「神一厘の経綸」について
前回みたように、「大日月地神示」は、霊界では、「神一厘の経綸」が既になされて、「悪の総大将」が降参し、今後は「ミロクの世」にいたることが確定したという。このことこそが、この神示が伝える最大のポイントなので、少しコメントしておきたい。
「悪の支配する世」となることが、9分9厘まで達成されて、覆しようのないところまで行ったそのときに、「神」による「グレンとひっくり返る」「経綸」がなされるというので、「神一厘の経綸」という。
「ミロクの世」とは、「金銭や物質的価値」で社会が治まる「悪の世」が終わり、人々が「愛と喜び」に満ちて、互いに奉仕する、「ユートピア」的な世となるということである。
さらに「日月神示」では、物質的世界が超えられて、「半霊半物質」の世界となることがいわれているし、「大日月地神示」では、「悪」など微塵も存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻ることがいわれている。
前回もみたように、これは、あくまで、この世の型となる「霊界」での「事実」であって、それがこの世にどのように反映されるか、いつ反映されるかは、この世の人や霊人のあり方次第ということになる。
「神示」は、「悪の仕組み」について、繰り返し語っているが、それは、この世では、「隠れたる悪魔」はまだまだ多く、その「悪の仕組み」が全うされるべく、これから本格化するので、それに搦めとられないように、という意図からである。
たとえば、「神示」には、
「オロシヤ(ロシア)もそろそろ大きく動くぞ。覚悟いたせよ。食う物貯えよ。無くなってゆくぞ。」とか、「メリカ(アメリカ)も変わるぞ。無くなるぞ。」
という言葉もある。まさに、現在の社会情勢そのままを映し取るかのような言葉であ.る。やはり、このような終末的な様相は、避けられないもののようである。
ただ、「悪の総大将」は既に降参して、これに関われないので、人や霊人は、「悪の仕組み」を理解して、自らを縛っている、その「悪の洗脳」をいかに解いていくかが、「改心」のポイントとされる。もはや、「悪との戦い」というよりも、「自分との戦い」ということである。
「神示」の源は、「悪」の親でもある、「元の元の神」(創造の神)を含む大霊団ということで、「悪」について非常に詳しいのが特徴である。しかし、反面、そのような「悪」の存在しない、「元の元の世界」をよく知るものでもあり、悪の「大あがき」の後も、最終的には、そこに戻ることを、宣言しているのである。
私も、一連の体験においては、「人間」を舞台にして、いかに「善と悪の戦い」が行われているかを、いやというほど目にした訳だが、これは、逆に、今の社会の「悪」というものが、いかにその結果としての「反映」であるかを、思い知らされるものともなった。それは、人間の「悪」というものが、取るに足りないという意味ではなく、それを無意味にするほどに、人間を超えた「悪」の影響力は強大ということである。
なので、霊界での「善と悪の戦い」が、「善」の勝利で終わるとするなら、今の社会の「悪」というものが、大きく変わること自体は、必然のことである。もちろん、それで、人のあり方が、すく様変わるわけではないが、「悪」の影響を受けなくなるだけで、大きな違いが生じるのである。
そして、記事でも何度か述べたように、私と関わった時点でも、「悪」の「限界」は、如実に感じ取られ、既に「たそがれ」てすらいたので、「善と悪の戦い」の結果が、「善の勝利」で終わること自体も、自然と受け入れられる。
だから、現在の状況とは相容れないようにみえても、いつかとか、どの程度かということはおいて、基本的に、その状況が終わり、「ミロクの世」に向けて、世界が変わっていくこと自体は、頷けるのである。
さらに、その後の、「半霊半物質」の世界へと移るということ(いわゆる「アセンション」=「次元上昇」)、「悪」の存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻るということも、大枠の流れとしては、頷ける。
しかし、たとえそれを受け入れたとしても、恐らく、多くの人が疑問に思うのは、それなら、なぜ「悪」などというものが創造されなければならなかったのか、ということであろう。
「神示」では、「悪のお役目」ということで、むしろ「悪」こそが、我々を鍛え、成長させたのであることを強調している(※1)。そして、今回の「経綸」も、「悪」を「排除」するのではなく、悪をも「抱き参らせる」のであり、そのような「役目」を終わらせ、「悪」をも「改心」させて、共に元に戻ることを意味している。
私も、「悪」との関わりによってこそ、いかに多くを教えられ、成長させられたかを痛感するので、このことも、大枠として頷ける。
ただ、これは、「創造」の「元の元の世界」では、「悪」はなく、初めはよかったかもしれないが、それでは結局は、停滞を来たすようになり、立ち行かなくなったということを意味している。それで、「悪」を作る必要に迫られ、その状態に変化がもたらされるとともに、「悪」から学ぶことで、その停滞を超える可能性も生じたということである。
ただし、もし、そのような「悪」から学んだ結果として、いずれは、「元の元の世界」に戻ることができたとした場合、それは、もともと存在した、「悪」以前の「元の元の世界」、結局は停滞をもたらしてしまった世界と、異なることになるのだろうか。
それには、二つの可能性があると思う。
一つは、「悪」を知らずにいる世界とは本質的に異なって、「悪」を知ったうえで、それを超えて至りついた世界なので、神示も言うように、「いやさか」に栄える「永遠の世界」となる。
二つは、初めは、そのように思われたとしても、その状態が永遠に続くという保証はなく、いずれは停滞をもたらすことになり、結局は、「悪」を必要として、同じことを繰り返すはめになる。
いつとるとも知れぬ、「とらぬ狸の皮」に、「思わぬ欠陥があるのではないか」と、訝るような話だが、私は、後者である可能性が高いと思う。その点は、神示を大枠で受け入れつつも、疑問に思ってしまう点だ(※2)。
まあ、今回の話は、「今現在」の問題からは、大きくかけ離れた、「夢想的」な話として受け取ってもらって構わない。現実的には、前回もみたように、「現在」の「悪の仕組み」をいかに脱し、超えていくかということこそが、重大な問題なのだから。
※1 これに関わる神示をいくつかあげておく。
「魔物もこれまでご苦労であったなあ。そなたらがおったゆえに、霊、人ともに学び変わって来れたのであるぞ。」
「まだまだマコトの悪魔遣うぞ。悪魔も人苦しめる大事なお役目であるから、活かしておるのぞ。悪魔に魅入られるのは、それだけの因果そなたの腹にあるからぞ。とことん苦しまねば変われぬ者多いから、悪魔も喜ぶのぞ。」
「悪の中に隠しておるのぞ。悪も善も神の目からは無いのであるが、人民の目からはあるのであるぞ。必要であるのぞ。」
「悪の中に隠してあるとは、悪の心を理解いたし因果悟らねば、神心、掴めぬのじゃ。」
※2 4月29日
この「疑問」について、一言で言うなら、「神示」もまた、シュタイナーなどと同様に、「霊的進化」という「水平的方向」についてのみを語り、「虚無」という「垂直的方向」についての視点には欠けている、ということである。それこそが、たとえそのような「進化」が達成されたとしても、いずれその「虚無」からの圧力を受けて、それが永遠の状態として完結するなどとは思わせないことの理由となっている。
しかし、「神示」の霊団が、本当に「垂直的方向」の視点を欠いているわけではないと私は思う。それは、いわば今の段階では、まったく「隠されている」のであり、今の段階で確かに必要とも思われる「神一厘の経綸」をも超えた、本当の「隠しごと」なのである。そして、それを解くヒントをあげるなら、それは、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html )、『「神」も「解離」する!? 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b513.html)で述べた、ブルース・モーエンの「創造の物語」にあると思う。
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