再び、コラム的な話題を挿入しておきたいと思う。
「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「超能力」や「気」といった問題を抜かすことはできない。そして、これらの問題も、これまで述べて来た、「観測問題」と「意識」の問題や「量子力学」と関るものをもっている。今回は、それらの関りを、ざっとみておきたい。
「超能力」の場合について、『モーガン・フリーマン時空を超えて』で取り上げられた、「地球プロジェクト」による乱数発生器の乱れの場合についてみてみよう。
これは、人間の意識の影響により、乱数発生器の本来発生すべき確率的割合に、乱れが生じたものと解される。乱数発生器は、量子レベルでの、量子力学の原理的な確率性に基づいてできているから、意識により、量子力学によって予測される確率に影響が与えられたと解されるのである。
ただ、この場合の意識というのは、特定の誰かのものではなく、(人間とも必ずしも限らない)漠然と、多くのものの集合的な意識ということである。また、無意識的なもので、「観測」に基づいてなされたものではないので、量子力学的な「波束の収縮」の過程に意識が作用したものかどうかは不明である。だが、量子力学的な確率に影響が与えられた以上、そう解す余地は十分あるはずである。
しかし、この場合には、ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、はっきりと異なる面があることに注意しなければならない。
ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、あくまで、量子力学の予測する確率の範囲で、個々の、恣意的な収縮が起こることを認めるものである。つまり、個々の収縮は、予測のできない、恣意的なものであっても、全体として統計的にみる限り、量子力学の予測する確率に従わなければならない。そうでなければ、量子力学の「波束の収縮」という事態を超えたものとなってしまう。
しかし、地球プロジェクトの場合は、このような量子力学の予測する確率を乱すもので、単に、意識が、波束の収縮をもたらす範囲を超えて、作用を及ぼしているのである。だからこそ、一種の「超能力」であり、「超常的な現象」なのである。
ただし、個々の「収縮」に注目する限り、厳密にこれらの場合を区別することは難しい。そもそも、「波束の収縮」も、物理過程から独立した意識がもたらすものとされる以上、ある種「超常的」(超越的)なものであり、その「超常性」故に、「波束の収縮」という量子力学では説明できない現象を起こすとされるのである。
だから、もし、波束の収縮が、一般的に、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によってもたらされるのなら、それは、量子力学的な確率の範囲に収まるという方が、不自然である。地球プロジェクトでみられるような、「超能力」的な場合と、区別されるだけの、十分の理由がないということである。
そういうわけで、波束の収縮自体は、その意味でも、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によって、恣意的にもたらされるものとは解し難い。ただ、地球プロジェクトの場合のように、波束の収縮に意識が関与する可能性はあり、そうした場合には、量子力学的な確率の範囲を超えることになるのが自然ということである。
これは、「波束の収縮」と「超能力」が関係するような場合にみたことだが、「超能力」そのものは、何度も述べたように、マクロの物質そのものに直接作用すると解され、量子力学的な過程にのみ働くものとは解されない。
量子の領域は、「量子もつれ」や、「量子トンネル効果」、「量子テレポーテーション」(※1)など、そのままマクロの物質に適用すれば、「超常現象」そのものとなるような現象に満ちている。その意味で、「超能力」との関連を示唆するものは多いが、それそのものが「超能力」ではないし、逆に、「超能力」一般も、そのようなものに限定されるわけではない。
物質と意識の関係全般の問題としては、量子力学的な「波束の収縮」に限定されない、別の発想を必要とするということである。
その、「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「気」という、それらの中間的、媒介的な概念を通してみることも重要である。
「気」は、「物質」そのものではないが、エネルギーを有し、情報の媒体となる。まさに、「意識」と「物質」を媒介する、中間的な事象なのである。「超能力」を媒介するものも、この「気」と解することができる。
「気」は、西洋の神秘学では「エーテル」とも呼ばれ、それを、生命が身体のようにまとっているものは、「エーテル体」と呼ばれる。「霊」「魂」「体」の3分説によれば、「エーテル体」は「魂」の領域となり、(純粋な)「意識」が「霊」の領域ということになる。
「気」が「物質」そのものではないこと、「量子論」的な現象とも解せないことは、エネルギーが距離の二乗に反比例して減ずることはないこと、特定の対象に選択的に働くことからも分かる。後者は、「意識」をより直接に反映することを思わせる。
ただし、「気」が発せられるときには、脳波の変化、温度の上昇、電磁波の発生、赤外線の発生など、何らかの物質的な変化を伴うことが知られている(※2)。「こぼれ現象」とも言われる。それらは、「気」そのものを捉えたのではないが、その発生に伴って、派生する物質的な変化を捉えたものと解されるのである。「気」が、物質そのものではないが、物質と強く関連するものであることを物語っている。
また、気功師が気功を施すときには、「脳波の同調現象」といって、気功師の脳波と同様の変化が、受け手にも同調して起こることが分かっている(※3)。つまり、「気」が情報を媒介して、伝播したと解されるのである。
この同調現象は、「伝播」によるのではなく、もともとある、「非局所的な連関」が露わになったものと解すこともできる。こう解すと、「量子もつれ」のような、量子力学的現象との関連が示唆されるが、しかし、「気」というものが媒介になって起こっていることは、確がであり、量子力学的な現象そのものなのではない。
こうみてくると、「物質」と「意識」といっても、それらの間には、中間的な領域が(様々に)あり、全体として、「階層構造」をなしていることに注意しなければならない。また、山田の「電子意志説」でみたように、「物質」と「意識」といっても、それらは画然と区別されるわけではなく、互いが互いの性質を含みつつ、交錯し合い、ただ、その階層により、それらのいわば「純度」が異なるという風に、理解しなければならない。
「観測行為」とは、そのように、多様に交錯する「物質」と「意識」の「狭間」で起こる、一つの特異な現象であり、「波束の収縮」という事態も、量子と量子を越えたレベルで起こる、その一つの局面といえる。そこには、(電子の意志を含めた)様々な形で、「意識」が関与する余地がある。が、少なくとも、単純に、人間の恣意的な意識により、起こるものとは解せない。基本的には、ペンローズもいうように、「客観的」なものとして起こっている可能性があるが、ただ、それを超えるような意識の作用があるときは、それは、もはや一種の「超能力」となっているということなのである。
次回は、これらのことを踏まえて、さらに、興味深い理論を紹介しつつ、物質と意識の全般的な関係について述べたい。
※1 簡単な用語解説だけだが、たとえばここを参照( http://www.netlaputa.ne.jp/~hijk/memo/quantum.html )
※2 湯浅泰雄著 『「気」とは何か』(NHKブックス) 参照
※3 品川嘉也著 『気功の科学』(カッパ・サイエンス) 参照
両者とも、多少古いものの、「気」についての重要な基本的文献と思うのだが、絶版になっているのは惜しい。
※4 『サイエンスゼロ』で、こんなのやっていたのは知らなかった。(「量子と超能力」 https://www.youtube.com/watch?v=j9L7Wdcv1dQ)
これも、人間の意識が、量子の量子力学的な確率予測に影響を与えたもので、「波束の収縮」の過程に働いた可能性があるものですね。
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