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2015年12月

2015年12月26日 (土)

『人間失格』の場合

太宰治も、坂口安吾同様、あるいはそれ以上に、「人間」ないし「世間」の底にあるものを見つめ、それを恐れてもいた。

太宰の『人間失格』は、主人公の目を通しての、太宰のそのような「世間」に対する見方の推移として、捉えてみることができる

主人公は、「分裂気質」そのものとまでは言えなくとも、それに十分通じる、「人間」や「世間」に対する恐怖を抱き続けていた。子供の頃から、「人間の生活というものが、見当がつかなかった」といい、「人間の営みが、なにもわかっていなかった」という。

次の言葉は、それを象徴するものといえる。

めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、なかったのです。

まさに、これは、「世間」において、人間の「生活」の基本中の基本として、陰に陽に唱えられる、「掟」のようなものだ。しかし、主人公には、それが全く理解できなかったのである。

私も、子供の頃、これに近い感覚をもっていた。「めしを食べなければ死ぬ」ということ自体は、本当かもしれないと思い、太宰のように、「迷信」とまでは思えなかったが、「めしを食べなければ死ぬ」、という言葉が殊更強調され、唱えられることには、何か、茶番めいた「白々しさ」、「ウソっぽさ」を感じていたのだ。

しかし、「食べない人」が、かなりの程度表に現れ始めた現在、この点では太宰の方が正しかった。それは、まさに、「迷信」以外の何ものでもなかったのだ。

また、主人公は、子供の頃、友人に、オバケの絵を見せられ、そこに、これまでに体験したことのない「リアリティ」を感じる。これこそ、人間という化け物の本当の姿を捉えたものと思うのである。そして、自分も、いずれこのような絵を描きたいと思う。

さらに、学生の頃、堀木という友人に連れられて、マルクス経済学の講義を受けに行った。その講義を聞いて、次のように思う。

それは、そうに違いないだろうけども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。欲、といっても言いたりない、ヴァニティ(虚栄心)といっても、いいたりない、色と欲、とこう二つ並べても、いいたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに<怪談じみたもの>があるような気がして、…

とても納得できず、少しも、恐怖から解放されることはなかった、というのである。そして、その恐怖の「実態」は、人間の世の底にある、へんに<怪談じみたもの>として、明らかにされる。
                
この<怪談じみたもの>は、安吾のいう、「動物(性)」よりも、より踏み込んだ捉え方と思う。「動物(性)」という言い方は、人間の内部に潜む、制御し難い「衝動」のようなものを言い表してはいる。しかし、この<怪談じみたもの>は、そのようなものを越えて、さらに、人間の内部の衝動には、還元できない(まさに「言い足りない」)、ある、捉え難い、「外部的な力」のようなものも、含みみているからである。「人間」の「内部」というよりも、それらの「間」に蠢くものを捉えている、ということである。

その意味では、私の言う、「アーリマン的なもの」との共通性が、より露となっている。<怪談じみたもの>ではなく、「妖怪じみたもの」としてくれた方が、この点は、より浮き彫りになっただろう。

そんな主人公は、女にはもてたので、女道楽や酒など、退廃的な生活をする。そこで、「世間」そのものを体現するかのような、堀木に、次のように忠告される。「女道楽もこのへんにしろ。そうしないと、世間が許さないからな。」

そこで、主人公は思う。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きてきたのですが…。

しかし、堀木にそう言われてみると、堀木に面と向かって言う気にはならないが、「世間というのは、君じゃないか」。「世間が、ゆるさない」というのは、「世間じゃない、あなたが、ゆるさないのでしょう?」という思いが生じる。

そして、そのとき以来、「世間とは個人じゃないか」という思想めいたものを、持つようになったという。そうすると、世間というものが、前ほどこわくなくなり、今までより、自分の意志で動くことができるようになる。また、あまり、世間に、気兼ねをする必要も感じなくなる。 

「世間というものの実質が、個人である」というのは、確かに一面を捉えている。
人が、「世間」なるものを持ち出すとき、それは、その「個人」が、「世間」というものを傘に着て、自分自身を語っているのである。

しかし、この事態は、次のように裏切られることになる。

主人公は、ヨシ子という、疑いを知らない純真な娘と結婚する。しかし、あるとき、自分の家の二階で、ヨシ子がほかの男と寝ているのを目撃することになる。堀木が、それを見ていながら、やめさせるようなこともせず、主人公にわざわざそれを知らせにやってきたのだ。

ヨシ子は、疑いを知らない女で、ただ、男の「何もしない」という言葉を信じて、家に入れただけだった。現場を見た後、何もせず、呼ぶだけ呼んでおいて、すぐその場から去った堀木には、確かに、後に怒りを感じはした。が、主人公にとって、問題は、そんなことではなく、そこで起こっいている、厳粛な「事実」そのものだった。
         
そのとき、主人公は、「怒りでも、嫌悪でも、悲しみでもなく、ただもの凄まじい恐怖を感じた」という。それは、

墓地の幽霊などに対する恐怖ではなく、神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかもしれないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感でした。

 
まさに、現れては消える、「幽け」き、「幽霊」などの(つまりは「人間」などの)次元を越えた、「四の五の言わさぬ」圧倒的な「力」が、そこには、現れ出ていて、厳粛な、「人間の真実」を告げていたのだ

そこで、主人公は、「自分にとって、<世の中>は、やはり底知れず、恐ろしいところでした」と告白せざるを得ない。

つまり、「世間とは個人じゃないか」という思想は、無残にも、覆えされた。そればかりか、そこにあるのは、初めに思っていた、「怪談じみたもの」すら越えていた。それは、もっと、厳粛で、動かし難い、「神的なもの」とすらいえるものだったのだ。
                                 
それて、主人公は、もはや、「この世の営みに対するいっさいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれる」ことになった。

…「人間失格」。そんな太宰が、ごまかしのない、「堕落」の果てに発見したものとは、「ただ、いっさいは過ぎてゆきます」という、たった一つの、「真理」だった。

※ 鈴木大拙は禅を知るきっかけになった人だが、その秘書を務めていた人は、ちょっとお嬢さんタイプの人で、何かあったか、こんなことを晩年の大拙に漏らしたらしい。「世間というのはこわいところなのですね。」それに対する大拙の言葉が印象に残っている。

「そうか、それがわかったか。これでわしも安心して死ねる。」

2015年12月16日 (水)

『精神病覚え書』について

坂口安吾は、昔『堕落論』を読んで、鋭い考察だと思った。このたび、『精神病覚え書』というエッセイ(http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43156_31204.html)を読んでみたが、さすがに鋭いことが述べてある。

安吾は、「うつ」と診断され、精神病院に入院する体験をする。そこで接した精神病患者の観察や、病院の中から外の「世間」を顧みることを通して、精神病について考えたことを述べているのである。

安吾は、初め、精神病患者は、「凶暴」であるに違いないという恐れを抱いていた。しかし、実際に、病院で接してみると、むしろ、つつましく、おとなしくて、イメージと違っていた。当時、小平という者の凶暴な犯罪が話題になっていたが、精神病患者というのは、「動物性」をそのまま表現しているような、このような犯罪者とは、まったく異質であることに気づく。

そこで、安吾は、精神病(特に分裂病)について、次のように考えを述べる。

僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。

僕の応接間でもそうであるが、精神病院の外来室に於ても、患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、むしろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、ということを。

精神病というものは、家庭とか、就職先とか、それらのマサツがなければ生じないもので、又、自らに課する戒律がなければ生じないものである。
                                     (中頃)

精神病者が、「理想と現実のアンバランスにこそ悩む」ということ、「家庭や現実社会とのマサツによって、はじめて発症する」というのは、全く正しいと言うべきである。簡単に言えば、「現実社会への不適応」ということだが、私も、それこそが、「統合失調状況」へ入る、「きっかけ」になるとして重視していた。(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post-7324.html 参照)

それは、私に言わせれば、「かっかけ」に過ぎず、それによってこそ、(フロイト的な意味ではなく)潜在意識や霊的な領域が「開か」れ、そこで起こっていることを、何ほどか意識することによって、具体的に、狂気の状態に陥るのである。しかし、それがなければ、そうはならないという意味で、それこそが「入口」なのだから、やはり、正しい指摘には違いない。

特に、「理想」が高く、自らの「戒律」との抵触が強いからこそ、「現実」との葛藤に苦しむことになるという指摘が鋭い。一方で、その「理想」が、「現実」という基盤から飛躍しており、「現実」を踏まえたものとならないことから、失敗を繰り返すという、「弱点」もちゃんとみている。

これは、前にも述べたように、分裂気質の者の特徴といえ、ユング派では、「永遠の少年」という言い方もされる。( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5f1f.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-513e.html   参照)「理想」が高いのは、「純粋さ」から来るものといえるが、一方、「現実」認識において、確かに、「子供」じみた愚かさをもち、大きな「弱点」を抱えていことは、認めざるを得ない。

それはそうなのだが、安吾は、さらに考察を進める。

精神病院にて、人に迷惑をかけたり、傍若無人な態度をとるのは、精神病患者ではなく、むしろ、付き添いの者である。また、安吾の入院について、新聞記者が、デタラメな記事を書き、こちらの事情など構わず、一方的に、安吾との面会を迫ったりする。

そのようなことから、次のように、考えるにいたる。

もし、精神病患者が異常なものであるとすれば、精神病院の外の世界というものは奇怪なものであり、精神病的ではないが、犯罪的なものなのである。
 精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬てんとして内省なく、動物の上に安住している人々である。

精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。                                                                                                                                                                        (終頃)

確かに、分裂気質の者は、「理想」が高くて、「現実」認識に偏りがあるために、ギャップに苦しむのかもしれない。しかし、病院の中からみると、病院の外にある、「現実世界」の方が、よほど、「奇怪」で、「背徳的」なものにみえる。このように、「現実世界」こそが、「奇怪」で、「背徳的」なものだとすると、もはや、「現実」に適応できないことは、「理想」が高過ぎるからとか、「現実」認識に偏りがあるからなどとは、言えなくなるだろう。それは、「真っ当」であるための「闘い」という面も、帯びて来ることになるのだ

多少、精神病患者に「ひいき目」のところはあるが、現代の状況がそうなっていることは、否定しようがないだろう。

また、ここで、「動物」と言われていることを、「アーリマン的なもの」と置き換えてみると、私の言っていることとも、通じることになる

確かに、精神病患者は、「アーリマン的なもの」との葛藤に敗れて、精神を狂わし、「敗者」になったのかもしれない。しかし、一般人は、「アーリマン的なもの」に逆らうことなく、安住することによってこそ、それを免れている。だからこそ、この社会に「適応」していられる、ということである。

 「堕落論」との関係を述べると、次のようになろう。

 安吾は、人間は「堕落」せざるを得ないものであり、「動物」に堕ちること自体は、必然的なこととみていた。しかし、一方、人間は、「堕落」し切れるほど強い存在でもない。問題は、「堕落」し切れずに、それを何か社会的なもので糊塗しようとすること、あるいは誤魔化そうとすることである。

「精神病患者」も、「堕落」し切れずに、精神を狂わせた、「弱い」存在に違いない。しかし、彼らは、「動物」と正面から闘ったのであり、それを何か社会的なもので糊塗しようとしたり、誤魔化そうとはしなかった。ところが、「一般人」は、それを、社会的なもので糊塗したり、誤魔化したりしているが、実際には、「動物」に堕ちているだけなのである。

2015年12月 6日 (日)

「輪廻転生」が否定された理由

近代人は、一般に、それを否定するから、「輪廻転生」は、特殊な思想だと思われやすい。しかし、前々回みたように、それは、バリエーションの相違はあるものの、先住民の文化以来、ずっと広く世界に行き渡っている、普遍的な思想なのだった。

近代人が、それを否定するのは、近代人の「合理主義」や「科学主義」と相いれないからだと思われるかもしれない。しかし、西洋において、「輪廻転生」を否定したのは、正統キリスト教なのであり、正統キリスト教が、ヨーロッパを席巻した頃からである。

聖書にも、輪廻転生を前提とするような発想はみられるし、ギリシャ・ローマの古代文明でも、輪廻転生の思想は普通に行き渡っていた。紀元5世紀頃も、ヨーロッパでは、輪廻転生の思想が流行していたらしい。

しかし、キリスト教会は、公会議によって、正式に「輪廻転生」を否定することになった。キリスト教では、「人生は一度だけ」であり、「死後、神の裁きにより天国か地獄かの行く先が決まる」というのを、正しい教義としたのである。

それには、「輪廻転生」の発想は、人々を怠惰にさせるということが、考慮されたようである(竹下節子著『ヨーロッパの死者の書』参照)。それは、もちろん、人々を、教化、指導する、教会の側からみてのことである。「輪廻転生」などを信じていると、一生懸命教会に来て、「信仰」することがなくなる。つまり、教会に寄進したり、教会の権威を広めることが、なくなるということである。

西洋近代が、「輪廻転生」を否定するのは、そのようなキリスト教の伝統の流れに沿ったものなのである。近代の「合理主義」や「科学主義」が、「輪廻転生」と相いれないという面は、確かにあろうが、その「合理主義」や「科学主義」自体、これまで何度かみたように、キリスト教的な発想(特に「一神教的な神の絶対性」)の延長上に出て来たものである。だから、やはり、「輪廻転生」の思想は、それ以前に、キリスト教により否定されていたというべきなのである。

仏教の場合も、前々回みたように、「輪廻転生」を「苦」とみるし、輪廻の主体としての「アートマン」を否定するので、「否定」の意味合いは濃く含まれている。ただし、「輪廻転生」という事実そのものを、否定したわけではない。

ブッダは、出家した弟子たちに向って、「輪廻転生」を語ることはあまりなかったようだが、それは、当然である。出家の僧は、「その生」において、解脱を目指すからこそ出家するのであるから、ことさら「輪廻転生」を説くことは、弟子たちの意気を、削ぐことになろう。ただ、その意味では、やはり、「輪廻転生」の発想が、人を「怠惰」にさせるという面は、考慮されているわけである。

ところが、ブッダも、在家の信者に向っては、普通に「輪廻転生」を語ったし、「来世」で、(解脱を目指すうえで)よりよい境遇に生まれる方途についても語っている。「輪廻転生」ということ自体は、当然の前提のようにしていたのだし、さらに、輪廻の主体として、「アートマン」という実体は認めないにしても、そこには、輪廻を通して、何らかの「同一性」のようなものがあると、認めていたことにもなろう。

このように、仏教の場合は、「輪廻転生」という事実そのものは否定しないが、その実質的意味を「否定」し、それを脱することを目指したのだといえる

「輪廻転生」の発想が、人を怠惰にさせるということについては、クリシュナムルティも、「インド人は、輪廻転生などを信じているから、怠惰で困る」ということを述べていた。最近は、インドも経済発展を遂げて、必ずしもそうとは言えなくなっているだろうが、インド人にそのような傾向があるのは、否めないかもしれない。

私自身は、大体20才頃から、「輪廻転生」を信じるようになったのだが、やはり、それ以前と比べて、何事につけ「怠惰」になった面は、あると思う。よく言えば、「楽天的」で、「あくせく」しなくなったのだが、それは、「今日できること」(あるいは「すべきこと」すら)「明日に延ばす」という意味で、やはり、「怠惰」ということに、通じている。

「輪廻転生」という発想が、人を怠惰にさせるという面は、確かにあると認めざるを得ない。

しかし、考えてみると、「怠惰」にさせるという面は、「輪廻転生」ということ自体から来ているというよりも、「輪廻転生」によって、現に今ある「私」が、永遠に存続していくかのような、発想をしてしまうことから、来ているというべきなのである。現に今ある「私」の観点から、「輪廻転生」ということを、どうしても肯定的に捉えてしまう面がある、ということである。

ブッダが、輪廻の主体は「アートマン」ではなく、「業」なのだというのは、現に今ある「私」が、永遠に存続していくなどということは、完全に否定している。さらに、そもそも、「輪廻転生」に関わらず、すべては「諸行無常」で、一瞬一瞬移り変わるのだから、現に今ある「私」が、存続するなどということはあり得ない。しかし、一般には、死後も、「輪廻転生」があるとなると、今ある自分が続いていくもののように、幻想させてしまいやすいのである。

この点は、ブッダ自身も、先にみたように、輪廻を通して、ある種の「同一性」を認めているとみられる話をしていた。この「同一性」とは、決して今ある「私」ということではないのだが、現にある「私」にとっては、どうしても、そのように幻想されてしまいやすい。

(しかし、一方で、キリスト教のように、「人生は一度きりで、それにより、天国行きか地獄行きかが決まる」という発想だと、本当に「怠惰」にならないかというと、そんなことはないはずである。また、唯物論的に、「輪廻転生はない」という発想だと、「怠惰」にならないかというと、そんなこともないはずである。やはり、それぞれに、現に今ある「私」を存続させる発想と、結びつくからである。)

こういったことからも、「輪廻転生」があるということになると、「自己」や「魂」との関係はどうなのか、それなりにしっかりと、捉えておく必要があることになる。この問題は、さらに折をみて、続けて問うて行く。

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