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2016年8月 4日 (木)

「ホログラフィック・パラダイム」について

「物質」と「意識」の関係を考えるうえで、物理学の方面から出されている説で、現在最も参照になるのは、「ホログラフィク・パラダイム」だと思う。今回は、この説を、簡単に説明しつつ、いくらかコメントしておきたい。

みてきたように、量子力学は、ニュートン力学に代表される、それまでの古典力学の常識を根本的に覆すものだった。が、もちろん、そのような量子力学に不満をもつ科学者も多くいた。その不満は、基本的に次の2つの方向に集約できると思う。

一つは、量子力学が、量子の現象を確率的にしか捉えられないこと。量子力学では、古典力学的な、「決定論」が成り立たず、ある原因から一義的な結果を導くことができない。そのようなものが、「物の理」を真に捉えたものであるはずがない、というものである。

その代表は、アインシュタインで、量子力学を揶揄した、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉は有名である。彼は、意識的な一神教信者ではなかっただろうが、やはり、それまでの西洋の文化的伝統の影響を強く受けて、(神によって創造された)宇宙は、厳密な法則に貫かれた、「決定論」的なものでなければならないと考えていたのだ。

もう一つは、前者とも関るが、量子力学が、量子を、「観測」によって初めて、「実在」として捉えられるものとすること。言い換えれば、観測以前にあるのは、「確率の波」という「抽象的」なもので、具体的な「実在」とは言えないものであること。狭義の「コペンハーゲン解釈」では、それで実用的には問題ないというが、「物の理」を追究する科学者にとっては、それでは満足し難いものがある。

この方向での批判者は多いが、記事『「公案」としてのクリシュナムルティ 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-4946.html)でも、クリシュナムルティの対談者としてとりあげた、デヴィッド・ボームもその一人である。彼が、「観測問題」の解釈として提出した「パイロット波」説というのも、量子の実在性に沿った方向での解釈で、「波」としての性質は、「粒子」としての実体の「先導波」として生じているに過ぎないとしたものである。

また、ボームはアインシュタインとも共同研究し、量子力学には、「隠れた変数」があって、それがみつかれば、量子力学も、実在的で、決定論的なものとして書き換えられるという説も提示していた。

しかし、後に、「隠れた変数」なるものは存在しないことが、数学的に証明されたし、「パイロット波」説も、数学的には問題が多いことが、明らかにされてしまった。

量子力学は、当初の目論見以上に、強固な基盤をもっていたことになるし、ボームも実際それは、認めざるを得なかったようだ。そんなボームが、その後、さまざまに模索した後、単に「物理学」的な説というよりも、「宇宙」という、「実在」に関する、総合的な見方の提示として提出したのが、「ホログラフィック・パラダイム」(または「理論」)といわれるものである

「ホログラフィ」とは、当時開発された、レーザー光を使って、何もない空間に、三次元の立体映像を投射させる技術のことである。その原理については、たとえば、ここに、簡単な説明がある。(http://kubotaholo.la.coocan.jp/principle.htm)。大まかなものでも、この原理の理解こそが、この説の理解の鍵となるので、ぜひ参照してほしい。

映像そのものが刻まれている、通常の写真フィルムと異なり、「ホログラム」という記録には、被写体に当てられた、2つの分割された光の、反射光同士の波動の「干渉パターン」が刻まれているだけである。それが、レーザー光によって、再生されると、何もない空間に、リアルな三次元立体映像を映し出すのである。

また、この「ホログラム」は、部分に分割しても、そのどれもが、(精度はぼやけるが)全体としての立体像を投射できる、という性質をもっている。どの「部分」にも、「全体」についての情報が刻まれているのである。

ボームは、この技術に触発されて、「宇宙」というのは、それ自体が、一つの「ホログラム」であると考えるに至った。表に現われ出た現象は、「時間」、「空間」を含めて、より深層の領域からの、「ホログラム」的な情報の、一つの投影的な現われに過ぎない。そして、その、現に現われ出ている秩序を、「顕在秩序」と呼び、「ホログラム」として機能する、深層の、包み込まれた秩序を、「内蔵秩序」と呼んだ。そして、あらゆる現象は、この「内蔵秩序」と「顕在秩序」の、「包み込み」、「披き出す」過程として説明できる、と考えた。

「ホログラム」がそうであるように、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれており、それらは、「部分」に分割できない、不可分のものである。ただし、それは、「ホログラム」とは異なり、動的に運動しているので、「ホロムーブメント」と呼ばれる。その本来、不可分の「全体」が、「顕在秩序」に「披き出される」と、たとえば、「粒子」のように、個々別々の分割されたものようにみえる、というだけである。

この見方は、「部分」が「全体」の情報を含むということで、あらゆる部分が、相似形的に、全体を反映するという、「全体論」的な見方と通じている。「全体」を分割して、「原子」のような、究極の単位に辿りつくことで、「物の理」が見えるという「原子論」的な発想とは、全く逆である。「部分」に分断する、これまでの発想では、むしろ、「全体」を取り逃がす、ということである。

また、既にみたように、量子力学の標準的解釈では、観測以前の現象は、「実在」とはいえないもので、観測によって、初めて「実在」と扱えられるものだった。ところが、ボームは、むしろ、観測以前の「内在秩序」こそが、真の「実在」であり、観測された現象は、それが投射される、一つの現われに過ぎないとしたのである。量子力学の発想を逆転させることで、「実在」に対する見方に、根本的な変革をもたらしたといえる。とはいえ、量子力学の数学的な面は、「内在秩序」が現れ出る過程の反映として、取り入れられているのはもちろんである。

さらに、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれているので、「量子もつれ」のような、「非局所的な連関」も、当然のこととなるし、それは、本質的に、量子のようなミクロの現象には、限られないことになる。つまり、これまてみて来た、量子的な現象はもちろん、いわゆる「超能力」や「超常現象」のような、「物理的な伝播」では説明できないものも、説明する可能性をもっている。

実際、ボームは、「内在秩序」には、「物質」と呼ばれるものを超えて、「意識」も含まれているとする。ただし、「物質」とか「意識」とかの区別は、「顕在秩序」での現れ上のもので、「内在秩序」では、互いに浸透し合い、分ち難く結びついている。だから、山田廣成の説と同様、たとえば、電子のような量子も、「意識」をもっているが、一般に「意識」というのもまた、何らかの「物質性」を備え、「物質」から独立しているものではないのである。

前回、「物質」と「意識」の中間的なものとして、「気」について述べたが、恐らく、「物質性」を備えた「意識」とは、そのようなものを含むものと解される。

このような「物質」と「意識」との関係では、「観測問題」について、どのようにみるのかも気になるが、それは必ずしも、明示していないようである。しかし、「観測」行為というのも、そのような、「物質」と「意識」との絡み合いの一つの現れであることには、違いないはずである。そして、「観測」によって、具体的な「粒子性」が現れ出る以上、要するに、「内在秩序」から「顕在秩序」への「披き出し」の過程に、「観測」ということが、関っているとみるのは、確かと思われる。

しかし、「意識」の多様性を認めるボームも、「観測」とは、必ずしも、「人間」の意識の問題ではないとみるはずである。それは、多重に記録された「ホログラム」が、再生する方法(レーザー光を当てる角度)によって、様々な現われ方をするように、様々な可能性の中から、ある現われ方を「披き出す」、一つの方法のようなものと考えられる。(実は、ボームとは別に、脳科学者のプリブラムも、「脳」そのものが、記憶や知覚を全体として刻み込む、一種の「ホログラム」であるという説に辿りついていて、「観測」とは、そのような脳との関係の問題ともいえるが、こごては触れない)。

しかし、ボームは、このような「内在秩序」が、究極のものとみなしているわけではない。「内在秩序」のさらに奥に、それ自体は、「思考」を越えた(ボームは「意識」をも超えたものとみる)、従って、いかなる「言語」でも捉え切れない、「究極の実在」があるとする。それは、「全体性」とか、「聖なるもの」という言い方で、一応示されるが、それそのものを、いかなる「論理」としても、捉えることはできないことを認める。ただし、「思考」を越えた、「洞察」または「叡智」として、そこから働き出るものに、具体的に触れることはできる。それは、たとえば、クリシュナムルティのような「覚者」から、現われ出る、とするのである。

このあたりは、ボームが、クリシュナムルティと対談を重ねた結果の影響が、如実に出ているとしか、言いようがない。

この「全体性」は、前にみた、「観測」ということとに関しても、大きな示唆を与える。「観測」というのは、「物質」と「意識」の関わりの一場面であり、「内在秩序」から「顕在秩序」を「披き出す」、一つの方法であった。このような「観測」は、部分的なものであり、当然、「見るもの」と「見られるもの」との区別が、前提とされている。しかし、「全体性」を反映する「観測」というものがあり、そこでは、もはや、「見るもの」と「見られるもの」が一つであるような、分離のない、全体的な、あるいは、一体的な「知覚」になっている。(記事『公案の1「観ること」とは何か 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-ad2d.html)で述べたように、通常の「観測」が「見ること」だとすれば、これは、「観ること」に当たる)。

通常の「観測」も、「顕在秩序」を現に表に「現われ出す」という意味では、見方によっては、一つの「創造」といえるものである。(実際、「ノイマン・ウィグナー理論」などは、「意識」がそのような「創造」をもたらすという意味合いが強い)だが、実際には、それは、「内在秩序」からの、一つの部分的な投射に過ぎず、「みかけ」のもので、分断されたものである。

ところが、真の「観ること」は、そのような、部分的な「投射」を、むしろ「止め」て、「内在秩序」を越えた、「全体」を映し出すものといえる。

量子力学においては、「観測」が、存在を実在としてあらしめるという見方がとられたわけだが、それはむしろ、観測ということの、分断的な性質が露わになっているのであり、真の「観ること」は、むしろ、全体を全体としてあらしめることの方に関るということである。

この「全体性」は、「ホログラム」としての「内在秩序」との対比でいえば、「ホログラム」として記録される情報の、大元となるもので、それをもたらす、「真の実在領域」ともいえる(プリブラムは、「振動数領域」と呼ぶ)。ただし、それは、現に現われ出た「顕在秩序」と、全く別にある「領域」ということなのではない。それは、あくまでも、「顕在秩序」とともにあるものであり、それと切り離しては、存在し得ないものなのである。

何しろ、ボームの「全体性」についての言及には、クリシュナムルティの影響が強く現われ出ている。私も、記事『公案としてのクリシュナムルティ』で述べたとおり、クリシュナムルティの影響で、「霊的なもの」を越えた、「悟り」などどいう世界に目を開かれたわけだが、(物理学方面からのアプローチという違いはあるにしても)、このようなボームのあり様には、共感するところが多い。

以上、ざっと、簡単にみて来ただけだが、この説が、単に「量子力学」や「物理学」の範囲を超えて、いかに射程の広い、包括的な内容をもつものであるかは、分かってもらえるだろう。一時「ニューサイエンス」などとして、もてはやされた時期もあったが、もちろん、物理学一般からは、ほとんど認められていない、というよりも、評価不能としか言いようがない。

しかし、ケン・ウィルバーのような、「神秘体験」や「永遠の哲学」に通じた、トランス・パーソナルの方面からは、批判もある。ケン・ウィルバーは、「ホログラフィック・パラダイム」は、存在の、低次から高次にいたる、様々な「次元性」ないし「階層性」を無視し、真の「超越」ではなく、物質のより「内在的」なレベルについて、明らかにしたに過ぎないという。要するに、所詮は「物理」の「拡張」に過ぎず、伝統的な「神秘」を含めた、「全体」を語る資格のあるものではない、ということである。

この批判には、もっともな点もあり、確かに、ボームの見方は、「物理」の方面からみられた視点が中心を占め、限定されたものかもしれない。しかし、ケン・ウィルバーのいう「次元性」や「階層性」というのも、随分と硬直したものであり、それに拘泥するのは、真に「全体的」なことともいえない。ボームも、ある程度批判を入れて、「階層的」な発想も取り入れるようになっているし、むしろ、「物質」という、一見最も「低次」の領域にこそ、(「創造」に関るという意味でも)最大の「神秘」が隠されているという面もあり、そこに特別に注目することには、十分の理由がある。

また、「階層性」を重視しないことには、「超越」的な視点、あるいは「垂直的」な方向に徹する、クリシュナムルティの影響も大きいと思われる。全てを「超越」する「全体性」の視点に立つ限り、個々の「階層」の相違は、ほとんど無化され、「階層」の全体が、ある種、「幻想化」されもするのである。シュタイナーなどもそうだが、ケン・ウィルバーのように、「水平的」な方向を重視しつつ、全体として理論に取り込んでいこうとする者からすれば、強引な切り捨てに感じられるかもしれないが、実際、これは強調されてしかるべき視点なのである。

いずれにしても、「物理」的な方面から、あるゆる存在の全体を包摂するような、射程をもった物の見方として、現在、この「ホログラフィック・パラダイム」に優るものはないと思う。ただし、「理論」というよりは、あくまでも「パラダイム」(「物の見方」)で、包括的である半面、個々の現象の説明原理としては、まだまだ抽象的で、今後、具体的な理論によって、埋められるところは埋められる必要があるとは思う。

ちなみに、この「パラダイム」は、超ひも理論との絡みで出されている、重力理論、「ホログラフィック原理」とは、直接の関係はない。しかし、この理論などは、この「パラダイム」のある部分を埋める、具体的な理論として機能する可能性はあるだろう。

前に、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html)で、宇宙人の技術として、「ホログラフィの挿絵」というものがあることをとりあげた。しかし、「ホログラフィック・パラダイム」によれば、そもそも、宇宙の現象そのものが、「ホログラフィの挿絵」といえるものとなる。いずれも、ある種の「幻影」ということだが、この両者には、もちろん相違もある。

宇宙の現象としての「ホログラフィ」は、比喩的にいえば、創造者としての「神」と、あらゆる存在とが、共同で、「内在秩序」から、「披き出し」たものといえる。それに対して、宇宙人の技術としての「ホログラフィの挿絵」は、特定の宇宙人が、その利害から、我々人間を巻き込んで、「投射」したものに過ぎない。

「ホログラフィの挿絵」に翻弄されないためには、「現実」との見極めが必要ということは確かにある。が、むしろ、「現実」そのものも、また、一つの「ホログラフィ」に過ぎないことを、押さえておくことも、それに囚われて、振り回されないための、一つの重要な要素なのである。

※ 本としては、ケン・ウィルバー編 『空像としての世界』(青土社)が、様々な面から、「ホログラフィック・パラダイム」を照らし出していて、いいと思う。プリプラムの論文。ボーム自身への、かなり詳しく、つっ込んだインタピュー。ケン・ウィルバーの批判などが収められている。

また、マイケル・タルボット著 『投影された宇宙』(春秋社)は、「ホログラフィック・パラダイム」の分かりやすい解説とともに、自身が能力者であり、「超能力」や「超常的な現象」全般について、いかにこの説がうまく説明するかを、説得的に述べている。

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