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2017年10月

2017年10月26日 (木)

「思考」または「信念」が「現実」を作ることの認識

「統合失調」も「集団ストーカー」も、結局は、「捕食者的な存在」の「オカルト」的(非人間的)な「仕掛け」なのであり、それに対して、人間の側が、やむにやまれず、「人間的」な解釈を施すことによって、自ら恐怖と混乱の状況を作り出しているものです。それこそが、「捕食者的な存在」の狙いなのであり、初めから、意図されたことです。

このような「オカルト」的な「仕掛け」が、真に功を奏すには、強い不安をもたらすものでありながら、曖昧で、いかようにも解釈できるものでなければなりません。その曖昧な「仕掛け」に対して、人間が、人間の経験に引き寄せて、無理やり「人間的な解釈」をすることで、自ら恐れと混乱に満ちた、地獄的な状況を作り出し、そこに抜け出し難くはまり込んでいる、ということです。

そうやって、その抜け出し難い、地獄的な状況から、彼らの食糧である、恐怖の感情エネルギーを、尽きることなく、くみ取っているのです。自らの労力は、最低限の「仕掛け」だけで済み、後は、食糧である人間本人が、自らの解釈によって勝手に作り出し、拡大し、再生産してくれるのです。

ある意味、これ以上ないほど、「見事」に効率的な戦略と言わざるを得ません。

そこでは、「何を行うか」ではなく、「どう思わせるか」こそが、すべてとなります。要するに、徹頭徹尾、「マインド・コントロール」で成り立っているということです。

人間の支配層や指導者なども、支配や指導の方法として、「マインド・コントロール」を使います。しかし、「捕食者的な存在」による「マインド・コントロール」は、人間の場合とは、根本的に異なる面があります。

人間も、「思考」や「信念」が、「現実」を作り上げるのに、重要な要素であることを知っています。しかし、物理的な身体を持ち、物理的な外界こそが(唯一の)世界だと思っている人間は、現実に、物理的な働きかけをする「行為」によって、真に影響が与えられる、という思いが身についています。「思考や信念が現実を作る」というのは、二次的な意味合いになっているのです。

ところが、物理的なものを超えた存在である、「捕食者的な存在」にとっては、人間にとっては確固たる、「物理的現実」なるものも、「思考」や「信念」が作り上げる、一つの「幻想」に過ぎません。「思考」や「信念」こそが、「本質的」に、「現実」を作り上げるということを、知っているのです。

だからこそ、「何を行うか」よりも、「どう思わせるか」という「マインド・コントロール」こそが、本質的な意味において、「すべて」となるのです。それこそが、人間に、どのような「現実」を作らせるかを、決めるものだからです。

「思考」または「信念」が「現実」を作るということについては、チャネリングの走りであり、宇宙存在として有名なバシャールも、次のように言っています。

すべての観念には、「特有のメカニズム」があります。
物質次元で何かを経験するためには、ある観念があなたの中にずっと存在し続ける必要があります。
言い換えると、その瞬間に、「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる必要があるのです。
そう思わせる観念のメカニズムのひとつに、「自己強化性」という性質があります。

たとえば、あることを心から信じていると、それは物質次元でも実現します。すると、実現したことによって、さらにその観念が強化されます。
もし観念に、このような性質がなければ、それを実際に物質レベルで体験することは不可能です。

なぜなら、物質レベルの現実とは、実体のあるものではなく<幻想>だからです。つまり、観念の存在によって、あなたが物質次元で体験していることが、「現実である」と信じられるようになっているのです。」

                                             『未来は、えらべる』(VOICE新書)P.14

非常に分かりやすい説明で、端的に、「観念が現実を作る」ことを明らかにしています。その「観念」が強く信じられることで、「現実」なるものが作られ、さらにその観念を「自己強化」していくという、循環が重要です。まさに、それこそ、「捕食者的な存在」の「マインド・コントロール」で意図されていることなのです。「「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる」というのが、ポイントです。

さらに、このような「観念」には、ポジティブなものとネガティブなものがあることを次のように述べています。

みなさんの現実をつくっている観念には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。

ふたつの観念の、もっとも大きな違いをお教えしましょう。
ポジティブな観念は、「現実は幻想かもしれない。それなら、もしかしたら変えられるかもしれない」という可能性に気づかせてくれます。
一方、ネガティブな観念は、「自分が物質レベルで体験していることは確固として現実なので変えることはできない。もし変えるとしても、とても難しい」と信じ込みます。
そう信じ込ませるために、ネガティブな観念の構造は、ポジティブな観念よりも非常に複雑で多面的です。
「これが現実だ」と信じ込ませるためには、いろいろなトリックが必要だからです。

                                                          『同』P.16

ネガティブな観念こそが、複雑で多面的、従って、その分強力な「現実」を作り出してしまうことを、よく説明していると思います。「捕食者的な存在」は、そのようなネガティブな観念こそを、「いろいろなトリック」を用いて、植え付けているのです。「統合失調」の「妄想」もそうですが、「集団ストーカー」という「観念」は、その典型というべきです。(記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-2e51.html  参照)

ただし、「現実を作る」といっても、その「現実」としての「度合い」または「段階」には、様々なレベルがあることには、注意を要します。

よほどの能力者でもない限り、個人の思考から、いきなり「物質的」な現実が作られるというわけではありません。「現実」というのは、集合的な思考により、焦点化がなされることで、段階的に強化されていくと考えられます。そして、その「集合性」も、人間だけでなく、多くの存在が絡むほどに強力なものとなります。

私も、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/1-4b0e.html、 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-327b.html)で、「ホログラフィク・パラダイム」を紹介しつつ、現実とは知覚そのものであり、意識(思考)によって、ホログラム領域から、引き出される(「作られる」)ことを明らかにしています。そして、それには様々な度合いがあるのであり、集合的なものほど強力になることを明らかにしています。

「統合失調」や「集団ストーカー」で作られる「現実」というのも、このように、様々な度合いまたは段階があります。単に、思考や信念がもたらす「認識のひずみ」である「錯覚」というレベルから、内的な世界としての「現実」が作られ、それが外界に投影されるというレベルもあります。しかし、実際に、外界そのものに影響するレベルもあるのです。

たとえば、「信念」に関連した、共時的な現象を引き寄せるというレベルがあり、さらには、「中間的な現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)でみたように、霊的レベルから物質的レベルまでの間で、何らかの「現実」(「実体」的なもの)を「作り出す」というレベルまであります。状況に深く入り込めば入り込むほど、そのような度合いは強くなります。

「統合失調」では、妄想が本当に幻覚ということを超えて、「現実」になり得るし、「集団ストーカー」では、「集団ストーカーという信念」そのものが、本当にそういう「現実」を引き寄せるだけでなく、作り出すまでになるのです。

だから、恐ろしいのは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものというよりも、ネガティブな思考や信念が、こうまで現実を作り出すということの方にある、というべきです。

このようなネガティブな思考を変えない限り、地獄的な状況からは、抜け出せないということです。「集団ストーカー」でいえば、「集団ストーカーという信念」そのものを問い、変えなければなりません。しかし、地獄的な状況に入り込めば入り込むほど、それが現実を作り出す力も増すので、それに気づくことは難しくなるわけです。

しかし、一旦それに気づくことができたなら、そこから抜け出す可能性が出てくるだけでなく、それは、思考や観念こそが現実を作ることを知る、絶好の機会ということになります。そして、そのように、「変えることができる」と思わせるものこそ、「ポジティブな観念」ということです。

この点で、非常に、ネガティブな観念を固定するのに役立っているのが、「被害者」という発想です。

「被害者」という発想は、自分は一方的に「される」側の立場であり、相手方(加害者)こそが、その「現実」もたらす「主体」であるということを、意味しています。つまり、この件に関しては、自分には「主体」(同時に「責任」ということでもあるが)がなく、この「現実」から抜け出すことができるか否かは、すべて相手方にかかっているということです。それでは、自分の「観念」という、主体的要素が、この件について、「現実を作り出している」ことに気づく余地はありません。

「現実的」に言っても、自分を「被害者」とし、相手方を「加害者」として糾弾したからといって、「捕食者的な存在」が、このような(食を得る手段である)「仕掛け」を、止めるはずもありません。むしろ、そのような怒りの感情を誘発する、ネガティブな反応こそが狙いなので、まったく、彼らの「思うつぼ」ということです。それは、たとえ、「捕食者的な存在」でなく、何らかの人間や組織の仕業と仮定したとしても、ほとんど同じことになるでしょう。

だから、もし、このような状況から抜け出すことを、本当に望むなら、相手方云々ではなく、自分自身ができることをするしかないのです。そして、そのようなことは、「被害者」という発想を前提としている限り、できるものではありません。「被害者」という発想そのものを問い直し、その「観念」がもたらすものに注目する必要があるのです。(

その結果として、ネガティブな観念が、「現実」を作り出していることに気がつくならば、そのような「現実」を作り出す効果そのものが弱まるのです。ネガティブな観念の、「自己強化性」の循環が断ち切られるからです。さらに、それは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものをも、脱することにつながります。ネガティブな観念を作り出す効果が期待できないとなれば、「仕掛け」をする意味もなくなり、その頻度が、大幅に減少するからです(但し、それをなさせないために、一時的に、「仕掛け」が強まることはあります)。

さらにいえば、これらのことを通して、「現実」とは、思っていたように、「確定的」なものでも、「固定的」なものでもなく、(潜在的には)いかようにも変えられる、<幻想>のようなものと気づくことも重要です。それこそが、バシャールのいう「ポジティブな観念」ということであり、ポジティブな観念とは、「現実」への拘りや、捉われを少なくすることによって、それから自由になるということなのです。

※ 「被害者」について

この場合の「被害者」というのを、放射能や公害などの特定の事象や特定の犯罪における被害の場合と、同列に論じることはできません。それは、もちろん、解釈に基づくあやふやなものということもありますが、「集団ストーカーの被害」とは、特定の事象かつ特定の相手方に対するものではなく、実質上、生活全般にわたる、特定できない多くの者に対する「被害」ということを意味しているからです。

そこで、「被害者」ということは、自分には、生活全般にわたって、(自分以外の)多くの者に対して、「主体がない」ということを意味します。「被害者」ということ自体が、自己を本質的に規定する、強力な「観念」になっているということです。本人は、それを一種の「アイデンティティ」として立てようとしているかのようですが、むしろ、そうすればするほど、「自己」の主体というものを、なし崩しに失っていくのです。

そうして、このような強力な観念は、実際に、自分が一方的になされ、秘密を奪われ、「主体」をはく奪されるかのような現象を、引き寄せ、作り出してしまうのです。

だから、必要なことは、できる範囲で、自己の「主体」を取り戻すことです。それは、この意味の「被害者」ということを前提にしている限り、かなうことではありません。それには、このような現象全般について、(相手方ではなく)自分の側が与えている影響に気づき、それを変えていくしかないのです。

2017年10月 3日 (火)

「知ってはいけない」ことの危急版

知っている人も多いと思うが、矢部宏治著『知ってはいけない』(講談社現代新書)は、戦争を含めて、今後の岐路に関る重要な総選挙を控えたこの時期に、日本人が必ず読んでおくべき本と思う。(さらにいえば、より詳しい『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』も)

「知ってはいけない」とは、秘密にされているということでもあるが、それ以上に、一種の逆説で、本当は、「必ず知っておくべき」ことなのだが、日本人として、正面から認め難いことのために、「知ってはいけない」状態のままとなっているのである。

それは、日米安保条約に基づく日本の戦後体制のことで、簡単に言うと、日米地位協定によって、米国との安全保障上の問題は、日本の法律でもなければ、憲法ですらなく、日本の官僚と米軍との「密約」で取り決められることになっている、ということである。この密約は、憲法の上に位置するもので、日本の官僚は、地位の保全上、それに従うだけだから、実質上は、米軍が好きなように決められるものになっている。

具体的には、米軍は、日本の上空を、好きなように飛ぶことができる。日本のどこにでも、基地を作ることができる。実質、治外法権的な扱いを受ける。原発にも、日米原子力協定によって、基地の場合と同様のことがあてはまる。日本に対しては、国連の「敵国条項」が今でも生きている、などである。米軍は、日本の原発を攻撃対象として、いつでも破壊できるというオプションをもっているという、驚くべき事実もある。

しかし、最も重要な「知ってはいけない」ことを、一つ絞って言うなら、それは、「非常時には、米軍の指揮官が、自衛隊を自由に指揮することになっている」ことである。

日本は、「対米従属」とか、「米国の属国」ということが、これまでにも言われて来たし、かなりの人はそれを現実として受け止めているが、この書では、これらのことが具体的な資料を通して、明解で分かりやすい論述で、説得的に説き明かされている。それは、改めて突きつけられると、やはり衝撃的なことではある。

私も、東京にいたとき、米軍機のあまりにもの超低空飛行を経験し、それに驚くとともに、むしろ周りの人が、それに対して、怪訝な顔すらしないことに驚いたことがあって、実際どうなっているのかと思ったり、最近も、ケムトレイルに関して、米軍機が日本上空を自由に飛んで、まき散らしているのだとしたら、それを追究することは、事実上不可能になるではないかと、自国の領空を他国の軍機に、自由に飛ばれることの恐ろしさを、改めて感じたりもしていた。

しかし、それは、本当に、そのとおりになっているということだ。

安倍首相は、「憲法9条に自衛隊の存在を明記する」というが、それは、前に成立した安保法と先の「知ってはいけないこと」に照らせば、どういうことかと言うと、「非常時(と米軍が判断するとき)には、米軍が自由に指揮できる日本の軍隊を、憲法上はっきりと認める」ということになる。自衛隊の存在自体を、憲法上明記することは、曖昧な状態を排して、好ましいことではないかと考える人もいると思うが、とても、そんなことではない。米軍の都合で戦争できることを、憲法上も認めることに、直結するのである。

そして、新党「希望の党」も、憲法改正については、内容は明確ではないが、基本的に安倍と同じ路線に立っている。つまり、米軍の都合で戦争できる路線である。

選挙前に、これらのことは、最低限踏まえておかなくてはならない。

この書でも、それは「米軍」(実際には、「米軍」の背後の軍産複合体とか金融資本家とか、ネガティブな宇宙人も絡む「秘密政府」などの「支配層」であるが)の都合であって、「米国」そのものの都合ではないことが述べられている。トランプも、自国第一の範囲で、やはり同じように理解していることだろう。

そもそも、私も、これまで、「知ってはいけない」ことを、多々述べてきたわけだが、それは、本質的なことではあるが、多くの者にとって、あまりにも認め難いことの故、「知ってはいけない」ことのまま、今後も当分はあり続けることだろう。

ただ、今回述べたのは、「知ってはいけない」ことの危急版で、これについては、もはや「知らない」ことは、許されないことと思う。

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