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2018年2月 8日 (木)

「集団スト-カー」という観念の問い直し 1

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の問題については、既に十分述べました。むしろ、述べ過ぎて、要点がぼやけたかもしれないので、近いうちに、記事と関連づけて、まとめをするつもりです。

ただ、改めて言うべきは、これらの問題は、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という観念自体がもたらす部分が大きいということです。前提となる、個々の「事実」に何らかのものがあったとしても、これらの「観念」を信じてしまったこと自体から来る部分の方が、大きいということです。

それだけ、これらの観念には、人の心理をついた、巧妙なものがあり、人々を捕らえてしまうのも、無理からぬところがあるのです。しかし、一般の多くの人には、なかなかそのあたりが、理解できないと思います。「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」など、根拠のない、妄想じみたもので、ただ「おどろおどろしい」だけと思っている人が、多いはずだからです。

そこで、今回から何回かにわたって、少し踏み込んで、これらの観念を、基本的なところから、問い直しておきます。ただ、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」について、これまで述べたところを、一々繰り返さないので、少なくとも、記事『 「集団ストーカー」という厄介な問題 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)、と『「テクノロジー犯罪」という発想 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-4691.html)くらいは、読んでおいてもらいたいと思います。

まずは、「集団ストーカー」について、「集団ストーカー」という、言葉自体に注目してみます

「集団ストーカー」とは、「集団」でなされる「ストーカー」ということです。

「集団」という言葉も、「ストーカー」という言葉も、かなり曖昧で、漠然としたものです。「集団」という曖昧なものが、「ストーカー」という曖昧な行為をしてくるということです。そこでは、曖昧さが、重ね合わされています。この曖昧さは、後にみるように、この観念に、常につきまとうものです。まずは、それこそが、この観念に、広く「事実」を包み込むための、風呂敷のような役割を与えていることを、指摘しておきます。

とはいえ、この言葉は、一応の意味を指し示してはいます。

「ストーカー行為」とは、本来、非常に私的で、個人的なものです。それは、ある者が、恨みや、妬み、その他の個人的な感情に基づいて、ある者につきまとい、しつこく、迷惑な嫌がらせ行為をするといったものです。普通は、恋愛感情のもつれに伴って、男女間で行われることが多いでしょう。

何しろ、「ストーカー行為」は、一旦は、好意をもち、近い関係になった者に、裏切られたと感じることなどによる、人間らしい、「アンビバレントな感情」がもとになっています。そして、そのような感情は、後を引き、それに基づく行為も、歯止めが効かず、とことんエスカレートする可能性があります。そのような厄介な感情、そして、(実際に行うかどうかは別にして)それがそのような行為につながりやすいこと自体は、多くの人にも、了解できるものです。

「ストーカー行為」とは、まさに、人間のどうしようもない、「暗部」を象徴する行為であり、「あまりに人間的」な「機微」そのものとも言えるでしょう。それだけに、多くの人に、嫌悪感と、「現実的な」恐怖をもたらします

ところが、「集団ストーカー」とは、そのような「ストーカー行為」を、特定の個人ではなく、人の「集団」がなすというのです。「集団」というのは、曖昧ではありますが、何しろ、人の多数の集まりであり、何か組織のようなつながりを、思わせるものです。

記事『「集団ストーカー」という厄介な問題」や『映画『激突』と「集団ストーカー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a8e7.html)でもみたように、現代人は、かつてのような共同体的なつながりを失い、互いに切り離された、孤立する個人となっています。このように孤立する、無力な個人にとっては、つながりをもった集団というのは、何か恐ろしい、圧力として、のしかかってくるものともなります。特に、普段から、集団との折り合いがよくない人にとっては、そのように意識されることでしょう。

通常の、個人的な「ストーカー行為」でも、十分、人を嫌悪させ、恐れさせます。ところが、それを、このように、個人にとっては、大きな圧力となる、人の集団がなして来るというのですから、それに輪をかけて、人を恐れさせるものでしょう。

そして、実際に、人の「集団」が、何らかの「ストーカー行為」を行うということ自体は、いくらもあることなのです(記事『「集団ストーカー」という厄介な問題 』でも述べているとおりです)。

実際に、そのような事件はありますし、表ざたにならないものを含めれば、限りなくあると言えるでしょう。それには、特定の個人が、個人的な感情に基づいて、多くの人を使うことによって、「ストーカー行為」をなすという場合もあるでしょう。しかし、「集団」といえども、人間の集まりであり、その集団が、ある者に対して、同じ感情を共有するということは、いくらもあります。「集団」そのものが、その共有された感情に基づいて、ある者に、「ストーカー行為」をなすということもあるのです。

特に、日本では、個人より、集団が重視され、その力も強いので、そこからはみ出すとみなされた者は、集団によって疎まれ、ストーカー行為の対象とされる可能性があります。表立った、直接的な言動より、間接的で、遠回しの(陰湿な)言動が好まれる日本の習慣からも、こういうことは、起こりやすいと言えるでしょう。

会社や学校で、普通にみられる「いじめ」も、広く解釈すれば、そのようなものに含み得るでしょう。中でも、やくざや宗教団体など、集団の結びつきが強く、運命共同体のような組織では、一旦裏切り者のようにみなされた者は、ストーカー行為の犠牲になる可能性も高まるでしょう。

まずもって、「集団ストーカー」という言葉ないし観念が、指し示し、一般に、イメージを喚起するような、意味合いのものは、このような、「集団によるストーカー」ということです。

漠然としていて、明確ではないながらも、決して、非現実的なものではなく、実際に、具体的にみる限り、「いくらもある」といえることなのです。こういったことが、この観念に、嫌悪感や恐れを伴いつつ、一定の、リアリティをもたらしています。

そして、そのことこそが、出来事の全体を表すのに、「集団ストーカー」という言葉が選ばれている理由なのであり、巧妙さの一つなのです。

実際、この観念が、意図するのは、まずは、そのように、漠然としていながらも、一定のリアリティを伴った、「恐ろしさ」を喚起することです。そして、実際に、自分も、そのような行為をされているかもしれないと思わせることです

しかし、本来の個人的なストーカーもそうですし、集団によるストーカーというのも、それらは既にみたように、ある、感情的な動機がもとになっています。だから、何らかの集団によって、特に根にもたれるような動機に、身に覚えがないなら、ストーカー行為のような、執拗な行為をされる理由はない、と考えるのが普通でしょう。

しかし、現代のような複雑な社会では、人間がどんな理由で、ストーカー行為に結びつくような、感情的動機をもつかは、必ずしも、みえにくくなっています。人によっては、まったく思いもかけぬ理由で、そのような動機をもつこともあるでしょう。映画『激突』も、まさに、そのような、主人公にとっては、不可解で、理不尽な動機で、強烈なストーカー的つきまといを受ける、といった内容のものです。

そして、それが、集団となると、個々の人には、予測のつかない、組織としての利害や理由から、そのような行為がされることもある、と思わせることにもなるでしょう。

さらに、もともと被害妄想的な傾向があったり、いじめなどに会いやすく、集団との折り合いがよくない人などは、物事をその方向で解釈しがちですから、集団にストーカー行為をされる何らかの動機などは、いくらでも思いつくことができるでしょう。

このように、「集団ストーカー」という言葉が、リアリティをもって受け止められるなら、本来伴うはずの、感情的動機などは、必ずしも、明確にみつからなくとも、それに当てはまるような事実を、思いつくことは、十分可能なのです。

そして、そのリアリティは、「集団ストーカー」という言葉が、広く多くの人に行き渡るようになればなるほど、増していきます。現代では、この言葉は、検索してみれば分かるように、ネット上に十分広まっているので、それを通して、リアリティを感じる人が多くなっても、不思議ではありません。

そういうわけで、まず今回は、「集団ストーカー」という言葉が一般に指し示す、イメージと意味合いについて述べました。この、曖昧でありながら、イメージを喚起し、恐れを伴った、不思議なリアリティをもたらす言葉自体に、戦略的な意図があるということです

しかし、実際には、このようなものでは、具体的レベルで、本当に自分に起こっている出来事として、受け止めるには、あまりに漠然とした、「抽象的なもの」であり過ぎるというのも、事実です。これだけのことで、かなり多くの人を、本当に信じ込ませるだけの力をもつかといえば、そうではありません。

実際、ネットを中心に、その被害者と称する人たちで、言われている「集団ストーカー」というのは、このような抽象的なものではなく、もっと具体的な方法によって、特色づけられたものです。

その方法は、「ガスライティング」といわれるものです。そして、この「ガスライティング」こそ、「集団ストーカー」という漠然たるイメージに、本当の、嫌悪や恐れ、そして同時に、具体的なレベルで、説得力とリアリティをもたらしているものなのです。

それについては、次回に述べることにします。

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コメント

自分の経験だと集団なんとか(ぼかして言いたくなるほど嫌な概念)はほとんどネット情報や幻聴幻覚、その他自分でもよくわからない超常的なんだかどうかもわからない経験から来てますよ。
現代では完全に精神科の案件ですが、難しい話です。
あり得ないって事がわかってないとネット情報鵜呑みにしやすいのでネットのリテラシーなんかと合わせて厄介な問題だと思います。
兎に角まずは幻聴に気づくところからではないでしょうか。こういう情報でネットが嫌いになりつつあるのでホント情報の質には気をつけたいと思っています。
とにかくあり得ないってことがまずわかってほしいものです。
皆正常なときにはおかしいと思えたことなのに。

確かに、幻聴からくる場合というのも、多いと思います。もともとは、「統合失調」の範疇に入るものも、これだけネットで「集団ストーカー」の概念が広まれば、この概念に引き寄せて捉える人が増えても不思議ではありません。

「あり得ない」というのも確かなことです。しかし、その「あり得ない」ことを「あり得ない」ことではなく、「あり得る」から、さらに「ある」に思わせるリアリティを生みだすだけの、強力な戦略が、ここに働いているということです。ただ「あり得ない」と言うだけでは、この概念を信じている人を説得することは絶対無理です。信じる人たちも、何とか、この戦略に、全体として気づくような視点をもってほしいものです。

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