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2016年10月10日 (月)

ブログ記事の更新とコメントについて

次のブログ記事では、「物質と意識の関係」についての一連の記事のまとめをしておこうと思う。それで、とりあえず一段落つくので、前に話していた、「統合失調」及び精神医学関連の記事を、ホームページに分かりやすくまとめ直すことにとりかかりたいと思う。

ブログの記事の更新も、もちろんしていくつもりですが、今後は、多分月1度くらいの頻度になると思います。

また、コメントは、これまでも、事後承認のようなところがありましたが、今後は、ブログをみる機会も減ることもあり、承認制にさせてもらうことにします。了承下さい。

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コメント

ティエムさん、いつも興味深い考察をありがとうございます。今日は少しご意見を伺いたく投稿しました。
先日、門真での殺傷事件を受けて、幻聴のもつ強制力についてひとと話す機会があり、その状態について自分なりに納得のいくイメージが持ちたいと思いました。そこで、ティエムさんがこれまでもそのことについては言及されているので、それから多くを学びつつ(不勉強ですが)、自分なりにイメージを作ってみました。よければご意見をお聞かせください。
私は幻聴・幻覚とは、健常な人も実は半意識的、無意識的に感じていることが、病的な状態によって物質的な境界を超えて、内側から外側から実体的なイメージとなって現れたものであると思っています。言い方を変えれば、シュタイナーの言うエーテル世界に、不用意に半ば足を踏み入れてしまったということだと思っています。その世界は私には想像しがたい世界ですが、さまざまな霊的?存在が生きる多様な世界であり、物質的世界の秩序に完全に慣れてしまっている人間には、恐怖と混乱しか産まないような強烈な世界なのではないか、という気がしています。でもそれは健常な人も本当は体験している世界であり、ただその意識が通常は、日常生活に支障がないように曇らされているといった感じかなと思っています。
さて、そのような霊的存在たちに強烈にさらされている統合失調症などの幻聴・幻覚を伴う病気を持った人たちが、ある霊的存在に「あいつを殺せ」などと強い強制力をもった言葉でそそのかされたとして、それを実行するかどうかなのですが、まず思うのは、その当事者にその幻聴を受け取るようなベースがそもそもなかったら、それはいくらその幻聴がものすごく強力なものだったとしても、ただの空言としてスルーするだけではないか、ということです。
やはり健常な人もそうですが、自分の中に抑圧された形で思考や感情(思考や感情もある霊的存在の現れなのかもしれませんけど)があるからこそ、ある言葉がとても力を持って感じられたり、ひっかかったり、反発したりするのではないでしょうか。
門真の事件の当事者も、普段から抑圧された強い感情を抱いており、それに呼応するような形で霊的存在が幻聴という形で働きかけたりして(それは内面のプロセスが外在化したということかもしれません)、そのエーテル界の強烈な力にも翻弄されながら、妄想を作り上げつつ、行動に移ったのかもしれません。(※現時点では、門真の事件の方は、かなり計画的だったようですので、本当に病気によるものだったのかは分かりませんが)
だから、幻聴・幻覚があるからといって、その人がまったく脈絡もないところから、犯罪などの行動を起こすとは言えないのではないでしょうか。何か理由があるのだと思います。一般の人からすると、精神疾患のある人間は何をしでかすか分からない、といったようなイメージを持ちがちですが、実際にはそうではないのではないか、という気がしています。それは危険がいっさいないといったことではなく、必ず理由があるということです。
だから逆にいえば、その人が内的に本当に満足し、幸せであれば、幻聴・幻覚があったとしても、それは幸せな幻聴か、それほど強力ではない幻聴か、そもそもそういう症状は必要がなくなって消失するか、ということになるのではないでしょうか。
だからやっぱりイタリアの精神保健の方が言っていましたが、まず病気ではなくて、その人のニーズを見る、その人と一人の人間として関わる、といったことが重要なのだと思います。
すいません、長く書いてしまいました。よければご意見お聞かせください。

まず、コメントに書かれていること、(私のブログ記事も参考にされたようですが)、私もほぼ同じように考えます。よく整理されて、述べられていると思います。

現段階で、確定的なことは何も分かりませんが、門真市の殺傷事件については、報道された段階で、私も幻聴・妄想がらみの事件であることを予想しました。注意すべきは、一般的に、統合失調は、決して犯罪と結びつく確率が高いわけではないことです。ただ、統合失調状態の人が、幻聴・妄想に基づいて事件を起こしたときは、この事件のように、他の人には、理解し難く、また凄惨なものになりがちなので、人々に強く印象付けられ、恐れられるということがあります。

幻聴の「強制力」ということが、まさにポイントと思います。多くの人は、「幻聴」は外的に襲ってくるものではなく、その人の内から生まれたものと考えるので、幻聴に「強制力」かあるとは思わないでしょう。それで、このような事件は、とても理解できないか、「病気」ということで納得するしかないことになります。

しかし、幻聴は、特別な力をもって、外的に襲ってくるからこそ、逆らい難い「強制力」をもつというのが、本当のところです。それを認めないことには、このようなものに翻弄されるということを、本当に理解することは不可能といえます。

ただし、その逆らい難い「強制力」というのも、また、様々な程度があり、本人の内面との関係で、様々に変わり得るものです。幻聴を働きかける側の存在そのものの力の程度にもよるし、本人の側の、内面的な、それに逆らう力にもよるということです。厄介なのは、そうしないと、「自分自身が殺される」という被害妄想をもつ(もたされる)場合ですが、それでも、人を殺すということを実行に移すには、様々な葛藤や抵抗を通り越さなければなりません。「病気」だから、「心神喪失」に陥って、是非の弁別能力や行動の抑制力を欠くというのは、まったくのウソです(弱まるのは当然のことです)。

また、言われるとおり、本人の側に、幻聴に働きかけられるだけの、内面的な要素があるからこそ、幻聴が威力をもつので、本人の側にそのような要素がなければ、たとえ影響を受けるということはあったとしても、それに基づいて行動するなどということはないはずです。それは、本人の側の「倫理的問題」もあるでしょうが、自分の置かれている状況に対する、(爆発寸前の)ストレスや不満であることが、多いと思います。

幻聴をもつから、必ず何か犯罪的または逸脱的な行動を起こすのではなく、そのようなことになるには、様々な内的、外的な要素が絡み合って、そうなるということです。単純に「病気」ということで、解決などできるものではありません。

ただ、それにしても、「幻聴の強制力」ということは、しっかり押さえておかないと、それに対抗する力を養うということもでき難いと思います。幻聴に働きかけられる内面的要素がなければ、「強制力」は生じないと言いましたが、人間には、人を攻撃する、何らかの内的衝動があるのが普通のことなので、幻聴を働きかける側も、それを巧みに、引き出そうとしてきます。

だから、その「力」を侮ることはできないので、対抗する力を養うということも、大事なことになってきます。

ティエムさん、早速ご意見ありがとうございました。
おかげで「幻聴の強制力」について、より理解が深まったように思います。やっぱり精神疾患によって罪を犯した場合も、心神喪失によって罪を問わないのではなくて、ちゃんと罪を償う方向で考えた方がいいように思います。もちろん情状酌量は必要ですが、イタリアではもうそうなったようですし、司法精神病院も廃止したそうです。
また「幻聴の強制力」に対抗する力を養うということですが、ある精神科医が言っていたことですが、「現代の人間がその人間的成長を果たすには秘儀参入者の意識を身につけることが必要である」ということでした。それは要するに、今という時代は昔と違い、すべての権威的なものが崩壊してしまっているので、本当の意味で自己を生き抜くとき、何も頼るものがないということ、明日をも知れない人生を生きなければならないということ、言いかえれば死を覚悟すること、ということかなと私は思っています。
普通の人はそこまでは思っていないでしょうが、統合失調症の状態にある人にはそれがリアルなものとして感じられているのではないかな、とティエムさんのブログを読んで思いました。
その精神科医はまたこうも言っていました。「だからこそすべての人がその道を歩むのは難しいので、社会的なサポート体制が重要なのである」と。つまりそれは「先をもしれない人生を生きようとしても、現代ではリスクが大きすぎるので、弱肉強食の世界ではなく、もっと生活の不安がないような、人権を尊重した社会を作らないといけないのだ」ということだと私は思っています。
余計なことを書きました。またよろしくお願いします。

前のコメントで、「幻聴をもつから、犯罪的または逸脱的な行動を起こすのではなく、そのようなことになるには、様々な内的、外的な要素が絡み合う」と述べました。が、そのような行動をもたらす、強力な外的要素を2つあげておきます。いずれも、動機そのものは、もともとの統合失調状況によって生まれたかもしれないが、それを実行するについての抑制を外してしまう方向に作用するものです。

1つは、強力な「憑依」を受けた場合。継続的というより、一時的な場合が多いでしょうが、その瞬間、意識を眠らされるので、抑制が利かないことが起こります。周りには、人格が豹変したような印象を与えます。本人も、その間の記憶がないことが多いはずです。その行動は本人のものではないともいえますが、動機そのものは、本人がもったはずで、また、そのような憑依を呼び寄せるのは、本人の側に事由もあるので、責任がないとはいえないはずです。

2つは、精神薬によって、脳が酷く撹乱された場合。精神薬は、麻薬、覚醒剤と同様、脳の働きを撹乱し、抑制を外して、危険な行動を起こさせることがあります。最近の、危険ドラッグ絡みの事件にもみられたとおりです。この場合にも、動機そのものは、本人がもった可能性がありますが、実行するについては、精神薬による影響が強く働いた可能性があります。また、その強力な作用により、「心神喪失」に陥るということもあるでしょう。本人が、「病気」によって、「心神喪失」に陥ったのではなく、精神薬によって、「心神喪失」に陥らされたということです。

しかし、こういった行動は、一般に、「病気」そのものから起こされるとみなされて、疑われないのが問題です。「統合失調」そのものに、そのようなイメージがつきまとっているからです。統合失調者の行為が、「心神喪失」にあるということで、責任が問われないのも、そのような「危険な者」を、いわば犯罪者からすら隔離して、病院に収容するためです。そのような処置は、統合失調者は、人格がなく(崩壊していて)、何をするか分からないというイメージを、強めることになるだけです。

さらに、精神薬が厄介なのは、アルコールの場合と同様、1つ目の「憑依」をもたらす契機ともなることです。両者の影響が加重することになるのです。そして、この場合にも、そのような結果として起こったことは、「病気」によるものとみなされてしまうことになります。

このテーマについては、またいずれ、プログ記事か、ホームぺージにまとめるときに、もっと詳しくとりあげたいと思います。

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