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2018年2月

2018年2月22日 (木)

「集団スト-カー」という観念の問い直し 2

前回は、「集団ストーカー」という言葉に注目しました。今回は、実際に、被害者という人たちが、「集団ストーカー」による行為の方法としている、「ガスライティング」について、みてみます

「ガスライティング」とは、ウィキペディアでは、「心理的虐待の一種であり、被害者にわざと誤った情報を提示し、被害者が自身の記憶、知覚、正気を疑うよう仕向ける手法」とされています。

具体的には、このサイトが、まとまった説明をしています。(「AGSAS」http://antigangstalking.join-us.jp/AGSAS_GaslightingTheBook.htm)詳しく知りたい方は、是非参照してください。

「ガスライティング」という言葉は、映画『ガス燈』から来ています。そこでは、夫が妻を精神的に追い込むため、部屋にあるものの配置やガス燈の明かりに細工をして変えておき、妻がその変化を指摘すると、それは勘違いだと素知らぬふりをする、ということがなされています。妻は、その繰返しによって、自分自身の感覚がおかしくなったと思い込み、やがて本当に、精神を崩壊していくわけです。

要は、直接的な危害を加えるのではなく、ちょっとした仕掛けや振る舞いを繰返し行うことで、自分自身は疑われずに、本人自身の判断や感覚を誤らせ、遂には、自ら精神的に崩壊していくことを狙うといった方法です。陰湿で、姑息なやり方ですが、人間の心理を鋭くついた、巧妙な「悪魔的な手法」といえます。映画では、本人に信頼されていて、性格などの情報をよく知る、最も身近な人物こそが、犯人である点も、衝撃を誘い、恐怖をもたらします。人間の、日常における安心や信頼を、根本からつき崩すものだからです。

実際に、本人に警戒されず、その情報についてよく知る、身近な人物こそが、行いやすい方法と言えます。

これは一例ですが、人を精神的に追い込むための、「ガスライティング」という手法には、様々なものが考えられています。サイトも概要を述べているように、微に入り細を穿つような、詳しい方法を種々にとりあげた、『Gaslighting』という本もあります。大まかに言うと、映画同様、その者の車や身の周りの物に微妙な細工をして、日常感覚を喪失させる。ささやき、冷笑、秘密をほのめかすなどの行為により、妄想を構築させる。噂で評判を失墜させる。人間関係の対立を演出するなどの方法があげられています。

このような行為は、ストーカー的なつきまといを含みつつも、単なる「ストーカー」行為を超えた、明確に害意のある、「あくどい」ものです。「犯罪」と強調される所以です。人を精神的に追い込むために、それ自体は、あまり意味をなさない、細やかな行いを、ただ執拗に繰り返すのも、凄まじい執念です。が、もし本当に、これだけのことを本気でなされたら、確かに精神的に追い込まれ、崩壊してしまってもおかしくないという意味で、「説得力」があるものとは言えるはずです。

いずれにしても、前回みた「集団ストーカー」という言葉がもたらすイメージ以上に、具体的で、リアリティがあり、嫌悪と恐怖をもたらすものであることが分かるでしょう

そして、「集団ストーカー」の方法としていわれる「ガスライティング」というのも、このような行為を、個人ではなく、不特定多数の人の「集団」が、執拗になしてくるというものです。前回みた、「集団ストーカー」の場合と同様、個人的なものよりも、輪をかけて、嫌悪と恐怖をそそる発想です。ただし、後にみるように、それは、「集団ストーカー」の場合と違って、もはや「現実的」なものではあり得ず、「人間的」なものを超えています。

先のサイトでは、このような、「集団ストーカー」の方法としての「ガスライティング」についても、いくつか具体的な例をあげています。(http://antigangstalking.join-us.jp/AGSAS_Glossary.htm

多くの人が、その人に、特定のある何ものかを意識させる振舞いをする、「アンカリング」(条件づけ)。多くの人が、絶妙なタイミングで、通行の邪魔をしてくる「コリジョンキャンペーン」。多くの人が、その人に、意味ありげで、大げさな演技をみせる「ストリートシアター」。多くの人が、その人の周りに、不自然に現われるという「付回し」。多くの人が、その人しか知らないはずの情報に関することを、ことさら言動でほのめかしてくる、「ほのめかし」。多くの人が、その人に何らかの「音」を仕掛けてきて、音に敏感にさせる「ノイズキャンペーン」などです。

これらは、サイトの管理人が、実際の被害報告をもとに、前述のような「ガスライティング」の方法と照らし合わせて、まとめあげたもののようです。

こういった、それ自体はあまり意味をなさない、ある意味滑稽なばかりの、行為の繰り返しを、多くの人の「集団」が執拗に行うことで、人を精神的に弱らせ、崩壊に導くというのです。

「ガスライティング」という発想を離れて、客観的にみれば、これらの、個々の行いは、先の個人的な「ガスライティング」の例にも増して、本当に、誰もが日常経験する、何でもないものであるのが特徴です。これらの行為は、一見、具体的なものであるようでいて、どのようなものも、それに当てはまると解し得るほどに、「曖昧さ」に開かれているということです。要は、受け取る側の受け取り方次第で、どのようにでも解釈し得る、ということです。

この曖昧さは、前回指摘したように、この観念には、常につきまとう、戦略的なものです。

ところが、それも、「ガスライティング」の発想からすれば、効果を狙って、意図されたこととされます。日常の何でもない行為を装いつつ、「アンカリング」や、絶妙なタイミングによる「コリジョンキャンペーン」、「ほのめかし」などによって、本人には、多数の者が嫌がらせをしてくることを、確かに意識させて、精神的に追い込んでいくとするのです。

いずれにせよ、実際に、それらを、「嫌がらせ」として捉えるのは、「被害者」である本人自身以外にはありません。多くの人は、そこに、統合失調の「妄想」、特に、外界に起こった出来事を、自分と関係づけてしまう、「関係妄想」をみることは容易でしょう。特に、「ほのめかし」などは、統合失調の妄想に、典型的にみられるものです。実際、これらは、被害報告をもとにしているので、そこには、統合失調的な「妄想」が、入り込んでいる場合は、相当にあるといえます。

しかし、「ガスライティング」という方法では、このような嫌がらせを続けることで、まさに、「統合失調的な妄想」を構築するように仕向けるというのです。そして、サイトもいうように、遂には、誰かに相談したり、周りに窮状を訴えるなどして、それは「妄想」だと言われることによって、本人もそう思い込むことが狙われるとするのです。 

このように、明らかに「統合失調」的な内容を含みつつ、そのような反応をしてしまうこと自体が、仕向けられたものとするのも、「ガスライティング」という発想の、巧妙なポイントです

多くの者に、反論され、「妄想」と言われること自体が、その方法の正しさを根拠づけるように、機能してしまうからです。

このように、「ガスライティング」という発想は、人間の心理をついて、巧妙に練られたものであり、嫌悪や恐怖を伴いつつも、一定のリアリティと説得力を感じさせるだけのものなのです。それは、かなりの人の心を捕らえる可能性があるし、ましてや、被害妄想的な傾向のある者や、統合失調的な体験のある者にとっては、それを強く信じさせるだけの、強力な威力を発揮し得ます。

「集団ストーカー」という観念に、リアリティをもたせているのは、一つは、前回みたように、「集団がストーカー行為をする」こと自体は実際にある、ということでした。しかし、本当に、具体的なレベルでリアリティをもたらしているのは、この「ガスライティング」という、人を貶めるための、人間の心理をついた、巧妙な手口なのです。このような方法に、リアリティを感じて、そのような疑いのもとに、外界の出来事をみるようになれば、多くのものが、それに当てはまると受け取られる余地が実際にあるのです。

しかし、同時に、この「集団によるガスライティング」には、既に述べたように、「現実的」、「人間的」なレベルを大きく超えたものが、醸し出されています。「集団がストーカー行為をすることは実際にある」、というのと同じ意味で、「集団がガスライティングをすることは実際にある」、などとは、もはや簡単には言えません。

実際、本人も、「ガスライティング」として受け取ったとしても、心底納得できず、謎めいた、不可解なものを残すのは、必然です。それは、まともにみる限り、もはや、人間的な動機に基づいた、人間の行いである「ガスライティング」ということを、超えているのです。言い換えれば、「非人間的」で、「オカルト的」と言っていいものにまで、拡大されているのです。まさに、「統合失調」の場合と共通の要素です。

単純に言っても、このような行為を、本人とは、直接の関係も動機もない多くの者が、ただ精神的に追い込み、崩壊させるために、執拗に繰り返すとは、その執念も、技術も、人間のものではあり得ません。実際、多くの場合、数年にわたって、このような行為が、毎日のように繰り返されるというのであり、それでも、精神を崩壊させるまで、延々と続けられるというのです。

『コリジョンキャンペーン』にいう、「絶妙なタイミング」というのも、本人にとっては、自分にだけ分かる感覚として、強い衝撃であり、それが事実であることを信じさせる大きな理由です。ところが、具体的に、多くの人間によって、この「絶妙なタイミング」を実現するためには、本人の行動に向けた意志をリアルタイムで知るだけでなく、それをリアルタイムに、多くの人間による嫌がらせの行動に反映させる必要があるのです。

それで、多くの場合、思考を読み取るなどの、一般には認められない「高度の技術」が持ち出され、「テクノロジー犯罪」との関連がいわれます。が、たとえそのような技術を持ち出したとしても、実際に行うのは人間であり、本当に具体的なレベルで、このような行為を、多くの人に、長年にわたって、実現させることなど、現実には無理なことは明らかなのです。

いずれにしても、一方で、「リアリティ」と「説得力」があるという「ガスライティング」ですが、他方で、集団的なものにまで拡大されるときは、非現実的で、非人間的なものとなります。そして、それがむしろ、「オカルト的」といっていいような、謎めいた恐怖を拡大することにもなるのです。

実際、そのどちらもが、「集団ストーカー」という観念にとって、大きな効果をもたらします。一方で、自分が「ガスライティング」を受けているということに、説得力とリアリティが吹き込まれ、他方では、その恐怖が、「非人間的」で「オカルト」的なものにまで、拡大されているのです。そして、そのような、恐怖は、実際に、出口のない、袋小路のような状況をもたらします。

それは、「集団ストーカー」という観念にとって、実質的な要素である、「ガスライティング」という観念がもたらす効果ということです

実際には、その実質は、出来事の全体を「集団ストーカー」と呼ぶことによって、巧妙に覆い隠されているのですが、それについては、次回にでも述べます。

また、次回は、実際に、「ガスライティング」のような行為を得意とする、というより、このような行為が、その本性そのものの現われであるような存在がいるということ。それが、「集団ストーカー」という観念に、感覚的レベルで、実際にリアリティを吹き込んでいるということ。さらに、その背後には「捕食者」(アーリマン存在)がおり、「ガスライティング」や「集団ストーカー」という観念を創出して、広めること自体をも目論んでいることを述べます。

2018年2月 8日 (木)

「集団スト-カー」という観念の問い直し 1

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の問題については、既に十分述べました。むしろ、述べ過ぎて、要点がぼやけたかもしれないので、近いうちに、記事と関連づけて、まとめをするつもりです。

ただ、改めて言うべきは、これらの問題は、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という観念自体がもたらす部分が大きいということです。前提となる、個々の「事実」に何らかのものがあったとしても、これらの「観念」を信じてしまったこと自体から来る部分の方が、大きいということです。

それだけ、これらの観念には、人の心理をついた、巧妙なものがあり、人々を捕らえてしまうのも、無理からぬところがあるのです。しかし、一般の多くの人には、なかなかそのあたりが、理解できないと思います。「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」など、根拠のない、妄想じみたもので、ただ「おどろおどろしい」だけと思っている人が、多いはずだからです。

そこで、今回から何回かにわたって、少し踏み込んで、これらの観念を、基本的なところから、問い直しておきます。ただ、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」について、これまで述べたところを、一々繰り返さないので、少なくとも、記事『 「集団ストーカー」という厄介な問題 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)、と『「テクノロジー犯罪」という発想 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-4691.html)くらいは、読んでおいてもらいたいと思います。

まずは、「集団ストーカー」について、「集団ストーカー」という、言葉自体に注目してみます

「集団ストーカー」とは、「集団」でなされる「ストーカー」ということです。

「集団」という言葉も、「ストーカー」という言葉も、かなり曖昧で、漠然としたものです。「集団」という曖昧なものが、「ストーカー」という曖昧な行為をしてくるということです。そこでは、曖昧さが、重ね合わされています。この曖昧さは、後にみるように、この観念に、常につきまとうものです。まずは、それこそが、この観念に、広く「事実」を包み込むための、風呂敷のような役割を与えていることを、指摘しておきます。

とはいえ、この言葉は、一応の意味を指し示してはいます。

「ストーカー行為」とは、本来、非常に私的で、個人的なものです。それは、ある者が、恨みや、妬み、その他の個人的な感情に基づいて、ある者につきまとい、しつこく、迷惑な嫌がらせ行為をするといったものです。普通は、恋愛感情のもつれに伴って、男女間で行われることが多いでしょう。

何しろ、「ストーカー行為」は、一旦は、好意をもち、近い関係になった者に、裏切られたと感じることなどによる、人間らしい、「アンビバレントな感情」がもとになっています。そして、そのような感情は、後を引き、それに基づく行為も、歯止めが効かず、とことんエスカレートする可能性があります。そのような厄介な感情、そして、(実際に行うかどうかは別にして)それがそのような行為につながりやすいこと自体は、多くの人にも、了解できるものです。

「ストーカー行為」とは、まさに、人間のどうしようもない、「暗部」を象徴する行為であり、「あまりに人間的」な「機微」そのものとも言えるでしょう。それだけに、多くの人に、嫌悪感と、「現実的な」恐怖をもたらします

ところが、「集団ストーカー」とは、そのような「ストーカー行為」を、特定の個人ではなく、人の「集団」がなすというのです。「集団」というのは、曖昧ではありますが、何しろ、人の多数の集まりであり、何か組織のようなつながりを、思わせるものです。

記事『「集団ストーカー」という厄介な問題」や『映画『激突』と「集団ストーカー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a8e7.html)でもみたように、現代人は、かつてのような共同体的なつながりを失い、互いに切り離された、孤立する個人となっています。このように孤立する、無力な個人にとっては、つながりをもった集団というのは、何か恐ろしい、圧力として、のしかかってくるものともなります。特に、普段から、集団との折り合いがよくない人にとっては、そのように意識されることでしょう。

通常の、個人的な「ストーカー行為」でも、十分、人を嫌悪させ、恐れさせます。ところが、それを、このように、個人にとっては、大きな圧力となる、人の集団がなして来るというのですから、それに輪をかけて、人を恐れさせるものでしょう。

そして、実際に、人の「集団」が、何らかの「ストーカー行為」を行うということ自体は、いくらもあることなのです(記事『「集団ストーカー」という厄介な問題 』でも述べているとおりです)。

実際に、そのような事件はありますし、表ざたにならないものを含めれば、限りなくあると言えるでしょう。それには、特定の個人が、個人的な感情に基づいて、多くの人を使うことによって、「ストーカー行為」をなすという場合もあるでしょう。しかし、「集団」といえども、人間の集まりであり、その集団が、ある者に対して、同じ感情を共有するということは、いくらもあります。「集団」そのものが、その共有された感情に基づいて、ある者に、「ストーカー行為」をなすということもあるのです。

特に、日本では、個人より、集団が重視され、その力も強いので、そこからはみ出すとみなされた者は、集団によって疎まれ、ストーカー行為の対象とされる可能性があります。表立った、直接的な言動より、間接的で、遠回しの(陰湿な)言動が好まれる日本の習慣からも、こういうことは、起こりやすいと言えるでしょう。

会社や学校で、普通にみられる「いじめ」も、広く解釈すれば、そのようなものに含み得るでしょう。中でも、やくざや宗教団体など、集団の結びつきが強く、運命共同体のような組織では、一旦裏切り者のようにみなされた者は、ストーカー行為の犠牲になる可能性も高まるでしょう。

まずもって、「集団ストーカー」という言葉ないし観念が、指し示し、一般に、イメージを喚起するような、意味合いのものは、このような、「集団によるストーカー」ということです。

漠然としていて、明確ではないながらも、決して、非現実的なものではなく、実際に、具体的にみる限り、「いくらもある」といえることなのです。こういったことが、この観念に、嫌悪感や恐れを伴いつつ、一定の、リアリティをもたらしています。

そして、そのことこそが、出来事の全体を表すのに、「集団ストーカー」という言葉が選ばれている理由なのであり、巧妙さの一つなのです。

実際、この観念が、意図するのは、まずは、そのように、漠然としていながらも、一定のリアリティを伴った、「恐ろしさ」を喚起することです。そして、実際に、自分も、そのような行為をされているかもしれないと思わせることです

しかし、本来の個人的なストーカーもそうですし、集団によるストーカーというのも、それらは既にみたように、ある、感情的な動機がもとになっています。だから、何らかの集団によって、特に根にもたれるような動機に、身に覚えがないなら、ストーカー行為のような、執拗な行為をされる理由はない、と考えるのが普通でしょう。

しかし、現代のような複雑な社会では、人間がどんな理由で、ストーカー行為に結びつくような、感情的動機をもつかは、必ずしも、みえにくくなっています。人によっては、まったく思いもかけぬ理由で、そのような動機をもつこともあるでしょう。映画『激突』も、まさに、そのような、主人公にとっては、不可解で、理不尽な動機で、強烈なストーカー的つきまといを受ける、といった内容のものです。

そして、それが、集団となると、個々の人には、予測のつかない、組織としての利害や理由から、そのような行為がされることもある、と思わせることにもなるでしょう。

さらに、もともと被害妄想的な傾向があったり、いじめなどに会いやすく、集団との折り合いがよくない人などは、物事をその方向で解釈しがちですから、集団にストーカー行為をされる何らかの動機などは、いくらでも思いつくことができるでしょう。

このように、「集団ストーカー」という言葉が、リアリティをもって受け止められるなら、本来伴うはずの、感情的動機などは、必ずしも、明確にみつからなくとも、それに当てはまるような事実を、思いつくことは、十分可能なのです。

そして、そのリアリティは、「集団ストーカー」という言葉が、広く多くの人に行き渡るようになればなるほど、増していきます。現代では、この言葉は、検索してみれば分かるように、ネット上に十分広まっているので、それを通して、リアリティを感じる人が多くなっても、不思議ではありません。

そういうわけで、まず今回は、「集団ストーカー」という言葉が一般に指し示す、イメージと意味合いについて述べました。この、曖昧でありながら、イメージを喚起し、恐れを伴った、不思議なリアリティをもたらす言葉自体に、戦略的な意図があるということです

しかし、実際には、このようなものでは、具体的レベルで、本当に自分に起こっている出来事として、受け止めるには、あまりに漠然とした、「抽象的なもの」であり過ぎるというのも、事実です。これだけのことで、かなり多くの人を、本当に信じ込ませるだけの力をもつかといえば、そうではありません。

実際、ネットを中心に、その被害者と称する人たちで、言われている「集団ストーカー」というのは、このような抽象的なものではなく、もっと具体的な方法によって、特色づけられたものです。

その方法は、「ガスライティング」といわれるものです。そして、この「ガスライティング」こそ、「集団ストーカー」という漠然たるイメージに、本当の、嫌悪や恐れ、そして同時に、具体的なレベルで、説得力とリアリティをもたらしているものなのです。

それについては、次回に述べることにします。

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