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2016年7月

2016年7月26日 (火)

「ポケモンGO」とスマホ依存

「ポケモンGO」が日本でも販売されて、社会現象になっているようだが、実際いたる所で、スマホ片手にポケモンを探している人を見かける。さまざまな危険、たとえば、事故やトラブルの増加、スマホを通しての情報漏れや情報収集、不審者や犯罪者との錯誤やそのカモフラージュなど、も取り沙汰されている。それぞれ、もっともなことだと思う。

しかし、私は、最も危惧されるのは、スマホ依存の強化、拡大だと思う。

私は、もっていないので、よくは知らないが、最近は、スマホもいろいろな使い道がある意味頭打ちになり、全体として依存度も減少し、飽きられかかっていたところと思われる。そんな中、「スマホの危機」を救い、新たに依存者を拡大すべく、(最終?)兵器として投入されたのが、「ポケモンGO」なる最新技術のバーチャルゲームなのだ。

ただし、「ポケモン」というコンセプト自体は、記事『日本の憑きもの』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-6390.html)でも、ちょっと触れたように、狩猟民的なシャーマニズムをモチーフにしたもので、現代の若者に、絶大な人気があること自体は頷けるものである。中国でも、「都市精霊GO」という、お得意のパクリものが出たらしいが、この「都市精霊」という言い方は、実は「ポケモン」の実質を端的に言い表わしている。

「ポケモン」は、まさに「都市」に住む「精霊」なのであり、「自然」から切り離されて、都市化した社会の中で、かつての「生きた自然」を象徴的に体現し、疑似的に体験させてくれる、貴重な存在なのだ。それは、「失われた」もの、しかし、もしかしたら、今も何らかの形で身近に潜んでいるかもしれないものを、郷愁と予感をもって、照らし出しているのである。

実は私も、初めゲームとしてポケモンか出たときに、甥たちが一生懸命やっていたのにつき合って(?)、やっていた。まだ、あまり攻略本も出ていなかった頃に、クリアしているし、ポケモンも151種類全部集めている(「ミュー」は「コイキング」からの裏技ゲットだが)。しかも、暇なことには、(対戦上必要があったのだが)、100レベルまで育てたポケモンもいる。

本当に面白いし、よくできていて、ハマるのもよく分かる。

しかし、だからこそ、これをスマホと結びつけたら、「スマホ依存」のための最強の武器となるのだ。

「スマホ」をもって、ポケモンを探しに外に出ることは、「ひきこもり」対策にもなる、などということも言われるようだが、その者が触れているのは、外の世界などではなく、ひきこもっているときと同じ、相変わらずの、「バーチャルな世界」、それも、スマホと結びついて、より強化された世界である。

記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)でみたように、スマホやケータイ、インターネットなどの情報機器は、「宇宙人」が、彼らの支配領域に、人々の意識をつなぎとめるための、強力な武器と化している。それは、霊的な方面からの、影響力や憑依を拡大する手立てともなっている。

「スマホ依存」が拡大することは、もちろん、現体制にとっても、人々の思考の停止や弱体化など、大きな利益である。しかし、さらに大きな利益を受けるのは、その背後で実質的に操っている、「宇宙人」たちなのである。

若者たちは、「ポケモン」を育てているつもりで、実際には、「ポケモン」(邪悪な「宇宙人」ないし「自然霊」)によって、「育てられている」としか言いようがない。

2016年7月 2日 (土)

「超能力」「気」と「量子力学」

再び、コラム的な話題を挿入しておきたいと思う。

「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「超能力」や「気」といった問題を抜かすことはできない。そして、これらの問題も、これまで述べて来た、「観測問題」と「意識」の問題や「量子力学」と関るものをもっている。今回は、それらの関りを、ざっとみておきたい。

「超能力」の場合について、『モーガン・フリーマン時空を超えて』で取り上げられた、「地球プロジェクト」による乱数発生器の乱れの場合についてみてみよう。

これは、人間の意識の影響により、乱数発生器の本来発生すべき確率的割合に、乱れが生じたものと解される。乱数発生器は、量子レベルでの、量子力学の原理的な確率性に基づいてできているから、意識により、量子力学によって予測される確率に影響が与えられたと解されるのである。

ただ、この場合の意識というのは、特定の誰かのものではなく、(人間とも必ずしも限らない)漠然と、多くのものの集合的な意識ということである。また、無意識的なもので、「観測」に基づいてなされたものではないので、量子力学的な「波束の収縮」の過程に意識が作用したものかどうかは不明である。だが、量子力学的な確率に影響が与えられた以上、そう解す余地は十分あるはずである。

しかし、この場合には、ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、はっきりと異なる面があることに注意しなければならない。

ノイマン-ウィグナー理論のいう「意識による波束の収縮」とは、あくまで、量子力学の予測する確率の範囲で、個々の、恣意的な収縮が起こることを認めるものである。つまり、個々の収縮は、予測のできない、恣意的なものであっても、全体として統計的にみる限り、量子力学の予測する確率に従わなければならない。そうでなければ、量子力学の「波束の収縮」という事態を超えたものとなってしまう。

しかし、地球プロジェクトの場合は、このような量子力学の予測する確率を乱すもので、単に、意識が、波束の収縮をもたらす範囲を超えて、作用を及ぼしているのである。だからこそ、一種の「超能力」であり、「超常的な現象」なのである。

ただし、個々の「収縮」に注目する限り、厳密にこれらの場合を区別することは難しい。そもそも、「波束の収縮」も、物理過程から独立した意識がもたらすものとされる以上、ある種「超常的」(超越的)なものであり、その「超常性」故に、「波束の収縮」という量子力学では説明できない現象を起こすとされるのである。

だから、もし、波束の収縮が、一般的に、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によってもたらされるのなら、それは、量子力学的な確率の範囲に収まるという方が、不自然である。地球プロジェクトでみられるような、「超能力」的な場合と、区別されるだけの、十分の理由がないということである。

そういうわけで、波束の収縮自体は、その意味でも、ノイマン-ウィグナー理論のいうように、意識によって、恣意的にもたらされるものとは解し難い。ただ、地球プロジェクトの場合のように、波束の収縮に意識が関与する可能性はあり、そうした場合には、量子力学的な確率の範囲を超えることになるのが自然ということである。

これは、「波束の収縮」と「超能力」が関係するような場合にみたことだが、「超能力」そのものは、何度も述べたように、マクロの物質そのものに直接作用すると解され、量子力学的な過程にのみ働くものとは解されない。

量子の領域は、「量子もつれ」や、「量子トンネル効果」、「量子テレポーテーション」(※1)など、そのままマクロの物質に適用すれば、「超常現象」そのものとなるような現象に満ちている。その意味で、「超能力」との関連を示唆するものは多いが、それそのものが「超能力」ではないし、逆に、「超能力」一般も、そのようなものに限定されるわけではない。

物質と意識の関係全般の問題としては、量子力学的な「波束の収縮」に限定されない、別の発想を必要とするということである。

その、「物質」と「意識」の関係を考えるうえでは、「気」という、それらの中間的、媒介的な概念を通してみることも重要である

「気」は、「物質」そのものではないが、エネルギーを有し、情報の媒体となる。まさに、「意識」と「物質」を媒介する、中間的な事象なのである。「超能力」を媒介するものも、この「気」と解することができる。

「気」は、西洋の神秘学では「エーテル」とも呼ばれ、それを、生命が身体のようにまとっているものは、「エーテル体」と呼ばれる。「霊」「魂」「体」の3分説によれば、「エーテル体」は「魂」の領域となり、(純粋な)「意識」が「霊」の領域ということになる。

「気」が「物質」そのものではないこと、「量子論」的な現象とも解せないことは、エネルギーが距離の二乗に反比例して減ずることはないこと、特定の対象に選択的に働くことからも分かる。後者は、「意識」をより直接に反映することを思わせる。

ただし、「気」が発せられるときには、脳波の変化、温度の上昇、電磁波の発生、赤外線の発生など、何らかの物質的な変化を伴うことが知られている(※2)。「こぼれ現象」とも言われる。それらは、「気」そのものを捉えたのではないが、その発生に伴って、派生する物質的な変化を捉えたものと解されるのである。「気」が、物質そのものではないが、物質と強く関連するものであることを物語っている。

また、気功師が気功を施すときには、「脳波の同調現象」といって、気功師の脳波と同様の変化が、受け手にも同調して起こることが分かっている(※3)。つまり、「気」が情報を媒介して、伝播したと解されるのである。

この同調現象は、「伝播」によるのではなく、もともとある、「非局所的な連関」が露わになったものと解すこともできる。こう解すと、「量子もつれ」のような、量子力学的現象との関連が示唆されるが、しかし、「気」というものが媒介になって起こっていることは、確がであり、量子力学的な現象そのものなのではない。

こうみてくると、「物質」と「意識」といっても、それらの間には、中間的な領域が(様々に)あり、全体として、「階層構造」をなしていることに注意しなければならない。また、山田の「電子意志説」でみたように、「物質」と「意識」といっても、それらは画然と区別されるわけではなく、互いが互いの性質を含みつつ、交錯し合い、ただ、その階層により、それらのいわば「純度」が異なるという風に、理解しなければならない

「観測行為」とは、そのように、多様に交錯する「物質」と「意識」の「狭間」で起こる、一つの特異な現象であり、「波束の収縮」という事態も、量子と量子を越えたレベルで起こる、その一つの局面といえる。そこには、(電子の意志を含めた)様々な形で、「意識」が関与する余地がある。が、少なくとも、単純に、人間の恣意的な意識により、起こるものとは解せない。基本的には、ペンローズもいうように、「客観的」なものとして起こっている可能性があるが、ただ、それを超えるような意識の作用があるときは、それは、もはや一種の「超能力」となっているということなのである。

次回は、これらのことを踏まえて、さらに、興味深い理論を紹介しつつ、物質と意識の全般的な関係について述べたい。

※1  簡単な用語解説だけだが、たとえばここを参照( http://www.netlaputa.ne.jp/~hijk/memo/quantum.html )

※2  湯浅泰雄著 『「気」とは何か』(NHKブックス) 参照

※3  品川嘉也著 『気功の科学』(カッパ・サイエンス) 参照

両者とも、多少古いものの、「気」についての重要な基本的文献と思うのだが、絶版になっているのは惜しい。

※4    『サイエンスゼロ』で、こんなのやっていたのは知らなかった。(「量子と超能力」  https://www.youtube.com/watch?v=j9L7Wdcv1dQ)
これも、人間の意識が、量子の量子力学的な確率予測に影響を与えたもので、「波束の収縮」の過程に働いた可能性があるものですね。

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