『精神病覚え書』について
坂口安吾は、昔『堕落論』を読んで、鋭い考察だと思った。このたび、『精神病覚え書』というエッセイ(http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43156_31204.html)を読んでみたが、さすがに鋭いことが述べてある。
安吾は、「うつ」と診断され、精神病院に入院する体験をする。そこで接した精神病患者の観察や、病院の中から外の「世間」を顧みることを通して、精神病について考えたことを述べているのである。
安吾は、初め、精神病患者は、「凶暴」であるに違いないという恐れを抱いていた。しかし、実際に、病院で接してみると、むしろ、つつましく、おとなしくて、イメージと違っていた。当時、小平という者の凶暴な犯罪が話題になっていたが、精神病患者というのは、「動物性」をそのまま表現しているような、このような犯罪者とは、まったく異質であることに気づく。
そこで、安吾は、精神病(特に分裂病)について、次のように考えを述べる。
僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。
僕の応接間でもそうであるが、精神病院の外来室に於ても、患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、むしろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、ということを。
精神病というものは、家庭とか、就職先とか、それらのマサツがなければ生じないもので、又、自らに課する戒律がなければ生じないものである。
(中頃)
精神病者が、「理想と現実のアンバランスにこそ悩む」ということ、「家庭や現実社会とのマサツによって、はじめて発症する」というのは、全く正しいと言うべきである。簡単に言えば、「現実社会への不適応」ということだが、私も、それこそが、「統合失調状況」へ入る、「きっかけ」になるとして重視していた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post-7324.html 参照)
それは、私に言わせれば、「かっかけ」に過ぎず、それによってこそ、(フロイト的な意味ではなく)潜在意識や霊的な領域が「開か」れ、そこで起こっていることを、何ほどか意識することによって、具体的に、狂気の状態に陥るのである。しかし、それがなければ、そうはならないという意味で、それこそが「入口」なのだから、やはり、正しい指摘には違いない。
特に、「理想」が高く、自らの「戒律」との抵触が強いからこそ、「現実」との葛藤に苦しむことになるという指摘が鋭い。一方で、その「理想」が、「現実」という基盤から飛躍しており、「現実」を踏まえたものとならないことから、失敗を繰り返すという、「弱点」もちゃんとみている。
これは、前にも述べたように、分裂気質の者の特徴といえ、ユング派では、「永遠の少年」という言い方もされる。( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5f1f.html、http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-513e.html 参照)「理想」が高いのは、「純粋さ」から来るものといえるが、一方、「現実」認識において、確かに、「子供」じみた愚かさをもち、大きな「弱点」を抱えていことは、認めざるを得ない。
それはそうなのだが、安吾は、さらに考察を進める。
精神病院にて、人に迷惑をかけたり、傍若無人な態度をとるのは、精神病患者ではなく、むしろ、付き添いの者である。また、安吾の入院について、新聞記者が、デタラメな記事を書き、こちらの事情など構わず、一方的に、安吾との面会を迫ったりする。
そのようなことから、次のように、考えるにいたる。
もし、精神病患者が異常なものであるとすれば、精神病院の外の世界というものは奇怪なものであり、精神病的ではないが、犯罪的なものなのである。
精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬てんとして内省なく、動物の上に安住している人々である。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。 (終頃)
確かに、分裂気質の者は、「理想」が高くて、「現実」認識に偏りがあるために、ギャップに苦しむのかもしれない。しかし、病院の中からみると、病院の外にある、「現実世界」の方が、よほど、「奇怪」で、「背徳的」なものにみえる。このように、「現実世界」こそが、「奇怪」で、「背徳的」なものだとすると、もはや、「現実」に適応できないことは、「理想」が高過ぎるからとか、「現実」認識に偏りがあるからなどとは、言えなくなるだろう。それは、「真っ当」であるための「闘い」という面も、帯びて来ることになるのだ。
多少、精神病患者に「ひいき目」のところはあるが、現代の状況がそうなっていることは、否定しようがないだろう。
また、ここで、「動物」と言われていることを、「アーリマン的なもの」と置き換えてみると、私の言っていることとも、通じることになる。
確かに、精神病患者は、「アーリマン的なもの」との葛藤に敗れて、精神を狂わし、「敗者」になったのかもしれない。しかし、一般人は、「アーリマン的なもの」に逆らうことなく、安住することによってこそ、それを免れている。だからこそ、この社会に「適応」していられる、ということである。
※ 「堕落論」との関係を述べると、次のようになろう。
安吾は、人間は「堕落」せざるを得ないものであり、「動物」に堕ちること自体は、必然的なこととみていた。しかし、一方、人間は、「堕落」し切れるほど強い存在でもない。問題は、「堕落」し切れずに、それを何か社会的なもので糊塗しようとすること、あるいは誤魔化そうとすることである。
「精神病患者」も、「堕落」し切れずに、精神を狂わせた、「弱い」存在に違いない。しかし、彼らは、「動物」と正面から闘ったのであり、それを何か社会的なもので糊塗しようとしたり、誤魔化そうとはしなかった。ところが、「一般人」は、それを、社会的なもので糊塗したり、誤魔化したりしているが、実際には、「動物」に堕ちているだけなのである。
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初めまして。学生です。
この記事を読んでいてふと思ったのですが、現実世界(病院の外側)で所謂「社会的成功」と呼ばれるものを勝ち得ていて、かつそれを自覚している人と話す際には、
「神経症的押し付けがましさ」とでも形容したくなる何かがあるようです。
(最近の経験では安吾の例と同じく某週刊誌の記者でした。)
ティエムさんがいうアーリマン的なものはそれに近いのでしょうか、違うかな。
僕はそういうものに触れると一言も喋れなくなります。
侵入的というか、権力的階層的というか、ある意味「社会」という言葉を体現しているような感じを受けました。
また、日常風景を見渡してみても、日本の文化的社会的風土には強迫的な秩序への愛好があって、分裂質の人間にとってはかなり苦しいものだなあと日々感じています。
他者をただ傍から眺めることでは満足せず、必ず社会の社会性を押し付けてくる、ほっといてくれない、といった感じがあります。
ティエムさんの様々な記事の個々のお考えには納得できるところ、そうではないところいろいろありますが、
全体としては、普通とされる人々にはまず触れられないようなこの世界の生生しい実在を記述されていて、大変興味深いです。
僕としては、それぞれの人が他者を必要としないで勝手に「在るとは何か」「他人はなぜ私ではないのか、あるいは他人は私かもしれないのか、そもそも私という奇怪なものは何なのか」「時間とは何を指すのか」みたいなことをぶつぶつ独りごちてるような社会になればいいなと思います。
そもそも「適応」不適応」「社会との齟齬」なんかハナから問題になんないと楽ですよねえ。
投稿: シゾ | 2015年12月16日 (水) 01時46分
コメントありがとうございます。
「「所謂「社会的成功」と呼ばれるものを勝ち得ていて、かつそれを自覚している人と話す際には、
「神経症的押し付けがましさ」とでも形容したくなる何かがあるようです。
侵入的というか、権力的階層的というか、ある意味「社会」という言葉を体現しているような感じを受けました。」
まさに、それは「アーリマン的なもの」と言っていいと思います。「侵入的」、「押しつけがましさ」という言葉が表しているように、そこには、人に実際に作用する、ある種の「力」というか、「暴力性」のようなものが働いているということです。安吾が、「動物(性)」と言うのも、そのようなものを感じとっているからこそと思います。
「社会的成功」を勝ち得ている人でなくても、「社会」に身を寄せることで、自分の安定や存在価値を得ようとする人は、皆そうだと思います。「神経症的」に「押しつけがましく」していないと、そのような自分の安定や価値が保たれないのですね。
日本が、特にそのようなものへの志向が強いのも、そのとおりと思います。
一応あげておくと、記事では、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)、「日本人は皆「捕食者」を知っている!?(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-755e.html)などが、これらのことを中心的に述べています。
投稿: ティエム | 2015年12月16日 (水) 21時47分