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2017年6月

2017年6月15日 (木)

コメントの投稿についての注意とお願い

コメントの投稿は、私の書いた記事に関して、参考となる事実や情報の提示、質問や疑問などによって、私もそれに対する応答として、記事の内容を補足したり、敷衍したりできるので、基本的には有り難く受け止めております。現に、これまでこういうことが多くありました。

ただ、もともとほとんど読まれていなかった私のブログも、ある程度「読まれる」-というより「知られる」と表現した方がいいでしょうが-ようになったせいか、こちらの意図しない、受けつけ難いコメントも増えて来ています。

これは、-それでも相当抑制しているつもりですが-、私の記事が、特定の人たちに、反感を買うような内容も多くなっていることも原因のひとつでしょう。しかし、それがために記事の内容を曲げるようなことは、したくありません。

そのようなことから、また、ブログに関わる時間もかなり限られてきたこともあり、記事『ブログ記事の更新とコメントについて』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-22cd.html)で述べたように、コメントは承認制にさせてもらいました。

その後、承認しないコメントについては、その都度、こういう趣旨のコメントがあった旨を記して、その理由を示してきたつもりです。しかし、今後はそういうこともせずに、ここで改めて、「コメントの投稿についての注意とお願い」を述べておくことで、それを踏まえないようなコメントは、承認しないあるいは削除することがあるということで、対処させて頂きたいと思います

といっても、私にすれば、本当に最低限のことと思われることのみをあげているつもりです。

1 名前は、二文字以上の、一応とも「名前」として通りそうなものを記入してください。そして、私のブログに関する限り、その名前を変えることはしないでください(条件によって難しい人もいるでしょうが、できれば、IPアドレスも)。

もちろん、こうしたからと言って、「匿名」であることに何ら変わりはないわけですが、一応とも、人に向かって、自分の意思や意見を表明するわけですから、その発言主体としての最低限の自覚はもってもらう趣旨です。

また、最近は、職業的なアノニマス(これはすぐ分かります)ではなくて、ある程度ある分野について詳しいと自負する者をみつけて、その分野に関わるブログなどに書き込みをさせて、妨害的な影響を与えようとする「雇われアノニマス」も増えていると見受けられます。これは、そのような疑いをもたれないためでもあります。

2 コメントする以上は、最低限そのコメントをする記事の内容ぐらいは読んでからにしてください。(これは、その記事と関係のない内容の投稿はしないでください、という趣旨を含みます。)また、何かしら評価や批判めいたことを述べる場合は、その記事だけでなく、その評価や批判に関連する記事ぐらいは読んでからにしてください。

これは、マナーとかの問題ではなくて、そのコメントをまっとうにとりあげる前提問題として、当然のことと私は解します。逆に、そのように私の記事内容をちゃんと踏まえたうえでの批判などには、私はできる限り、正面からとりあげて対処したいと思っています。(ただし、こっぴどく反論されたり、けなされたりすることはあるかもしれませんので、あしからず(笑))

また、たとえばシュタイナーなど、誰かがこういうことを言っているなどの情報の提示も、前の記事を読めば、既にそれに関することが十分述べられていて、あえてする必要もないものが多々見受けられますから、一応の確認はしてからにしてください。

私のブログ記事もかなり多数にのぼることになり、前の記事をみるといっても、関連する記事を探すのも大変になってきているのはあると思います。しかし、一応とも、そのようなことを意識されたものかどうかは、コメントを見ればすぐ分かりますので、ある程度そのようなことを意識したうえでの投稿をお願いします。

なお、全体を分かりやすくまとめ直したホームページを企画しているのも、できる限り全体を分かりやすく俯瞰できるものを提供したいという趣旨ですし、また、近いうちに、ブログの個々の記事がどのように全体と関連するかの、体系付けのようなこともしておきたいと思っています。

3 当然のことながら、特定の組織や集団、宗教的、政治的な信条、商業的な商品などの宣伝を意図したものは、受けつけしません。

以上、これだけです。それでも、何か、急に敷居が高くなったと感じ、反感を感じる人もいるでしょうが、投稿する側からしても、下手にコメントをしてから削除などされるよりも、予め、注意を促されておいた方が、望ましいかと思われます。

どうかご理解のうえ、コメントの投稿をお願いします。

2017年6月 3日 (土)

「シンクロニシティ」と「ビギナーズ・アンラック」

ユングは、初め、「シンクロニシティ」を、めったに起こらない特別なものとしたい傾向があったようだ。が、ユングの弟子が、「シンクロニシティ」は、そもそも内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることから、起こるのではないかと問うたのに対し、結局は受け入れることになったという。

「シンクロニシティ」が、内界(精神)と外界(物質)が「共時的」に結びついていることによって起こるのであれば、それはそもそも、頻繁に起こっていて何ら不思議のないものとなる。外界の出来事そのものには、因果律が当てはまるとしても、それを内界の「意味」との結びつきとしてみるときには、いくらでも「共時的」に起こり得ることになるからである。

この観点からすれば、いわゆる「運」や「つき」というのも、「シンクロニシティ」の一種となる。「運」や「つき」というものが実際に存在し、それは集約的に、連続して起こりやすいことは、誰もが体験していることのはずである。マージャンやパチンコなどのギャンブル、あるいはスポーツなどの競技に、それは特に顕著に現れる。人生そのものも、一種の賭け事の連続とすれば、「シンクロニシティ」的な「運」や「つき」の集大成ともいえる。

ユングが注目した、「易」というのも、そのような人生の運勢を、「陰陽の相」の「シンクロニシティ」的な現れという観点から、みようとするものである。

ただし、「運」や「つき」には、「マイナス」のものもある。そして、そのような「運」「不運」の「浮き沈み」は、周期的に起こりやすく、全体としてみると、平均化されて、「偶然」の確率に、確かに適っているようにみえることにはなる。しかし、個々の「運」や「つき」に着目する限り、偶然とはとても思えないものである。

この「運」や「つき」については、初心者がやたらと「つきまくる」という、「ビギナーズ・ラック」というものがある。マージャンで言えば、確率を無視して、(両面や多面ではなく)ペンチャンやカンチャンにもっていっているのに、ズボズボと積もって、大きな手ができるとか、傍からは危なくてみてられないような牌を切っても、全然当たらず、自分が積もったり、当たったりするなどのことが、連続して起こることである。これは、ときに、誰も止められない、手のつけられないものともなる。

初心者は、まさに、「シンクロニシティ」的な「運」をもたらしやすいといえる。これには、いくつかの理由が考えられる。

初心者は、始めたばかりなので、興味津津で、いい意味での緊張感をもって、そのゲームに関わり、没頭して楽しんでいる。まだマイナスのイメージがなく、「怖いもの知らず」で、プラスのイメージで、どんどん攻め進むことができる。直感も働きやすく、それに無意識のうちにも従って、滞りなく打つことができる。

要するに、「内界」に「肯定的」な関心と心情が作り出され、それに自然に没入しているので、「外界」の現象としても、それに関連する、「肯定的」な「シンクロニシティ」を引き寄せやすくなっているということである

ただし、初心者も、いつまでもそのような状態にあるわけではない。いずれ、向こう見ずな捨て方から、大きな手に振り込んで、痛い目をみたり、悪い待ち方で、全然積もらずに、やきもきしたりする。「内界」の調子のいい状態も維持できずに、いわゆる「つきのなさ」を、経験することになる。こういった経験から、牌の捨て方や手の進め方も、変えざるを得なくなり、大敗はしない、無難な打ち方になっていく。「初心者」を脱するということである。

しかし、「シンクロニシティ」とは、既にみたように、「プラス」のものばかりではなく、「マイナス」のものも多い。「運のない」こと、「つかない」ことばかりが、連続して起こるということもある。

マージャンでも、マイナスのイメージを持ち始めた頃には、こういうことか起こる。そもそも手配がバラバラ(国士にもっていくには、条件が悪すぎる)、ツモも酷い(待ちが来ず、むしろ崩したペンチャンとかに限って持ってくる)、やっとテンパったかと思えば、当たり牌をつかまされるなど、「不運」の連続を経験する。

そして、「ビキナーズ・ラック」ならぬ、「ビキナーズ・アンラック」というべきものもあるのである。初心者が、やたら「不運」の連続に陥ることだが、これは、
実は、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況にも顕著なのである。

まずは、「統合失調状況」とか「集団ストーカー被害」の状況は、「シンクロニシティ」が、通常の「運」とか「不運」にも増して起こりやすいことを確認しておく

「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」の状況では、自己と外界の境界が揺らぎ、内界と外界の区別が曖昧になって、互いに浸透しやすい。つまり、内界と外界の「共時的」な結びつきが、露わになりやすい状況なのである。言い換えると、それまては、「自我」や習慣的なものの見方によって、内界と外界が画然と区別されていて、そのような現象は抑えられ、または起こっても、あまり注目されることがなかった。ところが、そのようなあり方が揺らいで、内界と外界の境界が揺らぐのに伴い、そのような抑制が外れて、一気に「シンクロニシティ」が起こりやすい状況を招いたのである。

さらに、これは、「統合失調状況」に顕著だが、そのような状況では、単に個人的な無意識だけでなく、より深い層にある、「普遍的無意識」が活性化される。つまり、個人に関わるものだけでなく、民族や人類、さらには地球や宇宙といった、個人を超えたものに関わる「シンクロニシティ」をも招きやすくなるのである。つまり、強烈に印象に残る、特別な「シンクロニシティ」をももたらしやすくなる。

「初心者」というのは、ここでは、初めて、そのような「統合失調状況」や、それに近い「集団ストーカー被害」的な状況に入ることを意味している。このような状況は、この感覚的な世界と霊界の境界にまたがることなので、初めて、「霊界の境域」(またはその周辺)に入ることでもある。

そこでは、否定的な、恐怖に満ちた「シンクロニシティ」を、連続的に引き起こしやすいのである。たとえば、自分の内界にあること(思ったこと)が、偶然とは思えない仕方で、人の言動や外界の現象として、現れて出で来るなどのことである。「集団ストーカー被害」にいう、「つきまとい」や「仄めかし」も、ほとんどそういうものである。

これは、まさに、先にみた「ビキナーズ・ラック」とは真逆の事態が、生じているのだといえる。「統合失調状況」といった、自己と外界の境界が揺らぎ、失われる状況、「霊界の境域」といった、未知の状況に、初めて入ることは、非常な混乱と恐れをもたらす。マージャンの場合の、興味津々でウキウキする心情とは全く逆の、混乱と恐れに満ちた心情で、外界と関わるのである。そのような「内界」の心情とそれへの没入は、そもそも「シンクロニシティ」が起こりやすい状況にあって、それに関連する否定的な出来事を、実際に引き寄せやすくする。また、そのような出来事は、悪循環的に、内界の混乱と恐れを拡大し、さらにそれに関連する、外界の出来事を引き寄せる事態も強める。

さらに、このような状況は、「普遍的無意識」を活性化すると言ったが、そのような無意識の深い層の活性化は、同時に、その周辺へと深く抑圧された、個人的な「無意識」をも巻き込むようにして、活性化するのである。そのような無意識とは、過去のトラウマとか思い出したくない記憶、種々のコンプレックス、さらには(前世の)カルマなど、「否定的」なものであるのが普通である。

だから、心情的に、否定的なものを表面にもたらすだけでなく、そこで起こる「シンクロニシティ」も、このようなトラウマやコンプレックス、さらにカルマに関わるものをも誘発する。当然それらは、本人にとって、心に突き刺さるものとなり、さらに否定的な反応をもたらすものともなる。

「ビキナーズ・ラック」というのは、決して長続きせず、いずれ解消してしまうものだった。しかし、このような「ビキナーズ・アンラック」は、本格的な内界と外界の結びつきが露わになっていて、しかも強烈な悪循環を形成しているだけに、容易には解消しない。恐怖や混乱という心情は、肯定的な心情以上にとらわれをもたらしやすいということもある。場合によっては、次の生まで、脱し得ないこともあり得る。

しかし、本来、「シンクロニシティ」とは、肯定的なものであり得るのだし、周期性のあるものて、「ビキナーズラック」と同様に、いずれは解消するものである。さらには、プラスのものに反転する可能性のあるものである。

ただし、これには、混乱や恐怖という内界の反応自体、つまり、この「シンクロニシティ」という現象に対する態度自体が、大きく関わっていることには注意を要する。否定的な「シンクロニシティ」の連続には、否定的な「内界」のあり様が外界に反映されるということが関わっているので、その構造に気づいて、内界のあり様を変えていかなければならないのである。(

あるいは、既にみたように、他の存在による「シンクロニシティの演出」ということもあって、それらは意図的に作出されたものではあるが、やはり、内界の心情と無関係になされるものではない。いわば、内界の心情をとっかかりとして、それに乗っかかるようにして、起こされるものである。それは、たとえ「高次元的な技術」としてなされるものであっても、言えることで、そこは、単純に機械的な、「物理的な技術」とは異なっている。

この点では、「統合失調」的な「迫害妄想」も、「集団ストーカー被害」的な「被害者」という意識も、自分を一方的な「被害」の対象とし、外界の「悪意」の対象としてしかみないので、内界への注目を決定的に阻害している。そのようなことが、つまり、「被害者」という意識自体が、自分を「ビギナーズ・アンラック」の状態に、逃れ難く押しとどめているのも同然なのである

あるいは、無意識の活性化に伴い、トラウマやコンプレックス、カルマなどの否定的な情念が、出てくる以上、否定的なとらわれを生ずるのは致し方ない面がある。しかし、それらも、いずれは出るべきものなのであり、出るべくして出尽くして、いわば「浄化」されれば、それらへのとらわれも減少する。そうなれば、「シンクロニシティ」自体へのとらわれも、大きく減少し、本来の肯定的な「シンクロニシティ」として現れる可能性も増大するのである。

つまりは、「初心者」は脱し得るということであり、以後そのような領域や「シンクロニシティ」と関わるにしても、否定的なものの連続であったり、とらわれを生むようなものである必然性はなくなるのである

※ 「運」や「不運」の「流れ」は、「易」のいう「陰陽の相」などと同様、個人の力ではどうしようもない側面が確かにあるように、こういった否定的な「シンクロニシティ」の流れにも、個人の心のあり様では変えられない面も確かにある。それは、本来は、「集合的なもの」で、個人を超えたものだからである。このような時期には、「周期性」、つまり事態がいずれ好転することを信じて、忍耐強く「待つ」というのも、必要な過ごし方であろう。

しかし、このような状況で、本人において、できることがないわけではない。心のあり様が、ことさら、このような現象を拡大していることは確かなのであり、本人においてできるのは、そのようなものを、できる限り減少していくことしかないのである。

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