「シンクロニシティ」と「ビギナーズ・アンラック」
ユングは、初め、「シンクロニシティ」を、めったに起こらない特別なものとしたい傾向があったようだ。が、ユングの弟子が、「シンクロニシティ」は、そもそも内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることから、起こるのではないかと問うたのに対し、結局は受け入れることになったという。
「シンクロニシティ」が、内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることによって起こるのであれば、それはそもそも、頻繁に起こっていて何ら不思議のないものとなる。外界の出来事そのものには、因果律が当てはまるとしても、それを内界の「意味」との結びつきとしてみるときには、いくらでも「共時的」に起こり得ることになるからである。
この観点からすれば、いわゆる「運」や「つき」というのも、「シンクロニシティ」の一種となる。「運」や「つき」というものが実際に存在し、それは集約的に、連続して起こりやすいことは、誰もが体験していることのはずである。マージャンやパチンコなどのギャンブル、あるいはスポーツなどの競技に、それは特に顕著に現れる。人生そのものも、一種の賭け事の連続とすれば、「シンクロニシティ」的な「運」や「つき」の集大成ともいえる。
ユングが注目した、「易」というのも、そのような人生の運勢を、「陰陽の相」の「シンクロニシティ」的な現れという観点から、みようとするものである。
ただし、「運」や「つき」には、「マイナス」のものもある。そして、そのような「運」「不運」の「浮き沈み」は、周期的に起こりやすく、全体としてみると、平均化されて、「偶然」の確率に、確かに適っているようにみえることにはなる。しかし、個々の「運」や「つき」に着目する限り、偶然とはとても思えないものである。
この「運」や「つき」については、初心者がやたらと「つきまくる」という、「ビギナーズ・ラック」というものがある。マージャンで言えば、確率を無視して、(両面や多面ではなく)ペンチャンやカンチャンにもっていっているのに、ズボズボと積もって、大きな手ができるとか、傍からは危なくてみてられないような牌を切っても、全然当たらず、自分が積もったり、当たったりするなどのことが、連続して起こることである。これは、ときに、誰も止められない、手のつけられないものともなる。
初心者は、まさに、「シンクロニシティ」的な「運」をもたらしやすいといえる。これには、いくつかの理由が考えられる。
初心者は、始めたばかりなので、興味津津で、いい意味での緊張感をもって、そのゲームに関わり、没頭して楽しんでいる。まだマイナスのイメージがなく、「怖いもの知らず」で、プラスのイメージで、どんどん攻め進むことができる。直感も働きやすく、それに無意識のうちにも従って、滞りなく打つことができる。
要するに、「内界」に「肯定的」な関心と心情が作り出され、それに自然に没入しているので、「外界」の現象としても、それに関連する、「肯定的」な「シンクロニシティ」を引き寄せやすくなっているということである。
ただし、初心者も、いつまでもそのような状態にあるわけではない。いずれ、向こう見ずな捨て方から、大きな手に振り込んで、痛い目をみたり、悪い待ち方で、全然積もらずに、やきもきしたりする。「内界」の調子のいい状態も維持できずに、いわゆる「つきのなさ」を、経験することになる。こういった経験から、牌の捨て方や手の進め方も、変えざるを得なくなり、大敗はしない、無難な打ち方になっていく。「初心者」を脱するということである。
しかし、「シンクロニシティ」とは、既にみたように、「プラス」のものばかりではなく、「マイナス」のものも多い。「運のない」こと、「つかない」ことばかりが、連続して起こるということもある。
マージャンでも、マイナスのイメージを持ち始めた頃には、こういうことか起こる。そもそも手配がバラバラ(国士にもっていくには、条件が悪すぎる)、ツモも酷い(待ちが来ず、むしろ崩したペンチャンとかに限って持ってくる)、やっとテンパったかと思えば、当たり牌をつかまされるなど、「不運」の連続を経験する。
そして、「ビキナーズ・ラック」ならぬ、「ビキナーズ・アンラック」というべきものもあるのである。初心者が、やたら「不運」の連続に陥ることだが、これは、
実は、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況にも顕著なのである。
まずは、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況は、「シンクロニシティ」が、通常の「運」とか「不運」にも増して起こりやすいことを確認しておく。
「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」の状況では、自己と外界の境界が揺らぎ、内界と外界の区別が曖昧になって、互いに浸透しやすい。つまり、内界と外界の「共時的」な結びつきが、露わになりやすい状況なのである。言い換えると、それまては、「自我」や習慣的なものの見方によって、内界と外界が画然と区別されていて、そのような現象は抑えられ、または起こっても、あまり注目されることがなかった。ところが、そのようなあり方が揺らいで、内界と外界の境界が揺らぐのに伴い、そのような抑制が外れて、一気に「シンクロニシティ」が起こりやすい状況を招いたのである。
さらに、これは、「統合失調状況」に顕著だが、そのような状況では、単に個人的な無意識だけでなく、より深い層にある、「普遍的無意識」が活性化される。つまり、個人に関わるものだけでなく、民族や人類、さらには地球や宇宙といった、個人を超えたものに関わる「シンクロニシティ」をも招きやすくなるのである。つまり、強烈に印象に残る、特別な「シンクロニシティ」をももたらしやすくなる。
「初心者」というのは、ここでは、初めて、そのような「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」的な状況に入ることを意味している。このような状況は、この感覚的な世界と霊界の境界にまたがることなので、初めて、「霊界の境域」(またはその周辺)に入ることでもある。
そこでは、否定的な、恐怖に満ちた「シンクロニシティ」を、連続的に引き起こしやすいのである。たとえば、自分の内界にあること(思ったこと)が、偶然とは思えない仕方で、人の言動や外界の現象として、現れて出で来るなどのことである。「集団ストーカー被害」にいう、「つきまとい」や「仄めかし」も、ほとんどそういうものである。
これは、まさに、先にみた「ビキナーズ・ラック」とは真逆の事態が、生じているのだといえる。「統合失調状況」といった、自己と外界の境界が揺らぎ、失われる状況、「霊界の境域」といった、未知の状況に、初めて入ることは、非常な混乱と恐れをもたらす。マージャンの場合の、興味津々でウキウキする心情とは全く逆の、混乱と恐れに満ちた心情で、外界と関わるのである。そのような「内界」の心情とそれへの没入は、そもそも「シンクロニシティ」が起こりやすい状況にあって、それに関連する否定的な出来事を、実際に引き寄せやすくする。また、そのような出来事は、悪循環的に、内界の混乱と恐れを拡大し、さらにそれに関連する、外界の出来事を引き寄せる事態も強める。
さらに、このような状況は、「普遍的無意識」を活性化すると言ったが、そのような無意識の深い層の活性化は、同時に、その周辺へと深く抑圧された、個人的な「無意識」をも巻き込むようにして、活性化するのである。そのような無意識とは、過去のトラウマとか思い出したくない記憶、種々のコンプレックス、さらには(前世の)カルマなど、「否定的」なものであるのが普通である。
だから、心情的に、否定的なものを表面にもたらすだけでなく、そこで起こる「シンクロニシティ」も、このようなトラウマやコンプレックス、さらにカルマに関わるものをも誘発する。当然それらは、本人にとって、心に突き刺さるものとなり、さらに否定的な反応をもたらすものともなる。
「ビキナーズ・ラック」というのは、決して長続きせず、いずれ解消してしまうものだった。しかし、このような「ビキナーズ・アンラック」は、本格的な内界と外界の結びつきが露わになっていて、しかも強烈な悪循環を形成しているだけに、容易には解消しない。恐怖や混乱という心情は、肯定的な心情以上にとらわれをもたらしやすいということもある。場合によっては、次の生まで、脱し得ないこともあり得る。
しかし、本来、「シンクロニシティ」とは、肯定的なものであり得るのだし、周期性のあるものて、「ビキナーズラック」と同様に、いずれは解消するものである。さらには、プラスのものに反転する可能性のあるものである。
ただし、これには、混乱や恐怖という内界の反応自体、つまり、この「シンクロニシティ」という現象に対する態度自体が、大きく関わっていることには注意を要する。否定的な「シンクロニシティ」の連続には、否定的な「内界」のあり様が外界に反映されるということが関わっているので、その構造に気づいて、内界のあり様を変えていかなければならないのである。(※)
あるいは、既にみたように、他の存在による「シンクロニシティの演出」ということもあって、それらは意図的に作出されたものではあるが、やはり、内界の心情と無関係になされるものではない。いわば、内界の心情をとっかかりとして、それに乗っかかるようにして、起こされるものである。それは、たとえ「高次元的な技術」としてなされるものであっても、言えることで、そこは、単純に機械的な、「物理的な技術」とは異なっている。
この点では、「統合失調」的な「迫害妄想」も、「集団ストーカー被害」的な「被害者」という意識も、自分を一方的な「被害」の対象とし、外界の「悪意」の対象としてしかみないので、内界への注目を決定的に阻害している。そのようなことが、つまり、「被害者」という意識自体が、自分を「ビギナーズ・アンラック」の状態に、逃れ難く押しとどめているのも同然なのである。
あるいは、無意識の活性化に伴い、トラウマやコンプレックス、カルマなどの否定的な情念が、出てくる以上、否定的なとらわれを生ずるのは致し方ない面がある。しかし、それらも、いずれは出るべきものなのであり、出るべくして出尽くして、いわば「浄化」されれば、それらへのとらわれも減少する。そうなれば、「シンクロニシティ」自体へのとらわれも、大きく減少し、本来の肯定的な「シンクロニシティ」として現れる可能性も増大するのである。
つまりは、「初心者」は脱し得るということであり、以後そのような領域や「シンクロニシティ」と関わるにしても、否定的なものの連続であったり、とらわれを生むようなものである必然性はなくなるのである。
※ 「運」や「不運」の「流れ」は、「易」のいう「陰陽の相」などと同様、個人の力ではどうしようもない側面が確かにあるように、こういった否定的な「シンクロニシティ」の流れにも、個人の心のあり様では変えられない面も確かにある。それは、本来は、「集合的なもの」で、個人を超えたものだからである。このような時期には、「周期性」、つまり事態がいずれ好転することを信じて、忍耐強く「待つ」というのも、必要な過ごし方であろう。
しかし、このような状況で、本人において、できることがないわけではない。心のあり様が、ことさら、このような現象を拡大していることは確かなのであり、本人においてできるのは、そのようなものを、できる限り減少していくことしかないのである。
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