意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 2
波束の収縮及び「知覚」には、共に「意識」が作用するといっても、その「意識」の性質または範囲は異なるのであった。
波束の収縮の場合、「意識」は、その現象をもたらすという点に絞って捉えられるもので、端的には、物質的過程から独立した要素を意味する。これは、山田廣成のように、「意志」とみることもできる。「意識」の、より根源的で志向的な働きであり、波束を収縮させて「確定的な現実」を出現させるという、創出的な働きをなすことにも適っている。
それに対して、「知覚」の場合の「意識」は、その「意志」を含みつつも、脳の過程を伴う、「思考」や「記憶」など、具体的な内容をもった働きを、広く含んでいる。「知覚」においても、「みる」という、「意志」による積極的な志向が働くが、それは、全体としてみれば、脳の過程、文化的信念体系、個人の思考や記憶などによって、大きく条件付けられた、一つの「表象」なのである。(両者を全体として捉えれば、まさに、ショーペンハウアーのいう「意志と表象としての世界」。)
「知覚」も、それ以前に、確たる「現実」があるわけではないという意味では、一つの「現実」の創出には違いない。が、それは、主観的、恣意的な内容によって大きく彩られた、「幻想」ということにもなるのである。
ところで、ここでいう「意志」とは、人間よりも、むしろ自然物や野生の生物、つまり「自然」そのものの方が、純粋に働き易いといえる。人間では、文化的、個体的な条件付けの方が、大きく勝って、「表象」の世界に閉じ込められている度合いが強いからである。だから、波束の収縮そのものは、人間よりも、自然物や他の生物との関わりにおいて、起こることが多いと解される。ただ、人間が関与する場合は、波束の収縮を越えた、「超能力」的な作用をもたらすことにもなるのである。
あるいは、人間では、この意味の「意志」は、表面化せず、「意識」の潜在的なレベルに、眠っているという見方もできる。しかし、その働きが、脳の過程や、信念体系、思考を巻き込みつつ、我々の「現実」を作り出す元になるのである。だから、我々の「現実」は、他の自然物や生物との関わりにおいてではあるが、(生物的、文化的、個人的のどのレベルであれ)潜在的には、我々の「意志」がもたらしているといえるのである。
そして、このような「現実」の創出には、多数の「意志」の「集合」ということが、大きく影響している。「地球プロジェクト」でも、多数の者の集合的な意識によって、乱数発生器の乱れが高まるのだった。「意志」における「現実」創出の力は、多数の集合によって、より焦点化され、強固に象られると解される。そのようにして、実際に、一般には、確かな基盤をもった、外的な「現実」と思われている、「物質的な現実」なるものが、創出されるということである。(※1)
また、同時に、それは、「知覚」全体としてみれば、強固な文化的信念体系によって、多くの者を規定してこそ、容易には覆らない、安定したものとして、保たれることにもなる。言い換えれば、「集合的な知覚」とは、多くの者で共通すべく、大きな制限を伴い、それに適わないものは、排除するということで、成り立つ面があるということである。そのようなことが、「知覚」に、「幻想」としての面を、強く付与するとともに、それを強固に保つことも可能にするのである。(※2)
前回みたように、「知覚」も一つの「幻想」であるならば、「知覚」と「幻覚」を区別する、本質的な理由はないことになる。とはいえ、事実上、「知覚」は、多くの者が「共有」しており、「幻覚」は、特定の者がもつだけで、多くの者が「共有」していない、という違いがある。
それは、「知覚」が「現実」を創出するという点からみれば、実際には、上にみたように、多くの者が、「集合的」に「共有」するからこそ、「現実」としての、創出力が高まっているのである。また、同時に、それが、強固な文化的信念体系によって、「共有」されるべく支えられるからこそ、安定したものとして、保たれるのである。
それに対して、「幻覚」は、そのようなものから逸脱するので、特定の者を捕えることはあっても、多くの者を巻き込んで、「集合的」な「現実」として創出されるには、至りにくいことになる。(※3)
だから、それは、「集合」の度合いの問題であって、「幻覚」の方が、より「幻想」の度合いが強いということなのではない。むしろ、後にみるように、「幻覚」の方が、「知覚」に伴う制限を超えて、より真の「実在」(内在秩序)を反映する、という可能性もあるのである。
これまで述べて来た、波束の収縮における、「現実」を現出させるという面と、「知覚」における、「幻想」を生み出すという面は、「ホログラフィク・パラダイム」に照らしてみると、より統一的に捉えることができる。
ホログラフィク・パラダイムでは、波束の収縮も、全体が不可分に結びついて運動している、「内在秩序」のある側面を、「顕在秩序」に披き出す、一つの過程に過ぎない。「内在秩序」こそが、「ホログラム」的な情報を刻み込んだ、真の「実在」であり、「顕在秩序」は、その情報が、「ホログラフィ」的に投影された、一つの「写像」に過ぎない。だから、量子力学的には、確定的な現実を出現させる、波束の収縮も、それ自体が既に、一つの「幻影」としての創出ということになる。(※4)
「知覚」においては、そこにさらに、種や文化、個体による、主観的、恣意的な要素を、大きく介入させることになるので、その「幻影」としての性質はさらに強められる。そのようにして、「知覚」という過程が、全体として、「幻想」としての「現実」を作り出すということの意味が、より明確になる。
ただし、ホログラフィック・パラダイムは、「脳」や「知覚」の働きが、単純に「幻想」だと言うのではない。
脳科学者のプリグラムは、脳そのものが、宇宙というホログラムを解釈する、それ自体一つの、ホログラムであるという。ホログラムは、分割しても、部分が全体を反映するように、脳も本来、(宇宙の)全体を反映する性質をもっているということである。
ボームも、クリシュナムルティの例にみられるように、「知覚」が、「内在秩序」というより、さらにそれを超えた、「全体性」を反映する可能性を認めていた。つまり、これまで述べて来たような、制限され、条件づられた、部分的な「知覚」ではなく、全体的な「知覚」。言い換えれば、「観るもの」と「観られるもの」との対立や分裂のない、一体的な「知覚」としての、「観ること」である。
ボームは、このような「全体性」は、脳や意識の働きを超えるとしているが、同時に、脳や意識が、その「全体性」を反映する「道具」として働くことは可能としている。
しかし、それには、当然ながら、脳や意識の内容である、信念体系や思考を超えることが条件となる。それは、これまでみて来たことに照らせば、信念体系や思考に条件づけられた、「知覚」による「現実」創出の働きを止めること、そして、ただ「観る」という「意志」そのものになり切る、ということにもなる。
現状では、それは遠い可能性に過ぎないが、それには、ともあれ、「現実」とは、「知覚」によって「創出」されるものにほかならないことを、よく知ることが必要ということになろう。
※1 だたし、繰り返し述べているように、このような「物質的な現実」としての創出は、人間だけでなく、様々に多様な自然物や存在の「意志」が関って、起こることてある。あるいは、「意志」の「集合」により、「物質的な現実」が創出されるという場合、その「集合」には、人間だけでなく、他の自然物や存在を含めてみるべきということにもなる。
さらには、この、様々に多様な「意志」の根底は、実際には、「一つ」のものとみることもできる。それは、いわば「宇宙の意志」ないし「神の意志」ということにもなる。多様な「意志」による「現実」創出の力は、根源的には、そのような、根底にある「宇宙の意志」ないし「神の意志」から来るものといえる。
※2 リサ・ロイヤル、キース・プリースト著『コンタクト』という本では、「宇宙人」と地球人のコンタクトが起こりにくいのは、このような意味での地球人の「現実」に、宇宙人の「現実」が、組み入れられないからだということを述べている。つまり、地球において育まれた、地球人の集合的な「知覚」によっては、宇宙人の存在を、取り込むことができにくいのである。集合的に受け入れられないものは、そもそも、「知覚」にかからない(排除される)ということである。
ここ(http://mononomikata-kerogg.blogspot.jp/2011/08/blog-post_08.html)にも触れられているように、マゼランの大型船団が、フエゴ島に到着したとき、島民には、「見えなかった」り、ペリーの黒船が、当時の江戸の庶民の一部には、「見えなかった」りしたのも、同じようなことである。
※3 記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、「幻覚的現実」と「物質化現象」との間には、様々な「中間的現象」があり得る。それは、「物質的現実」として創出される力の、さまざまな程度の違いの問題とみることができる。それは、まさに、ここで述べたような、「意識(意志)」の「集合」の度合いの問題ということでもある。つまり、「意識」が「集合」されるほど、「物質的現実」として創出される度合いは強まるが、そこに至らない場合にも、様々な「中間的現象」として、現出する可能性はあるわけである。
※4 この「確定的現実」とは、時間や空間の枠組の中で、位置付けされる、物質的現実ということだが、それらも、「内在秩序」のある側面の反映に過ぎず、「内在秩序」そのものは、物質を超えた領域を広く含んでいる。だから、一般の「知覚」では、披き出されない、そのような領域を反映する「知覚」というものも、十分あるわけである。一般には、「霊的知覚」といわれるが、「幻覚」といわれるものも、そのようなものを含む可能性があることになる。
ただし、「霊的な知覚」だからといって、より真の「実在」を反映するとは限らないし、上にみたように、「全体」を反映する、ということにもならない。
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