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2017年11月

2017年11月21日 (火)

新たに転載した「捕食者」関連の記事

当ブログ記事の2011年5月以前の部分は、かつての『さるさる日記』の記事の転載で、重要と思われるもののみをあげています。

ところが、この度、「捕食者」関連の記事で、いくつか前回の記事の内容とも関わる、重要なものがみつかりましたので、改めて転載しておくことにします。

今回転載したのは、以下の記事です

1  『 「世間」との「折り合い」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-9d46.html)

2  『「集団性」との「折り合い」』  (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post-3bbb.html)

「集団性」、「世間」の背後にあるものこそ「捕食者」なので、 いずれも、その「折り合い」の実質は、「捕食者との折り合い」となることを述べたものですが、それぞれ違う観点から、述べられています。

3  『結局は「おいしい」か「まずい」か』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3aaf.html)

前回の記事同様、「捕食者の食」の実質を明らかにするものです。

4 『「捕食者」的な「宇宙人」情報』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-4eeb.html)

社会全体に向けた「捕食者」の「仕掛け」に関わるもので、まさに現在の状況を表しているといえます。

5 『まとめ-「補食者」について』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e336.html)

記事 『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html )とも重複しますが、「脱却に向けての第一歩」についてもまとめていますので、あげておきます。

2017年11月18日 (土)

「捕食者的存在」の「食」と我々の「食」

前々回、「統合失調」や「集団ストーカー」にみる、「仕掛け」をなすものを、「加害者」として糾弾しても、「「捕食者的存在」にとっては、「食」を得る手段なので、止めるはずがない」と述べました。

このようなことを、理解するには、彼らの人間に対する立場を、我々が他の存在を食することに照らし合わせて、理解するしかないと思います。そして、実際に、それらは、相似形的な、併行現象であり、互いに因果的に結びついた現象ともいえるのです。

「捕食者的存在」が、我々の、特に恐怖という、ネガティブな感情エネルギーを食糧としていること。それを継続的に収穫すべく、我々に対して、組織的、戦略的に働きかけていることは、これまでも何度も述てきました。(たとえば、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-89a8.html  など 、なお、『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

人間と違い、「物理的な成分」を食しているのではないので、文字通りには人間の場合と同じではないですが、実質的には、我々が、生きて行くために、食糧を必要とすることと違いはありません。

むしろ、最近は、人間の場合でも、「食べない人たち」がかなり表に現れ始め、人間に、「物理的な成分」としての食が、必ずしも必要ではないことが、明らかになりつつあります。ただし、その場合でも、彼らが何らの「エネルギー」も必要としていないのではなく、たとえば、弁護士の秋山という人は、宇宙に満ちている、エーテル的なエネルギーである、(ヨガでいう)「プラーナ」を食していると、公言しています。昔から、仙人は「霞を食う」と言われていましたが、これは、この「霞」と同じものと言っていいでしょう。

「捕食者的存在」の食するエネルギーも、「見えないエネルギー」という意味では、この「プラーナ」に似ていますが、人間から発する感情エネルギーであり、しかも、恐怖というネガティブなものを中心としていることが、「特異」と言えば特異なのです

しかし、前回のバシャールも言うように、ネガティブな感情ほど、複雑で多様なものが多く、しかも、強力であることに鑑みれば、彼らがそれを食するように進化したとしても、不思議ではありません。

「複雑で多様」というのは、味として、「単調」ではなく、「美味しい」ということにもなるでしょうし、また何よりも、人間から、継続して収穫しやすいのは、ポジティブな感情より、ネガティブな感情であるのは明らかでしょう。

それで、彼らは、確かに、人間からすれば、「虐待的」といえるような、戦略的な「仕掛け」を、人間に対して行い続けています。それは、恐怖を中心とする、ネガティブな感情を得るためになされるので、当然、虐待的なものになるし、果てしなく膨らむ「恐ろしさ」を秘めたものになります。またそれは、人間的な感情に基づくのとは異なり、徹底して、非情であり、冷徹なものです。さらには、人間が容易には理解できないような、知的な戦略に貫かれた、手の込んだものです。

それは、何も、「統合失調」や「集団ストーカー」の「被害者」に対してだけでなく、人間一般に対して、なされています。

人間一般に対して、このような「仕掛け」をなすには、まず、人間を全体として、彼らの管理・支配の及びやすいように、収容して育てることが必要となります。「社会」そのものが、彼らにとって、そのような収容のための装置だということです。それは、我々が、食用の牛や豚を、畜舎に収容して飼育するのと同じことです。

ただし、牛や豚は、殺すために飼育されますが、我々は、単純に殺すためではなく、じわじわと痛めつけ、継続的に苦痛を得るためにこそ、飼育されるということです。そこでなされる「仕掛け」には、様々なものがありますが、要するに、「集団」というものを通して、人と人の間に、矛盾や軋轢、争いをもたらすようなものです。

人間は、一般に、「集団」として、そのような「仕掛け」を、常に受けており、「捕食者的存在」は、そのような集団を通して、社会全体から、一定のネガティブな感情エネルギーをくみ取っているのです

このような、集団としての管理・支配を強めるには、個々の存在を、反抗できないように弱体化し、機械化された方法で、合理的になすのが適当です。ところが、そうすることは、ネガティブな感情エネルギーを、より多様に、かつ強力に生み出すこととは、両立しません。機械化された方法では、また、弱体化された存在からは、ネガティブな感情エネルギーとしても、質の低いものしかとれないということです。

それは、我々が牛や豚の飼育を、遺伝子操作された餌やホルモン剤、抗生物質などで、弱体化しつつ、機械化された方法で行っているのと同じことです。このような方法は、大量生産で、安く、大量の肉を生産するには適していますが、質は落ちるばかりか、食する側にとっても、危険をもたらします。それは、化学物質漬けにされ、弱体化された、人間を食する側にとっても、同じことでしょう。

一方で、集団というものには、必ず、「はみ出す」存在がいます。飼育されている牛や豚もそうですが、人間にも、このような管理・支配から、はみ出しやすい者がいるのです。このような者は、「集団」に対して折り合いが悪く、集団を苦手としたり、反抗したりしやすいのです。「分裂気質」の者が典型的ですが、「集団ストーカー被害」を訴える人も、多くその傾向があるといえます。「集団」というものと相性が悪いのは、「集団」そのものを、「迫害者」や「ストーカー」として糾弾していることからも、明らかでしょう。

そのような「集団からはみ出す」者に対しては、先にみた、一般的な、「集団を通しての仕掛け」のほかに、個別に、食するための「仕掛け」がなされなければなりません。それこそが、前回みたような、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者になされる、「仕掛け」ということです。(記事『「捕食者」と「分裂病的状況」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post-495c.html 参照)

人間も、管理からはみ出す家畜を、優先的に殺し、食すということを行います。同じように、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者は、個別的なレベルでは、優先的に食されているといえます。

さらに、人間も、大量生産された質の悪い肉だけでは、満足せず、地鶏や自然放牧された牛、さらには、野生の動物を狩猟して、食することも行います。同じように、「捕食者的存在」も、集団を通して、大量発生される、質の悪い感情エネルギーだけでは満足せず、集団からはみ出す者から、個別的に、「感情エネルギー」を執拗にくみ出して、食することも行うのです。

もっとも、何も、このような「集団からはみ出す」者が、彼らによって、個別的に「選別」されているわけではありません。人間も、野生の動物を狩猟するのに、「罠」を仕掛けて、それにはまったものを食することを行います。同じように、「集団からはみ出す」人間にも、「罠」としての「仕掛け」がなされ、それにはまった者を、個別に捕らえるということを行うのです。「集団ストーカー」という「観念」は、その「罠」の典型ですし、他にも、「被害妄想」的な発想を刺激する、さまざまな「仕掛け」があります。

これらは、誰もが、「引っ掛かる」のではなく、特にそれを信じてしまうような人、あるいは、それに敏感に反応する人が、引っ掛かるのです。それは、単純に「信じやすい」とか、(感覚的に)「敏感」ということもありますが、そのような「仕掛け」は、集団の中で忙しくし、社会的な常識でかんじがらめになっている人には、通じにくいという意味で、やはり、 社会から「はみ出す」人の方が、かかりやすいのです。

いずれにしても、動物に対する「罠」と同じように、広く仕掛けておいて、それに掛かった人が、特に「捕食する獲物」として狙われるのです。
                                                          
この罠は、我々で言えば、「迷惑メール」のようなものです。多くの人に仕掛けられますが、それに反応せず、放っておけば、特にそれに追い打ちをかけて、何かを仕掛けられることもありません。しかし、それに対して、何らかの反応をしてしまった人、それも、一度ならぬ、反応をしてしまった人が、 「カモ」として狙われ、深みにはまって行くのです。

「捕食者的存在」の場合には、その「仕掛け」に対して、怒りや恐れなどの、ネガティブな反応をする者ほど、格好の「カモ」として、狙われることになります。

このように、「捕食者的存在」の「仕掛け」は、確かに人間にとって、「虐待的」なものとしてなされています。しかし、それは、食を得る手段であること、人間が食を得るために、他の動物等になしていることと併行的な現象で、それと切り離して考えることはできないことは、確かなのです

しかし、そうだとしても、「捕食者的存在」の執拗な「仕掛け」は、意識ある者にとって、あまりに非情であり、本当に、食を得るために必要なものとして済まされるのか、疑問もあるでしょう。

それはそうなのですが、このような疑問は、同時に、我々が食するために、動物等になしていることに、そのまま返って来ます。そして、それは、もし問題にするなら、我々は、「食べる側」としても、「食べられる側」としても、全体として、「食」ということを、見直さなければならない、ということを意味しています。

我々が、肉を食するために、動物に対してなしていること(特に、屠殺のあり方)は、意外と知られていないものです。一種、「タブー化」しているともいえます。ただ、Youtubeには、その様子を撮った動画も、多くあげられています。本では、基本的な事柄のみですが、森達也著『いのちの食べ方』(角川文庫)が、分かりやすく説明しています。

ポイントとして、「血抜きをするために、生きたまま解体しなければならない」ということがあります。そのため、即死させる方法は、とることができないのです。日本では、牛では、前頭部をガンで打撃し、卒倒させる方法、豚では、炭酸ガスで窒息させて、意識不明にさせる方法がとられているようです。恐らくですが、多くの場合、その方法に忠実に、酷い苦痛は与えないで、解体されていることと思います。しかし、常にそのやり方が、成功するとは限りません。ときには、意識を失わせることに失敗し、そのまま解体しなければならないこともあるでしょう。

外国の例ですが、Youtubeには、明らかに、意識がある状態で、壮絶な叫び声をあげながら、解体されているのを撮った動画もあります。

たびたび引用している、『スターシード』も、次のように言っています。

恐ろしいことに、死んでいく動物の細胞一つ一つには人間への恐怖が充満していて、あなた方はその感情すら摂取しているのです。そしてこの不調和状態は、肉汁滴るステーキにナイフを入れたり、脂っこくて香りのよいハンバーガーを頬張ったりするたびに、あなた方の身体(魂の住処)に吸収されてゆくのです。

これは、「食べる側」にとっての、「危険」という観点から述べたものですが、そうでなくとも、これらのことが、本当に「食」を得るために、必要なことかどうかということは、改めて問われると思います。ここでは、屠殺の問題だけあげましたが、既にみたように、大量生産的で機械的な飼育の仕方も、当然問題になります。

そういうと、肉以外のものならいいのか、ということにもなりますが、先に、「食べない人たち」についてみたように、我々は、必ずしも、物理的成分としての「食」を、必要としていない可能性もあるのです。「個別的な食」云々というよりも、「食そのもの」について、見直さなければならないということです。

さらに言うと、「食」ということは、本当に、「必要性」の問題なのか、ということも問われます。実際、我々現代人は、「食」において、「必要性」を意識して食することなど、ほとんどないのが実情でしょう。それは、「食」そのものが「快楽」なのであって、「欲望」と、分かち難く結びついているからです

前に、記事『「MIB」のその後と「集団ストーカー」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4224.html)で、「捕食者的な宇宙人」が、我々に虐待的な仕掛けをするのは、「愉快犯」的な面があると言いました。しかし、我々が、他の動物等を食することにおいても、また、「愉快犯」的な面がないとは言えないでしょう。我々が、皆で、焼肉等を食べに行くのは、「愉快」だから行くのであるはずです。最近は、「狩猟」ということが、流行っているようですが、それも、単に既製のものを「食べる」だけより、「愉快」だからという面があるはずです。

あるいは、そもそも、食材をあれこれ調理し、味付けして食べるのは、より「おいしく」食べるためであり、それは要するに、それが「快楽」だからです。

「捕食者的存在」が、様々な「仕掛け」をして、人間から恐怖を始め、多様な感情的反応を得ようとするのも、要するに、「おいしく」食べるための、「調理法」であり、「味付け」だと思えば、理解はできるはずです。(『注文の多い料理店』で、料理店の主が、人間に、いろんな「注文」をつけて来たのと同じことです。)

私自身は、肉も食べますし、今現在、人間として、「食」そのものを根本的に変えること(「食べない人」になる等)が可能とは思ってもいません。が、同様に、「捕食者的存在」もやはり、彼らの「食」のあり方を、今現在、変えることなど、思いもつかないことであろうと思っています。人間が全体として、「食」のあり方を変えるということと、「捕食者的存在」が、食のあり方を変えるということは、恐らく、併行的な現象として、同時的に起こり得ることなのでしょう。

しかし、現段階で、それが期待できない以上、我々としては、できる限り、彼らに、一方的に、いいようには「食われない」ように、成長するしか、手立てはないのだと言えます。

2017年11月 5日 (日)

「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込む「仕掛け」

本人の「思考」または「信念」こそが、「現実」を作るという前回のテーマに照らせば、相手方の「仕掛け」のことには、あまり拘る必要はない。むしろ、それを「受け取る」自分自身の、「思考」や「解釈」こそが問題なのであるから、それに注意を向け直すべきということになります。

しかし、実際には、相手方の、尋常でない(オカルト的であり、非人間的な)「仕掛け」に、振り回されていることも多い以上、その「仕掛け」そのものについても、ある程度の理解が得られない限り、なかなか自分自身の「思考」の問題に注意を向け返すことも難しいでしょう。

この「仕掛け」については、具体的なレベルでは、どのようなものかを、「声」や「人の操作」、「共時性の演出」など、様々に述べてきました。そこには、「統合失調」の場合と「集団ストーカー」の場合の違いも反映されます。

しかし、この「仕掛け」とは何かを、一言で言うならば、それは、ある「観念」に「感覚的リアリティを吹き込む」ということに尽きます

そもそも、「集団ストーカー」という「観念」そのものが、強力に練り込まれた「仕掛け」といえます。この「観念」を受け取るだけで、もともと被害妄想的な傾向がある人は、十分に、自分の体験を、「集団ストーカーの被害」として解釈できるようになります。

しかし、ある「観念」を受け取るというだけでは、それが「現実化」されるほどに、強烈に信じ込まれることにはならない場合も多いでしょう。そういう場合に、その「観念」を信じ込ませるのに、大きな役割をなすのが、「仕掛け」であり、それは、その「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込むということなのです。

たとえば、かつてオウム真理教は、LSDを使って、信者に、麻原そのものや麻原の教えを、強烈に信じ込ませることを行っていました。このLSDは、まさに麻原の提供する「観念」を信じ込ませる「仕掛け」として、利用されたのです。

LSDは、幻覚剤であり、人を変性意識に導き、リアリティのある幻覚を体験させるものです。通常の感覚では、とても信じられないことでも、(それは、麻原の提供する「観念」と結びつけて解釈するように誘導されている状況で起こるので)このような強烈なリアリティを伴う感覚によって裏付けられれば、信じ込まれてしまうことにもなるのです。

このLSDと同じ役割を、相手方の(オカルト的、非人間的な)「仕掛け」は、なしているということです。

「統合失調」でいえば、「声」という、まさに幻覚的な方法で、統合失調者の「妄想」が裏付けられることになります。「集団ストーカー」という「観念」でいえば、それを信じ込ませるような、「人の操作」や「共時性の演出」が、感覚的レベルでなされるのです。それは、物理的現実そのもので、「幻覚」ではない場合が多いでしょうが、通常の日常性の範囲を超えた要素を含むという意味で、「幻覚」と通じるものです。あるいは、物理的現実そのものではなく、物理的現実と区別し難い、「中間的現象」の場合も多いと思われます(※1)。

いずれにしても、LSDと同様、通常は信じられないことでも、信じさせてしまうだけの、リアリティを生み出す力があるということです

そういう力があるということには、気づかない限り、なかなかことの全体を、「マインド・コントロール」として理解するすべもないでしょう。また、そのような「仕掛け」ではなく、それを受け取る自分の思考の問題に、意識を向き直すこともできないでしょう。

その意味では、やはり「オカルト」的なもの(への理解)を抜きにして、この問題を本当に納得できるものとして解決するのは、無理ということになります(※2)

※1  たとえば、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html )で述べた、「ホログラフィの挿絵」なども、これに含み得ます。「統合失調」においても、このような「中間的現象」による「仕掛け」は行われますが、総じて言うと、「集団ストーカー」の場合の方が、より物理的現実に近い「仕掛け」が多いようです。この点については、近いうちに、「統合失調」と「集団ストーカー」の共通性と相異についてまとめるときに、さらに述べたいと思います。

※2 精神薬により、「集団ストーカー被害」が、ウソのように消えたという話があります。それは、あながち「宣伝」というだけでなく、事実である可能性があります。精神薬は、「感覚」を鈍らせて、「仕掛け」としての「感覚的リアリティ」を、失わせることがあるからです。「感覚的リアリティ」が失われると、一気に、「まともな思考」が芽生えてきて、「集団ストーカー」という観念についても、「そんなことはあり得ない」と気がつけるのです。

しかし、それは、あったとしても、一時的現象というべきです。薬が切れて、「感覚的リアリティ」が戻ってきた場合には、また「集団ストーカー」の観念も戻ってくるでしょう。また、精神薬は、感覚一般、思考一般を鈍らせるので、このようなネガティブな観念だけに働くのではないのです。さらに、精神薬は、LSDと同様、幻覚をもたらすこともあるので、むしろ、現象を助長することもあるのです。

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