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2016年8月

2016年8月31日 (水)

映画『激突』と「集団ストーカー」

スピルバークのデビュー作である『激突』という映画には、エイリアンや未知の存在は、一切出て来ない。一介のサラリーマンの運転する車が、巨大なタンクローリーに、意味もなく付きまとわれ、追いかけ回されるというだけの話である。しかし、そのホラーとしての恐怖は、他のものにも勝るほどである。そこには、不思議なほとのリアリティが存在しているのだ。

初め、仕事で急いでいる車の運転手は、片道一車線の道の前をゆっくり走る、巨大なタンクローリーにいら立ち、追い越そうとする。が、そうすると、タンクローリーがスヒードを上げて、抜かせないことを繰り返すので、困惑する。しばらくすると、タンクローリーが、窓から手を出して、「行け」と合図をする。それで、これ幸いと、抜かしにかかると、対向車線には車が来ており、危うく衝突しそうになって、肝を冷やす。

運転手は、タンクローリーの意図を計りかね、恐れを抱くが、しばらくすると、タンクローリーが給油のため、スタンドに立ち寄る。運転手は、これで解放されたとばかりに、喜んで運転する。しかし、しばらくすると、後ろから、先のタンクローリーが物凄いスピードで追いかけてきて、車に迫り、ぶつけて、突いたりする。一体どうしてなのか、先の追い越しの一件で、何か怒っているのか、全く分からない。車を停めて、先に行かせようとしても、タンクローリーも後ろで停まって、こっちが動くまで、動かない。動けば、また動き出し、物凄いスピードで車に迫ってくる。

さらに、踏切で停まっていると、後ろから、タンクローリーが、なんと車を突いて押してくる。つまり、列車に激突させようとしているのである。

もはや、単純な、付きまといや、嫌がらせではあり得ない。「殺意」があることが、明白である。運転手も、さすがに「開き直り」、とことん戦うしかないと腹を決める。その後、この車と、それを追うタンクローリーとは、カーチェイスまがいの激闘を繰り広げる。ところが、車はエンジンがオーバーヒートして、スピードが出なくなり、絶体絶命の危機を迎える。が、最後には、崖の近くへとタンクローリーを誘い込み、自分はぎりぎりのところでかわして、タンクローリーを崖から落とすことに成功する。

何の関係もない、何者かによる、全く、「理由の分からない」、理不尽な「つきまとい」。殺意するある、徹底的で、しつこい「嫌がらせ」。このタンクローリーの運転手の顔は、最後まで見えない。それが、また、「実体のはっきりしない」恐れを、膨らませている。

この「タンクローリー」は、まさに、現代人の恐れの表現としての、「集団ストーカー」を象徴していないだろうか(※2)。

かつての共同体が崩壊し、人々は、互いに切り離された「個人」となった。人々は、互いに、「見えない」「他者」となり、ぎすぎすとした緊張関係に陥り、「敵意」や「悪意」をみることが多くなった。さらに、切り離された、個々の個人は、そのような「見えない」「他者」の集合である、「集団」に対しては、全くの無力である。「他者」というものに、「敵意」や「悪意」をみることが多くなるほど、その集合である「集団」」というものも、実際以上に、「悪意」をもった、恐るべきものとして、膨れあがる。そのような「集団」は、無力な「個人」を、意味もなく圧迫し、葬り去りかねないものとなる。

「タンクローリー」の巨大さ、そして顔の見えなさは、そのような「集団」、さらには、巨大な「組織」というべきものを、象徴しているようでもある。一介の平凡な個人が、巨大な組織に「目をつけられ」たら、このような理不尽なことが起こり得るかもしれない。そのような不安や恐れを、現代人は、多少とも、心の内に抱えている。この映画は、それを見事にすくい取り、表現しているため、不思議なリアリティと、単純なホラー以上の恐怖を、醸し出しているのである。

実際には、「集団ストーカー」という観念は、多くの人にとっては、取りに足りない、「ばかげた」ものと言うかもしれない。しかし、この観念は、映画と同様に、このような現代人の不安や恐れを、見事にすくい取るものではあるのである。

自称「集団ストーカー被害者」が、ネットなどであげる、被害の「証拠」とは、人や自転車が自分の前や近くをよぎったり、ちょっと変わったナンバーや状態の車と遭遇したり、工事その他の音が襲って来たりの、誰もが日常的に遭遇する光景に過ぎない。あえて言うならば、それらは、「日常的」な中でも、「ちょっと変わった」出来事、あるいは、「違和感のある」出来事くらいの感じのものである。普通は、気にもとめずに、やり過ごされる。あるいは、一瞬、気には止められても、すぐさま忘れ去られる。

多くの人にとっては、そのように、誰でも遭遇する「日常的な出来事」を、「集団ストーカー」の被害などと解釈して、本気で訴えかけることは、信じ難く、異様なことである。「おかしい」という印象を、もたざるを得ない。

しかし、実は、そのように、誰にでも起こり得る、「日常的な出来事」。そうでありながら、ちょっと変わった、違和感のある(かなり漠然とした、曖昧な)出来事(※1)を、「集団ストーカー」による行為として、拾い上げていることこそ、「集団ストーカー」という観念のミソであり、巧妙さなのである。それが、何か特殊で、具体的な行為であったならば、そうは誰にも当てはまらず、この観念が広まることもない。

そういった、一般には気にも止められない出来事も、一度、「集団ストーカー」という観念にリアリティをもって、眺められるならば、まさに、パズルのように、それにピタリと当てはまるものとなる。そのようにして、「集団ストーカー」という観念をもつこと自体が、その観念に適う出来事を、いくらでも拾えるようになっているので、さらにその観念を補強できるのである。

現在のところは、もともと「被害妄想」的だったり、「自己と他者の境界が曖昧」で、特別に過敏な感覚をもっている者が、この観念に捕らえられている。しかし、このまま、この観念が広がって行けば、いずれは、多くの者の心も捕らえ兼ねない可能性を秘めている。既にみたように、「集団ストーカー」という観念は、現代人の不安と恐怖を、見事にすくい取り、潜在的には、誰もがリアリティをもっておかしくないものだからである。

たとえば、ストレスが重なって、心か弱っているとき。あるいは、何らかのきっかけで、不安が大きく襲って来たときなど、ふとした隙に、この観念に捕えられるという可能性は、決して 少なくないのである。平凡なサラリーマンである主人公の、日常のふとした瞬間に、巨大な「タンクローリー」が襲ってきたようにである。

※1 このような出来事は、実際には、「集団ストーカー」ではなくとも、何らかの「悪意」や「攻撃性」が含まれたものである可能性はある。たとえば、ぎすぎすした個人の、本人すら気づかない、何らかの「悪意」の表現であったり、あるいは、「人と人の間」に潜む、自然霊などの攻撃や演出であったり、深く「集団ストーカー」の観念に捕えられた者が、自ら「共時的」に「引き寄せた」現象であったりするのは、既に述べたとおり。

※2(後に追加)

しかし、この「タンクローリー」が端的に象徴する「存在」といえば、何と言っても、「アーリマン存在」である。突発的で、有無を言わさぬ、強引かつ圧倒的な「破壊力」の顕示。それは、既にあげた、9・11の航空機がビルに突撃する瞬間、3・11の津波が襲いかかる瞬間、なまはげの鬼が子どもに襲いかかる瞬間と共通するものがある。徹底的なほどの、陰湿さと執拗さもそうである。あの「ずんぐりむっくり」した恰好や、薄汚く、どぶっぽい色も、私は、よく「アーリマン存在」の性質を表わしていると思う。「アーリマン的なもの」の一つの重要な特性として、「集団性」があることも、既にあげていた。(記事『「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)

また、実際に、「集団ストーカー」なる観念の生みの親も、「アーリマン存在」というべきである。もちろん、直接の唱道者は人間であるとしても、そのアイデアのインスピレーションの与え手は、「アーリマン存在」と考えられるのである。産業革命以降の「技術」のインスピレーションの与え手が、「アーリマン存在」であるのと同じような意味でである。

この種の「アーリマン存在」がもたらした観念やアイデアは、多くあるが、たとえば、様々な「詐欺」の形態のアイデアもまた、そうである。それらは、「集団ストーカー」の観念とも、共通するところがあって、普通は、「ひっかからない」と思われがちだが、人の弱点をついて、ふとした隙に、信じ込ませてしまうような、それなりに巧妙な仕掛けが施されている。また、かつて流行った、「不幸の手紙」や「チェーンメール」などの発想も、陰湿に、人の不安を煽りつつ、拡散させることを狙った、「アーリマン好み」の「ゲーム」のようなもので、「集団ストーカー」の観念と共通の要素がある。

2016年8月18日 (木)

「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象

私の「集団ストーカー」に関する記事で、最も重要な記事は、『「恐怖心」が引き寄せる現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-e6b5.html)
だと思うのだが、タイトルに「集団ストーカー」が含まれていないこと、主に「統合失調」の場合を想定して述べたこともあり、あまり読まれていないようだ。

要は、ある強い疑いをもって、「集団ストーカー」なるものがあると思ってしまった段階で、もはや「現実」は、その方向に引き寄せられて、「解釈」されるようになる。さらに進めば、それだけでなく、実際に、その方向に沿うような「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」てしまうことにもなる、ということである。

「恐怖心」が「引き寄せる」としたが、必ずしも、そのような恐怖心は本人が意識するものではなく、潜在的なものでも、十分である。さらには、「集団ストーカー」の場合には、その観念が、かなり具体的なものとして練り上げられているので、その観念を信じること自体が、もはや十分「現実」を引き寄せるだけの「力」を持ち得るのである。

現実を「作り出す力」としては、「感情」も強力だが、具体的に練りこまれた「思考」や「信念」も、十分強力なものだからである。もちろん、両者が補え合えば、さらに強力なものになる。

もちろん、そこには、「捕食者的な精霊」や「宇宙人」などの、「力添え」もあるのだが、その大元にあるのは、自分自身の「物の見方」と「恐怖という感情」であることに、気づかねばならない。

他にもそのようなものは多くあるが、「集団ストーカー」という観念自体が、「現実」を「引き寄せ」、さらには「作り出す」、一つの強力な「装置」なのである。それは、感染症におけるウイルスのように、自己増殖し、拡散し、遂には、多くの者の「日常世界」を、病的に侵すことになる。

感染症を広めて、物理的に、恐怖と混乱を引き起こしたい場合には、新種のウイルスを開発して、まき散らせばよい。同じように、精神的なレベルで、多くの者に、恐怖と混乱をもたらしたい場合には、それなりに練り上げられた、「集団ストーカー」なる観念を、まき散らし、それを信じ込ませることさえできればいいのである。

一旦、その観念を信じ込ませることにさえ成功すれは、あとは、その者が、自ら、それに沿う形の「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」て、大騒ぎしてくれる。ますます、その観念は、「力」を増して、増殖し、拡散して、多くの者を捕えるようになる。

これが、いきつくところまでいきつけば、人間がお互い同士、相手を「集団ストーカーの加害者」とみなして、反目しあい、糾弾し合うようになる。その光景は、既に歴史的には、馴染みのあるもののはずである。まさに、「魔女狩り」の沸騰の再現ということである。

「集団ストーカー」という観念と、「魔女」という観念は、人々の思考を惑わし、実体のはっきりしない恐れをとどめなく膨らませる、同じような構造をなしている。ただ、具体的な「行為」で恐れさせる「魔女」に対して、「集団」という「権力」を背景に、仄めかし、監視、嫌がらせという、間接的な行為で、じわじわと攻め立てる「集団ストーカー」は、いかにも、現代的に、陰湿なもので仕立てられている。

「集団ストーカー」という観念に捕えられないためには、もちろん、「自己」そのものと、現実的な思考力を鍛えることも必要だが、「集団ストーカー」という観念の、このような性質について、十分に考えを巡らせてみることも必要である。

※ 最近、私が記事でとりあげている、「量子力学の観測問題」とか、「物質と意識の関係」とか、「ホログラフィック・パラダイム」とかの問題は、こういった問題とかけ離れた、「非日常的」で、「抽象的」な問題と思っている人がいるかもしれない。

しかし、これらの問題は、「量子力学」やそこから発展した「パラダイム」も、もはや「現実」というものが、「意識」と無関係に存在し得るものではないことを明らかにしているのである。つまり、結局は、「意識」が「現実」というものを、どのように「引き出し」、さらには「創造」するかという問題なのである。それは、「集団ストーカーという観念が引き寄せる現実」という問題とも、十分通じている。

次回は、このことを、「知覚」=「現実」という問題との絡みで、少し分かりやすく、説明してみたい。さらには、「物質と意識の関係」について、総まとめをして、とりあえず、この問題からは離れることにしたい。

2016年8月 4日 (木)

「ホログラフィック・パラダイム」について

「物質」と「意識」の関係を考えるうえで、物理学の方面から出されている説で、現在最も参照になるのは、「ホログラフィク・パラダイム」だと思う。今回は、この説を、簡単に説明しつつ、いくらかコメントしておきたい。

みてきたように、量子力学は、ニュートン力学に代表される、それまでの古典力学の常識を根本的に覆すものだった。が、もちろん、そのような量子力学に不満をもつ科学者も多くいた。その不満は、基本的に次の2つの方向に集約できると思う。

一つは、量子力学が、量子の現象を確率的にしか捉えられないこと。量子力学では、古典力学的な、「決定論」が成り立たず、ある原因から一義的な結果を導くことができない。そのようなものが、「物の理」を真に捉えたものであるはずがない、というものである。

その代表は、アインシュタインで、量子力学を揶揄した、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉は有名である。彼は、意識的な一神教信者ではなかっただろうが、やはり、それまでの西洋の文化的伝統の影響を強く受けて、(神によって創造された)宇宙は、厳密な法則に貫かれた、「決定論」的なものでなければならないと考えていたのだ。

もう一つは、前者とも関るが、量子力学が、量子を、「観測」によって初めて、「実在」として捉えられるものとすること。言い換えれば、観測以前にあるのは、「確率の波」という「抽象的」なもので、具体的な「実在」とは言えないものであること。狭義の「コペンハーゲン解釈」では、それで実用的には問題ないというが、「物の理」を追究する科学者にとっては、それでは満足し難いものがある。

この方向での批判者は多いが、記事『「公案」としてのクリシュナムルティ 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-4946.html)でも、クリシュナムルティの対談者としてとりあげた、デヴィッド・ボームもその一人である。彼が、「観測問題」の解釈として提出した「パイロット波」説というのも、量子の実在性に沿った方向での解釈で、「波」としての性質は、「粒子」としての実体の「先導波」として生じているに過ぎないとしたものである。

また、ボームはアインシュタインとも共同研究し、量子力学には、「隠れた変数」があって、それがみつかれば、量子力学も、実在的で、決定論的なものとして書き換えられるという説も提示していた。

しかし、後に、「隠れた変数」なるものは存在しないことが、数学的に証明されたし、「パイロット波」説も、数学的には問題が多いことが、明らかにされてしまった。

量子力学は、当初の目論見以上に、強固な基盤をもっていたことになるし、ボームも実際それは、認めざるを得なかったようだ。そんなボームが、その後、さまざまに模索した後、単に「物理学」的な説というよりも、「宇宙」という、「実在」に関する、総合的な見方の提示として提出したのが、「ホログラフィック・パラダイム」(または「理論」)といわれるものである

「ホログラフィ」とは、当時開発された、レーザー光を使って、何もない空間に、三次元の立体映像を投射させる技術のことである。その原理については、たとえば、ここに、簡単な説明がある。(http://kubotaholo.la.coocan.jp/principle.htm)。大まかなものでも、この原理の理解こそが、この説の理解の鍵となるので、ぜひ参照してほしい。

映像そのものが刻まれている、通常の写真フィルムと異なり、「ホログラム」という記録には、被写体に当てられた、2つの分割された光の、反射光同士の波動の「干渉パターン」が刻まれているだけである。それが、レーザー光によって、再生されると、何もない空間に、リアルな三次元立体映像を映し出すのである。

また、この「ホログラム」は、部分に分割しても、そのどれもが、(精度はぼやけるが)全体としての立体像を投射できる、という性質をもっている。どの「部分」にも、「全体」についての情報が刻まれているのである。

ボームは、この技術に触発されて、「宇宙」というのは、それ自体が、一つの「ホログラム」であると考えるに至った。表に現われ出た現象は、「時間」、「空間」を含めて、より深層の領域からの、「ホログラム」的な情報の、一つの投影的な現われに過ぎない。そして、その、現に現われ出ている秩序を、「顕在秩序」と呼び、「ホログラム」として機能する、深層の、包み込まれた秩序を、「内蔵秩序」と呼んだ。そして、あらゆる現象は、この「内蔵秩序」と「顕在秩序」の、「包み込み」、「披き出す」過程として説明できる、と考えた。

「ホログラム」がそうであるように、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれており、それらは、「部分」に分割できない、不可分のものである。ただし、それは、「ホログラム」とは異なり、動的に運動しているので、「ホロムーブメント」と呼ばれる。その本来、不可分の「全体」が、「顕在秩序」に「披き出される」と、たとえば、「粒子」のように、個々別々の分割されたものようにみえる、というだけである。

この見方は、「部分」が「全体」の情報を含むということで、あらゆる部分が、相似形的に、全体を反映するという、「全体論」的な見方と通じている。「全体」を分割して、「原子」のような、究極の単位に辿りつくことで、「物の理」が見えるという「原子論」的な発想とは、全く逆である。「部分」に分断する、これまでの発想では、むしろ、「全体」を取り逃がす、ということである。

また、既にみたように、量子力学の標準的解釈では、観測以前の現象は、「実在」とはいえないもので、観測によって、初めて「実在」と扱えられるものだった。ところが、ボームは、むしろ、観測以前の「内在秩序」こそが、真の「実在」であり、観測された現象は、それが投射される、一つの現われに過ぎないとしたのである。量子力学の発想を逆転させることで、「実在」に対する見方に、根本的な変革をもたらしたといえる。とはいえ、量子力学の数学的な面は、「内在秩序」が現れ出る過程の反映として、取り入れられているのはもちろんである。

さらに、「内在秩序」では、「全体」が包み込まれているので、「量子もつれ」のような、「非局所的な連関」も、当然のこととなるし、それは、本質的に、量子のようなミクロの現象には、限られないことになる。つまり、これまてみて来た、量子的な現象はもちろん、いわゆる「超能力」や「超常現象」のような、「物理的な伝播」では説明できないものも、説明する可能性をもっている。

実際、ボームは、「内在秩序」には、「物質」と呼ばれるものを超えて、「意識」も含まれているとする。ただし、「物質」とか「意識」とかの区別は、「顕在秩序」での現れ上のもので、「内在秩序」では、互いに浸透し合い、分ち難く結びついている。だから、山田廣成の説と同様、たとえば、電子のような量子も、「意識」をもっているが、一般に「意識」というのもまた、何らかの「物質性」を備え、「物質」から独立しているものではないのである。

前回、「物質」と「意識」の中間的なものとして、「気」について述べたが、恐らく、「物質性」を備えた「意識」とは、そのようなものを含むものと解される。

このような「物質」と「意識」との関係では、「観測問題」について、どのようにみるのかも気になるが、それは必ずしも、明示していないようである。しかし、「観測」行為というのも、そのような、「物質」と「意識」との絡み合いの一つの現れであることには、違いないはずである。そして、「観測」によって、具体的な「粒子性」が現れ出る以上、要するに、「内在秩序」から「顕在秩序」への「披き出し」の過程に、「観測」ということが、関っているとみるのは、確かと思われる。

しかし、「意識」の多様性を認めるボームも、「観測」とは、必ずしも、「人間」の意識の問題ではないとみるはずである。それは、多重に記録された「ホログラム」が、再生する方法(レーザー光を当てる角度)によって、様々な現われ方をするように、様々な可能性の中から、ある現われ方を「披き出す」、一つの方法のようなものと考えられる。(実は、ボームとは別に、脳科学者のプリブラムも、「脳」そのものが、記憶や知覚を全体として刻み込む、一種の「ホログラム」であるという説に辿りついていて、「観測」とは、そのような脳との関係の問題ともいえるが、こごては触れない)。

しかし、ボームは、このような「内在秩序」が、究極のものとみなしているわけではない。「内在秩序」のさらに奥に、それ自体は、「思考」を越えた(ボームは「意識」をも超えたものとみる)、従って、いかなる「言語」でも捉え切れない、「究極の実在」があるとする。それは、「全体性」とか、「聖なるもの」という言い方で、一応示されるが、それそのものを、いかなる「論理」としても、捉えることはできないことを認める。ただし、「思考」を越えた、「洞察」または「叡智」として、そこから働き出るものに、具体的に触れることはできる。それは、たとえば、クリシュナムルティのような「覚者」から、現われ出る、とするのである。

このあたりは、ボームが、クリシュナムルティと対談を重ねた結果の影響が、如実に出ているとしか、言いようがない。

この「全体性」は、前にみた、「観測」ということとに関しても、大きな示唆を与える。「観測」というのは、「物質」と「意識」の関わりの一場面であり、「内在秩序」から「顕在秩序」を「披き出す」、一つの方法であった。このような「観測」は、部分的なものであり、当然、「見るもの」と「見られるもの」との区別が、前提とされている。しかし、「全体性」を反映する「観測」というものがあり、そこでは、もはや、「見るもの」と「見られるもの」が一つであるような、分離のない、全体的な、あるいは、一体的な「知覚」になっている。(記事『公案の1「観ること」とは何か 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-ad2d.html)で述べたように、通常の「観測」が「見ること」だとすれば、これは、「観ること」に当たる)。

通常の「観測」も、「顕在秩序」を現に表に「現われ出す」という意味では、見方によっては、一つの「創造」といえるものである。(実際、「ノイマン・ウィグナー理論」などは、「意識」がそのような「創造」をもたらすという意味合いが強い)だが、実際には、それは、「内在秩序」からの、一つの部分的な投射に過ぎず、「みかけ」のもので、分断されたものである。

ところが、真の「観ること」は、そのような、部分的な「投射」を、むしろ「止め」て、「内在秩序」を越えた、「全体」を映し出すものといえる。

量子力学においては、「観測」が、存在を実在としてあらしめるという見方がとられたわけだが、それはむしろ、観測ということの、分断的な性質が露わになっているのであり、真の「観ること」は、むしろ、全体を全体としてあらしめることの方に関るということである。

この「全体性」は、「ホログラム」としての「内在秩序」との対比でいえば、「ホログラム」として記録される情報の、大元となるもので、それをもたらす、「真の実在領域」ともいえる(プリブラムは、「振動数領域」と呼ぶ)。ただし、それは、現に現われ出た「顕在秩序」と、全く別にある「領域」ということなのではない。それは、あくまでも、「顕在秩序」とともにあるものであり、それと切り離しては、存在し得ないものなのである。

何しろ、ボームの「全体性」についての言及には、クリシュナムルティの影響が強く現われ出ている。私も、記事『公案としてのクリシュナムルティ』で述べたとおり、クリシュナムルティの影響で、「霊的なもの」を越えた、「悟り」などどいう世界に目を開かれたわけだが、(物理学方面からのアプローチという違いはあるにしても)、このようなボームのあり様には、共感するところが多い。

以上、ざっと、簡単にみて来ただけだが、この説が、単に「量子力学」や「物理学」の範囲を超えて、いかに射程の広い、包括的な内容をもつものであるかは、分かってもらえるだろう。一時「ニューサイエンス」などとして、もてはやされた時期もあったが、もちろん、物理学一般からは、ほとんど認められていない、というよりも、評価不能としか言いようがない。

しかし、ケン・ウィルバーのような、「神秘体験」や「永遠の哲学」に通じた、トランス・パーソナルの方面からは、批判もある。ケン・ウィルバーは、「ホログラフィック・パラダイム」は、存在の、低次から高次にいたる、様々な「次元性」ないし「階層性」を無視し、真の「超越」ではなく、物質のより「内在的」なレベルについて、明らかにしたに過ぎないという。要するに、所詮は「物理」の「拡張」に過ぎず、伝統的な「神秘」を含めた、「全体」を語る資格のあるものではない、ということである。

この批判には、もっともな点もあり、確かに、ボームの見方は、「物理」の方面からみられた視点が中心を占め、限定されたものかもしれない。しかし、ケン・ウィルバーのいう「次元性」や「階層性」というのも、随分と硬直したものであり、それに拘泥するのは、真に「全体的」なことともいえない。ボームも、ある程度批判を入れて、「階層的」な発想も取り入れるようになっているし、むしろ、「物質」という、一見最も「低次」の領域にこそ、(「創造」に関るという意味でも)最大の「神秘」が隠されているという面もあり、そこに特別に注目することには、十分の理由がある。

また、「階層性」を重視しないことには、「超越」的な視点、あるいは「垂直的」な方向に徹する、クリシュナムルティの影響も大きいと思われる。全てを「超越」する「全体性」の視点に立つ限り、個々の「階層」の相違は、ほとんど無化され、「階層」の全体が、ある種、「幻想化」されもするのである。シュタイナーなどもそうだが、ケン・ウィルバーのように、「水平的」な方向を重視しつつ、全体として理論に取り込んでいこうとする者からすれば、強引な切り捨てに感じられるかもしれないが、実際、これは強調されてしかるべき視点なのである。

いずれにしても、「物理」的な方面から、あるゆる存在の全体を包摂するような、射程をもった物の見方として、現在、この「ホログラフィック・パラダイム」に優るものはないと思う。ただし、「理論」というよりは、あくまでも「パラダイム」(「物の見方」)で、包括的である半面、個々の現象の説明原理としては、まだまだ抽象的で、今後、具体的な理論によって、埋められるところは埋められる必要があるとは思う。

ちなみに、この「パラダイム」は、超ひも理論との絡みで出されている、重力理論、「ホログラフィック原理」とは、直接の関係はない。しかし、この理論などは、この「パラダイム」のある部分を埋める、具体的な理論として機能する可能性はあるだろう。

前に、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html)で、宇宙人の技術として、「ホログラフィの挿絵」というものがあることをとりあげた。しかし、「ホログラフィック・パラダイム」によれば、そもそも、宇宙の現象そのものが、「ホログラフィの挿絵」といえるものとなる。いずれも、ある種の「幻影」ということだが、この両者には、もちろん相違もある。

宇宙の現象としての「ホログラフィ」は、比喩的にいえば、創造者としての「神」と、あらゆる存在とが、共同で、「内在秩序」から、「披き出し」たものといえる。それに対して、宇宙人の技術としての「ホログラフィの挿絵」は、特定の宇宙人が、その利害から、我々人間を巻き込んで、「投射」したものに過ぎない。

「ホログラフィの挿絵」に翻弄されないためには、「現実」との見極めが必要ということは確かにある。が、むしろ、「現実」そのものも、また、一つの「ホログラフィ」に過ぎないことを、押さえておくことも、それに囚われて、振り回されないための、一つの重要な要素なのである。

※ 本としては、ケン・ウィルバー編 『空像としての世界』(青土社)が、様々な面から、「ホログラフィック・パラダイム」を照らし出していて、いいと思う。プリプラムの論文。ボーム自身への、かなり詳しく、つっ込んだインタピュー。ケン・ウィルバーの批判などが収められている。

また、マイケル・タルボット著 『投影された宇宙』(春秋社)は、「ホログラフィック・パラダイム」の分かりやすい解説とともに、自身が能力者であり、「超能力」や「超常的な現象」全般について、いかにこの説がうまく説明するかを、説得的に述べている。

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