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2016年8月31日 (水)

映画『激突』と「集団ストーカー」

スピルバークのデビュー作である『激突』という映画には、エイリアンや未知の存在は、一切出て来ない。一介のサラリーマンの運転する車が、巨大なタンクローリーに、意味もなく付きまとわれ、追いかけ回されるというだけの話である。しかし、そのホラーとしての恐怖は、他のものにも勝るほどである。そこには、不思議なほとのリアリティが存在しているのだ。

初め、仕事で急いでいる車の運転手は、片道一車線の道の前をゆっくり走る、巨大なタンクローリーにいら立ち、追い越そうとする。が、そうすると、タンクローリーがスヒードを上げて、抜かせないことを繰り返すので、困惑する。しばらくすると、タンクローリーが、窓から手を出して、「行け」と合図をする。それで、これ幸いと、抜かしにかかると、対向車線には車が来ており、危うく衝突しそうになって、肝を冷やす。

運転手は、タンクローリーの意図を計りかね、恐れを抱くが、しばらくすると、タンクローリーが給油のため、スタンドに立ち寄る。運転手は、これで解放されたとばかりに、喜んで運転する。しかし、しばらくすると、後ろから、先のタンクローリーが物凄いスピードで追いかけてきて、車に迫り、ぶつけて、突いたりする。一体どうしてなのか、先の追い越しの一件で、何か怒っているのか、全く分からない。車を停めて、先に行かせようとしても、タンクローリーも後ろで停まって、こっちが動くまで、動かない。動けば、また動き出し、物凄いスピードで車に迫ってくる。

さらに、踏切で停まっていると、後ろから、タンクローリーが、なんと車を突いて押してくる。つまり、列車に激突させようとしているのである。

もはや、単純な、付きまといや、嫌がらせではあり得ない。「殺意」があることが、明白である。運転手も、さすがに「開き直り」、とことん戦うしかないと腹を決める。その後、この車と、それを追うタンクローリーとは、カーチェイスまがいの激闘を繰り広げる。ところが、車はエンジンがオーバーヒートして、スピードが出なくなり、絶体絶命の危機を迎える。が、最後には、崖の近くへとタンクローリーを誘い込み、自分はぎりぎりのところでかわして、タンクローリーを崖から落とすことに成功する。

何の関係もない、何者かによる、全く、「理由の分からない」、理不尽な「つきまとい」。殺意するある、徹底的で、しつこい「嫌がらせ」。このタンクローリーの運転手の顔は、最後まで見えない。それが、また、「実体のはっきりしない」恐れを、膨らませている。

この「タンクローリー」は、まさに、現代人の恐れの表現としての、「集団ストーカー」を象徴していないだろうか(※2)。

かつての共同体が崩壊し、人々は、互いに切り離された「個人」となった。人々は、互いに、「見えない」「他者」となり、ぎすぎすとした緊張関係に陥り、「敵意」や「悪意」をみることが多くなった。さらに、切り離された、個々の個人は、そのような「見えない」「他者」の集合である、「集団」に対しては、全くの無力である。「他者」というものに、「敵意」や「悪意」をみることが多くなるほど、その集合である「集団」」というものも、実際以上に、「悪意」をもった、恐るべきものとして、膨れあがる。そのような「集団」は、無力な「個人」を、意味もなく圧迫し、葬り去りかねないものとなる。

「タンクローリー」の巨大さ、そして顔の見えなさは、そのような「集団」、さらには、巨大な「組織」というべきものを、象徴しているようでもある。一介の平凡な個人が、巨大な組織に「目をつけられ」たら、このような理不尽なことが起こり得るかもしれない。そのような不安や恐れを、現代人は、多少とも、心の内に抱えている。この映画は、それを見事にすくい取り、表現しているため、不思議なリアリティと、単純なホラー以上の恐怖を、醸し出しているのである。

実際には、「集団ストーカー」という観念は、多くの人にとっては、取りに足りない、「ばかげた」ものと言うかもしれない。しかし、この観念は、映画と同様に、このような現代人の不安や恐れを、見事にすくい取るものではあるのである。

自称「集団ストーカー被害者」が、ネットなどであげる、被害の「証拠」とは、人や自転車が自分の前や近くをよぎったり、ちょっと変わったナンバーや状態の車と遭遇したり、工事その他の音が襲って来たりの、誰もが日常的に遭遇する光景に過ぎない。あえて言うならば、それらは、「日常的」な中でも、「ちょっと変わった」出来事、あるいは、「違和感のある」出来事くらいの感じのものである。普通は、気にもとめずに、やり過ごされる。あるいは、一瞬、気には止められても、すぐさま忘れ去られる。

多くの人にとっては、そのように、誰でも遭遇する「日常的な出来事」を、「集団ストーカー」の被害などと解釈して、本気で訴えかけることは、信じ難く、異様なことである。「おかしい」という印象を、もたざるを得ない。

しかし、実は、そのように、誰にでも起こり得る、「日常的な出来事」。そうでありながら、ちょっと変わった、違和感のある(かなり漠然とした、曖昧な)出来事(※1)を、「集団ストーカー」による行為として、拾い上げていることこそ、「集団ストーカー」という観念のミソであり、巧妙さなのである。それが、何か特殊で、具体的な行為であったならば、そうは誰にも当てはまらず、この観念が広まることもない。

そういった、一般には気にも止められない出来事も、一度、「集団ストーカー」という観念にリアリティをもって、眺められるならば、まさに、パズルのように、それにピタリと当てはまるものとなる。そのようにして、「集団ストーカー」という観念をもつこと自体が、その観念に適う出来事を、いくらでも拾えるようになっているので、さらにその観念を補強できるのである。

現在のところは、もともと「被害妄想」的だったり、「自己と他者の境界が曖昧」で、特別に過敏な感覚をもっている者が、この観念に捕らえられている。しかし、このまま、この観念が広がって行けば、いずれは、多くの者の心も捕らえ兼ねない可能性を秘めている。既にみたように、「集団ストーカー」という観念は、現代人の不安と恐怖を、見事にすくい取り、潜在的には、誰もがリアリティをもっておかしくないものだからである。

たとえば、ストレスが重なって、心か弱っているとき。あるいは、何らかのきっかけで、不安が大きく襲って来たときなど、ふとした隙に、この観念に捕えられるという可能性は、決して 少なくないのである。平凡なサラリーマンである主人公の、日常のふとした瞬間に、巨大な「タンクローリー」が襲ってきたようにである。

※1 このような出来事は、実際には、「集団ストーカー」ではなくとも、何らかの「悪意」や「攻撃性」が含まれたものである可能性はある。たとえば、ぎすぎすした個人の、本人すら気づかない、何らかの「悪意」の表現であったり、あるいは、「人と人の間」に潜む、自然霊などの攻撃や演出であったり、深く「集団ストーカー」の観念に捕えられた者が、自ら「共時的」に「引き寄せた」現象であったりするのは、既に述べたとおり。

※2(後に追加)

しかし、この「タンクローリー」が端的に象徴する「存在」といえば、何と言っても、「アーリマン存在」である。突発的で、有無を言わさぬ、強引かつ圧倒的な「破壊力」の顕示。それは、既にあげた、9・11の航空機がビルに突撃する瞬間、3・11の津波が襲いかかる瞬間、なまはげの鬼が子どもに襲いかかる瞬間と共通するものがある。徹底的なほどの、陰湿さと執拗さもそうである。あの「ずんぐりむっくり」した恰好や、薄汚く、どぶっぽい色も、私は、よく「アーリマン存在」の性質を表わしていると思う。「アーリマン的なもの」の一つの重要な特性として、「集団性」があることも、既にあげていた。(記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)

また、実際に、「集団ストーカー」なる観念の生みの親も、「アーリマン存在」というべきである。もちろん、直接の唱道者は人間であるとしても、そのアイデアのインスピレーションの与え手は、「アーリマン存在」と考えられるのである。産業革命以降の「技術」のインスピレーションの与え手が、「アーリマン存在」であるのと同じような意味でである。

この種の「アーリマン存在」がもたらした観念やアイデアは、多くあるが、たとえば、様々な「詐欺」の形態のアイデアもまた、そうである。それらは、「集団ストーカー」の観念とも、共通するところがあって、普通は、「ひっかからない」と思われがちだが、人の弱点をついて、ふとした隙に、信じ込ませてしまうような、それなりに巧妙な仕掛けが施されている。また、かつて流行った、「不幸の手紙」や「チェーンメール」などの発想も、陰湿に、人の不安を煽りつつ、拡散させることを狙った、「アーリマン好み」の「ゲーム」のようなもので、「集団ストーカー」の観念と共通の要素がある。

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コメント

こんにちは。

映画評論家の淀川さんによれば、「激突」はホワイトカラー対ブルーカラーらしいです。そこそこ良い車に乗っているセールスマンの主人公(商談に急いでいてトレーラーを疎ましく思っていた)に対して常日頃からホワイトカラーらしき人物に嫉妬めいた感情を持つブルーカラーの象徴ともいえる、大型のトレーラー運転手(サイコパス系)が愉快犯的に次々と、ホワイトカラー系ドライバーを襲う(憎悪のはけ口または当てつけ)……という感じでしょうか。〈あてつけとは、本来は良くないことと知りながら、相手に対して報復などを目的として、相手が嫌がることをする行為です〉(by知恵袋)。〈大型トレーラー運転手は、窓からのぞく手やステップを下りた時のブーツしか映っていませんが、意外にも華奢だ、とも…、あのトレーラーは運転手の鎧だそうです〉(知恵袋から引用)。


まあ、日本は強烈な相互監視社会でもありますので、他者への不信感やネットに煽られたりして、必要以上に加害行為を加速させがちな環境ではありますね(ちなみに私は集団ストーカーは存在する派です)。…まともな神経で日本社会(人間社会)で生きていれば(または労働の経験があれば)加害行為にはしるヤツの気持ちも解らんで

(続き)もない?とも思っています。

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