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2016年1月

2016年1月31日 (日)

「例外」としての「回復」の意味

記事『精神的な「病」と「医療化」(図)』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-5717.html)で、社会との関係で精神医療がどのような役割を果たしているか、分かりやすい図を示した。それを再掲してみる。

Photo精神医療は、社会から逸脱する者を「病気」として、「治療」の対象とすることで、抱え込み、「管理・処分」する役割を果たしている。社会の内部で対処することの困難な者を、病院の体制や精神薬などの物理的・化学的な手段で、強引に抑え込んでくれるのである。つまりは、「厄介払い」の代行である。これにより、社会に大きく貢献するとともに、利益を吸い上げることで、その「支配層」にも大きく貢献している。

この図において、「例外」として、病院に抱え込んだ者が、「回復」し、社会へと復帰する場合があることを示した。そして、これがなければ、いくらなんでも、「治療のシステム」としては成り立たないということを述べた。

しかし、病院の役割が、このようなものだとすると、この「例外」としての「回復」とは、実質的にどういうことを意味するのか。ここで2つの要点を示しておきたい。

1つは、もちろんだが、それは「治療の成功」などと、単純にみなせるものではないということである

中には、一応、確かに、外見上「回復」したようにみえる場合もあるだろう。しかし、それが、「治療により」もたらされたという保証は何もない。むしろ、精神的な病なるものは、本来、一定の期間の経過により、自然に回復に向かうのが本来の姿だとすれば、それは、ただそれが起こっているだけである可能性が高い。

記事『統合失調症とアイデンティティ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)でもみたが、「回復」(寛解)したという人は、初めは「合わない」薬の作用を受けて、事態が悪化するが、薬をいろいろ変えた末、「合うもの」がみつかって、劇的に回復したなどということが多い。しかし、それは、初めの状態との比較において、そう言われるのであり、だとすれば、「精神薬」の作用としての初めの状態が、いかに酷いものであったかということなのである。その酷い状態が、弱まって、あるいは解消されれば、それは、その間の期間の経過にもより、実際に「回復」に向かうことになったとしても、不思議はない。

それは、「精神薬によって」、治療されたのではなく、「精神薬を服用したにも拘わらず」、治癒に向ったのである

ただ、そこに、実際に、精神薬の「抑制効果」(一種の「麻痺」効果)が働いたという可能性はあるだろう。それが、本人を「おとなしく」させ、傍目にも、危険な感じが失われ、結果として、単純作業を中心とする、社会的な仕事に就かせることを可能にするということは、あり得ることである。

しかし、それが、「治療」といえるのかは別問題だし、本人の側からみて、好ましことかも、疑問である。
               
2つは、この社会へと復帰して行く、「例外」は、病院の役割からすれば、「例外」とはいっても、精神医療や「支配層」にとっては、失敗でも、損失でもなく、むしろ望ましいこと、ということである

なぜなら、図でも示されているように、「社会」とは、そもそも彼らの「管理下」にあるものだからである。そこから、逸脱する者を、病院の体制や精神薬により、「おとなしく」「柔順」にさせ、一応とも、社会に適合するものとなさしめたのだから、それは、全く彼らの意図に反するものではない。もちろん、本当に「危険」な者は、手っ取り早く、「管理」、「処分」されるだろうが、そうでなくとも、社会に適合するものにできたのなら、それで十分成功なのである。

さらに、前の記事でも述べたように、この「例外」があるからこそ、全体としての「精神医療のシステム」が、「治療のシステム」という見かけのもとに、成り立つのである。だから、この「例外」は、彼らにとっても、システムの存続にとって、重要な、生命線なのである。(一応とも、「治る」ように見える場合は、彼らとしても、周到に用意しておかねばならないということである。)

要するに、この「例外」を含めて、「精神医療のシステム」は、徹頭徹尾、彼らの意図にかなうようにできているということである

2016年1月22日 (金)

「オープンダイアローグ」の要点の図

前に、「オープンダイアローグ」について述べた(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-eb22.html 、http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6006.html)が、今回、この「オープンダイアローグ」がどのように治癒的に作用するのかの要点を、図にしてみた。 

Photo

ポイントは、本人の側の「妄想」も、医師や周りの者の側の「病気」という扱いも、ともに、「閉じたモノローグ」(独白)である、ということである。その「閉じたモノローグ」を、互いに、相手に押しつけ合うことから、対立や軋轢が生じ、事態を悪化させている。

本人が「妄想」を周りに訴えるから、周りの「病気」という扱いが生じ、強まるという面もあるし、逆に、周りが「病気」という扱いをするから、本人の「妄想」が起こり、強まるという面もある。

いずれにせよ、互いに、「閉じたモノローグ」同士のぶつかり合いが生じているのであり、それが相乗効果で、事態を悪化させ、泥沼化させている。

「オープンダイアローグ」という対話の試みは、その全体の構造に、融和的に作用するのである。決して、「病者」である本人に作用し、治癒をもたらすのではない。治癒がもたらされるとすれば、それは、本人の側だけでなく、周りの者についてもなのである。

「オープンダイアローグ」は、「オープン」な対話の「場」が、本人と周りの関係全体を癒す、ということである。だから、本当に「オープン」になされる限り、「人」や「もの」の働きを越えた、画期的な作用がある、ということになる。

しかし、それは同時に、これまでのあり方こそが、いかに、「病気」を生み出し、強めていたかということなのである

2016年1月13日 (水)

2015年 ぺージビュー数ベスト5

大分前に、本ブログ記事の、ぺージビュー数ベスト5を載せたことがあった(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-13da.html)。今回は、2015年全体での、ぺージビュー数ベスト5位を紹介してみたい。

1 「集団ストーカー」という厄介な問題
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html

2  幻聴の「声」と「テレパシー」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-ea5f.html

3  「次元降下」して地球に生きる「金星人」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-873a.html

4 「 統合失調症」という「アイデンティティ」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html

5 「人格解離」
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5f44.html

1位は、「集団ストーカー」の問題が、意外に多くの関心をもたれていることを物語っている。もっとも、これに関心を寄せるのは、一般の多くの者というよりも、自分自身が、「集団ストーカー」の被害者ではないかと、疑いを持つ者に多いのだろう。

ネット上には、「集団ストーカーの被害者」として、「集団ストーカー」なるものが、現実にあることを、もっともらしく訴えかけるサイトが多い。それらは、また、かなりの程度「類型化」されてもいる。それで、何らかの「関係妄想」を持ち始めた人はもちろん、周りの人の自分にする行動や態度に、不信感を持ち始めた人も、その「類型化」されたパターンに、自分の場合もあてはまる、と思ってしまったとしても、それほど不思議ではない状況になっているといえる。

引きこもりなどにより、社会との接点を失う人が増えていること、また、「無縁社会」ともいうように、互いに切り離された個人が、疎外感をもってばらばらに生活している状況も、このような「妄想」を助長する理由になっているだろう。

現代は、分裂気質の者ならずとも、「他者」あるいは、その集合である「集団」というものが、謎めいたものとなり、不気味な恐ろしさを、醸し出していると感じられる状況なのである。

この記事では、「集団ストーカー」について特に述べたが、もうひとつ「テクノロジー犯罪」なるものも、かなり「類型化」された形で示されており、統合失調との関わりも、より大きいものである。近いうちに、それをまた、とりあげるつもりである。

2位は、「声」を聞いてしまっている人には、必ず読んでほしい記事の一つで、私としてはうれしいものだ。「テレパシー」というのは、「声」を聞く人が、その「声」が、他者の現実の「物理的な声」そのものではないと気づいたときに、必ず可能性として考慮するはずのものである。それは、実際、特定の他者のものと区別し難いほどにリアルなものなので、当然の考えである。

しかし、この記事では、「テレパシー」と受け取ることは、実質上、他者の「物理的な声」そのものと受け取ることと、変わらないことであるのを強調している。結局は、特定の「他者」に、「声」を通して現れる「攻撃」や「意図」を、丸ごと委ねてしまっているからである。それでは、その者に対する、敵愾心や軋轢を、無闇に強めるだけである。

実際には、本当に、その者が恐怖を感じている対象は、そのような現実の他者には収まらない、「わけの分からない」要素であり、「人間を越える」と思われる要素のはずなのである。それは、そのままに受け取るべきであり、そこから、認識も開けてきて、対処の仕方も学ばれる可能性がある。それを、現実の他人(もちろん組織や集団にも)に、被せてしまうことでは、何も事態は解決しないのである。

また、たとえ、そこに、他人の「テレパシー」というものが、実際に入り込んでいたとしても、それを気にすることは、無意味であることも強調した。それは、その本人すら、知らない、「無意識」の事情により、たまたま発せられたものに過ぎないからである。あるいは、それは、他の存在により、仕掛けられたものである可能性もあるのである。

なお、この記事では、のめーるさんが多くのコメントを展開していて、ページビュー数が高いのは、その影響もあると思われる。

3位も、私としては、かなり意外であった。多分、私と同様、宇宙人といえば、太陽系外の惑星を想定していた人にとって、「金星人」というのはインパクトがあったのだろう。それも、単なるコンタクトストーリーなどではなく、本人自身が、この「アセンション」が叫ばれる時代に、「逆アセンション」(次元降下)し、地球人化して、生活をともにしているというのであるから。その後のオムネクは、あまり表に現れず、静かに生活しているようだが、多分、このような事実を伝えただけでも、十分のインパクトを残したと言えると思う。

ちなみに、ネットでは、この「逆アセンション」(「次元降下」)を、「ウォークイン」や「転生」と勘違いしている人も見受けられるが、これは、それらとは別もので、一種丸ごとの「物質化」なのである(「ウォークイン」や「転生」なら、それほど珍しいことではない)。ただ、その「物質化」の型として、実際に存在して、入れ替わるように死んだ地球人が象られているのと、一時的なものではなく、死ぬまで解けないものとして、実質、地球人の身体とほとんど変わらないものになっているということなのである。いずれにしても、特殊な事態であるのに変わりなく、そのインパクトももちろん大きいことだろう。

4位も、かなり意外なものである。これは、タイトルのままに、「統合失調症」と「アイデンティティ」という問題が、興味を引いたのか、具体的な記事の内容により、ページビュー数が高くなったのか、知りたいところである。

(「うつ」の場合は、それ以上に、「アイデンティティ」と結びつきやすいだろうが)一般には、忌避されそうな、「統合失調」の場合も、そう規定することが、不安定で、希薄な「アイデンティテイ」を補うことになって、むしろ好ましいものとして、欲される場合がある。そして、それが、治癒的な効果につながることがある、ということを述べた。あるいは、「統合失調状況」という、訳のわからない状況に宙ぶらりんになることは、オカルトじみた恐怖が実際伴うので、観念的に、それから離れられるという意味でも、「統合失調症」なる「病気」と捉えられる方が、まだしもである、ということもある。

また、後半では、ハウス加賀谷の場合について、少し詳しく述べているので、それが興味を引いたということがあるのかもしれない。

5位は、「解離」に間するもの。『人格解離』という本への興味ということもあろうが、前回も、『「解離性幻聴」との相違』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post-e7a3.html()が入っていて、今回も、6位であることを考えると、「解離」そのものについての興味が、相当高まっていることを思わせる。あるいは、「統合失調」と「解離」は、似たところが多いので、その違いに、現実的な興味を寄せる人も多いことであろう。

「統合失調」と「解離」の違いには、私も、様々な観点から注目してきた。基本は、「全体として、明らかにまとまりを欠く」「統合失調」と、個々の「人格」は、一通りのまとまりを有しているが、いくつかの「人格」に「分断」されてしまっている「解離」の違いである。聞く「声」も、明らかに「他者」として、自己の根底を脅かすほどに迫ってくるものと、他者的でありながら、どこか自己に近いものとして感じられるものとの違いがある。

いずれにしても、「自我」なるものが、不可分の、まとまりをもったものとしてあるのが、「正常」の状態で、どちらも、違った仕方での、そこからの逸脱として捉えられている。しかし、「統合失調」と「解離」の問題、あるいは、最近における、それらの増加は、「自我」なるものは、不可分の、まとまりをもったものというのは仮の姿でしかなく、本当は、まとまりを欠き、分断もされるのが、本来の姿かもしれないことを、暗示しているということもできる。そして、それらは、その「自我」の奥にあると想定される、「魂」や、その原初における「創造」の問題をも、浮かび上がらせるものとなる。このような問題は、これまでにも触れられて来たが、近いうちに、さらに踏み込んでみたい。

なお、『人格解離』という本自体は、「解離」でも、外的には完全に分離していない、「内在性解離」というものがとりあげられている。また、「憑依」との違いという、興味深い問題も、正面からとりあげられている。『症例X』という本とともに、この著者の本は、もっと読まれてしかるべきものと思う。

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