思考についてティエムさんは考察された事はありますか?

統合失調症から遺伝的に近い、または同じ因子を持ちながらも明確に発症せず、
現実的な認知などは湾曲されているにも関わらず現実に留まっている人達です。

よければ自論をお待ちしております。

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「統合失調型パーソナリティ障害、いわゆるスキゾタイパルと呼ばれる軽度の統合失調症スペクトラム及び類縁疾患に分類される人の思考」についてですが、

記事『「統失」・「集スト被害」と「解体型」・「妄想型」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-f165.html)でとりあげた「妄想型」が、それに当てはまるものと思います。おもに、「集団ストーカー」に関して述べたものですが、参照ください。

>ティエムさん

名前を忘れておりました。すみません。
ご返信ありがとうございます。


つまり脳内やドパミン仮説などの生物学的観点ではなく精神分析的観点からすると、
脆い自我構造の中核である(自我もしくはパーソナリティが発達する際にできた?)
特定の結論(思い込み)だけを妄想という呈で自我はそれを支えにし、
実質的に他の現実の事実や解釈などをすべて排除して
薄い他者と自我の境界を保っている(故に類縁疾患や分裂気質は統合失調症を発症しない)
という解釈でしょうか?

あともう一つすみません。
この解釈からなのですが、例えば主体が内省によって意図的に自己療法しようと思い(メタ認知)、
この特定の結論(妄想)を無理やり(現実的認知、解釈に)修正しようとして、しかし
しようとすればするだけその特定の結論(妄想)が強迫観念となって自我に覆いかぶさる、
という現象はありえると思いますか?

ご返信お待ちしております。

「脆い自我構造の中核である(自我もしくはパーソナリティが発達する際にできた?)
特定の結論(思い込み)だけを妄想という呈で自我はそれを支えにし、
実質的に他の現実の事実や解釈などをすべて排除して
薄い他者と自我の境界を保っている(故に類縁疾患や分裂気質は統合失調症を発症しない)
という解釈でしょうか?」

とりあえず、そのとおりですが、常にそのような状態にあるわけではなく、何かある危機的状
況が身近に迫ることによって、その防衛のためにそのような状態を呈してしまうのだと思いま
す。それで、その「妄想」を外すことも、難しい状態にあることになります。先にあげた記事
の次の記事『「集スト被害」という「解体しない妄想」』(http://tiem.cocolog-
nifty.com/blog/2017/02/post-9d10.html)でも、その点について述べていますので、そちらも
参照してみてください。

「この解釈からなのですが、例えば主体が内省によって意図的に自己療法しようと思い(メタ認
知)、この特定の結論(妄想)を無理やり(現実的認知、解釈に)修正しようとして、しかししよう
とすればするだけその特定の結論(妄想)が強迫観念となって自我に覆いかぶさる、という現象
はありえると思いますか?」

これは、どのような人にも、よくあることなのではないでしょうか。ただ、先にも述べたよう
に、危機的状況にある場合、その修正は難しく、修正しようとしても、その妄想的観念が強迫
的に襲ってきてできないということは、より起こりやすいと思います。

誰か、このような状態にある人を身近にして、困惑している状況にあるのでしょうか?

ご返信ありがとうございます。

実は先ほどから述べていることは当方の事でして、私は幼少期の頃から
不思議な感覚や知覚、何故このような事が頭に浮かぶのかといった体験をしておりました。

小説を読んだ後や映画を観た後は、自分の現実がまるでその世界になったような感覚が数時間続いたり、音楽を聞いている時は誰か知っている他者(それはあまり親しくない知り合いだったり)と感性を共有しているような感覚になったりといった感じです。


そして思春期の頃に神経症的、妄想的観念に固執し、一時は死に近いような状態にまでなりましたが、
なんとか立ち直り、今は色々な書物を読み漁り自己分析や自己療法をしています。

20代に入ってもその観念が強迫観念となって抜けず、まるで私自身を
覆いかぶさるようにその観念が時々迫ってくるといいましょうか。

そして内省をしている時も常に不思議とそれを客観的に見ている自分もいるのです。
私の思考においては私の意志とは関係なく、観念が絶えず溢れて(浮かんで)います。

観念は客観的にみて意味不明なものから、性的、暴力的なイメージや、
自己を批判するものから他者を批判するものなど様々です。

ただ、その絶えず浮かぶ自分の観念で多いのは、「食べている料理に毒が入っている」など
現実的な可能性がほんの少しはありそうなものばかりなのです。
もちろん根拠もないですし、妄想じみたそれに確信をもっているわけではありません。

ですが、観念を認識した瞬間に感覚が現実のように錯覚させるといいましょうか…

自己を考察している中で分かった事は、私が不快に思う私の観念をそれがいかに
非現実的であるか、非論理的であるかと否定し始めると観念が強迫観念になるということです。

もしもティエムさんが仰るとおり、私が思春期から固執しているその非現実的な
妄想的観念が自我の解体(統合失調症の発症)を抑えているのだとしたら、
「もはや外すことのできないもの」 いえ、「外してはいけないもの」なのかもしれませんね。

ただ、「客観的に見ている自分」は自分の中にある非論理性を許せないが故に、
常に気質と内面で葛藤しているんだと思います。

病理学的にはおそらく、強迫性障害及び並存して、軽度の統合失調症スペクトラム(統合失調型パーソナリティ障害)だと思いますが。


長々と語ってしまいすみません。

一つお聞きしたい事があるのですが、
その自我を支えている妄想的観念(防衛)と、それが妄想であると分かっている自分はどちらも自分なのでしょうか?このまま、その妄想的観念を認識すると不安になってしまう自分を放置しておいていいのかと懐疑的になってしまうのです。

追記ですが、多分統合失調型パーソナリティ障害(類縁疾患)などは統合失調症を発症する
ギリギリのラインで常に踏み留まっている為に、自我は常に危機的状況なのだと思います。
なので通常あまりみられない強迫観念といった現象が現れやすいんだと思います。

今回のコメントを伺う限り、「集団ストーカー」の場合のように、特定の危機的状況の防衛のためになされてしまう妄想というのとは異なるようですね。

でも、私はそれがゆえに、それから抜け出す可能性というのも、より多くあるといえる気がします。

そのような傾向は、幼少期の頃からということで、本来の傾向として、身にもたれているという面が強いようです。ただ、「危機的状況」(記事では、「霊界の境域」といいましたが、もっと漠然と「未知の状況」と言ってもいいです)というのは、本来、常に自我の外側にあるものであって、ただ自我の鎧によって隠されているときは、感じないで済むというものに過ぎません。

ですので、自我の境界が薄く、そのようなものに感応しやすい体質であったならば、ずっと、そのようなものを漠然とでも意識し、その状況と格闘し続けて来たというのも不思議ではないと思います。ただ、そうすると、妄想的観念は、その防衛のために築かれたというより(そういう面もあるでしょうが)、そのような「観念」(ある意味で客観的に存在する生き物のようなものですから)そのものと共鳴(一体化)しやすいために、それにいわば乗っ取られるというような状況になっている面もあると思われます。強迫観念として襲ってくるようなものは、後者のものである可能性も高いと思います。

しかし、それを客観的にみる自分があるということで、その自分があるからこそ、妄想の中に囚われて、それ一辺倒で突っ走ってしまうような状況に陥らないで済んでいると思われます。その「客観的にみている自分」こそが、本来の自分だと思います。ただ、妄想に凝り固まることで、防衛ができている場合とは違って、それが妄想であることを意識するが故に、より不安と葛藤が深まるということはあると思います。それは、辛いでしょうが、その状態から抜け出すためには必要なプロセスと思われます。その客観的にみる自分がある限り、「妄想」を外す方向に踏み出すことは、できないものではないと思います。というより、むしろ、強迫観念としての妄想は、必ずしも、防衛の役に立っているわけではないので、徐々にでも、外す方向に行く方がいいものと思います。それを外すが故に、統合失調状況に陥るということでもないと思われます。それにしても、いろいろ葛藤を通り越していかなくてはならず、大変とは思いますが、「妄想」を「妄想」と意識しないで済む状態になれば、楽になれるというものでもありません。追記で言われているとおり、「ぎりぎりの危機的状況」であることに変わりないわけですから。

追記に関しては、そのとおりで、要するに、私は、統合失調状況が間近に迫る、特定の「契機としての」危機的状況について言っていましたが、それがなくても、先にみたように、本来的な危機的状況は自我のまわりに常にあるのだし、統合失調状況に陥るぎりぎりのところで踏みとどまるのは、自我にとって常に危機的状況であるのもそのとおりです。

ご返信ありがとうございます。

すごく長年腑に落ちなかった部分が少し解けたような気がします。私の考察にわざわざお時間を取らせていただきありがとうございました。

ブログは引き続き拝見させていただきます。
では。

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