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2016年11月 7日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1

意識と物質の関係に関する一連の記事(『「宇宙人」と「霊的なもの」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-57a6.html 『「量子力学の観測問題」と「意識」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c0a9.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ec1e.html 『「超能力」「気」と「量子力学」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-d1d8.html 『「ホログラフィック・パラダイム」について』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-77b9.html  )で、述べて来たことを、「知覚」と「現実」という観点から捉えなおしてみる。

端的に言えば、「現実」とは、まさに「意識と物質の関係」そのものとして創出されるのであり、「意識」との関係抜きには、あり得ないということである。

これを、「知覚」という観点から言い換えると、「現実」とは、(「意識」に基づく)「知覚」抜きにあるものではなく、「知覚世界」こそが「現実」となる。つまり、まず、「現実」というものがあって、それを「知覚」が映し出すのではなく、「知覚」こそが「現実」を生み出す、ということである

このことを、まずは、量子力学との関係でみてみよう。

量子力学は、物質の本質である「量子」とは、「観測」以前には、抽象的な「確率の波」に過ぎず、「観測」されて、初めて「粒子」という実在として現れることを明らかにしたのだった。

記事では、アインシュタインが、量子力学が、現象の本質を確率的なものとしてしか捉えられないことを批判して、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉を残したことを述べた。しかし、アインシュタインは、量子力学が、「観測」以前には、現象を実在として捉えられないことについても、有名な批判の言葉を残している。それは、「月は、我々が見る以前には存在しないのか」というものである。

月は、(超)マクロの物質だから、直接この量子力学の捉え方を適用できるかは問題である(前にみたように、「デコヒーレンス理論」によれば、マクロの物質には適用されないことになる)。が、マクロの物質といえども、「量子」の集合体として、本質的な差異はなく、同じ捉え方ができるとみるならば、確かに、このような批判は真をついていることになる。

前にみた「シュレディンガーの猫」も、基本的には、同じ問題を扱ったものである。放射性物質が崩壊する(その量子力学的な確率は2分の1)のを検出すると、毒を放出する装置を、猫とともに箱の中に入れておくと、「観測」する以前には、猫はどうなっているか(「観測」すれば、もちろん、生きているか死んでいるかは確定できる)。この場合に、量子力学の波動関数を当てはめると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態を重ね合わせた状態」にあることになるのである。つまり、「現実」の状態としては、「あり得ない」(実在しない)状態である。

要するに、「観測」以前には、確定的な「現実」なるものがあるわけではない、ということである。

「観測」とは、目を含む、観測装置を対象に作用させて、その反応をみるというものだが、それは、最終的には、「知覚」ということによってなされる。そこで、今度は、これを「知覚」という観点からみてみる。                                 
哲学などでは、たとえば、カントのように、「認識」は、人間のカテゴリーに基づくものであって、外的な「現実」そのものを明らかにするものではない。外的な「現実」(「物自体」)は、不可知である、と考えるものもあった。ところが、先にみたように、一般的な常識としては、まず「知覚」以前に、「現実」なるものがあり、「知覚」はそれを映し出すに過ぎないとみなされている。

しかし、最近の脳科学によっても、「知覚」とは、外的な情報をそのまま写し取るものではなく、脳が、入力した情報を分解し、さまざまな形で再構成して、「作り出す」ものであることが明らかにされている。それには、「記憶」や「思考」などの様々な主観的要素も入り込む。「知覚」が客観的な「現実」を映し出すなどとは、とても言えないわけである。

実際、それをもう少し押し進めた考え方として、「唯脳論」というものもある。これは、単純な唯物論的発想なのではなく、全ての「現象」は、脳が捉えた限りでの現象であり、端的に言えば、脳が生み出した「幻想」に過ぎない、というものである。「知覚」に限らず、脳が捉えるものは、客観的な「現実」を反映しているなどという保証は何もなく、いわば脳の中の、「仮想現実」に過ぎないということである。当然、出て来て然るべき考えだし、視点としては正しいというべきである。(ただし、これも押し進めれば、「脳」もまた、脳が生み出した?「幻想」の一つとなるはずで、脳だけが、あらゆる現象から独立した「実体」としての位置に立つのはおかしい。)

いずれにせよ、「知覚」が客観的な「現実」を映し出すとは言えない、という問題は、それなら、「幻覚」とは何かという問題も引き起こす。「知覚」が「現実」を映し出すのではないなら、それを「幻覚」と区別する理由はないはずだからである。

実際、「唯脳論」では、いずれも、脳が生み出した「幻想」として、「知覚」と「幻覚」を区別する本質的な理由はない、とする。それは、確かにそうなるはずである。あるいは、「知覚」こそが「現実」を作り出すという見方に即して言えば、「知覚」も「幻覚」も、どちらも「現実」にほかならないことになる。

ただし、後にみるように、それらに違いを見い出すことは可能である。「知覚」は、多くの者によって、「共有」される「現実」であり、「幻覚」は、少なくとも、現時点で、多くの者によって共有されず、特定の者がもつ「現実」に過ぎない。ただ、それも、要は、「程度問題」であり、今後、どのように移り変わって行くかは、不明である。

といっても、このような「知覚」について分かったこと、または、それを押し進めた考えは、量子力学がいう、「観測」が「現実」を作り出すというのとは、意味合いが異なっている。

量子力学は、「観測」が、文字通り、知覚可能な「確定的現実」を「出現させる」(波束を収縮させる)と言っているのであって、その「知覚」が、現実を反映しない「幻想」だと言っているのではない。

しかし、その意味合いの違いは、両者における、「意識」の関わりの問題を捉えることで、解消することができる。

もう一度、量子力学に戻ると、ノイマン・ウィグナー理論では、「意識」こそが、波束を収縮させる、つまり、確定的な現実を現出させるのだった。「観測」行為(「知覚」)には、もちろん脳の過程が伴うが、脳の過程といえども、物質的な過程であり、量子力学が適用されるものである。だから、量子力学から独立した、波束の収縮という現象は、脳の過程を超えた、「意識」そのものによって、なされるとみるしかない、というのが、ノイマン・ウィグナー理論の考えである。

「意識」が、量子力学的な過程に影響を与えることは、たとえば、多数の意識が、乱数発生器の量子力学的な発生の確率を乱すことを明らかにした、「地球プロジェクト」などによっても、示されている(同種の実験結果は、超心理学によって多数示されている)。この点からも、意識が量子力学的な過程から独立して働くとみることは、十分の理由がある。

しかし、波束の収縮が意識によって起こるというのは、波束の収縮は、量子力学的な確率の範囲でなされるものだから、それを超えてしまう、これらの実験事実とは相入れず、意識の独立性を認めることと、必ずしも一貫しない。また、波束の収縮は、「観測」によって、必ず起こらなければならないことであり、その意味でも、常に働くとは限らない、上のような現象とは異なっている。

さらに、波束の収縮が、意識によって起こるとすると、その意識とは、誰のものなのかという問題が生じる。波束の収縮という、確定的な「現実」そのものを現出させる行為が、誰によってなされるのかということだから、重大な問題である。最初に「観測」した者が、波束を収縮させることになるのか。多くの者の意識が、共通して、初めてなされることになるのか。そもそも、この意味の意識とは、人間だけがもつものなのか。猫にも、この意味の意識があるのではないか。さらには、観測装置にも、この意味の何らかの「意識性」が認められるのではないかなど、様々な疑問が生じる。

実際、人間だけが、この意味の「意識」をもつとするのは無理というべきである。人間が「観測」するまで、絶対に、物質の状態が確定しないなどということは、あり得ない。また、人間だけが意識をもつという発想は、一神教的な発想から生まれた、西洋近代のものであり、何ら普遍的なものではない。

人間だけが、意識をもつ(「観測」する)という発想をするから、「月は、観測以前には存在しないのか」という疑問も出て来るのである。他の天体同様、月そのものも、「意識」をもつかもしれないし、人間以外にも、月を観測する生命体はいくらもある。少なくとも、その段階で、月の存在は「確定」しているはずである。「シュレディンガーの猫」の場合も同様で、猫が意識をもつとすれば、その段階で「確定」するし、観測装置にもある種の「意識性」を認めるなら、その段階で確定するという発想も可能である。

さらに、山田廣成のように、電子が意識をもつとすれば、波束の収縮の問題は、電子のレベルからの、種々の意識と人間の意識との相関で決まることで、人間の恣意の働く余地は、ほとんどないことになろう。

このように、意識が波束の収縮をもたらすといっても、それは、人間の意識ということではなく、様々な多様な意識のせめぎ合いの結果ということである。ただ、人間の意識が関与する場合、「地球プロジェクト」のように、量子力学的な確率を超えて、作用することもあることになる。それは、一種の「超能力」といえる。

ここで述べた「意識」とは、波束の収縮をもたらすものとしての意識、つまり、量子力学的な過程から、何ほどか独立した要素をもつものとしての意識であった。

一方、「知覚」において、一種の「幻想」として、「現実」を作り出すというときの、意識の関りはどのようなものだろうか。一般の脳科学では、知覚という現象も、脳の過程に還元されるものとみなされる。が、脳の過程は、知覚するときに脳で起こっていることを説明するだけで、「知覚」そのものではないというべきである。たとえば、「赤い色」を見ているときの、脳の過程は、それをいくら詳しく解析しても、現に見ている「赤い色」そのもではない(※1)。あるいは、言い換えれば、脳の過程ということでは、「知覚」において、本当に「見ている」当のものが、一向に明らかにならないということである。

やはり、「知覚」においても、何かしら、物質的過程から独立した要素をもつ、「意識」という「主体」を想定しない限り、成り立たないというべきである。しかし、「知覚」とは、「観測」の場合の、波束の収縮という現象に限定されない、より広い過程であることは明らかである

そこには、種や存在による、生物学的な基盤の違いが、当然作用する。また、人間の場合でも、文化や個体によって、「信念体系」、「思考」、「記憶」など、意識による、様々な主観的な相異の影響が働く。この場合の「意識」とは、波束の収縮の場合のように、物質的な過程から独立した要素のみではなく、脳の過程ということも伴いながら、「思考」や「記憶」等の具体的な内容をもった働きを含むのである。

そういうわけで、波束の収縮そのものと異なり、「知覚」とは、客観的な過程などではなく、様々な差異と、主観的な色付けを帯びたものということになる。

だから、「知覚」全体として言うならば、それは、客観的な「現実」を映し出すものではなく、一種の「幻想」として、「現実」を生み出すもの、ということにもなるのである。(続く)

※1  「クオリア問題」ともいわれる。前にあげた、このサイト(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html)では、この問題についても、詳しく分かりやすい説明をしている。

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