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2016年3月25日 (金)

「宇宙人」と「霊的なもの」

「宇宙人」というが…、

そもそも「宇宙人」という言い方で、現在の我々がイメージするような、地球外の星に生息する生命体を言い表すようになったのは、近代以降のことである。そして、それには、「技術」の発展ということも、大きく関わっている。

様々な観測技術の発展によって、宇宙の天体に関する「知識」が知られるようになり、それが、それまでの天体に対する見方を変えた。つまり、「天体」というものは、「物質的なもの」として捉えられるようになった。その結果、その天体に住む生命体がいるとすれば、それも、「物質的なもの」とみるのが、当たり前のようになったのである。

それ以前には、「宇宙」ないし「天体」は、現在にいう意味での「物質的なもの」とはみなされなかった。ただし、それは、後にみるように、即、「霊的なもの」とみなされたわけではない。それは、我々や我々の身の回りにあるものを越えた、「聖なるもの」とみなされたのであり、その「組成」がどうのこうのというより、我々を「越えた」ものであることが強調されたのである。

それを、現代の見方に当てはめれば、やはり「物質的なもの」を越えた、「霊的なもの」という面を含むことにはなるだろう。

しかし、そもそも、「霊的なもの」とは「物質的なもの」に対置される言葉であって、「物質的なもの」というのが明確に規定される限りで、それとの対比で、捉えられるものである。だから、近代以前には、「霊的なもの」というのも、また、明確にイメージされたわけではない。

近代以前にも、「幽霊」のようなものは、人の死後、つまり肉体というものを失った後に現れるので、肉体をもたない、「霊的なもの」という見方は、一応されていただろう。しかし、その他の「自然霊」、神々や精霊などは、必ずしも、「霊的なもの」として意識された訳ではないし、そのようにみる基盤もなかった。また、それらは、必ずしも、「見えないもの」なのではなく、現代で言えば、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものでもあった。

たとえば、「狐や狸に化かされる」ということが言われたが、この「狐」や「狸」は、「精霊」としての「狐」または「狸」を意味する。しかし、それは、「物質的なもの」と同じようなあり方をし得るもので、かつては、「物質的」な「動物」としての「狐」や「狸」と、特に区別されたわけではなかったはずである。

人々が、空に仰ぐ、「天体」というのも、同じことで、それは、まさに「神々」そのものであり、もちろん、その天体に住む存在も、「神々」であったのである。それは、「物質的なもの」としてのあり方をし得るもの、あるいは、「物質的なもの」と同じく、明確に現れるものであるが、同時に、「物質的なもの」を越える、「霊的なもの」でもあったわけである

このような捉え方は、直感的で、素朴なものではあるが、現代の「宇宙人」という捉え方より、むしろ、真実を捉えているというべきである。

近代以降の見方は、物質的な観測技術に基づいて、それに捕らえられるものを、「物質的なもの」として「理論的」「概念的」に構成したのである。(「物質」または「物質的なもの」とは、「理論」または「概念」なのであって、「事実」そのものでないことには、改めて注意を要する。)それは、我々が、それまで「仰ぎ見」、「畏怖」したきた「宇宙」を、「知的」に理解する可能性を開き、また、それを応用することで、「技術」がさらに、発展することを示した。

それが、ある程度成功したので,我々はその方向を強く押し進めた。「宇宙」が、そのような「物質的なもの」のみで構成されているとすれば、我々は、「宇宙」にあるすべてを知的に理解し、「あらゆるもの」をコントロールすることができるようになる。そのような奢りと、希望的観測から、ついには、「物質的なもの」が「宇宙のすべて」とみなされるようになったのである。いわゆる、「唯物論」的発想である。

しかし、もちろん、このような捉え方では、すべてを捉え切れないという見方も、一方には存在した。そして、そのような見方は、「物質的なもの」には含められない、「見えないもの」、「心」や「魂」など、物質的な法則には収まらないものを、「霊的なもの」として、捉えることになった。

この「霊的なもの」という捉え方も、「物質的なもの」という捉え方が、明確にされたことにより、それとの対比で、出てきたものである。そして、それは、本来、未分化であり、一体のものとして捉えられていたものを、二つのもの、または領域に、分断したことをも意味する。「物質的なもの」と「霊的なもの」というのが、別々のものとして、あるかのような見方は、こうして、新たにもたらされた、ということである。

また、「霊的なもの」というのは、「物質的なもの」に対抗するように、前面に出された面があるので、そこには、「物質的なもの」に対して、「対抗的」な発想が含まれることにもなる。たとえば、「物質的なもの」を「俗なるもの」(価値のないもの)とし、「霊的なもの」を「聖なるもの」(価値あるもの)とみなすような見方である。

しかし、これは、近代以前の、「物質的なもの」と「霊的なもの」が未分化である状況での、「聖なるもの」の捉え方とは、明らかに異なっている。また、あまりにも、単純で、非現実的な発想であるのが、明らかである。

いずれにしても、「霊的なもの」という捉え方自体が、「物質的なもの」という近代に特有な見方の発想を、何らかの形で、引きずり、含んでいるということである。それは、近代以前の発想とも異なるし、少しも、自明なものというわけではないのである。

要するに、「物質的なもの」といい「霊的なもの」というのも、宇宙の中の地球という、ごく限られた地域での、しかも、その中の、「近代」という特定の時代と地域になされた、あまりにも、特殊な区分けに過ぎないのである。それは、その時代や、地域に特有の、「文化」そのものであり、さまざまな「思惑」や「希望」に塗り込められた発想ということである。

現在普通にみられる、「宇宙人」というイメージは、「宇宙人」を「物質的なもの」の延長上に捉えているが、それは、そのように限られた、特殊な発想を前提とするものに過ぎない。もちろん、だからと言って、それらを「霊的なもの」とみなせばいいということではないのは、上にみたとおりである。

いずれにしても、「物質的なもの」と「霊的なもの」という区分けを含めて、そのような見方には、根本的な見直しが必要なのである

前に、記事『「分裂病」と「アブダクション体験」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fc30.html)でもみたように、実際に、「UFO」や「宇宙人」についての、観測や遭遇の事例をみると、それらは、確かに、「物質的なもの」としての「みかけ」を有している。それは、一般の「霊的な現象」として知られるものとは、一見異なっているようにみえる。

しかし、「UFO」や「宇宙人」も、「物質的なもの」としての性質を、明らかに無視する行動をとる。たとえば、物質的なものを貫通したり、形を変えたり、瞬間的に移動したり、消滅したりなどである。それらは、「霊的なもの」の性質に近いものである。

一方で、「幽霊」や「自然霊」など、「霊的な存在」として知られるものも、「物質的なもの」の性質に反する行動をとる反面、「物質的なもの」としての現れを示すことがある。

たとえば、『呼び覚まされる霊性の震災学』にもとりあげられている、タクシードライバーの遭遇する「幽霊」は、物質的な存在と区別できない仕方で現れる。人間と同様に話し、接触もできるし、人間と同様に乗車する。それで、ドライバーも、記録やメーターに残すことになる。ところが、しばらくすると、いつの間にか、座席から消えているのである。『呼び覚まされる霊性の震災学』では、彼女へ贈り物を届けようとして、そのまま死んだらしき青年の、手にもっていた贈り物が、座席に残されていて、今もドライバーに保管されているという話が載っている。

この「幽霊の置き土産」ともいえる「贈り物」などは、「物質化現象」そのものであり、もはや「物質」そのものというべきものである。

私自身も、記事『「幻覚」という「判断」について 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d631.html)で述べたように、「物質的なもの」そのものとして現れ出た、「幽霊」としか考えられないものに、出会ったことがある。それは、一般の「幽霊」のイメージからすると、本当に驚くべきもので、初め、「幽霊」と気づく余地はなく、生きている人間とほとんど変わらないのである。

このように、「肉体」を失った、人間の「幽霊」ですら、「物質的なもの」と変わらない現れをすることがある。ましてや、「自然霊」など、強力なエネルギーをもった存在は、「物質的なもの」として現れる力も、ずっと強いのである。「幽霊の贈り物」でみたような、「物質化現象」も、より多く起こすし、ときに、「物質」そのものとして、自らの「身体」を残すこともある(カッパのミイラなども、本物であれば、その一例といえる)。先にみたように、「精霊」が、実際に存在する、「狐」や「狸」と同一視されていたとしても、不思議はないのである。

私も、一連の体験では、これら「自然霊」による、「物質化現象」に、何度か出くわしている。本当に、「物質」として現れ、そのまま残るし、そのものとして使用することもできるのである。「声」なども、「物理的なもの」であるかのように現れ出るものだし、実際、「幽霊」においてすら、「声」が録音されたということがある。

このように、「物質的なもの」と「霊的なもの」は、本来、画然と区別されるものではない。「宇宙人」も、「霊的な存在」と異ならず、「霊的なもの」としての性質をもち得るし、「霊的な存在」も、「物質的なもの」としての性質を示し得るのである

さらにいえば、先の記事でもみたように、そもそも、地球でいう「霊的存在」というのも、元々は「宇宙」から来た存在であるが、地球に適応して、そのようなあり方をしているに過ぎないという可能性もある。「宇宙人」と「霊的存在」とは、明確に区別できるような存在ではない、ということである。

ただし、これまで、記事でもそのように扱って来たように、地球においては、「物質的なもの」と「霊的なもの」を、一応区別される領域であるように扱うことには、それなりの意味もある。既にみたように、地球においては、「物質的なもの」というのが、かなり明確に捉えられていて、日常的には、その領域に捕らえられている、といってもいいような、現実があるからである。

その場合、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を示すならば、とりあえず、記事『「霊界の境域」の「図」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html)の図で示したように、互いに丸で囲まれた、異なる領域として示すことができる。その関係だけを、新たに図に示すと、次のようである。

1_3ただ、これは、我々が、日常的には、「物質的な領域」に、いわば閉じ込められているという現実の状況があるため、「霊的な領域」に関わる事態が生じた場合には、まずは、その境界ないし交わる部分としての、「霊界の境域」が、重要なものとして浮上する、ということを示すことに、意義があったのである。「統合失調状況」も、まさに、その重要な一例であった。

ところが、本当に、「物質的なもの(または領域)」と「霊的なもの(または領域」の関係を、それ自体に即して示すなら、本来、それらは別々の領域ではなく、全体として一つものであることを示す必要がある。その場合、「物質的な領域」とは「霊的な領域」に比べて、明確に捉えられる分、限られた領域なのであって、本来、全体としての「霊的な領域」に含まれる、一部であるということになるのである。それを、図に示すと次のようになる。

2

あるいは、「物質的なもの」というのも、「霊的なもの」の一つの現れなのであり、「霊的なもの」がより凝縮してできたもの、ということもできる。シュタイナーも、ほぼそのような捉え方をしている。

「霊的な領域」を、「物質的な領域」より高次元の領域として、その関係を、「次元」の違いで表わすことも可能ではあろうが、それは、「高次」「低次」ということから、誤解をもたらしやすいものでもある。むしろ、漠然とはしているが、「物質的な領域」を、物質の三態に比すならば、「固体」のような、固定的な状態、「霊的な領域」を、「液体」または「気体」のような、流動的な状態として、ある一つのものの「状態」の違いとして捉えるのも、一方法だろう(「密度」という捉え方は、それに近い)。

いずれにしても、地球においては、前者のように、別の領域として捉える方が、「現実的」で、日常的な感覚には、沿っているが、本来は、後者のように、一つのものの別の側面に過ぎない、というよりも、一方が他方を包摂する関係にある、ということなのである。

そして、「宇宙人」というものを、地球の限られた視点からではなく、そのものとして捉えようするなら、やはり、この後者の見方で捉えなければならない。そうすると、「宇宙人」は、「物質的なもの」としてのみかけや性質は有しているが、本来、それを「越えた」、「霊的な領域」に属すものということになる

もちろん、先にみたように、この「霊的なもの」というのも、「物質的なもの」との対比で出てきた概念であり、その限りで、やはり、「地球」的な制約を含むといわねばならない。しかし、我々は、「宇宙人」を捉えると言っても、事実上、「地球」という立ち位置から、捉えるしかないのであり、その中で、できる限り、正確に捉えようするしかないのである。その場合、とりあえず、「物質的なもの」と「霊的句なもの」の関係を、よく見定めたうえで、その関係を通して、捉えておくしかないと思われる。

「霊的」という言葉を避けて、「非物質的領域」とするとか、「次元」や「密度」などの捉え方で、捉えることも可能ではあるが、私は、それでは、現代の「唯物的」発想による捉え方と、それほど違わないことになるのではないかと思う。新たな、捉え方を模索するとしても、少なくとも、これまで「霊的なもの」として捉えられてきたものを、十分汲み取ったうえで、なされるのでなければ、本当に内容のあるものは見込めない。

その意味では、私は、「宇宙人」についても、あえて、「霊的なもの」という捉え方をすることに、意味があると思っているし、むしろ、それを強調することが重要と思っている。

ただし、「宇宙人」といっても、種類は様々であり、地球の物質的存在とあまり変わらないような存在から、「物質的なもの」をはるかに越えて、純粋に「霊的なもの」として存在しているようなものもあるだろう。「物質的なもの」を「超えた」、「宇宙人」といっても、その「物質的なもの」と関わる度合いは、様々であり得るということである。

そして、そのような「宇宙人」も、「物質的なもの」と関わる限り、やはり「技術」というものと、何らかの関わりをもつということになるはずである。

次回は、この「宇宙人の技術」について、さらに「霊的なもの」との関わりで述べてみたい。

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コメント

被害妄想の女性のツィートから、このブログを知りました。

「心霊現象などの未知現象に関して、素晴らしいまでに深く掘り下げて研究し続けたブログだ」と感心しました。

しかし、グーグル等の検索エンジンにかからなかったようで、当方は最近まで、このブログの存在を知りませんでした。

同じ現状認識に到達しているため、深く共感しました。 当方の研究成果は、下記です。 今後ともよろしく。

『電磁波被害の真実』
https://halleluiesus.blogspot.jp/2015/10/blog-post.html

ありがとうございます。

私の方でも、最近コメントでブログを紹介した人がいたので、ちょうど読ませてもらったところでした。「集団ストーカー」の問題が抜き差しならないものであることを、正しく認識され、本当に真実を追究すべく、霊的な領域にまで踏み込んで、鋭く考察されていると思います。当方と、同様の結論にいたっていることも、驚きです。

はじめまして
もう読んでらっしゃるかもしれませんが加藤敏さんの
人の絆の病理と再生
は読まれましたか?
とてもいい本です
是非読んでみてください
http://www.koubundou.co.jp/book/b155974.html

私は読んでませんが、興味深そうなのであげておきます。

「オープンダイアローグ」に通じる発想をしているようですね。

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