『言ってはいけない』/遺伝の問題
「遺伝の問題」は、私自身、これまであまり正面から述べることがなかった問題なので、この機会に少し詳しく述べています。
前回の記事のコメントで触れていますが、橘玲著『言ってはいけない』(新潮新書)という本を、読んでみました。
「遺伝」の問題を扱ったもので、最近の「行動遺伝学」の研究によれば、人間の身体的条件だけでなく、知能や行動、性格、さらに精神疾患を含む精神的な要素(「こころ」)も、環境より遺伝による影響が強いことを説いているものです。
(この「知能や行動、性格、さらに精神疾患を含む精神的な要素(「こころ」」というのを、以下「知能等」と略します)
これまで、遺伝の問題は、差別や優生思想と結びつきやすいこと、努力を否定することにつながりやすいことなどから、タブー化されている(「言ってはいけない」ことになっいる)面が、確かにあったといえます。多くの人にとって、知能等には、遺伝の要素があるとは思いつつ、それには触れず、環境や努力の問題として、扱うことの方が望まれていたということです。
この著書が、読まれているのも、このような見方からすれば、これらの研究は、センセーショナルに響くところがあるからでしょう。また、本書のように、このような研究を紹介する本が、センセーショナルな効果を、あえて狙っている面もあるでしょう。
しかし、気づかれてはいたとおり、これら、人間の知能等であっても、遺伝と無関係などということはなく、遺伝と環境の相互作用を受けることは、当然というべきです。そもそも、遺伝と環境の影響の一方を度外視して、他方だけで、説明しようとする方が、無理というものです。
私も、「統合失調」についてですが、記事『狂気(統合失調症)の「原因」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)で、内的、外的の様々な「要因」をあげています。この中で、もともとの「内的要因」としてあげたものは、遺伝と強く関わるはずのものです。「脳の脆弱性」はもちろん、「分裂気質」や「霊媒体質」というのも、具体的な物質的基盤は不明ですが、遺伝との関わりが強いとみられます。要するに、統合失調なら、統合失調の「なり易さ」という点には、遺伝の要素が強く働くと思われるのです。それが、環境との関係で、具体的な発現をもたらすことになるわけです。
このような「なり易さ」と具体的な発現ということは、人間の知能等のあらゆる場合に、言えるはずのことです。
しかし、最近の「行動遺伝学」の研究は、遺伝と環境の相互作用としても、「遺伝率」の方が高いことを示しているのであり、それは、やはりセンセーショナルな事実に変わりない、という見方もあるでしょう。
この点については、私は、後にみるとおり、「行動遺伝学」の方法自体に、多分に疑問があり、文字通りには受け入れることはできません。また、このような結果は、現代の、知能等の問題に、適切に対処する方法を欠いている、画一的な社会状況だからこそ現れる、という面もあると思います。
しかし、そのような現代の社会状況を前提にして、非常に「大まかな傾向」としてみるならば、恐らく、知能等に、環境より遺伝の要素が強く働くというのは、間違いではないのでしょう。
ところが、問題は、このように「遺伝」が強調されることで、今度は、「遺伝がすべて」であるかのように、逆の方向に揺れることが、予想されることです。あるいは、「優生思想」的な発想をしていた人は、これ幸いと、この研究を、自分の発想と結びつけて、その根拠とすることでしょう。「遺伝」の問題がタブー化されていたことの、「反動」のような現象が、起こり得るということです。
何かある問題を、「遺伝のせい」にして済ますということは、「責任」や「努力」の問題を考えないで済み、「魅力的」なことではあるのです。これは、犯罪や精神疾患のような、一般に「マイナス」とみなされる事柄に顕著です。そして、その延長には、どうしても、その「遺伝要素」を、技術の力を借りて、物理的に改変または排除すればよいという、「優生思想」的な発想がもたらされることになります。
しかし、こういった問題は、(これは著者も指摘していますが)遺伝か環境かの問題から来るのではなくて、もともと、精神疾患なら精神疾患を、「悪しきもの」、「排除すべきもの」と決めつける見方の方にあるのです。このような見方では、問題が遺伝であろうと環境であろうと、それを「取り去る」、「責任を押しつける」という、短絡的な発想にならざるを得ないからです。
そして、このような見方は、記事『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html )でもみたように、近代以降に顕著になったもので、「オカルト的」なものを、「排除すべきもの」とみる見方と、分かち難く結びついているというのが、私の立場です。
しかし、とりあえず、ここでは、それはおくとして、「遺伝と環境の問題」で言うならば、「遺伝」と「環境」のどちらかを強調して、一方を顧みないことが、問題をこじらせるのです。だから、このような研究は、「遺伝」を強調したというよりも、これまで等閑視されがちだった、遺伝の要素を取り戻して、人間の知能等の問題は、「遺伝と環境の相互作用による」という、本来、当然そうであるところに引き戻したもの、と受け取るべきでしょう。
以下、「行動遺伝学」の方法についての疑問というのを、簡単に述べます。(現段階でのもので、後にこの研究をよく知れば、解消する可能性はあります。)
「行動遺伝学」は、遺伝子が同一である、一卵性双生児の知能等の現れを、環境の違いによって、違う現れをするかどうかを、統計的に分析することに基づいています。
一卵性双生児は、遺伝子が同一としても、普通は育ての親も同じなので、遺伝の影響か環境の影響か、区別は困難です。ところが、最近は、双生児の一方が養子に出されて、育ての親が異なる事例も多いので、その場合を統計的に分析することにより、遺伝か環境かの区別ができるというわけです。
しかし、そもそものレベルでいうと、既にみたように、「遺伝」と「環境」の作用は、分かち難く結びついているのに、その影響として、どちらかを、厳密に取り出すことができるのかということがあります。
また、分析のもととなる、「知能等」という結果の評価は、社会や文化に影響を受ける、曖昧かつ主観的なものなのに、それを前提にして、正確な分析ができるかということがあります(「精神疾患」などは、その最たるものです)。
しかし、それはおいても、大きな疑問は、遺伝子が同一である一卵性双生児であれば、育ての親による違いが結果として現れない場合であれば、すべて、「遺伝要因」に含めてよいのかということです。
たとえば、育ての親が違う場合でも、地域や文化などによって、育て方その他の環境が共有される場合はいくらでもあります。既にみたように、知能等に対処する適切な環境が整っていない、現代のような画一的な社会状況では、そのような場合は多いと言えるでしょう。その環境が、知能等に及ぼす大きな要因となっている場合でも、それが共有されてしまっている場合は、統計的には「違い」として現れないはずです。そのような場合、それは、統計上、遺伝の方に含まれてしまうのではないかということです。
さらに、著者もあげている、胎児期に影響を受ける、鉛のような金属や、その他の外部的、物質的な、環境要因の場合には、なおさら、このことが言えます。これは、ある地域や、場合によっては、広く全体として共通の環境要因となります。ところが、統計的には、育ての親による違いとして現れなければ、遺伝要因に含まれてしまうことになるのではないでしょうか。しかし、このような、外部的、物質的な環境要因は、知能等に与える影響も、少なくないはずなのです。
もう一つ、これは、オカルト的な「禁じ手」ともいえますが、一卵性双生児が、同じような「運命」をたどりやすいのは、遺伝要素だけでなく、(テレパシーその他のオカルト的要素も含む)お互いの強い結びつきによるのではないか、ということもあります。
とりあえず、こんなところですが、要は、このような統計的方法によれば、環境より遺伝の影響と判断される場合が、実際より多くなってしまうはずだということです。
たから、その意味でも、それを差し引いて、「遺伝と環境の相互作用による」という、本来、当然のところに引き戻して受け取れば、ちょうどよいことになるはすです。
最後に、「統合失調」の場合ですが、実際に、精神医学の方面で、「遺伝要因」として、どのようなことが考えられているかについても、簡単にみておきましょう。
岡田尊司著『統合失調症』(PHP新書)によれば、遺伝要因は、確かに認められているのですが、それは、「遺伝子多型」とよばれる、多様な遺伝子の、複雑な相関関係によります。つまり、何か特定の一連なりの遺伝子を、要因として、取り出すことができるわけではないのです。
だから、遺伝の問題として、それを改善なり、排除しようとするとしても、そんなことは、今のところ(恐らく今後も)不可能に近いものです。統合失調の「遺伝子多型」は、濃淡はあるにしても、非常に多くの人間に広がっているので、本当に、改善なり排除しようとすれば、それら多くの人間の遺伝子を、根こそぎ改善なり排除しなければなりません。
ところが、それら「遺伝子多型」は、統合失調だけでなく、他の面に作用するものも含まれるはずで、それらを変え、または取り去ってしまえば、他の面にも多くの影響が出るはずです。
実際、それらの遺伝子が、これだけ残っているということは、それらが、決して、進化史上、マイナスのものではなかったことを示しています。
それらを、マイナスのものとみる見方は、近代以降に顕著になったのであって、それ以前はそうではなかったことを考えれば、それも当然でしょう。
そういうわけで、たとえ、遺伝の問題を強調したり、優生思想的な発想を押し進めるとしても、実際には、そのような要因を、改善したり、取り除くことは、できないことなのです。
もっとも、そのようなことを強調する人は、 それを強調することの「イデオロギー的な効果」に、意味を見い出しているのであって、実際に、それを改善したり、取り除くこと自体に、興味があるわけではないのでしょうが。
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