「量子力学の観測問題」と「意識」2
前々回みたように、量子力学の観測問題で、波束の収縮は、「デコヒーレンス理論」で説明できるとすれば、この問題に関する限り、意識との関係が特に問題となることはない。また、量子力学(特にその確率的な不確定性)は、基本的に、ミクロの領域にのみ当てはまるものとして、やり過ごすことができる。
私も、当初は、このように考えていいものと思っていた。意識との関係は、前に、「超能力」の例でみたように、量子力学に直接関わるというよりも、マクロの領域全体としての物質との関係で、問題となるものである。それは、何も、量子力学の問題として生じているのではない。量子力学は、あくまで、基本、ミクロの領域に当てはまるもので、意識との関係の問題には、それとは別の発想を必要とするということである。
しかし、デコヒーレンス理論では、前々回みたように、たとえそのようなことがあるとしても、それで全ての場合を説明することはできないのだった。さらに、デコヒーレンス理論では、波の干渉性の喪失は説明できても、可能性の中の、ある特定の可能性に収縮することの説明はできないという問題もある。(だからこそ、「多世界解釈」では、他の可能性の世界も消えずに残り、分岐しつつ共存するとするわけだが。)
そういうわけで、量子力学においても、観測行為に絡んで、意識との関係が問題となる余地が十分あるというべきである。ただし、それは、前述したとおり、物質と意識との関係全般の問題を、カバーするうわけではない。とはいえ、この点についても、いろいろと示唆をもたらしてくれるのは、確かのはずである。
以下、意識との関係において、興味深い説をいくつかあげながら、それを参照にして述べていこう。
「ノイマン-ウィグナー理論」では、物質的な過程から独立した意識が、波束の収縮をもたらすとされたが、この場合の「意識」というのは、かなり曖昧なものである。また、波束を収縮して、確定的な状態をもたらすのも、意識による主観的、恣意的な作用ということになるが、それをもたらすのが、誰の意識なのかも、曖昧なこととなる。
ロジャー・ペンローズは、意識との関係という意味では、この説に近いものがあるが、これらの問題を、かなり解消した、独自の「量子脳理論」を称えている。
観測行為に伴って、量子力学的な波束を収縮させるメカニズムは、実際に存在しており、それは、脳の量子論的な過程によるとするのである。ノイマン-ウィグナー理論のように、物質過程から独立した意識というものを、認めるのではない。あくまで、脳の、より微細な、「物理的」な過程によるとするのだが、それは、波束の収縮を説明できない、一般の量子力学を修正し、さらには、「計算可能性」に基づく、一般の物理学をも修正するものiになっている。
『モーガン・フリーマン時空を超えて』「死後の世界はあるのか?」でも、脳内のニューロンではなく、微小管(マイクロチューブ)とよばれる、隔離された部分が、量子論的な過程を担うことで、意識をもたらすという、ハメロフの説がとりあげられたていた。ペンローズの説は、これを発展し、この部分が、量子論的な過程によって、波束を収縮させることで、意識をもたらすとする。(「意識」には、さまざまな局面があるが、特に、確定的な認識の可能性をもたらすということなのだろう。)
この収縮は、「客観的収縮」とよばれ、客観的、決定論的なものとされ、ノイマン-ウィグナー理論のように、主観的、恣意的なものではない。ただ、それは、ゲーテルの定理を取り入れて、「計算不可能」なものとされている。そのメカニズムは、量子重力理論に基づく複雑なもので、一般相対性理論とも関り、時空の重ね合わせとその崩壊ということに基づくもののようである。この点は、私には、とても理解不能だが、一般の量子力学を超えるものであるのは明らかで、また、「計算可能性」に基づく、一般の物理学をも超えるものである。
まだまだ、未完成のものではあるようたが、波束の収縮を説明しつつ、脳と意識の関係の問題をも捉える、可能性あるものとして、とても興味深いものといえる。
前述のとおり、この収縮は、「計算不可能」ということで、そこに、人間の「自由意志」の可能性が認められてはいるが、基本的に、決定論的なものという。ノイマン-ウィグナー理論のように、主観や、恣意の働く余地はないのである。ペンローズは、プラトン主義者を自認し、意識が物質的な過程から生じるだけではなく、物質的な過程に影響を与えるという面も認めているようである。しかし、この説そのものには、そのことが反映しているとは思えない。
もし、この説を、「意識」と「脳」または「物質」との関係全般の問題として捉えるなら、ほとんど還元主義的なものということができる。
しかし、観測行為に伴う、波束の収縮という、意識とミクロの領域の物質との関わりという局面に絞ってみる限り、このように解される余地は十分あると思う。ノイマン-ウィグナー理論のように、観測行為に伴って、意識が一々恣意的に波束を収縮させるなどとは、信じ難く、波束の収縮自体は、もっと客観的なものと解す方が、現実的である。そして、そのような局面に関する限り、より微細な物質的な過程として起こっているとしても、不思議はないのである。
ペンローズの他にも、類似の、または違った観点から、「量子脳理論」を発展させている者はおり、この方向で、とりあえず、波束の収縮の問題から、意識とミクロの領域の物質との関わりという点については、かなりのものが見えてくる可能性があると思われる。
但し、繰り返すが、これを、「意識」と「物質」の関係全般の問題として、捉えることはできない。それには、また、違った発想を必要とするということである。
もう一つ、興味深い説として、つい最近知ったものだが、「電子(この説では、「量子」という概念に含めることは適さない)は個体性のある「粒子」であり、「意志」をもつ。その「意志」をもつ電子同士の「対話」により、「干渉性」という波動様の現象が生じる」という説がある。
山田廣成という物理学者の説で、本としては、『量子力学が明らかにする存在、意志、生命』(光子研出版)があり、その一部が、ここにもある。(http://www.ritsumei.ac.jp/se/re/yamadalab/taiwa.pdf)
「意志」とか「対話」など、擬人化まがいで、底の浅い、トンデモ理論とみなされがちだし、そういった「みかけ」は否めない。しかし、予想以上に、しっかりした理論であり、むしろ、「意志」とか「対話」という、人間に対するのと同じ言葉を使うことで、物理学の枠を超えて、社会学や人間学にまで展望をもたらす、意義深いものになっているのである。
電子と人間は、階層の違いはあるものの、相似形的な類似性がある、というのが、一つの大きなポイントである。
電子も人間も、個体的には、予測のつかない「不確定性」をもった、「意志」ある存在だが、集団との関係で、「干渉」を受けることで、多くの規定を受け、全体としてみると、ある「確定的な」行動をとる、とみられるのである。
電子と観測の問題について、もう少し詳しくみると、まず電子とは、個体性をもった「粒子」であり、「実体」である、とみなされる。そして、それらは、「不確定性」の範囲で、(自由な)「意志」をもつ。しかし、多数の電子同士は、互いに、「意志」による「対話」によって「干渉」し合う。この「対話」は、具体的には、「光子」を交換することによって、行われる。この「対話」により、互いに制約を受け、位置の位相空間を決めるのである。量子力学は、電子を「波動」とみるが、それは、そのような電子同士が、「対話」により、「干渉」する結果現れる現象を、本質的なものとみなしたからである。
電子は波動ではない故、「波束の収縮」という問題は生じない。人間による「観測」とは、人間の意志によって、観測装置を使って行う、階層間の「対話」である。その結果、電子に大きな制約を与えて、干渉性を失わせ、全体として、確定的な現象を生じさせる。
このように、量子力学の結論そのものを修正するわけではないが、その見方と解釈に、大きな変更をもたらすものなのである。
特に、電子を粒子とみて、波動ではないとすることは、大きな変更である。ただし、一個の電子を連続的に放射する二重スリット実験でも、「干渉縞」ができる(自己自身と干渉していると解すしかない)ことを考えると、波動でないとみるのは、難しい気がする。ただ、人間でも、自分自身と分裂的に「対話」することがあるのだから、一個の電子にも、一種の自己内対話(干渉)がないとは言えないかもしれない。
この、電子を「粒子」とみることが、電子と人間の類似性を浮き立たせているので、重要な要素ではあろうが、私は、電子を波動とみても、大枠で、このような見方が有効でなくなるわけではないと思う。
そもそも、「意志」を自然の中にみることは、近代以前には、普遍的なことだった。それを、一神教は、まず超越的な「神」へと回収し、近代以降、その分け前を「人間」にのみ与えたのである。だから、この説は、神や人間へと回収された「意志」を、自然の側へと取り戻すものとも言える。「人間中心主義」の、大幅な変更である。実際、著者も、「一神教」的な西洋の見方に支配された科学に、「多神教的」な発想の復権を訴えている。それは、社会学や人間学にも、大きな影響を及ぼし得るのである。
この、電子に「意志」があるとする見方が、もたらすものを、「観測行為」との関係で、もう少し具体的にみてみよう。
前述のとおり、「波束の収縮」ということはないが、結果として、人間の観測行為により、電子の「不確定性」は失われ、確定的な現象をもたらす。それは、階層間の「対話」、つまり、観測装置というマクロの領域の電子集団との「対話」であり、また、それらを設定した人間の「意志」との間の「対話」でもある。この「対話」は、いわば、「電子の意志と人間の意志とのせめぎ合い」ということもできる。
著者は、あくまで、観測装置との相互作用によって、確定的な現象が生じるとしていて、直接、人間の意識が関与することはないとしている。ただ、観測装置の設定は、人間の(恣意的な)意志によるのであり、間接的には、人間の意志との「対話」が働くことになる。それにしても、この確定的な現象が生じることにおいては、かなりの部分を、電子そのもの意志が占めることになる。全く、人間の主観または恣意によるとみる、ノイマン-ウィグナー理論と比べると、違いがはっきりする。「量子脳」による、客観的収縮をいうペンローズと比べても、そうなるのではないかと思う。
私自身は、このような見方に立っても、確定的な現象が生じるのに、人間の意志との直接的な「対話」が働く余地もある(意識による収縮と同じ事態)と思うが、それでも、ノイマン-ウィグナー理論と比べると、大きく人間の意識の関与の余地は、減少することになる。
このように、観測による、電子と人間の関わりという場面においても、電子の意志というものがかなり主導的な役割を果たし、人間の意志の働く余地は、相対的に減少するのである。「観測行為」ということの意味合いそのものが、「人間中心主義」的な見方とは、大きく異なっていると言えるだろう。
ただし、著者と異なり、私は、人間の意志が、このような電子の意志のみを基盤に成り立つとは思わないし、前述のように、この観測行為における両者の関わりの問題を、物質と意識の関係全般にまで及ぼして捉えることはできないと考える。人間の意識には、やはり、電子の意志を超えたものを、みる必要はある、ということである。
それにしても、この説は、電子と人間の相似形的な類似性を、明示したことに大きな意義があると思う。そして、私は、著者が言う以上に、その類似性は本質的なものであることに気づかされた。
電子は、原子や分子、細胞などのシステムの末端に位置する「ありふれた存在」で、、一見、自由度のある存在だが、激しく動くことで、電磁力などのエネルギーを生み出し、実際には、システムに貢献というよりも、隷属している。人間も、社会や地球、さらに宇宙そのものの末端に位置する「ありふれた生命体」で、一見自由度のある存在だが、やはり、激しく動くことで、ルーシュを生産し、システムに貢献というよりも、隷属している。(記事『 『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html 参照)
著者も、電子には、ある種の「共感」を抱いているようにみえるが、こうみてくると、その共感には、本質的な理由があると思われてくる。
次回は、さらに、観測問題を超えて、物質と意識全般の問題とも関わることを述べてみたい。
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