『人間失格』の場合
太宰治も、坂口安吾同様、あるいはそれ以上に、「人間」ないし「世間」の底にあるものを見つめ、それを恐れてもいた。
太宰の『人間失格』は、主人公の目を通しての、太宰のそのような「世間」に対する見方の推移として、捉えてみることができる。
主人公は、「分裂気質」そのものとまでは言えなくとも、それに十分通じる、「人間」や「世間」に対する恐怖を抱き続けていた。子供の頃から、「人間の生活というものが、見当がつかなかった」といい、「人間の営みが、なにもわかっていなかった」という。
次の言葉は、それを象徴するものといえる。
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、なかったのです。
まさに、これは、「世間」において、人間の「生活」の基本中の基本として、陰に陽に唱えられる、「掟」のようなものだ。しかし、主人公には、それが全く理解できなかったのである。
私も、子供の頃、これに近い感覚をもっていた。「めしを食べなければ死ぬ」ということ自体は、本当かもしれないと思い、太宰のように、「迷信」とまでは思えなかったが、「めしを食べなければ死ぬ」、という言葉が殊更強調され、唱えられることには、何か、茶番めいた「白々しさ」、「ウソっぽさ」を感じていたのだ。
しかし、「食べない人」が、かなりの程度表に現れ始めた現在、この点では太宰の方が正しかった。それは、まさに、「迷信」以外の何ものでもなかったのだ。
また、主人公は、子供の頃、友人に、オバケの絵を見せられ、そこに、これまでに体験したことのない「リアリティ」を感じる。これこそ、人間という化け物の本当の姿を捉えたものと思うのである。そして、自分も、いずれこのような絵を描きたいと思う。
さらに、学生の頃、堀木という友人に連れられて、マルクス経済学の講義を受けに行った。その講義を聞いて、次のように思う。
それは、そうに違いないだろうけども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。欲、といっても言いたりない、ヴァニティ(虚栄心)といっても、いいたりない、色と欲、とこう二つ並べても、いいたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに<怪談じみたもの>があるような気がして、…
とても納得できず、少しも、恐怖から解放されることはなかった、というのである。そして、その恐怖の「実態」は、人間の世の底にある、へんに<怪談じみたもの>として、明らかにされる。
この<怪談じみたもの>は、安吾のいう、「動物(性)」よりも、より踏み込んだ捉え方と思う。「動物(性)」という言い方は、人間の内部に潜む、制御し難い「衝動」のようなものを言い表してはいる。しかし、この<怪談じみたもの>は、そのようなものを越えて、さらに、人間の内部の衝動には、還元できない(まさに「言い足りない」)、ある、捉え難い、「外部的な力」のようなものも、含みみているからである。「人間」の「内部」というよりも、それらの「間」に蠢くものを捉えている、ということである。
その意味では、私の言う、「アーリマン的なもの」との共通性が、より露となっている。<怪談じみたもの>ではなく、「妖怪じみたもの」としてくれた方が、この点は、より浮き彫りになっただろう。
そんな主人公は、女にはもてたので、女道楽や酒など、退廃的な生活をする。そこで、「世間」そのものを体現するかのような、堀木に、次のように忠告される。「女道楽もこのへんにしろ。そうしないと、世間が許さないからな。」
そこで、主人公は思う。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きてきたのですが…。
しかし、堀木にそう言われてみると、堀木に面と向かって言う気にはならないが、「世間というのは、君じゃないか」。「世間が、ゆるさない」というのは、「世間じゃない、あなたが、ゆるさないのでしょう?」という思いが生じる。
そして、そのとき以来、「世間とは個人じゃないか」という思想めいたものを、持つようになったという。そうすると、世間というものが、前ほどこわくなくなり、今までより、自分の意志で動くことができるようになる。また、あまり、世間に、気兼ねをする必要も感じなくなる。
「世間というものの実質が、個人である」というのは、確かに一面を捉えている。
人が、「世間」なるものを持ち出すとき、それは、その「個人」が、「世間」というものを傘に着て、自分自身を語っているのである。
しかし、この事態は、次のように裏切られることになる。
主人公は、ヨシ子という、疑いを知らない純真な娘と結婚する。しかし、あるとき、自分の家の二階で、ヨシ子がほかの男と寝ているのを目撃することになる。堀木が、それを見ていながら、やめさせるようなこともせず、主人公にわざわざそれを知らせにやってきたのだ。
ヨシ子は、疑いを知らない女で、ただ、男の「何もしない」という言葉を信じて、家に入れただけだった。現場を見た後、何もせず、呼ぶだけ呼んでおいて、すぐその場から去った堀木には、確かに、後に怒りを感じはした。が、主人公にとって、問題は、そんなことではなく、そこで起こっいている、厳粛な「事実」そのものだった。
そのとき、主人公は、「怒りでも、嫌悪でも、悲しみでもなく、ただもの凄まじい恐怖を感じた」という。それは、
墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかもしれないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。
まさに、現れては消える、「幽け」き、「幽霊」などの(つまりは「人間」などの)次元を越えた、「四の五の言わさぬ」圧倒的な「力」が、そこには、現れ出ていて、厳粛な、「人間の真実」を告げていたのだ。
そこで、主人公は、「自分にとって、<世の中>は、やはり底知れず、恐ろしいところでした」と告白せざるを得ない。
つまり、「世間とは個人じゃないか」という思想は、無残にも、覆えされた。そればかりか、そこにあるのは、初めに思っていた、「怪談じみたもの」すら越えていた。それは、もっと、厳粛で、動かし難い、「神的なもの」とすらいえるものだったのだ。
それて、主人公は、もはや、「この世の営みに対するいっさいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれる」ことになった。
…「人間失格」。そんな太宰が、ごまかしのない、「堕落」の果てに発見したものとは、「ただ、いっさいは過ぎてゆきます」という、たった一つの、「真理」だった。
※ 鈴木大拙は禅を知るきっかけになった人だが、その秘書を務めていた人は、ちょっとお嬢さんタイプの人で、何かあったか、こんなことを晩年の大拙に漏らしたらしい。「世間というのはこわいところなのですね。」それに対する大拙の言葉が印象に残っている。
「そうか、それがわかったか。これでわしも安心して死ねる。」
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