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2015年12月 6日 (日)

「輪廻転生」が否定された理由

近代人は、一般に、それを否定するから、「輪廻転生」は、特殊な思想だと思われやすい。しかし、前々回みたように、それは、バリエーションの相違はあるものの、先住民の文化以来、ずっと広く世界に行き渡っている、普遍的な思想なのだった。

近代人が、それを否定するのは、近代人の「合理主義」や「科学主義」と相いれないからだと思われるかもしれない。しかし、西洋において、「輪廻転生」を否定したのは、正統キリスト教なのであり、正統キリスト教が、ヨーロッパを席巻した頃からである。

聖書にも、輪廻転生を前提とするような発想はみられるし、ギリシャ・ローマの古代文明でも、輪廻転生の思想は普通に行き渡っていた。紀元5世紀頃も、ヨーロッパでは、輪廻転生の思想が流行していたらしい。

しかし、キリスト教会は、公会議によって、正式に「輪廻転生」を否定することになった。キリスト教では、「人生は一度だけ」であり、「死後、神の裁きにより天国か地獄かの行く先が決まる」というのを、正しい教義としたのである。

それには、「輪廻転生」の発想は、人々を怠惰にさせるということが、考慮されたようである(竹下節子著『ヨーロッパの死者の書』参照)。それは、もちろん、人々を、教化、指導する、教会の側からみてのことである。「輪廻転生」などを信じていると、一生懸命教会に来て、「信仰」することがなくなる。つまり、教会に寄進したり、教会の権威を広めることが、なくなるということである。

西洋近代が、「輪廻転生」を否定するのは、そのようなキリスト教の伝統の流れに沿ったものなのである。近代の「合理主義」や「科学主義」が、「輪廻転生」と相いれないという面は、確かにあろうが、その「合理主義」や「科学主義」自体、これまで何度かみたように、キリスト教的な発想(特に「一神教的な神の絶対性」)の延長上に出て来たものである。だから、やはり、「輪廻転生」の思想は、それ以前に、キリスト教により否定されていたというべきなのである。

仏教の場合も、前々回みたように、「輪廻転生」を「苦」とみるし、輪廻の主体としての「アートマン」を否定するので、「否定」の意味合いは濃く含まれている。ただし、「輪廻転生」という事実そのものを、否定したわけではない。

ブッダは、出家した弟子たちに向って、「輪廻転生」を語ることはあまりなかったようだが、それは、当然である。出家の僧は、「その生」において、解脱を目指すからこそ出家するのであるから、ことさら「輪廻転生」を説くことは、弟子たちの意気を、削ぐことになろう。ただ、その意味では、やはり、「輪廻転生」の発想が、人を「怠惰」にさせるという面は、考慮されているわけである。

ところが、ブッダも、在家の信者に向っては、普通に「輪廻転生」を語ったし、「来世」で、(解脱を目指すうえで)よりよい境遇に生まれる方途についても語っている。「輪廻転生」ということ自体は、当然の前提のようにしていたのだし、さらに、輪廻の主体として、「アートマン」という実体は認めないにしても、そこには、輪廻を通して、何らかの「同一性」のようなものがあると、認めていたことにもなろう。

このように、仏教の場合は、「輪廻転生」という事実そのものは否定しないが、その実質的意味を「否定」し、それを脱することを目指したのだといえる

「輪廻転生」の発想が、人を怠惰にさせるということについては、クリシュナムルティも、「インド人は、輪廻転生などを信じているから、怠惰で困る」ということを述べていた。最近は、インドも経済発展を遂げて、必ずしもそうとは言えなくなっているだろうが、インド人にそのような傾向があるのは、否めないかもしれない。

私自身は、大体20才頃から、「輪廻転生」を信じるようになったのだが、やはり、それ以前と比べて、何事につけ「怠惰」になった面は、あると思う。よく言えば、「楽天的」で、「あくせく」しなくなったのだが、それは、「今日できること」(あるいは「すべきこと」すら)「明日に延ばす」という意味で、やはり、「怠惰」ということに、通じている。

「輪廻転生」という発想が、人を怠惰にさせるという面は、確かにあると認めざるを得ない。

しかし、考えてみると、「怠惰」にさせるという面は、「輪廻転生」ということ自体から来ているというよりも、「輪廻転生」によって、現に今ある「私」が、永遠に存続していくかのような、発想をしてしまうことから、来ているというべきなのである。現に今ある「私」の観点から、「輪廻転生」ということを、どうしても肯定的に捉えてしまう面がある、ということである。

ブッダが、輪廻の主体は「アートマン」ではなく、「業」なのだというのは、現に今ある「私」が、永遠に存続していくなどということは、完全に否定している。さらに、そもそも、「輪廻転生」に関わらず、すべては「諸行無常」で、一瞬一瞬移り変わるのだから、現に今ある「私」が、存続するなどということはあり得ない。しかし、一般には、死後も、「輪廻転生」があるとなると、今ある自分が続いていくもののように、幻想させてしまいやすいのである。

この点は、ブッダ自身も、先にみたように、輪廻を通して、ある種の「同一性」を認めているとみられる話をしていた。この「同一性」とは、決して今ある「私」ということではないのだが、現にある「私」にとっては、どうしても、そのように幻想されてしまいやすい。

(しかし、一方で、キリスト教のように、「人生は一度きりで、それにより、天国行きか地獄行きかが決まる」という発想だと、本当に「怠惰」にならないかというと、そんなことはないはずである。また、唯物論的に、「輪廻転生はない」という発想だと、「怠惰」にならないかというと、そんなこともないはずである。やはり、それぞれに、現に今ある「私」を存続させる発想と、結びつくからである。)

こういったことからも、「輪廻転生」があるということになると、「自己」や「魂」との関係はどうなのか、それなりにしっかりと、捉えておく必要があることになる。この問題は、さらに折をみて、続けて問うて行く。

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