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2016年5月

2016年5月27日 (金)

「量子力学の観測問題」と「意識」1

前回言ったように、「量子力学の観測問題」と「意識」の問題を、自分なりに整理しておこうと思う。

あくまでも、「自分なりに」なので、自分の理解した範囲のものだし、自分の興味に従ってのもので、一般的な理解や興味とは異なるかもしれない。また、「整理」とは、どの説が正しいかということではなく、それぞれの考え方の基本を押さえることで、「意識」との関係を展望しておこうというものである。

いちいち基本から説き起こすことはしないので、ある程度基礎がある人しか、理解できないかもしれない。

ただ、ここ(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/neko1.html)は、「量子力学の観測問題」について、何が問題なのか、また、それぞれの解釈の要点を、とても分かりやすく説明しているので、参考になると思う。

私なりに、「観測問題」のポイントを述べておくと、まずは、「量子」のようなミクロの存在は、たとえば、ボールのように、ある場所に確定的に位置を占めるような存在ではない、ということである。二重スリット実験が、一番分かりやすいが、「量子」は、広がりのある「波」として、A点とB点の両方を、通過できる(正確に言うと、両方を通る「確率の重ね合わせ」として記述できる)。]実際、それは、スクリーンに干渉縞を作ることから、実験的に確かめられる。

ただ、A点とB点のどちらかで、「量子」が検出されるように測定(観測)すると、その瞬間、「量子」の位置は、A点かB点に、確定される。つまり、「粒子」としての姿を現す。そうすると、A点とB点に広がっていた、「波」は消え、A点かB点かに「収縮」するのである。これを、「波束の収縮」という。

観測以前には、「波」として広がっていた「量子」が、観測により、一瞬にして、位置の確定された「粒子」に、「収縮」するのである。

「量子力学」は、「波」としての「量子」の移り変わりを、波動方程式によって、見事に記述できる。しかし、この「波束の収縮」は、「量子力学」の波動方程式からは、導くことができない。その現象が起こること自体も、A点かB点かに決められることも、波動方程式では全く説明できないのである(確率的な予測はできる)。

そこで、この「観測による波束の収縮」を、「量子力学」との関係で、どのように整合的に解釈するか、という問題が生じるのである

もっとも、狭義の「コペンハーゲン解釈」では、観測以前の、このような問題に立ち入る意味はなく、観測できる現象を確率的に予測できる、波動方程式の実用的な価値を利用すれば、十分であるとする。

恐らく、日本人の大多数も、このような「現実的」な発想をする(またはしている)ものと思う。実用的に使えるのならば、そのような「形而上」の問題に、わざわざ首を突っ込む必要などない、というわけである。

しかし、物理学者など、物質を科学的に完全に解明したい人たちは、「量子力学」が、このように、釈然としないものを抱えていることには、満足できず、何らかの、整合的な解釈を求めもするだろう。

また、「物質とは何か」、「意識との関係」はどうなのか、という問題を、科学に限らず、全体として考察したい人にとっても、この問題は、避けて通れないことだろう。

実は、この問題の解釈には、さまざまなものが提示されている。『量子力学の哲学』(講談社現代新書)などを読んでも、非常に多くの解釈があげられていて、理解し難いほど複雑なものもあることに、驚かされる。

大枠的に言うと、それらは、2つの方向に分けられるように思う。1つは、量子力学自体は、量子を「確率の波」という、「抽象的」なものとしてしか捉えられないが、「波束の収束」という事態によって、具体的に確定的なものとして、引き出される。この「波束の収縮」ということに重点をおいて、「量子力学」を捉える、あるいは、そのような「量子力学」は、「不完全」なものとみて、より完全な理論に修正しようとする方向にあるもの。

これは、観測という行為との関わりにおいて、「量子力学」のある種の限界を認める解釈ともいえる。それを踏まえて、「意識」というものをも、新たな理論に取り込んでいこうとするものもある。

2つは、「量子力学」は、量子の振る舞いを見事に記述するもので、むしろ、物質の本質を捉える、完全な理論となり得るという方向で捉えるもの。この方向では、「波束の収縮」という事態は、そのままでは認め難いもので、何とか、回避しようとするか、量子力学と整合するように、解釈しようとする。

しかし、この方向の多くは、「量子力学」を完全なものとしたいばかりに、「波束の収縮」という忌むべき事態を、アクロバット的に回避する理論または解釈を、無理やり捻り出しているように思える。ちょうど、宇宙論で、物理量が成り立たない「特異点」を、アクロバット的に回避すべく、複雑な理論が捻り出されているのと同様である。(超ひも理論も、リサ・ランドールの理論も、結論的には興味深いものがあるが、そのような導出過程には、どうも怪しいものを感じてしまう。)

今回は、それら多くの解釈には触れず、伝統的で基本的な、いくつかの解釈だけをとりあげることにする。

まず、何度か触れたように、この「観測による収縮」は、「意識」によってもたらされるという解釈がある。「意識」という、物質から独立したものの作用によるので、物質自体を記述する、量子力学からは、導けないのも当然ということである。先の2つの方向では、前者の代表といえる。

前回、ミチオ・カクは、ウィグナーの説として紹介していたが、初め、フォン・ノイマンにより提示されたので、「ノイマン‐ウィグナー理論」と呼ばれる。

量子力学は、ミクロの領域を記述するものだが、マクロの物質といえども、ミクロの量子の集合体であり、量子力学が当てはまるものである。だから、全体として、物質的過程の内部で、「波束が収縮」するという理由はない。そうすると、物質的過程からは独立した、「意識」というものを持ち出すしか、説明のしようがないというのである。

「意識」なるものは、物質的過程では説明できず、物質から独立したものとみる人たちには、「我が意を得たり」というような解釈である。しかし、物質から独立した「意識」などを認めたくない科学者の多くは、もちろん、この解釈に反対した。現在も、決して主流ではないし、解説書などでも、「皮肉」な扱いを受けるのが、常のようだ。

実際、「シュレディンガーの猫」という思考実験も、この解釈にのっとれば、ミクロの領域の、「確率の重ね合わせ」の状態を受け継いで、猫が、「生きていると同時に死んでいる」(両方の状態の重ね合わせの状態)ということになってしまう。そんなことは、認められないという意図で、シュレディンガーが提出したものだった。

それは確かに、大きな問題には違いない。が、それにしても、この思考実験の提示が、この問題を興味深いものとして、多くの者に知らしめた意義は大きいだろう(私もそうだが、多くの人は、この問題をきっかけに、「観測問題」に興味をもつのだろう)。ともあれ、「意識」の問題が、科学の根本に関わる問題として、正統的に扱われ始めたという意味では、この解釈の提示は、画期的なこととはいえよう。

私も、基本的には、このように解釈できる可能性が十分あると思う。

しかし、「シュレディンガーの猫」の問題のほかにも、この解釈には、疑問や腑に落ちない面も多い。「量子的な波」が、一々「意識」によって、収束されなければ、現象として結実しないというのも、納得し難いものがある。また、意識によるとすると、具体的には、誰の意識なのか、どのように決定されるのか、たとえ、「集合的な意識」というものを持ち出しても、必ずしも、十分説明できるとは思えない。

物質的な過程が、「確率的な可能性」だけを提供していて、あとは、「その中から、意識で好きなように選んでね」というのも、何か、中途半端なものを感じる。

次に、量子力学的な「確率の波」は、マクロのレベルの観測装置と相互作用することにより、収縮するという解釈がある。「波束の収縮」は、物質から独立する「意識」などを持ち出さなくとも、物質的な過程の中で、説明できるとするものである。

「量子力学」自体をどう捉えるかには、踏み込まずに済ませるから、先の方向のどちらとも言い難いが、基本的には、後者に入るだろう。

マクロのレベルの観測装置といえども、量子力学的な過程に従うのは確かである。しかし、マクロの物質における量子の状態は、環境により様々な影響を受けて、ランダムな状態にある。それが、量子と相互作用すると、波の位相を打ち消し合って、波としての性質を喪失するというのである(水の波が、多数の波とぶつかると、打ち消し合って、消えてしまうのと同じ原理)。「デコヒーレンス理論」とも呼ばれる。

これは、ミクロの「不確定性」の問題を、マクロのレベルに持ち込むのを回避できる、とても「穏当」な解釈である。マクロのレベルでは、物事を確定的に捉えられるという、日常的な感覚とも符合する。私も、この解釈を初めに知ったときは、恐らくそのとおりなのだろうと思った。

しかし、「確率の波」が打ち消し合うということでは、「波束の収縮」を完全には説明できないことが、数学的に証明されているという。また、最近は、マクロのレベルでも、「確率的な波の重ね合わせ」の状態が起こることが、実験的にいろいろ確かめられている。(たとえば、ここ  http://tocana.jp/2016/01/post_8476_entry.html

そうすると、この解釈によって、「波束の収縮」が説明できるとするのは、難しいことになるだろう。

最後に、前回もみたように、「波束の収縮」なるものは実際には起こらず、観測によって生じる可能性のあった他の可能性は、他の世界で、それを観測する観測者とともに、併行して存在しているという解釈がある。ほとんど無限の「パラレルワールド」を認めるもので、「多世界解釈」と呼ばれる。先の2つの方向では、後者の代表である。

このような「パラレルワールド」など、現実の話としては、あり得ないと考える者には、とてもついていけない解釈ではあろう。しかし、これは、「波束の収縮」なる、説明不可能なものを認めず、「量子力学」によって、宇宙の全てを説明したいという者には、魅力的な解釈のようである。

この説は、量子力学的な、「確率の重ね合わせ」という状態は、ミクロとマクロの物質のみならず、意識をもった観測者も含めて、全てに当てはまるとみる。だから、観測したからといって、それが収縮して、確定するなどということはない。ただ、それを観測する観測者と、観測される事象の世界が、その可能性の数に応じただけ、併行して存在するというのである。

ただし、それらの世界は、互いに分岐して、もはや交わることはないとされる(先のデコヒーレンス理論と同様、波の位相が打ち消し合って、干渉することがない、ということのようである)。だから、たとえそれらの世界があるとしても、それを認識したり、確かめる手段は、全く存在しないのである。

何とも、壮大ではあるが、「無意味」な解釈ともいえる。量子力学的には、最も「無駄」のない、自然な解釈ともいわれるが、そのために、観測者を含む、無数の世界が、「無駄」に作り出されているともいえるのだ。

「量子力学」を中心にして、宇宙のすべてが、つまり、すべての物質も、意識をもった観測者も、「回っている」かのような印象である。先に、2つの方向の後者の多くは、「「波束の収縮」という事態を、アクロバット的に回避する理論または解釈を、無理やり捻り出している」と言ったが、この解釈にも、それは当てはまる。

私も、「パラレルワールド」自体は、存在し得るものと思っている。が、それにしても、量子レベルの観測の可能性の数だけ、観測者を含めた世界が存在し、互いに交渉することもなく、無意味に共存しているというのは、あまりに不可解である。「ノイマン-ウィグナー理論」においても、意識において、一々量子の状態を収縮させるというのは、納得し難いと言ったが、「多世界解釈」なるものは、それを回避するために、それ以上に納得し難いものを生み出していると思う。

そういうわけで、こうみてくると、それぞれの解釈は、それぞれもっともらしく、そうであってもおかしくはないと思わせるものはあるが、同時に、それぞれに疑問や納得し難い面も多く、決定的にこれだというものはないのである。ここでは、基本的な3つの解釈しかあげなかったが、他の多くの解釈にも、同じようなことがいえると思う。

そうすると、量子力学は、「実用的にのみ使えればそれでよい」という、狭義の「コペンハーゲン解釈」こそが、むしろ正しかったのか、などとも思わせる。

しかし、これは実際には、「量子力学」が、観測される現象としての、物質を記述したり、予測したりする分には十分のものを備えているが、観測という行為そのもの、あるいは意識との関わりということまで含めれば、不完全な理論であることを示しているのだと私は思う。「波束の収縮」という事態は、ともあれ、「量子力学」の「限界」または「不完全性」を示しているというのが、最も自然な解釈ではないか、ということである。

次回は、さらに、「意識」との関係という点から、踏み込んで考察してみたい。

2016年5月15日 (日)

『モーガン・フリーマン 時空を超えて』

金曜の夜10時、NHKのEテレで連続放映中の『モーガン・フリーマン 時空を超えて』を見た(制作は、ディスカバリーチャンネル)。前回は、「パラレルワールドは存在するか」、その前は、「第六感は存在するか」を科学的に考察しようというもので、それぞれ興味深かった。

「第六感は存在するか」では、意識または思考が、脳を超えて、外界へとつながるような現象をとりあげ、その研究成果を紹介していた。ある者が見た光景が、全く関係のない別の者にも、同時に伝えられるなどの現象である。特別の「超能力」というのではなく、誰にも起こる現象として、問題にされている。

これらは、これまでにも何度か問題にして来た、意識と物質の関係が、正面から問われる現象である。また、前回みたように、「思考が漏れ出る」などの感覚を訴える、「統合失調」や「テクノロジー犯罪」との関わりでも、興味をそそられる問題といえよう。

前に、NHKの「超常現象」を扱った番組でもとりあげられた、「地球意識プロジェクト」もとりあげられていた。これは、個人の意識が、乱数発生器の確率的な発生に乱れを起こすという現象をもとに、多くの者の意識の変化により、地球上に張り巡らされた乱数発生器に、よりはっきりした乱れが生じるかを調べるというものだ。

過去に、大きな乱れを観測したことがあり、それは、アメリカ大統領選でのオバマ大統領の勝利演説のとき、そして、2001年の9.11事件のときであるという。しかも、9.11事件では、事件が起こる数時間前から、乱れが現れ始めている。予知的な反応の可能性があるという。何しろ、多くの者の共有する、特に感情的な意識の変化が、乱数発生器に強い乱れを生じさせたと考えられるのである。

乱数発生器は、放射性物質の崩壊の確率が、原理的に2分の1であることに基づいてできている。だから、これは、量子力学的に予測される確率を乱れさせる現象ということになる。(ただし、いわゆる「超能力」には、直接マクロのレベルに働くものはいくらでもあり、必ずしも、量子力学的な過程に影響を与えるものとはいえない。)

量子力学については、番組の中でも、物理学者ミチオ・カクが、「シュレディンガーの猫」の説明などをし、量子と意識の関係について、示唆的な話をしていた。記事『「宇宙人の技術」と「霊的なもの」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-bbde.html)でも触れたように、量子的な確率の波は、観測によって、ある確定した状態へと収縮する。放射性物質が崩壊するかどうか(が観測されること)が、生か死かを分ける、「シュレディンガーの猫」の場合でいえば、「生きている」状態か「死んでいる」状態かが確定するわけである。

私も、「意識による観測」と書いていたが、この観測による波束の収縮は、「意識との相互作用」によるという説があり、カクもその説を(ウィグナーの説として)紹介していた。そして、そのことから、意識が物質に影響を与える可能性を否定すべきではない、ということを述べていた。

この波束の収縮の問題は、「量子力学の観測問題」とよばれ、様々な解釈がある。量子力学という、物質の根本に関る理論が、「観測」という行為によって、ある意味「破綻」するのであり、「物質とは何か」という問題にとっては、全く抜き差しならない問題である。また、「意識」との関わりを示唆するという意味でも、「意識と物質」の関係を考えるときには、抜かせない問題といえるだろう。

私自身は、先の「超能力」の例でもみたように、「意識」の問題は、必ずしも、量子力学と関るものではなく、それ自体別の理論というか、別の発想を必要とするものと思っている。しかし、「意識と物質」の問題を考えるうえでは、一つの大きなとっかかりであり、抜かせない問題であるのは間違いないだろう。

前回の「パラレルワールド」の問題も、実は、この問題と関っている。

人間の様々な選択の違いに応じた世界が、それぞれ「その選択をした自分」とともに、現にある世界と併行して存在するという考えは、それ自体興味深いものだ。しかも、現在の宇宙論は、必ずしも、そういった考えを排除するものではないという。

ところが、番組の中でも説明されたが、先の「量子力学の観測問題」で、波束の収縮は実際には起こらず、それぞれの確率の事象に応じた世界が、それぞれ枝分かれして、現に起こった事象の世界と併行して存在する、という説があるのである(「多世界解釈」とよばれる)。「シュレディンガーの猫」でいえは、「生きている猫をみている自己の世界」と「死んだ猫をみている自己の世界」とが、併行して存在するわけである。

まさに、「パラレルワールド」である。つまり、「パラレルワールド」も、量子力学的な観点からは、十分現実的な可能性として、捉えられているのである。

このような意味での、「パラレルワールド」が、「意識」とどのように関るのかは、難しい問題である。が、この問題も、やはり「意識と物質」の関係を考えることにとっては、一つの、欠かせない問題といえるだろう。

そういうわけで、私としては、この番組を、特に、「量子力学の観測問題」との関連で、注目してみた。さらに、次回は、自分なりに、「量子力学の観測問題」と「意識」の問題を、整理してみようと思う。

2016年5月 4日 (水)

「自己と他者の境界の希薄さ」の現れ

前回の記事のコメントで、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害者という人たちの、「自己の希薄さ」ということを述べた。これは、言い換えれば、「自己と他者の境界が曖昧で希薄」ということでもある。「自他の境界が希薄」なので、他と区別される形での、自己というしっかりした基盤が、築かれにくいのである。あるいは、逆に、「自己という基盤が希薄」なので、「自他の境界が希薄」になりやすいということもできる。

いずれにしても、このような性質は、「統合失調」の場合の「分裂気質」とも重なるものだし、「発達障害」といわれる性向とも重なる面がある。

記事『「つつぬけ」「さとられ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post-a694.html)や『「さとられ」と「CIA」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-bedd.html)で述べたように、「統合失調状況」での、「思考が盗まれる」とか、「周りに漏れている」という感覚は、まさに、「自他の境界が希薄」になることから生じている。自己の内部にあるはずの思考が、周りに拡散するような感覚を、実際に生じるのである。「思考が盗まれる」というのには、その漏れ出た思考に関わることを言ってくる他者の「声」を、実際に聞くということが、影響していることもある。が、その「解釈」のもととなる直接の感覚は、そのような「思考が漏れ出る」というリアルな感覚なのである。

これは、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の、「思考盗聴」という発想の場合にも、まったく当てはまることである。

つまり、「自己と他者の境界が希薄」という性質は、この現象が起こることそのものにも、大きく影響しているのである。

しかし、彼らの、この「自己と他者の境界の希薄さ」は、その他の面にも、いろいろと形を変えて、現れていることに気づかされる。

たとえば、「集団ストーカー」にしても「テクノロジー犯罪」にしても、自分の考えをしっかりもつというよりは、他人に依存しやすく、他人の言っていることを、無批判に信じてしまいやすいということも、その一つである。ネット上にある被害者のサイトなども、どれも似通っていて、互いに、無批判に取り入れ合い、依存し合っているのが分かる。実際に、互いに似た状況にあるからという面はあるが、これはかなりはっきり目につくことである。

「集団ストーカー」を信じるという状況では、他人に対して、「疑心暗鬼」になるということはもちろん起こる。しかし、それは、もともとそうであるというよりは、他人を信じやすいことが基礎にあって、それが裏切られるなどのときに、その反動として生じているという面が大きいのである。

また、「自分の感じたり、思っていることは、他人も同じように感じたり、思ったりしている」と、割と簡単に信じ込んでしまうということもある。それで、自分に生じている感覚やそれをもとにする思考(解釈)は、他人にも同じように生じているものと、簡単に思ってしまいやすいのである。

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という発想のもとになる感覚は、日常性に照らせば、「おかしい」ものであることは、彼らにも一目瞭然なのである。しかし、その「おかしい」(一般的に起こり難い)ことへの疑いが、あまり強まらず、自分に起こっている限り、他人にも、同じように起こっている、または起こり得るもの、という風に思ってしまいやすい。つまり、それが、自分にだけ生じている感覚(幻覚)だとか、自分だけが思っている解釈(妄想)、という疑いには、あまり結びつかないのである。「自己と他者の境界が希薄」なので、自己と他人との違いとか、壁を意識することが少ないのだといえる。

被害者のネット上での主張も、一般には、受けい難いことが明らかなものなのに、まるで、それを理解してもらえることは難しいことではなく、割と容易に他人にも通じるはずのことと思っていることが窺われる。

このように、「自己と他者の境界が希薄」というのは、ある意味純粋で、疑いを知らないということなのである。必ずしも、人に劣るとか、マイナスであるということなのではない。

逆に言えば、一般の、「自己と他者の境界が明確」であるとは、他人というものに、「健全」な、というより、現代ではむしろ、かなり「過度の」疑いをもつということを、当然のように含み込んでいる。そのような「疑い」を前提として、他人との区別や距離が生まれているのである。ただ、それは、日常的に身につけられたあり方なので、特に、それが必要以上に「強化」されるということもない。

たとえば、他人に、多少攻撃めいた挙動をとられたり、言いかけられたりしても、そんなことは、想定の範囲なので、特に気にもせず、受け流すということも普通に起こる。ところが、被害者という人たちにおいては、それが非常に大きなことと受け取られ、動揺し、反動として、「疑い」と「恐怖」も強まるのである。

現代の社会は、明らかに、このように、「自己と他者の境界を明確」にし、他人と距離を取っていないと、やっていけないような社会になっている。だから、そこに適応して、あるいは、少なくとも折り合いをつけて、生きて行こうとする限り、彼らのそのような性質は、修正することが必要になるはずだ、ということなのである。

あるいは、シュタイナーも言うように、彼らが、そのような非日常的状況で、意図せずとも入ってしまう、「霊界の境域」では、「自己と他者の境界」が希薄になることは、自然に起こることである。だから、もともとそのような性質を抱えている者にとっては、余計に、混乱を拡大させることになる。

恐らく、「統合失調」にしても、「集団ストーカー」「テクノロジー犯罪」にしても、「自己と他者の境界が希薄」なのは、もともとの性質という面と、「霊界の境域」に入っているために起こるものとの、両面がある。それで、そのような状況でも、自己を保って混乱を生じないためには、「自己」というものを、予め強化しておくことが必要なのである。シュタイナーがいう「霊界参入」のための修行というのには、そのようなことが、かなり重視されている。

いずれにしても、そのような性質は、自分で自分がそうであるという自覚を持つことがない限り、修正する機会も生じない。ところが、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害者という人たちは、そのように自分を規定すること自体が、希薄な自己を補う、強力な「アイデンティティ」になっている。それで、それを外すことがない限り、自分の性質を自覚する余他も、その修正に向う余地も生じようがないのである。

私は、たとえ、先天的な気質という面があっても、自分で自分の性質を本当に自覚することさえできれば、その修正は十分可能と考える。これを、「病気」などというのは、こういった修正を、ますます難しくするだけである。

「自己と他者の境界の希薄さ」を自覚するとは、自分がいかに、「自己と他者との違い」を意識し、それを前提として、「自分」というものを築いたり、「他者」の視点からみることをして来なかったかということである。それに気づくには、「自己と他者の違い」ということを、強力に知らしめるような、強烈な体験が必要ともなる。

そして、それには、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という自分の見方が、いかに他者の一般的な見方と大きく齟齬するものであるか。また、自分にとっては、強力に「リアリティ」ある感覚でも、他人には、まったく感じられないことがあるということ、などを如実に知ることが、十分その契機となり得る。

つまり、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という発想をもってしまったこと自体が、その修正の機会と十分なり得るということである

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