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2015年11月 5日 (木)

『輪廻転生-私をつなぐ生まれ変わりの物語』他

前に、「輪廻転生」ということと、死を越えて存続する、「自己」または「魂」との関係について、基本的な見方や問題点をまとめておきたい、と言っていた。

今回は、それに関して、参照するのに、ちょうど適当な本が出ているので、紹介したい。

それは、竹倉史人著『輪廻転生-私をつなぐ生まれ変わりの物語』(講談社現代新書)という本。単に、学者的で、抽象的な、輪廻思想の解説ではなく、その現代的意味を意識しつつ、実質的に、分かりやすく考察されている。特に、いくつかの観点から、輪廻思想のバリエーションが、要領よくまとめられているのがよい。

   
前に、一口に「輪廻転生」と言っても、その捉え方には、いくらかの違いがあって、その違いは、「自己」や「魂」の捉え方にも関わって来る、と言っていた。が、まさに、この本のまとめ方は、その点を考える前提として、参照するのに、とても適しているのである。

著者は、輪廻転生のバリエーションを、次の3つに分けて、まとめている。

1つは、「輪廻」よりも、「生まれ変わる」という「再生」に重点のかかった、「再生型」。これは、特に、未開社会に顕著に行き渡っているものだが、日本にも、仏教を受け入れる前、さらにその後も、基本として、根強く残っているものである。

2つは、典型的な「輪廻型」。これは、古代インドに特に起こったもので、「生まれ変わり」ということよりも、「輪廻」を全体として苦と捉え、「解脱」することを目指す方向にある。

3つは、「リインカネーション型」。これは、特に、一旦、「輪廻」の発想を全否定した西洋近代において、近代的自我の発想を通り越したうえで、新たに、受け入れられた「輪廻思想」ということである。「輪廻」を通して、「個的な魂」が、成長したり、進化するという発想を伴う。

日本は、元々は(縄文以来)、1の「再生型」であったが、仏教を通して、2の「輪廻型」の発想も入り、また近代以降は、3の「リインカネーション型」の発想も入っている。つまり、3つの発想が混交している。しかし、多くの場合、「輪廻転生」ということには、1の「再生型」の発想が浸み渡っていると思う。それは、「輪廻転生」がもしあるなら、それを苦としてではなく、「生まれ変われる」のだから、好ましいこと、と受け止めるだろうことからも分かる。また、「祖先(祖霊)」や「自然」に融合しつつ、「生まれ変わり」を遂げるという発想が、伝統的に行き渡っていることからも分かる。

このように、「再生型」では、一応、「誰が誰に生まれ変わった」ということが意識されるようだが、生まれ変わりの「主体」として、明確に「個的な実体」のようなものが、想定されているわけではない。たとえば、一つの「魂」が、多くの人物に分かれて生まれて来たり、日本の場合もそうといえるが、霊界に「祖霊」として存続しつつ、その中から、一つの「魂」として、この世に生まれ出て来たりする。

一方、「輪廻型」では、「輪廻」を通して再生を繰返す、「個的な実体」のようなものが、はっきり意識される。ウパニシャドでは、それは、「アートマン」(霊魂)とされ、「不変の実体」とされた。しかし、ブッダは、「アートマン」を「不変の実体」としては否定し、輪廻の主体は、「業」(カルマ)であるとした。そして、「アートマン」とは、「五蘊」という、「縁起」で寄り集まる、仮のものに過ぎないとした。いわゆる「無我説」である。

最後の「リインカーネーション型」は、「スピリチュアリズム」を通して、西洋世界にも、徐々に浸透し始める。「神智学」や、シュタイナーの「人智学」も、その延長上にあるといえる。「輪廻型」同様、「輪廻」の主体として、「個的な実体」を認めるが、その「解脱」を目指すのではなく、それが「輪廻」を通して、「成長」または「進化」するというように、肯定的に捉え返されているのが特徴である。

今回は、ざっと簡単に、振り返ってみただけだが、このように、輪廻の捉え方は、「自己」または「魂」の捉え方と、大きく関わること。そして、それは、容易ならざる問題を孕んでいることは、分かってもらえただろう

さらに、この本では、最近の「輪廻転生」に関する、「科学的」な研究もとりあげられている。たとえば、イアンスティーヴンソンの、「前世記憶」の研究や、ブライアン・ワイスの、「前世療法」の研究などである。それらは、輪廻転生の存在を「証明」しているとは、もちろん言えないが、少なくとも、そう解することに十分の論理的理由があることは、明らかにしている。

つまり、現代においては、もはや「輪廻転生」を一概に「否定」はできないわけで、それを何と捉えるかはおいても、死を超えて存続する何ものががあり、それが、新たに特定の人物として、「生まれ変わる」という可能性を否定できないのであるだから、それを通して、「自己」や「魂」について、改めて捉え返すことも、現実的な意味において、必要になっているということである

いずれ、こういった問題について、記事で改めて考えようと思うが、もしこの問題に興味を持ってもらえるなら、この本ぐらいは、是非読んでおいてもらいたいと思う。

もう一つ、最近出ている本で、「前世記憶」に関わる、興味深いものがある。それは、池川明著『子どもは親を選んで生まれてくる』(中経の文庫)という本で、著者は、産婦人科医である。初め、「胎内記憶」に関する研究をしていたが、その中に、「前世記憶」や、生まれ変わる直前の、霊界での「中間世記憶」を語る子供たちがいることを、身をもって体験し、その具体的な例を多くとりあげている。

どのような「人生設計」のもとに、どのように「親を選んで」生まれてくるかなど、具体的に語られる子どもの話は、かなり衝撃的なものがある。

先の本では、まだ抽象的な論議に感じられたかもしれないが、こちらは、本当に身近で、身につまされるような話が多いので、より興味を惹くものがあるかもしれない。是非、こちらも参照されたい。

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

これからはここに書き込みます。
なぜ子作りするのだろうと思います。
もしも霊がなければ、
つまり子どもが
もとから産まれてくることを
望んでいなければ子作りする意味はそんなにないとなります。
産まれてきても仕方がないとなると思います。
産まれてくるのは、商品を買うためと他者より情報や特許や力として優位に立ち弱さと強さという力における違いを利用して生き残る弱肉強食の世界で支配的になるか支配されるかのためになると思います。

子どもが望んで産まれてくると確信できないのに子どもを作るとしたら、なぜだろう。

産まれてくる意味は暗闇の中から光を見出すためという考えが浮かぶ

学校やある社会では親を愛するような良いことさえマザコンやファザコンなどといって、見下す。しかし親を無意識的に愛しているからプライドを横に置いて親に従うことができることと、マザコンやファザコンとは違うのではないか。親を子どもが愛するのも家族愛のうち

心に不釣り合いな知識や技術を得ると悪用するのかもしれない。例えば私は妄想のなかで絶対的な力を得たと自分をみなすと、ふと世界征服もできるという考えがよぎった。力や知識、技術、道具には悪魔が潜んでいて、それに打ち勝てる心が必要 それはたぶん愛ではないか

私自身のことで、できていることを言うと、
それは普段から攻撃性をなくしていることだと思う。人に攻撃性がないと言われたので。
それで癒やされるとも言われたので
攻撃性をなくしていく道をたどるとある人には癒やしを感じさせることが無意識にできるようになるのだろう。

ちなみに攻撃性を肯定的に見ると
何かに積極的に関わって変化させる
勇気とみなせる。だから攻撃性を勇気に変えて、勇気を高めていく道を歩むと英雄などになっていくのかもしれない
攻撃性をなくしていくとヒーラーになっていく。ゲームの2つの方向性

私は黒魔術より白魔術を選ぶ。
黒魔術は危険な力で、
霊的な核爆弾みたいなもんで
人類にも個人にもよいカルマはもたらさないと
直感する。個人の進歩を不可能にし悪魔の奴隷になっていく力かもしれないなど危険を感じる。白魔術とみなせる魔術なら進歩を促すと思う。

現代はアーリマンの時代だからアーリマン性に注目した社会学をしたら、何か見えてくるかもしれないなあ

陰謀論があるように見えるのは
見えない世界で、アーリマンが、
互いに反目しあうものの統一原理だからかもしれない。

アーリマン性に注目した社会学をやれば分離し破壊しあうものどうしを裏で統一する原理のようなものが見出されるかもしれない。その統一原理がアーリマンの外的な表現で、アーリマンは集合的に人びとに働きかけるというイメージが正しければだけど。このため、様々な地域現象を取り扱って地球規模の社会学ができたらいいのかもしれない

何気に幽体離脱はオカルト用語混じっている

眠るときに体から別の体が抜け出すような体験をしました。ただ完全にはぬけ切れてないので、脚だけ出たみたいな感覚でした

イスラム国から学べることと言えば西洋文明の拒否の姿勢だと思う

シュタイナーによると、いつか東洋が西洋文明を拒否し始めるらしいのです イスラム国はそのさきがけかもしれない

純粋な思いであればあるほど
宇宙の奥まで届き全ての人の基盤になるのかもしれない。遠くまで届くとも言える。
純粋な祈りは宇宙を動かす

イスラム国のテロによる分離がムスリムのハグにより再び結びつけられた。悪には善だとしたら、分離には結合ってことだろう

生まれてくる意味は他にも
自由になり、自分に基づいて生活するがあると思う。

どんな能力をつけるのがよいか考えた。
結局、自分の好きなことは思考だから、
思考を深めていくことになるはず

概念的思考は現在ネタ尽きた感がある。
次にやれることは身の回りの鉱物段階にある存在たちを植物化させてみることである。
例えば家だが、植物化させると、樹木を接ぎ木して骨格を作る。カーテンなども植物的であり骨格に接ぎ木して使う。暗くなればそれに反応してカーテンは閉まり蕾のようになり、光が来ると花のように開く

動物的な家は歩き回ったり、泳いだり、空を飛んだりして、居住者の出したゴミを排泄する時には動物的家の魂に操られたファンネルのような働き家に特定の場所に排泄させる。居住者を中に取り込み、居住者から流出する感情を食べる。

心に不釣り合いな技術や知識の具体例は、時を超える技術をいじめに使うなど。
これは文法が間違ってる感さえあるように思う。だからホワイトロッジの生命の技術も
今の人類では文法を誤るので
公開されないのだろう。
だから技術や知識の基盤は道徳であるべきというのは全うな理想だと感じる。

この感覚を応用したら技術倫理学などになっていくのだろう。
そして倫理学を言語化したら、道徳の統語論とでも言えるような感覚になる。
道徳感覚が鋭い人は言語の上の学問の上のさらに上で学問を正しく記述できるようになるのだろう。

隠された知識が開示されるのは
人間に対する時や実験をするときなどに宗教感覚が蘇ってきたときかもしれない。
もし生命や心、人間の自我やそれから生まれ出た技術というものが
本来霊的なものならば人類がそれらに対する宗教感覚を蘇らせたときだけに、それらを軽んじることなく正しく応用できるようになるのではないか。

動物的な光は認識を与えるなど、これまでの光の機能や法則から逸脱して自分を表現する色や形をもって周囲を照らす生きた光 光の中で生きることができる存在 人間的な光は光で思考し、光を自由に操作する

罵詈雑言は心を汚すものであるなら、表現の自由で何でもありにしたらダメなのかもしれない。
表現にも身嗜みが必要であり、表現は他者の中に入っていくものだから、排泄物をつけたまま他者の中に入れるのは衛生法に反するという考え

毒を抜いて喋るのが正しいのかもしれない。
でないと毒を他者に盛ることになる。
でも具体的には、毒をもってかえって場がよくなる状況も考えられ、毒をもって毒を制するではないが、毒が薬になるのも考えられる。
だから毒舌は技術者次第で、間違うとただの毒である。

たぶん否定したいだけみたいな、
破壊目的の毒舌は身体に毒ではないが、心に言葉の毒を盛ることなのでやってはいけないことだと思う そして真理のために毒舌を使うのではなく真理のためと重ねて心の破壊目的を伴った毒舌も正しくないのかもしれない

鉱物的人間や植物的人間は人それぞれが自由にイメージしていい。想像の世界なんで押し付けはない。真理が一つなのは、哲学的な原理としての真理なら、絶対的な一つの真理があるかもしれないがそれは様々な表現がありうるので一つの表現を全てに押し付けると破壊になる。これを人工的なものに応用して、ある勢力の打ち立てたルールが全ての基準として他の勢力の真理を破壊しないように調和を考えるという路線に。

鉱物的な人間は男も女もなく女性的男性的な美しさが調和した姿なのかもしれない。
漫画に既に鉱物的人間を描いてるのがあった。

植物的人間の衣服は自分の体を成長させて作る。自分の体の一部に色彩や模様、繊維の力を集中させて衣服や商品を作る。鉱物的人間に死などなかったが植物的人間には枯れるという現象が生じてくるが次に成長してくる植物的人間は枯れたそれらの全経験と記憶を受け継ぐ。植物的人間は花弁の髪をもつ薔薇や桜のような人間、大樹のような人間などがいて、一つの魂が複数の体をもっている。

動物の人間化した存在は美や愛を食べて生きるようになり、それぞれの種族の鳴き声が複雑になり多様になったような言語を話して猫耳などの耳や角、翼を持ち、尻尾のある種族もいる。交尾はせずに、神聖な芸術の一つとして子どもがそれぞれの創造力の協同として生み出される

芸術が経験や世界観を素材にして制作することを考えると、学問や宗教を芸術の基礎にすることができる。芸術は世界観の応用と考えられる。

私のファンタジーはまだまだで、なぜなら、ファンタジーの背後にある法則まで想像してないし、人格の経験が浅いから。

芸術は思考で分析したら破壊してしまうかもしれない。かといって精神性が大事だと思う。なので精神を心が把握できるように感性的な知覚内容を精神の形態にしたらいいと思う

想像は他にある理念があってそれをどう表現するかなど。

キリストが隣人愛をテーマにするなら隣人愛の動きの全てを抜き出して最後に自己犠牲による復活で締めくくる 隣人愛という理念体系を物語として総合している。新約のキリストの活動は理念を全体の活動で表現し、活動全体が理念の動態をなしている。物語を理念に沿って書くならそれぞれの個性は理念の活動の全体を動態としてもつようにしたら、全体を把握し知覚したときに理念が心で受け取られるようになると思う

死を感じる。心が死を感受する。風の中に音の中に車の中に建物の中に沈黙と平静の中に死の元素が宿っている。この死は美でもある。この死は私に立ち向かってこず、ただ佇み、感受されるだけなので、まだ恐怖と不安になってはいない

弱さにつけ込むのはやってはいけないことで、
でも政治が国民の弱さにつけ込んでるところがあるんじゃないか、それは学校のあるグループが一人をいじめるより大規模に、政府という大グループが国民規模に対してやってる不正で、現実とはこんなものかと思ってたら、羽のようなものがはらはらと舞い散る枯れ葉のように降ってきて消えていった。勘違いでなければ天使が反応してくれたのかもしれない。

たとえ減税されてもひそかに別の部分の負担を増やす計画のうちにあることも考えられ、流通で商品が安くなっても後で増税されてしまう

私の思考活動をティエムさんが褒めてくれたが
この能力はしょせん、直観も含めて真似可能で、しかも後付け的能力に過ぎなく、その他の能力や才能は人よりないと思う

能力は経験から得られる。またやりたいことも経験から得られる。認識も経験から得られる。
新しい経験領域を経験すれば新しい認識と能力獲得の可能性が開ける。子どものころは自分から素質才能を取り出すが次は経験から取り出していくという なので自分のもとからある素質才能が後付け能力の基盤になる。

差別主義者、攻撃主義者は、自分でそれを認めているのだから、それが彼らの法で認めているから、彼ら自身に対してもそれを返してよいという論理だと、実際にそれを実行することにより、彼らの仲間入りを果たす。つまり実行者自身が差別や攻撃をする世界観を認めて、自身が加わることにより、その地獄のような現実が拡大する。だから悪には善で返し悪の勢力ではなく、善の勢力を拡大するようにすべきという考えもある。これがキリスト教の悪には善で返すという知恵なのだろう

個人を憎むのではなく、個人の中の悪を憎む。すると、自分の中の悪も憎まれることになる。悪に悪で返しても全体として、悪の世界観は保持され、悪の一元論の中で生きることになる。だから悪には善で返すことで善が悪に対立する。つまり、悪に悪で返しても何も対立してないのである。それは結局、同じ心の根拠から飛び出してきたものなのである。

どんな人や国が生き残っていようと悪を根拠としているなら同じことなのかもしれない。
戦争でも善で返して生き残るのが理想的

私は陰性症状が出てるから意欲がないのだろうと思う

光を生み出す太陽存在がいて、その光が空間に当たると反射して色彩と形を生み出す。太陽光そのものとしての神と、反射光としての神、さらに色彩と形としての神がいるとする。つまり、光が反射して生み出す色彩や形が天使なのである。魔法のライトは光を当てて様々な形や色を持つ動物的な光を生み出して、駆け抜けていく

番組のアイデア

探求していって徐々に知識と、その体系を作っていく番組

例えば全ての仕事の関係を探り全体像を掴んでいこうとする番組や様々な職業の具体的なコツを掴んでいって、それをまとめるなど

また、お笑いを提供するだけでなく笑わせる方法や仕組みを教えて見ている人が笑いの技能を応用できるような番組、だが、いじめなどに応用されないような配慮も

取材できることを利用して番組でも何か一般的な知識を提供できるのではないか。そしてその研究結果を少しずつ発表して最後にまとめる

テレビは主に個人に焦点をあてた内容だったり、時事などと個別的な内容を提供しているように思う。一般的な知識を担う作品は学問や本でテレビは個別的なところがある。
でも学者が取りかかるのが難しい領域があるなら、テレビの力がそこで役に立ってくるのではないか。

真似できない技能を得るには

光や炎といったものはほとんど誰もが知りうるものであり、それを概念的に直観しても、その直観を提供してしまえばすぐに同じような直観を感受できるようになり、簡単に真似されてしまう。

そういう一般的な経験の直観はほとんどの人に浸透しているので、誰にでも真似できる、というわけである。だから特殊な経験を集めていくと真似できない技能を得ることができるようになるのだろう。つまり、多くの他者とは共有不可能な他者から分離した経験を蓄えていくと人には真似できない、理解されないものを獲得できるようになると思う。そして一応、一般的な事柄であっても洞察力があれば一般には気付かれない発想を獲得していけるのだろう。それが哲学なのだろう。だが、その洞察の結果を他者に教えると、その洞察の観点まで他者に渡すことになる。なぜなら、それが原理として全体を開示するから

特殊な経験、個別的な経験から得られる能力が自分を独自なものにするが、総合的世界観はそれらを自分の中に位置付ける 

シュタイナー的にも、地上で唯一の真実は死らしい 私的には地上のあらゆるものは鉱物的であり、鉱物は死なないが、それでも死だと思う。この地上の真理を包括するものとしてゴルゴタの秘技があるとか。

だから包括的理論は3つあることになる。
あらゆるものを意味する最小で最大の本質と
あらゆるもの一つ一つの本質と、ゴルゴタの秘技

この宇宙の内容ははるかな過去に考えだされたものが現実化したものだという。芸術家が作品を作る前に生み出すイメージは世界に残り続け進化して、やがてはるかな未来に現れてくるのかもしれない。だからサブカルチャーのイメージだって遠い未来には現実化している可能性がある。仕事だって霊化活動なのではるかな未来に仕事に霊が宿り生きるようになってくるのかもしれない

私には思考障害があるように思う。
現実を思考で把握できない時がある。
だから人には考えなしで行為していると思われるが、考えるというより解釈なし、直観なしという感覚ではないかと思う。
概念が全ての知覚内容に降りていかない。
だから同じ過ちを繰り返してしまう。
例えば服の値段を予想することができない。
なぜなら服の中の値段予想と関係する概念を見いだせないからだと思う。
これらの症状は、私が大ざっぱな性格で通してきてそれが行き過ぎた結果だと思う。他の人は直感で対処できる、つまり知恵を体得しているのに、私はいちいち考えないといけない。

些細な日常まで思考を降ろせる繊細さが私には欠如しているが、微細なところまで目に行きすぎると、どうでもよいことにまで批判の目がいく行き過ぎた几帳面になると思う。つまり私は普遍性中心で、他のある人は個別性中心と表現できると思う。そして役に立つ思考ができて、有能だと思われやすい思考は個別性中心の方だろう。こういう人が哲学をやれば普遍性を獲得してさらに有能になれるだろうが、哲学を役に立たないと思っているからやらない人が多いだろう

思考障害だと思う理由は失敗だと注意された現実にパッと概念を降ろして、それの対処方法を考え出すことがその場でできない。
あとからの反省ならできると思うが。
これはもともと交通ルールのような知恵の常識が私に欠如していて、そのルールの概念を現実にまで降ろしてないことから発生する失敗で、だから交通ルールを無視するように、自分の体を猪突猛進に動かしてしまうのである。

地球儀の中に一定間隔で広範囲の円が並び、それに重なるようにより小さな円が一定間隔で並ぶというイメージ

同性愛は内面と肉体の性別が不一致で、内面にとっての異性が肉体にとっての同性になってる場合と、そういう肉体レベルの同性の中の魂レベルの異性を愛するという異性愛ではなく、完全な同性愛というのは同じ血を持つ家族が結びつくような結びつきとも違う気がして謎

大学の学費が将来値上げされるようである。
大学の質が底上げされるわけでないので行きたがらない人が出てくるかもしれない。

生きた知恵である真理を会得したいなら大学以外にも道はある。
つまり真理は金を払えば手に入るものではないので、貧乏人にも開かれている

植物的彫刻は植物を改造して彫刻的な精神の形態を成長して取るようにすること
動物的彫刻は動物の形態をさらに調和的、精神的な善なる形態にすることで、だから神の知恵と神の判断に基づく
植物的絵画は植物を改造して絵画的な精神の形態を取るように成長展開、開花させること

動物的絵画は枠が限定された宇宙生成であり、絶えず色彩がある形をとって精神の形態を取っては溶解し別の形態を取り、一つの絵画で様々な理念が生成され感情をも持っている。

植物的音楽はある理念を種として絶えず違う音楽がバラバラでありながら調和的に生成する
動物的音楽はもはや音楽が様々な理念をもって様々に生成しながら生活する

人間的音楽は音楽が音楽を喋る

自我が血流に関係するという。
だったら血液型が自我に作用して血液型で性格が変わるように見えるのは本当かもしれない。

運動をすることで血管が成長して
血管における特殊性個別性を身体レベルで増やしていける。これにより、自分自分という概念が繊細で微妙なものになる。
胆汁質は血管が繊細で微妙で全身の筋肉に張り巡らされていて、多血質は神経がそうなのかもしれない。

思考は概念的思考と霊的思考で全体を獲得する。意志の全体は意志が全ての分野の活動と努力に向かうものなのかもしれない

この時代に霊学が必要な理由は、霊学を学ぶと魂が改造される。霊的内容に知性が浸透し、来世で優れた魂を手にするかも。おそらく霊的なものに対する美的感受性を持った魂になる。この美的感受性を持った魂の人生でさらに霊学を学び霊的内容に知性と感情を浸透させる。霊的内容の芸術性が生命霊を改造する。そして次の人生で霊が刻印された意志を持った魂になる流れ

人間は自由な存在として悪魔に属しているが、愛に目覚めると自由の天使になるのかもしれない。悪魔が自らの状態を基盤にして聖なるものへと進化する そして悪魔という名前がある徳性の代名詞となる

神の属性は愛で、愛は創造原理でもある。愛は自分自身を使って子を生み出す。だから愛に生きることができる人は神から生まれ神に属すると表現できると思う。人間は悪ができるように自由になった時点で悪魔に属するとも言える。今度は自分の悪魔性に愛を目覚めさせることで悪魔性全体を聖なるものにできるのかもしれない。

悪を仮面ライダー2号のように、善2号とでも呼べる二番目の善に進化させることができないだろうか。

鉱物人間、植物人間、動物人間、人間は、それぞれが聖なるある完成したものとして想像されたなら、理想の4つのタイプになると思う

心のエネルギーが不足していたら、当たり前のことでも億劫になってくるのかもしれない。
美は心に養分を与えるらしい

病気になったり状況が悪くなるほどその人にとっての普通は、そんな状況でない人にとっての普通より比較的ささいなことになるという相対的普通というアイデア だから病気の人は働くだけで凄いことなのかもしれない 光と闇と相対的幸福などの応用 だから才能がない人が頑張って生きることは凄いことであり、才能のある人が高みに達するのも凄いこと

現代思想、それも日本現代思想よりは
まだ人智学をやりたい気分。
ディスクロニアが黒魔術的な人向けらしいけど、私はそこを重く受け止めるべきでなかったと反省する。
思想自身の楽しみもあるが応用していくのも楽しもうと思う。応用はある意味詩的になる。 なぜならあるものを全く新しい関係の中に結びつけるのだから。この言葉と言葉の関係は詩の面白さの一部だと思う。
私は開かれているのが理想だという立場なのだが、なぜならノヴァーリスに共感するから。存在の謎が図形や記号で解き明かされるのではなく、学者ではなく、歌ったり口づけしたりする、人のよい普通の愉快な市民に最高の認識が宿るという理想。つまりブルジョアな学問がロマン化される。
思想をやりたい人は自由にめいめい勝手にやればよいと思う。対立していてもロマン以外の理想も保存しようと思う。気楽な面白い不真面目な思想というのも理想だが、厳格で真面目な面白さなど欲望の充足感を超越した格式高い、人生の意義をかけるような思想も理想だと思うので。鉱物人間や植物人間のように、互いに到達点は違うが理想的なのがあるのかもしれない。この私の理想である面白さの超越が思想をブルジョア的にしてしまうかもしれないのもある。面白さの超越を目指したら、結局思想自身に即した面白さが炙り出されてくると思っている。

役に立たない思想は自足的に自らの力で自らを養うとか、どこか地上のものとは無関係な永遠性を感じさせる。
役に立つ思想は泥水の中にまで潜り込みそのような土ぼこりに永遠性の装いを与えながら、それらを自分の力にしていくというイメージ

性格がある感覚器官に現れることがあると思う。例えば細かい人は味覚が細かく、不味いものは拒否しがちになる。
しかしおおざっぱな人は味覚もおおざっぱで不味いものまで受け入れられる。その代わりに味覚の認識能力が細かい人よりはないのかもしれない。

性格というエーテル体の組織の一部が肉体に作用しているのも考えられる。
このようにして、人物を想像する際に性格や理念を感覚器官、身体組織の個性に現れさせるという方法が取れるかもしれない

絵画では大地と肌の色を合わせて、毛と植物の色を合わせて人間を小さい地球として表現することができる

シュタイナーは核エネルギーに気づいていたが
インターネットにも、インターネットの時代を通り過ぎたはるか未来のインターネットの進化した姿として、インターネットを予言している。そのインターネットの成れの果ての姿は醜悪で、地球が月と融合したころに出現するという。詳しく説明できないが、インターネットの内的な本質は闇に属するのかもしれない。影のような知性をどうにかしなければならないのだろう

日本は滅ぶらしい。
国は滅んでも人間は滅びないだろう。
新しい国ができるのだろうか。
それとも他国に属する民族になるのだろうか。
日本が滅んだその先が気になる。

国は真理より小さなものなので、
国が教育を支配するべきでないと思う

交通ルールは外的な印が行為を安全にするために規定するが、その交通ルールが現在でも有効な常識に置き換えると車ではなく人間自身の行為をよいものとするためにその動きを規定する。例えばまな板の上に汚いものを乗せるなという常識を体得しておれば、まな板を標識、目印にして、その行為が規定されている。
交通ルールを車ではなく児童に応用して校内での人間の衝突事故を防げるかもしれない。
これらはいろんな目印に細かく気づけないといけないので知覚の細かさと体得が必要で、細かさがある種の有能さの条件となるだろう。

印による規定の網がなければ猪突猛進、不合理に動いているとみなせると思う。

つぶさに意識するとも言える。このつぶさな意識は、交通ルールのように、後から獲得できるものと、味覚のように後から獲得できるかもしれないものなどがある。

私は直観的洞察を育成してきたが、直接的な有能さにはつながらなかったと思う。大らかさの極にいたからなのもある。でも打たれ弱いなどの繊細なところもあるけど。


人との差を感じると悩むときもあるが、
実はその差を埋めようとは思わない。
つまり、相手の所有は自分の目的ではない。
自分の目的を見つけることが先かもしれない。
目的を見るためには経験が必要になる。
私の第一のムーンノードの目的、すなわち普遍的原理を得ることは果たされた。
次の目的は次のムーンノードで得ることができるだろうがまだまだ時間はある。
その間まで、どうなるのやら。

人付き合いは合掌のようだ。
ある人に自分を合わせたり
ある人が自分に合わせたりする。
合わせることで自分の限界、経験を超えた何かを会得することができるかもしれない。
例えばしきたりの行をやってみるなど。
ということは、合わせるのは左手と右手のように別々の異質な者同士が出会った時にあわせあいをしたら互いに得るものがあると思う。

両方が互いに自立していること。自分自身に属していることで、左手と右手は互いに異質なものになる。自分自身に属するということは、他者に合わせないこともできるということでもある。もしかしたら友達以前の他人どうしの基本的な人間関係の条件の一つは互いに自由であることかもしれない。そうでなければ、奴隷や僕、従者になってしまうだろう。他人どうしでさえ互いに自由であることが求められ、友人はその中に含まれる。私の学校には弱い奴は俺に逆らうなみたいな人がいた。いじめやスクールカーストによるいじめなどはあるべき人間関係ではないと思う。

横のつながりと縦のつながりを構築できるようなクラスだと、全方位からお互いに学びあえると思う。異年齢クラス、同年齢クラスを混ぜ合わせて、同年齢の集団もいるし年下や年上の集団もいるようなクラス

しきたりの一つである瞑想などの行

合掌や拍手、歩くなど2つがあって調和的に音楽的にできることがある。
人付き合いはある人の生活の中に入ることの他に、そのような新しい生活を創造できるのが理想かもしれない。いろんな人と出会うたびに絶えず両者の感応から新しいものが生み出されて、付き合う人を変えたら、また新しいものが生み出される。

人間はミクロコスモスだと言う。人間は様々な宇宙の力の協力で動いているという。
筋肉も多数の筋肉が協力する。
人間どうしの場合は手と手があわさり拍手になるように様々な人間との組み合わせで様々な感応が誕生したらよいのに。その動きの根拠は筋肉のように外的なものにあるのでなく、それぞれの個人の中にあるような。

完全に自分だけの力で動けるようになるには霊が成長しないと無理だろう。

個人と個人の間で形成される創造的人間関係。
これの一つに相手に未知なものを渡して自分にも未知なものを渡してもらうなどがあるだろうか kanさんの真のコミュニケーションという話に戻る

宝石は火の固体化したもので、内側に輝く火を秘めており、水は液体による宝石の表現、液体的な宝石が水で、液体化した火が水とも言える。

光が円の中で色彩の次第に移り変わる体系を描けるように、色彩は神の形態であり、色彩が次第に変わっていき、円を描いて、再びもとの色彩に戻る間に、形態もそれに対応して形態を変えていくイメージ

学識以外の道として経験の道と想像の道があると思う。経験の道は例えば現在の空の状況を見て天気を予想したり薬草などの知恵で、おばあちゃんの知恵などで、豊かな経験則を蓄えることだと思う。昔はその豊かな経験則の道、あるいは想像の道を取るしかない人もいただろうが、現在は本で蓄えることもできる。

人間は人間と動物や植物、鉱物の犠牲の上に生きている。

いただきますというのは、動物目線に立って、食べるのは当たり前のことだとするのでなく、
人間は動物にとって当たり前の犠牲に対してでも、感謝できる徳をもっているのだという考え

雲は形が変幻自在なところが精神性だと思う
空は光と雲を使って何かを描く

法は人間とそれ以外にわけて、それ以外は鉱物として扱ってはいないだろうか。
人間と動物、植物、鉱物にわけて、それぞれとして扱うべきかもしれない。
例えば動物は人間に愛される権利を持つというのはどうだろう。たぶん既にあるだろうけど。また、鉱物のように、つまり動物を物みたいな商品と同じようには扱ってはいけないなど

シャンティフーラのブログ見たが、
確かに人間が他の人間より200倍、300倍も働けるわけでないのに、莫大な格差があるのはおかしいように思う。格差を肯定して正しい格差を考えるなら自分の労働における格差から賃金の格差が生じるのが正しい格差ではないか。でも実際、人より200倍300倍の働きをするのが無理なら、現在の格差は正しい格差ではないのだろう。

カルマは行為によって改造された環境の中で暮らすとも言えそう。行為すると、その能動が記憶され、自分がその能動を受けるようになる。つまり、来世は自分が行為した相手の立場になるとも言えそう。
例えば暴力をふるうとそのように運命が改造され、相手の立場のように暴力を受けるようになる。

手の中に全身がある気がする。そして全身を一つの口にして、一つの手あるいは全身で思考を表すような運動を考えらないだろうか。
そうしたら身体に精神性を宿らせられると思う。

カルマによって自分の行為が記憶され、来世でその行為を受ける立場になるということ。
だから、キリストの言うように自分のして欲しいことを相手にもするとそれがカルマによって、来世ではしてほしいことをしてもらえる立場になるのだろう。

もしかしたら奴隷商人や奴隷の主人は来世では奴隷のような扱いを受けるのかもしれない。反対に奴隷だったものは主人の立場の人生を歩むようになるのかもしれない。もちろん、奴隷のつらさを知る魂が奴隷を雇うとは限らないので、その後の運命は同じではなくなりうるだろう

変身もののアイデアとして、ロゴスライダーを考えた。それは体得した理念の力を、自我の内側から外部へと働かせて、身体にその理念を表現する姿と能力を持たせたライダーであり、体得した理念によって様々なライダーに変身できる。

どうやらヨーガを遂行したらアーリマンとルシファーと闘わざるをえないようです。
この両者を打ち負かせるのはキリストだそうです。

統合失調症とも関係あると思います。

サブカルチャーは
現実の束縛を抜け出しているところがよいと思う。つまり自由だ。もちろんサブカルチャー自体が現実の一部ではあるけど。

サブカルチャーからは理想などが学べると思う。
理想は霊的なものである。
そしてサブカルチャーは詩的、哲学的な原理を応用して魅力を醸し出しているのもある。

例えば変身という詩的原理を応用する番組やゲームはけっこうある。
変身とは潜在的なものの封印を解いて一時的に顕在化させたときに姿が変わることなど。

ゲームからは、進化という理想なども摂取できる。

私はよくゲームをしていたが、ゲームから、様々な想像物や理想、概念的なものや独特の音楽を摂取していたと振り返るので、あれはあれでよかったと思う。哲学や芸術などのメインカルチャーのように、やったからといって目に見える形で成果が浮かぶものでないのがあるのかもしれない。
サブカルチャーも全否定できない。

哲学や詩は虚構世界の原理になることができるのだろう。虚構世界の原理を唯物的世界観から逸脱させようとしたら、オカルト的世界観になり、魔法などが採用されるのではないか。魔法が根源的法則となる。
もしかしたら虚構世界はオカルトからしたら、かつての法則、あるいは未来の法則を表現できる世界かもしれない。だが、人間や意識がかつてや未来のものでないので、この唯物世界の意識がその世界に入ることになり、それが虚構の中の現実性に思われるのかもしれない。

魔法があるという世界観だと、言葉が自然を動かす力を持つようになる。
というか、自然法則とは言葉を意味するととれる。
この世界観の人間は口で自然法則を支配できるのだろう。人間の思考器官は自然法則が生まれ出る泉である。

言葉が法則の世界の生物の細胞分裂は、細胞核の中にある詩が関わる。細胞の中の詩が細胞分裂のきっかけとなり、周囲から、様々な言葉を取り込んでいくことで、生物は様々な形状になる

どうやらコードロジーは
サビアン占星術の流れを汲むらしい。
未来予測をするための方法の一つとして
これらのものがあると思う。
未来予測は困難だから外れても仕方ないが、それでも未来予測をしたいなら、これを参考にするのもありかなくらいに思っています

私には言葉に従えないなどの欠点がいろいろあり落ち込むが、短所は長所という言葉を忘れていた。
もしかしたら、欠点のことごとくを実は良いものであると反転できるかもしれないのだ。

私は夢をよくみるタイプである。
夢は毎日違うが、前の夢を別の角度から見た発展的な夢を見ることがある。
もしかしたら、夢にも全体があるのかもしれない。部分という場所があるから、その場所に戻って別の角度から見た夢が可能となると思う。

金になる能力だけが
有能とみなすのが間違いなのかもしれない。

金になるということは、多くの人びとの需要があるってことだが、それは多数に及ぶから、それだけ無個性な商品だと思う。特定の人びとにしか需要がないような個性ある商品という観点もありうると思う。

今無価値だとか評価されてない仕事は、未来に価値あるものを生むための準備、種なのかもしれない。

植物は種として鉱物のような形態をとる。
地上の死んだ灰色は未来に咲く種なのかもしれない

個性原理が物語を生むために、他の個性原理と関わる。だから母星の一員となり、民族の一員となり、同じ言葉を話す一員となり、家族の一員となる。また同じクラスメートになるなど、同じクラス、同じ類に属することで物語が発生すると言える

個性原理を作るためには思想、心、生命、身体のそれぞれの包括的動態を想像する。また、いろんな単語を擬人化して包括的動態を想像する。
人を逆に自然にたとえることもできる。
例えばうるおぼえだが、良寛さんの詩で、
表を見せて裏を見せての散るもみじ、など
これを情景描写に利用できるかもしれない

天才は輪廻があるとしたら、将来的に誰もが天才に近づけると思う。
天才は輪廻を多く生きた魂なのかもしれないのだ。

だから凡才は腐らずにある経験を蓄えていけばいつか天才になれる。

私は突出した能力はないが、総合的に見て天才みたいな天才に共感する。一般人が進化して普遍人になるというイメージである。
こういう天才は自分のあらゆる能力を連繋させることで真価を発揮するのではないか。

人間の活動全体は日常生活、学問芸術宗教スポーツ、政治活動、経済活動の仕事などだと思う。

人にされて嫌なことはするなは私は正しいもののように感じる。こういう問題は論理をこねくり回すべきではなく、感じるべき問題のように思う。道徳のような血の通った人間的問題は、物質的知性で考えると人間性を殺し、道徳文を傷つけるもののように思う。

人に対して理屈では正しい言葉を話すことができても、その理屈が正しい故に、かえって
人を攻め立てるような感じになると思う。
言葉で攻め立てているように感じる。
言葉を利用して操作しようとする人など。
こういう人はうまく知性を使えているようでいて、まだまだ知性をうまく扱えてないのかもしれない。

知性は鋭く、心を傷つける。
知性を振り回すと危ない。

子どもの頃に、明日も明後日も息するだろうと予言していたが、あれは今になって、法則性を意識化したってことだ。
明日も明後日も心臓は動くという不思議

男の顔をソース、醤油、塩などと分類するときがあるが、それを拡大解釈したら、人の見た目は料理とのアナロジーなのかもしれない。

私の感覚ではどんなに善の側に立っても美しくないやり方といえばよいのか、やり方によっては反感を買っても仕方ないだろうというやり方があると思う。

善は悪に破壊で対応しないとか、悪に対して自分は善だとも威張らないやり方があればよいと思う。たぶんある選択をしたらこんな運命をたどるであろうという知恵があればそれを教えるだけでいいのかもしれない。
そんな知恵はなかなか手に入らないけど
などと考えてみました。
叡智や人生の知恵が忘れ去られた時代だから
それぞれの手探りで生きるしかないのだろうか

熱血教師を嫌いな人もいると思うが、私は熱意をもつこと自体は正しいことだと思う。その人は後はその熱意をどう表現するかという方法の探求を、経験を通して深めていくのだと思う。
正義感や愛についても、その方法が未熟であることで批判を受けうる、ひどい場合だと、自衛隊などは正義感が強いということでいじめを受けるらしいが、方法が未熟であっても、正義感や愛をもつこと自体はむしろ正しいことではないだろうか?

善は悪にも謙虚であるべきではないか?
って考え

悪が大迷惑を起こしてるから、神的な観点からすれば愚かなことであり、滅ぼされる対象かもしれないが人間は悪だからといって、悪に対して暴言を言っていいのだろうか。
本当は悪に対して破壊で対応するのではなく建設や、悪の善への変換を試みるのが理想ではある。

ちまたでは悪に対して滅べ!滅べ!と呪っているのである。呪いは黒魔術ではないか。それは正義感の発露かもしれないが、人間がそれをやってよいのか疑問

今は悪しき唯物論が頂点に立っているから、善を無視したもんが勝ちな世界になり武器商人などがいる。神がいない世界観で人類の上に立つものは支配するために知性を使う輩たちである。神を信じていてもイスラム国が生じてしまう。これも支配するために知性を使うものたちだろう。


悪に対して破壊や呪いで対応しなかったら、
善は負けるしかないかもしれない。
善は負ける余裕があるのである。
また、純粋な善、つまり相対的でない善、相対的な光ではない光で悪に対すると、物質的には負けるが、思いの世界では悪に対する絶対的な対抗手段になっていると思う。純粋な善を貫くことで、自分が悪に染まらずに、悪に対して善として絶対的に対立できる。

思いの世界があるなら、善は幻想の物質的世界で勝とうとせず、目に見えない世界で勝とうとしたらいいのかもしれない。悪が物質的なものによるなら、思いの世界では善がもともと強い。思いの世界で善を強くすることで、物質的な世界の悪に作用させて対抗する。悪に悪で対応すると思いの世界で悪は強くなって、地上に作用してしまう。

私は生殖行為をしたことがないが、
変わりにムーンノードの
時期に、感謝による博愛の至福の意志、
人生の意味のようなものを体験できたので、
生殖行為による快楽ではない、
別種の持続性のある快楽体験をしたから、
生殖行為の経験がないままでもいいかなと思う。

これは古くからあるが見過ごされてた青春的体験だと思う。

この体験は不幸を経験して周りに対して心から感謝できたらいいのかもしれない。

つまり、俗に言う充実した人びとだけが人生を充実するための道を歩んでいるわけではないのだろう。

秘技参入者が真のエリートだが、彼らは修行を通してあらゆる苦痛を体験し、しかも民族を導くとなると、民族のカルマを背負うことになる。だからエリートの条件には苦痛体験があり、これは今のエリートには欠けているのではないだろうか。苦痛が叡智を形成することもある。個人的意見だけど受験勉強から得られる苦痛は、イニシエーションとして成り立つかもしれないが、受験勉強なんてものがイニシエーションになってしまっているのは不幸なことだと思う。子ども時代にこそ内的な知恵で心を潤すべきなはずなのに、フローチャートで表現されてしまうような機械的な知識ばかりを頭に押し付けて、心の健康にも悪い気がする

受験による苦痛もある種の苦痛だが
受験と大学をイニシエーションとするならば、それ以外にもイニシエーション、災害など苦痛の体験の軌跡はある。
みんなそれぞれに苦しみはあるが、
エリートは受験勉強の苦しみだけでなく、あらゆる苦しみを経験しとくべきだと思う。正義感を燃え立たせるような親切な悪の不条理や侮辱されること、エリートというよりむしろ選ばれない、欲しいものが与えられない、負けるなど俗に充実してない人生と呼ばれる人生の負の側面の経験がかえって充実した人生を歩めるだろう真のエリートへとつながってくるのだと思う。


だから、本当は充実してない負の人生ばかり歩んできた人は来世では本当のエリートになれるかもしれないので、俗に言う充実してない人生の人びとは来世でその経験がみのり、充実した活躍できる人生になるかもしれないのである。

非リアは幸いであるリア充になるであろう

天才は前世という下積み時代の結果であり、同様に非リアはリアの下積みかもしれないのだ。

シュタイナーは性格を気質で四つに分類する。
東洋医学では体癖という分類の仕方をする。

私は部屋を片付けるのが苦手であり、思考もある人に言葉のサラダと言われた。言葉の整理も苦手なようであり、おおざっぱなところがある。この言葉や部屋の様子、性格にまで現れるおおざっぱの性質は一体何だと思う。このようにいろいろな人もいろんな側面に現れる本質的な性質があるのだろうか。おおざっぱ以外に、細かいという性質の人がいる。他にはどんな本質的性格があるのだろうか。これらは個人的だが、学的価値があると思う。これは実験ではなく直観でえられる心理学で、有機的に生き生きとした知識である。

私は心理学は直観的であるべきだというのに共感する。心理学が化学物質や脳で表現されてしまうのは私の理想ではないので。
化学物質や脳で表現した心理学は心理学を深めるというよりむしろ余計に心理学を外的で灰色の現実に押し殺してしまったように感じる。

今の学問や学校教育に対して反知性になるのは、いくらそれらを学んでもよけいに貧しい現実の背景が積み重なるだけだからではないか

悪に対して純粋な善で対応する、つまり悪には善で返すのに共感するが、不正を破壊して正す、つまり悪の善用にも共感する。

悪の善用と悪に善で返すことどちらも正しいように思う。この二つはどんな場合に正しい行為になるのだろう。悪の善用が正しいなら核燃料は正しいのか、悪に善で返すのが正しいなら、悪を見過ごすのは正しいのか、という具体的な問題にぶち当たる。

悪の善用のつもりが、悪の悪用でしかなく、善で返したつもりが、それが悪を生むこともありうる。正しい行為は行為していくなかで学ぶしかないのかな。死後があれば死後に自分の行為の結果がわかるかもしれない。

おおざっぱなところは、面白いことに、免疫や肌までおおざっぱです。私の知ってる細かい人は薬を飲んだら体調を崩すのに、私は薬を飲み続けても問題なく生活でき、細かい人は肌まで敏感であり、私の肌は鈍感なのか洗剤などにも強く、細かい人よりやけどもしにくい。
おおざっぱな性質が性格を超えて身体的自然にまで現れるように思う。性格心理学と生理学は交差するのかもしれない。

これらは私の仮定です。

体質は性格心理学のアナロジーでも表現できるのかもしれない。

たしか、冥王計画ゼオライマーではロボットを天、雷、月、山、炎、水など自然の属性で表現する。ほかにも風林火山など
既存の気質論や東洋医学の体癖だけでなく、このような対応づけをやろうと思えばできるかもしれない。

相撲取りは山のような人が多いイメージだが、実は自然の属性の性質よくわかってない

私はふとっちょで見た目が美しくないのだが、これは私が消化器体癖で、食べるのが好きという性質をもちながら、静という理念のみをもち、動という理念を体得してないからだと理解することができる。気質論的には、土、水が静で、土は痩せ形、水は食べるのが好きなので太る、空気、炎が動。一応、私にも痩せてた時期はあったから動の理念が支配的な時期がありはしたのだろう。静と動は時期的なものがあるけど、体得もできるだろうか

フローチャート的な知識や死の唯物科学にもそれを好んでやる人がいるように完全否定できない側面のあることを忘れていました。
例えば美しい設計図などがありうると思う

時給自足を考えてみたい

時給自足は植物は土を吸収する。土にも養分が必要。上あるいは下から。上からの養分は植物を食べる虫を土台にした動物の生態系。だから、あえて虫に作物を一部食べてもらう。その糞が土の養分となり、虫がそれの捕食者を呼ぶ

人智学などの霊学は進歩に動物実験を必要としないところがよい。霊学、精神科学は唯物科学の闇を克服できる希望がある

私の生活は一生懸命ではないが、軽身の妙技と言っておく

身体のあらゆる部分は体質という体的性格に貫かれているという理念
これを拡張して自然の内面の把握へ。
つまり同種の自然から性格を直観できないだろうか、つまりある砂漠と別の砂漠の性格の違いが把握できないだろうか。

身体という物質の領域に性格が見られるとしたら、さまざまな自然にもそのような個性が見つからないだろうか。

私は筋肉までおおざっぱと通底するように思える、あまり細かくはない筋肉のつきかたをしているように思う。

これが生命的自然地理学の理念で、
オカルト的には地域にエーテルオーラがあることを深読みしたら得られる理念だろう

哲学の本質が軽みにあるという見解の他に、霊性にあるという見解もある。

たぶん軽みを本質だと感じるのは風の哲学と言えるかもしれない。

哲学についても社会のように本質は一つとは限らず、さまざまな独立した本質を持つ哲学があるってことだろう。そのさまざまな哲学の本質全てを総合できる手段は霊視力だと思う。

事実であっても弱点、欠点をつかれたらきつい。きついのは実際、つかれることで心が窮屈になっているのかもしれない。批判を絶対に許さないという不自由な社会であれば、それもきつい社会だろう。だからやはり許しも必要だと思う。ものすごい悪まで許すべきかは難しい問題だが、大抵の人は、許されてもいいんじゃないか。
欠点などは自分を小人と認識させ、きつくなる。欠点の指摘は自分には欠如があると認識させ心が指摘される前よりも小さく、つまりより物質的になったように感じられる。だからつらい。

私のように、善良な部分を押し出した発言をする人は、善良さは大きなことなのでこれへの反応として、そのような人を小さくしようとするのがありうる。自分の光を押し出す人にその中に闇を探そうとする人が出てきてもおかしくない。

きつい発言も全否定できないのだろう

きつい発言をする人は人生の中で汚れ役を演じているが、甘い発言よりナイフのように扱いが難しいぶんだけ学ぶことが多いのかもしれない。
きつい発言を単に続けるのではなく、
きつい発言をどんどん単に傷つけるものではなく、意味のあるきつい発言、文脈にあうもの趣があるきつさなどとして進化させていけばいいのだろう。

あらゆる職業をこえでていて
あらゆる職業に浸透するようなものを認識
してみたいと思う。
それは企業と経営者を対象とする経営学というより、
仕事そのものと労働者を対象とする仕事学になると思うが、それは個別仕事学から始めて蓄積し普遍的なものにしていくしかないのだろうか。
仕事の全体像を掴みたい
人智学の包括的な世界観と関連づけてみたい


悪の善用ということを言ったら日本政府が核の平和利用法案というのを出してきたし、なくすべきかどうかではなく付け加えるやり方もあるといったら、沖縄にディズニーランド誘致の話が出たので、私の考え方は時代を反映している気がする。

あらゆる仕事を越えでてあらゆる仕事に浸透するもののなかでともにいられるとは、共同体のことで、細分化した仕事の対極。いろんな仕事の人たちを結びつける。そうしないと社会は荒廃するらしい

カルマのイメージは現世の行いが
来世の環境を作るというもので
行うものが、その行いを受けた側に入っていく

夫婦は人によって同性にも別姓にも自由にできるでいいと思う。

管理しやすさは後回しでいいのでは

文法は服を着る場合や、この仕事は似合う、などいろいろな場合の似合うという感覚と似ているのではないか。文法のうちの統語論のこと。ある文章が正しいか正しくないかは、文章の中の要素を交換して確かめる。

哲学の本質は軽みにあるという。
昔の松尾芭蕉論あるいは俳句論でも、うるおぼえだが俳句か松尾芭蕉は軽み、風を特徴とするみたいな話があった

非線形な美と線形的な美

良い種は良い実を悪い種は悪い実を結ぶ
心もそのようにいろんな領域からできている論

ぴったり似合うのは、掛け合わせたものとされたものが一致するような美学ってことだと思うが何か法則でもあるのだろうか

冷えると体が氷のように
固体化に向かうことによって
筋肉が縮こまる。これが血流と交感神経、副交感神経、リンパに作用して頭痛やそれ以外の筋肉の違和感、強迫性症状などさまざまな症状が現象してくると思う。
これを治すには筋肉をつけることだと思う

冷たい空気を鼻から吸っても頭痛になるときがある。冷たい空気を鼻から吸うと冷たさが直接脳の近くの神経に浸透し頭痛になりそうな感覚になって頭痛になる気がする

言葉には単語が数多くある。一つの単語が表すものを感覚的に多くの形で表現することができる。例えば目は目でもいろんな目を表現することができる。もし芸術がある対象のイデアを表現することができるなら、それは感性的な概念であり、これが芸術の概念なのだろう。

芸術の概念は空間的なものだが、これに物語を紡がせたり、一つの概念を別の概念と関係させることにより入り乱れさせることで空間的なものを飛び越える。

曼荼羅を調べたところ曼荼羅の動きに救済を意味するものと神に至るものがあるらしい。

私は曼荼羅を幻視したとき、光から出た動きは光に戻った。もしかしたら、いつか私は光の領域に入り、救われるのかもしれない。

私の金剛界曼荼羅は向下門と向上門が一つになったものとみなせるかも。仏が光から出ていくが再び光に戻る。

向上向下の道という言葉があるらしい。
私が救われる根拠と、さらに私の中で曼荼羅においてこの2つの門が一つになっているのは、
私が知ったことは、すぐさまネット上に晒し伝えることで自分が知ることと他者が知ることが一つになっているからだろう。これまでは一定の段階に達したら教えるように、2つは異なる段階にあった。自分だけが成功のためのアイデアを蓄えるのではなく、自分の成功を捨てるつもりで、面白いアイデアは何でも晒してしまうことで、かえって実存的成功に至るという道を歩んでいるのかもしれない。本当に金になるようなアイデアは自分が儲けるために言わないかもしれないけど。

成功の種をばらまく存在は成功者にはなれないが成功の源泉になっている

何かにとりくむのは魔法の修得を意味するような世界 思考だと広い範囲を考えられるという性格なら効果範囲が広くなる

カレールーを濃過ぎるように作ると、胃の中でなかなか分解されず、腐り、炎症を起こし病院に行くはめになるだろう

職業のカルマと未来ではゲーテの人生が説明されているが、彼も結局は出会いの恩恵を受けたようである。病気がきっかけにもなった。心魂が眠っていたのがイタリア旅行により目覚めたとか。

乾燥した冷たい空気が鼻の奥付近の脳の下部あたりにある神経を刺激して頭痛になると思う。

お金はあったほうがいいというのは、
それが結局は必要な生活に消えてしまうような
普通の人たちには成り立つが
お金がありあまる少数の富豪のような人たちはお金が肥大化して所有欲が脂肪のように膨れ上がっていて、成り立たないと思う。

清貧というのは欲望があまりなく身軽な人の境地が生活に現れたものだと思うが、現代では托鉢をしなくて仕事をするなら、欲望はあまりなくてもお金は欲望に対して多く入ることになり、清貧な生活ではあるが金はある程度もつというのが現実かもしれない。

私は清貧は富豪よりもすぐれた点があると思う。清貧は富豪と対立する力を持つ概念と感じる。
富豪になってもやることは人間レベルであり、富豪だからって神を見ることができたり、人生の意味を知ることができたり、全ての国や民族の行き先や使命がわかるわけでもない。ましてや富豪は民族のカルマを背負うような崇高な存在でもない。
富豪のすぐれた点は金の力とネットワークかな。

ところが富豪でなければ天国に近いのである


簡単に言うと
金持ちになっても幸せになれるとは思わないってこと。金持ちになるなとは言わないけど。金持ちになることが必要な人もいるかもしれないので。
既に聖書のコロサイの書で、王がありとあらゆることは虚しいとしている。
昔では神を求めることが知恵とされたが、
現代風に言えば霊性を求めることが幸せの道ではないだろうか。なぜなら、もし人間の本質が霊だとすれば、肉的なものを求めても虚しいのは当然であり、霊を吸収することで自分自身が満たされることになるのだから。

貧しい良寛さんの場合、日常から詩を見いだした。つまり、創造的な暮らしであり、貧しくても精神性に満ちあふれていたと言えるのではないか。

清貧な暮らし自体が精神性に感じる。
言葉だけで見れば富豪という単語より、
清貧という単語の方が豊かなイメージ

といっても、私も正直に言えば仕事せずにいいだけのお金で好きなことだけして
楽な生活を送りたいとも思う。どちらにも共感するから自分がないとみなされてしまう人は、実はそうではなく、自分が広いのかもしれない。

詩の才能はないが、あらゆる自然の戯れを観察描写して詩に利用したい人などにその情報を提供してみるのもいいかも。

音楽は実際に聞くより思い出しながら自分流にメドレーを作っていけば、人智学の生命的な言葉の連続を読むのと同じような潤いが脳内でほとばしる

人間は動物植物鉱物より進化していて、それらに対して違った感覚を持つから、人間が頂点に立っているように見える。しかし人間は下のものたちより偉いわけではないのだろう。人間は下のものたちに権威を持つわけではないと思う。たぶん神様が謙虚でへりくだっているというキリストの教えのある側面も同じように進化上、上に立つからといって偉いわけではないという感覚なのではないか。

そして下で人間を支えるものたちとも人間は兄弟なのだが、そのくらいの浅ささまでしか感じられない。それらの生きる意味を把握できないので

人間より下のものたちが兄弟だというのは
それらも人間も同じ宇宙生命の兄弟だから

理想学がありうるかもしれない。
様々な理想がどの心魂の領域から生じたものかを考えるような。
清貧の理想は富豪の理想より純粋な心の領域から出たものだと思う。しかしどの心の領域も人間の中に内在しているはずなのでその両方に共感できるはずなのだ。特に、理想というのはどれも良いものだから

コロサイではなくコレヘトでした。

じつは音楽をしているのですが全く楽しくない。ただ音が流れていくだけ。
音楽にも哲学のように驚きがあると思います。
あるメロディーが成立して音楽に聞こえるということは音が詩を綴っていることだと思います。音と音の連なりからなるメロディーは逸脱による驚きだと思います。
ですが、私にとっては、音楽は音苦です。

音楽をたしなめることも理想のうちかもしれないけど、今の私にはそれを目的にはできないみたいだ。

やっぱり私の心魂は眠っているか、怠惰なのかもしれない。生きていても仕方ないと思う。死のうとはしないが

音楽活動で発表会があり、私はそれから逃げ出したいのだ! やってみれば耐えられる自信はあるが、それでも苦痛があることを考えると避けたい。何もない静かな日々を過ごしたいだけなのにめんどうな運命が打ち寄せてくる。

どうせ強制的に発表することになるだろう。
タロットカード占いをネットでしてみたら、肉体や精神の鍛錬の時期にある、という偶然の一致が出た。
イヤだ!イヤだ!と念じながらやるしかないか。
私は音楽活動を愛していないのがわかった。
だから不自由なのだ。

私は使えない存在で配偶者は作れないのだが、自分自身の頼りなさ、弱さのおかげで修行になっているという逆説がある。
弱い人は修行のために生まれてきたのかもしれない。

音楽に対する感受性がないからといって、
音楽の価値を否定しようとは思わない。
これは他の場合にも言えることかも

私は惨めな人生を歩んでいるわりには、人生の神的な不思議をまだまだ体験できるんじゃないかって希望を持つ

発表会の緊張に対して、頑張ろうと念じたら、わずかに心が潤ってきた。
言葉は空虚とばかり思っていたが、そうでもないのか

シャンティフーラによると明日は霊界から光の爆発があり、それが届く日のようです。

何かあるとしたら、夢に現れるだけで、特にめぼしいことは起きないと予想 夢が特別なものであれば元気をもらえたりすると思う。夢は莫大な意志を与えてくれる経験がある。

音楽を聞く意味を考えていた。
その意味は音楽自身から取り出したい。
音楽は様々な世界の雰囲気を作ってくれる。
ある世界の雰囲気に包まれるために音楽を聞くのだと思う。音楽をする意味はある世界の雰囲気作りを学ぶためだろうか。

音楽や芸術から世界をどう表現しているのか、まで学べるのが理想であり、音楽を習う理由は、まだまだ満足できないが、いくらか純粋な理由になったと思う。

あらゆる語学以外の、
感性的な表現手段を持つことは
語学では表現しきれぬものを表現できるようになるだろう。
表現手段が増えて内面を様々に現すことができるようになる。それは哲学でも、道徳観や宇宙、感情など様々なものが言葉以外の切り口で表現されるようになる。

表現手段が言葉以外に芸術が付け加わる

鳥を観察して自分を忘れるという夢を見たが
光の爆発と関係あるだろうか?
やはり私にはほとんど何も起こらなかった

スマホの遠隔操作など技術を悪用する人は愚かな人、偏差値の低い人だろう。なぜなら、ほとんどの人は遠隔操作して覗き見ることはしてはいけないことだとわかっているのに、彼らはわからないからである。

漫画が新しい世界観、
つまりこの現実に虚構を加えた世界観で物語を作るとしたら、世界が現実とは変わるので、
世界法則、根元原理や神の性質まで新しいものになる。だから、新しい世界観の漫画は、神まで新しいものとして想像できるだろう。

シュタイナーの神秘劇がもしかしたらホメロスやファウスト、エンデ、ノヴァーリスと同じく、新しい物語を作る上で参考になるかもしれない。シュタイナーがこの時代には新しいのだと思うなら、この劇だって新しい刺激を与えてくれる可能性がある。私はまだ読んだことがないので予想だけど。

芸術は素晴らしい世界の雰囲気や一部をその形式で保存したものなのかもしれない。
芸術の形式で保存し表現したくなるような体験があるのかもしれない。それが再現されることでその体験を追体験できるような。

批判することで批判しかえされるがそれにより些細ではあるが得るものがあるという創造的批判がある。

素敵な行為があるとしたら、それは利他的な善行だと思います。

生活を音楽的に表現できる。
日常生活を土、祈りなどの宗教生活を水、血のつながりのない他人への奉仕活動を風、読書、音楽の練習など創造的、学問芸術的なものを熱として、例えばここでの書き込みは一応、風と熱の和音になる。
つまり、横向きに土軸、水軸、風軸、熱軸を引いて、その横線を上に層にして楽譜のようにする。もしある活動が両方に当てはまりそうなら和音になる。

現在の一見殺伐とした価値の仕事は、種であり、はるかな未来で、その価値は咲くという。
それは想像以上のものだろうが、あえて想像してみる。

例えば服と靴 はるかな未来では全てが霊化されているとしたら、服や靴も霊になっている。たぶん人間の付け替え可能な新しい外皮になっているのではないか。服や靴は人間を核とした場合の周辺であり、特殊性である。今度は、それらが付け替え可能な物質体にまで上昇するのではないか。それらの霊的商品は、特有の能力があり、それらを付けることで、その能力を自分の体の一部のように自在に使えるようになる。それらの商品自体がエネルギーの源泉なので靴も服も能力をもち、無限に動き、かつコンパクトである。現代的に言えばドラえもんの世界が霊化したような世界かもしれない。だからはるかな未来では、霊的タケコプターみたいなのがある

悪は凝り固まった善だとしたら、それには同じだけの硬いものをぶつけるという破壊行為による改善の他に、愛の中に悪を溶かして善にするというイメージがある。まだ具体的にはどうすることなのかわかっていない

たぶん、悪は学ぶためにあるのかもしれない。
悪に対して善が破壊することで、悪の魂は学びをもらい、悪が蔓延ることでそれがダメだと、いろんな魂が学べる。悪の被害にあうことでも自分の無力さ、あるいは無知さを学べたり、悪への感情を体験できる。
悪による苦痛で、人生の中でも印象深い体験ができたりする。そして、悪の被害にあうことで善に目覚めたりもするだろう。これらが悪の善の部分、闇の中の星々だと思う。アーリマンの時代は悪を学ぶ時代なのかもしれない。

悪に対して愛や善で返すことは悪に善や愛を行為でもって教えることになるのかもしれない。

つまり、悪は悪による学びを広める。悪に悪の善用で返したら直接的な善や愛が学べない。だから悪に善や愛で返して、直接的にそれらを行為でもって流し込む役割の人々がいてもいいのだと思う。悪を受けた側が悪に意識されており、それに対しているので善や愛を悪に流し込める

キリスト教は悪人に身をもって善や愛を教える宗教なのだろう。だから右を打たれたら左を差し出して、悪をなすほど求めるものには、与えてやり、さらに自分から与えてやり愛の感じを印象づけようとしているのだと思う

悪による学びだけでなく、善による学びということ

ガンダムである必要はないが、ガンダムガイストというアイデア。
普通はロボットの換装といったら、外部から何かを着せ替える感じだが、
これは登場者の魂に感応して形状や使える武器や特性が変化する。だから乗る人によってバージョンが変わる、つまり乗る人を変えたら換装になる。ガイストガンダムは登場者の魂の鏡になる。ガイストをエネルギーにする。この時代には、ガイストガンダム自体は珍しくないのだが、魂の熟練度によってジムのようであったりザクのようであったりして、熟練度が高いと様々なロボットものの主役級、あるいはオリジナルの形を取る。

太陽が想像力の太陽となっており、イマジネーションの光を太陽は照射する。光が色彩や形を内在するように、イマジネーションの光から様々な実在を取り出すことができる。

何も楽しくないが、想像しているときがわずかに充実しているかも。来世があるなら、なんと自分の想像したものたちと時代の衣をまといながら、再び関われるかもしれない。

私の想像が歌詞にまで発展できたらいいのに、と思う。
そして、なんと、歌詞は一応、言葉を知っているだけで作ることができる。

歌詞は日常のどうでもいいことでも
作れるだろうか。
愛情や怒り、苦労の経験から出たものなど、歌詞を作るための特別で基本的な雰囲気や思いなどがないと、とっかかりがない気もする。

つれづれなるままに書いてます。
今度は歌詞の勉強でもいいかなあ


自分なりに善悪の判断ができても、みんな自分と同じであるべきだとならないように自分の観点以外の善もありうる、としておく

経済界が循環系だとしたら、全ての企業は統一され一つの心臓になるべきなのかもしれない。
個々の部分は血管細胞となり中心は心臓にあって、心臓が全ての血管細胞の代表になる。
具体的に考えたら、心臓だって幾つかの部屋に別れることに注意

企業が一つになればどんな長所短所があるだろうか。

これらの考えには私の欠陥も反映されてるだろうから、そこはさらに理想的なものへと改良してもらえれば

人から私は柔らかい人と言われた。
きっと人への振る舞いが柔らかいのだろう。
これも、私の風、軽身の妙技の一部かな。
だから私の性格は風とおおざっぱの二つと静があるとわかった。問題は、何においてそれらの性格が現れているのかの観察が足りないこと

夜、ふと眠りから覚めて暗闇を見つめたら、
霧のような闇がある程度くっきりと、ある風景の形をとっていた。目をつぶった闇の中でもある存在に見えることがあり、それは偶然だと思ってたが、そうではないのかも。闇は形をとる

私は敵を愛せという教えを実行したことがあります。これは不幸な状況でないと実践する機会がない。

心から愛しているわけでないので完遂ではないが、殴ってくる人間に対して体の一部を
殴れと示唆し、再び殴られたことがある。
再び殴られた後に、再び殴れと示唆することはできなかったが。なぜなら痛いので。

示唆した後、その人はかっこつけんなと言って殴ってきた。

つまり、そのような人でもこういう返しにかっこいいものを感じるのだ。

右頬を打たれたら左頬を差し出しなさい、
を実践したら、本当に殴られ、しまいには殺される可能性がある。殴ることの限度を知っているとは限らないので

左頬を差し出すことを自分が死ぬまで
完遂できたら、人の心を動かせたかもしれない。キリストが感染力があるのはそれを完全に実践できたからと思う。

私はどのグループにも所属せずに一人だけでボランティア活動をしたことがあります。卒業するから、一回だけでも街のためになることをしようと思いまして。ありがとう、との声かけがありました。

私の不思議な体験をまとめておきます。

思考が内面の中で映像になり浮かび上がる
闇が風景に見える
ビデオテープの巻き戻し早送りみたいな見たことないがどこかの現実のような映像が浮かび上がる
いきなりふらふらした光が出現して消える
天使の羽みたいなものが出現して消える
私の中から私に語りかけてくる声
目を閉じたらたくさんの歯車が浮かび上がる
目を閉じたら五つの頂点を持つ星形が浮かび上がる
目を閉じたら内面の中で紙のようなものが浮かび上がり、文字が書かれていく
曼荼羅、内面の光の体験、
内面の中で顔が浮かび上がり、それを予知するかのように、その顔の人がその日に現れる

トントントンという音がどこででもしてくる感じ、幻聴

言葉は空虚で無力なように思ってたが、
そうでもないことを思い出した。
ある人とのやりとりでその人を分析したことを読ませたら感動されたことがあります。
連絡先を交換するほどの仲でもないしもうどこにいるのかもわからないくらい浅い付き合いで確かなことを言えた確信はないけど。
後押しする役割を果たしたと思う。

あらゆる生活や仕事の原理とは心魂であり、その中でも特に意志だと思う。
意志は体を動かすことも含むのだが、生活や仕事とは、様々な意志の現れとみなせる。
だからあらゆることを意志する活動的な心魂だったらよかったなと思う

周囲の状況は心にたとえることができると思う。

何も起こらず訪ねてくる人もいない、この静寂は我が心、みたいなちょっとした歌を読むことにもつながった。シュタイナーの気質論は短歌などのヒントになるかもしれない

人智学は対応付けを行うが、詩もそれをするから。 詩は人智学よりもっと自由に対応付けられる。


犬は前に進むための脚があり、体の一番前には鼻がついている。
犬は嗅ぐ存在なのだろうか。
キリンの特徴は首であり、兎は耳だろうか。
ゾウは犬のように鼻が特徴だと思うが、犬と違うところは鼻は鼻でも手でもある鼻であり、
ゾウの鼻は一概に鼻とも手とも言えない精妙な組織で、もし神がいて、神が霊であり、命であり、愛だとするなら、それはゾウの鼻のようにそれらが一体になったものと考えるといいのだと思う

スピを名乗ったつもりはなくて、考えたいことを考えていたらいつのまにかそうみなす人が出てきたのだろうか。実際、スピとは違うことも考えてる。言葉だけのデジタルな世界だけでは私のことはわからないと思う。私は神でないから神の立場に立つことができない。私の認識、善悪など全てに未熟な点があるはずだ。神にとって私は未熟ものだろう。
一見悪と思えるものが善である可能性がある。
何も極端な例を肯定しているわけではない。
私の善悪観が完璧ではないから、間違って善を悪とし、悪を善にすることがあるかもしれない。もし私が間違って一人魔女狩りみたいなことをしたら大変だ。

可能性があると言っているだけだろう。

ちなみに私の言っていることを深読みしても
私が主張したことにはならない場合がある。
例えば状況を心にたとえられるからといって、心が現実を作り出すと言ったつもりはなく、むしろ心を町にたとえたどこかの歌を参考にしているだけ。

私は悪い言葉を使わないで
人と接するのを試みようと思います。
悪い人にもひどいことを
言わないようにしたいです

否定はしてはいけないではなく、完全否定はできないのがあると言っている。

個人の理解者でないと
個人についての真の批判や記述は難しいと思う。

いろいろな批判をすればするほど自分の人生のハードルが上がってくる。

愛や一体の理想に対して共感できる心を持っている、思考や知性の影など影の部分に気づくことができる、評価の判断能力をそなえている、計算高く思考できるほどの知性を持っている 確かな基盤を持っている

個人も含めていろいろなものにどんどん関わっていく魂があるみたいだが、私はそうでないみたい。

全てのものに影があると思うが、
そういう見方を越えた見方があるかもしれない。まだ自覚してない

死後の意識は内が外に、外が内に反転するという。だから生きている間に自分のやってきたことが外から死後の自分に向かってくる。これで自分がいろいろやってきたことの結果がわかるようになる。

林檎は甘い木みたいだ。もしかしたら果実は樹木やが果実としての姿に変身したものかもしれない。言いたいことは当たり前のような表現になるが、果実は別の食べれない部分と本質を同じくし、食べれない部分が変身して果実になったのかも

一元論や二元論は見方が違うからそうなるのかもしれない。例えば霊が全ての根本だとすると一元論になるのだが、その霊が霊界だけでなく他の世界も作るのでそれぞれが本質を異にする多元論のように見なせられるように

現実の別の見方

心が身体の中にあってもの
を見ているのではなく
心が身体の外にあって、身体に開示し、身体に流れ込んでいる。身体の中では心は個人的思考が可能になり、自我となる。
つまり今見ているものが心の内容なのは確かだが、それは実際に心が外にあるということなのだという見方 目は心の視覚の側面を写すもので、目をつぶっても心に包まれている

ようやく直観がヌーソロジーに近づいてきたと思う。ヌーソロジーには至ってないかもしれないが。だからもしかしたら霊界魂界物質界なども心の階層構造になっているのかもしれない。
霊界の心が物質界の私に心を開示してくれたら、私も霊界に入れるようになるのかな。


これがブッダの言っている唯心論だろうか?
ブッダは詳しくないのだが。

私は自分の誤りを顔のない
ネット世界で指摘されたら正しくても、
心が取り乱され感情的になってしまう。
自分に言っているわけでもないのに悪い言葉を
読むと取り乱す。私は心がこんな破壊されたような苦痛は嫌なので他人にもそれはしたくないしネットが毒だが、ネットで発言はするのでなるべく悪い言葉は使わないようにするが、何が悪い言葉なのか細かいことはまだ勉強中です。そしてここでも私の心が傷つけられたことに対して許そうと思います。犯罪などになってくると許しの問題は難しいがこんな場合などは許しは必要だと思う。プロコフィエフの許しについての本もいつか読み、許しについての認識を深め、許しの良さを確認していきたい。

ヘーゲル的なロゴスは濁ってない。光を直観すればわかる。ゾウの鼻だって濁っているわけでない。むしろ精緻な統合と言える。味などになると濁るが真理の形態となると理想的なものとして考える必要があるから、濁ってはないだろう

もう控えよう

コメントに書かれた観点が
誰かの役に立てばいいと思う。
自分の世界について
考えてきたことや発想を書き込みたい。
他の人も自分が面白いと思う考えや発想を主に書いてくれたら、ネットは暗いものでなくなると思う。

これが破壊ではなく建設ってことかもしれない。 
何かの発想に対してそれを破壊するのではなく、別の理想を生み出せばよいのだろう
例えば許しという理想に対して底が浅いだとかネチネチ言うのではなく、許さないことの良さを語ればいいんじゃないか。

眼前で言えないことはネットでも言わないほうがいいのかな。なぜならその言葉は眼前に届くので。

まあもう何も言いません。私はやっぱり頭が悪い、なぜなら私自身も個人にとやかく言ってしまったことがあるので。

たぶんこういうことです。
自分の考えを発信して楽しみたいのに、見えないところでネチネチ言われるのが嫌だってだけですね

私が感情的になるとそれに知性の衣をかけます。これまでの言葉を許してください。感情の営みに付き合って頂きありがとうございます

この感情を演奏で浄化してきた。
本当に浄化されたかわからないが、
いつもより感覚が違った。

自分の不快な感情が何を知覚しているのか
を見ると、自分の不完全な部分の指摘が苦痛みたい。一般化してよければ、魂の不完全な部分は魂の弱点であり、それに対する言葉はそこを突き刺す これは自分の経験による一般化で、決めつけではない仮定とする。

私の魂だけにあてはまるのだろうか。
陰の部分の指摘や否定的表現だけでなく、悪意、反感的表現にも不快感を感じる。
要するに否定されたら不快になる幼稚な魂である。ただし必ずしも不快になるとは限らない。否定自体は悪とは限らない。否定する人にも否定される陰の部分があると思うけどね。自己批判しつつ肯定的な面を現しつつ否定すると全面的になると思う

私のように否定されるのが
不快な人間は他にもいて、
それを知って反応が面白いからとわざと
否定しまくろうとする輩がいるのは悲しいことだ。

もう私のような事例は他の人たちにも発見されてるみたいだ。次は他の人はどのようなことにうろたえるのかが新しい発見になる。

体を傷つけるのも傷という言葉自体が一部を否定することを意味するので、体を傷つけるのも物理的な否定であり、魂を傷つけるのも同様に私にとっては否定みたいだ。

光より闇がいい、光も闇もダメだという気持ちになった。
見ると不快な領域には踏み込まないこととする。

私には未熟なところがあるが、それでも
正しい部分は確かに正しかったのかどうかは
時間が解決してくれる。
曼荼羅のビジョンが幻覚ではなく
本物であったなら、私はいつか救われるというか何か神的な体験をするはずである。もしそうなったとしたら、これが私の正しさの証拠となるだろう。

お腹がすいた状態は食べ物が魂に組み込まれた状態の否定であり、傷みたいなものかもしれない。何かが魂に組み込まれた状態の否定、苦しみが欲望で、この欠乏状態も、魂の傷みたいなものかもしれない。
胃の中にあるという状態を胃酸と胃の筋肉が攻撃してその胃の中にある食べ物を含む全体から、食べ物という部分を削り取ると傷ができ欲望となる。
身体の傷に魂の傷としての不快感、欲望という傷

前回の苦しみから得た認識を発想に生かした。
だから苦しんだのも無駄ではなかった。

苦しみや悪からでも得られるものがあるという考えも正しいところがあるが、それではそれらを経験して良かったことになるなどといってそれ以外にも様々な人たちの影の部分を指摘するような光は結局、自分の見方立場に影などない、自分の見方が一番正しいみたいな傲慢な思い上がりをもっているのか、自己批判はせずにそれで犯罪者でもない他人の自尊感情を守ろうともしないのか、次次に裁くような口調で他人の影や欠点を嘲笑したり、指摘してくる。これを見て不快になり、光が嫌になった。

いろんな人たちの影を裁くように炙り出すことに反感を覚えたのはそれらを構成する概念が自分の好きなものだったからかも。
このことは私のような人間を否定しまくりたい人から学んだ。その人曰わく私のような人間の好きなものを否定しまくれば面白い反応が返ってくるとのこと。

魂がそれらの概念に浸透していてそこを否定されたら魂まで傷つくことになる。
他人の不幸を自分の不幸のように感じる能力もこれに近いと思う。概念の否定は魂の苦しみの話の一部

さっき私は批判して光が嫌になったと言っても当人を全否定するつもりはないです。
私は苦しみを受けたが、私の批判で苦しみを受けた人がいると思う。私は許しが大切だと言いながら批判してしまったが、私は返さずに受け止めるべきだったのだろうか。

思想が人間の本質ではないと思っていたが、
今日、思想が人間の本質になりえる場合を
気づいた。つまり、意識が解釈ではなく、どんな世界を実際に知覚しているかで、その人がどんな立場や思考をするかを超えて、どんな意識になっているかがわかる。
霊を知覚できず物質しか見れない人は素直に物質的意識、唯物意識だと思う。精神世界を考えられる、高い善悪がわかるだけでは霊意識とは言えない。この物質意識は、種がまるで鉱物であるかのように、成長して霊意識になるのだろう。この時代の人間の本質は唯物論的な意識で、様々な思想や立場はそれを土台にしている。唯物意識で霊意識から出た考えを繰り出してもその人自身が霊意識になるわけではない。

だから素直に言えば私はいくら霊性を叫ぼうが物質的である。唯物論は物質意識から生まれたと思う。

記憶表象に魂が浸透して魂の一部になり、記憶されたものが否定されると傷つく場合が出てくるのかも。

闇の中の星々とは、基本的に闇であってもその中から学べることもあるってことで、暗い空間がベースになっていても光があり、否定は闇に対してだけ効果があり、光は光として被害者が受け取れるものではないか。光の部分だけは肯定的に受け止め闇の部分だけは否定的に受け止めたらよいのでは。しかもこれはベースが闇なので、確かに避けられるべきものでもある。

悪は悪でも悪一元的考えではないってこと
悪にも闇と光がある。
善悪で言えば実は4つの種類に分けることが出きるのかもな。

洋楽に合わせて踊ってました。ダイエットになる。

魔女は産地の違いによる同じ作物の違いに気づいてるからある霊山でとれた人参などといって、特別な薬品を作ることができたという印象。
地方による同じものの違いに気づける眼識がもしかしたら失われつつあるかもしれない。
同じ種類のカブトムシも地方によっては違うかもしれない。学問は普遍的にするが同じものでさえ違うものであるような徹底的な違いの認識というのがあまりない印象。
たぶん同じものでも違うものにしてしまう可能性をもつのは、土地の力だろうか。人間以外の存在も誕生日がある。

犬はコテーンと横になる姿が特にかわいいと思う
可愛いは人間だけでなく動物や、花、丸い石などに対しても言われることがある。
だからかわいいやかっこいいとは全ての自然に共通する力の現れだと思う


自分に跳ね返ってくる気がするほど理想的な
人物ではないので批判したことに後悔の念がある。自覚的になるという意味では批判はよいことなのだろうが。

かわいさやかっこよさは実在ではなく
心の中にあるからどの実在を観察してもかわいさを感じられるのかも。つまりかわいさやかっこよさを感じることも共感の一種ではないだろうか。かわいさを見て自分の心の柔らかい部分が刺激されてるとしたら同質のものが同質のものから刺激を受けて、かっこよさは自分の中の勇気や強さ、硬い部分と関係があるのではないか。


土地の力が微妙な違いを生み出すとしたら
それは地理学の領域であり、
地理学的薬学、地理学薬草学などがありうることになる。 
もしかしたら同じ土地に住む存在は動物でも植物でも似たところが出てくるのではないか。
日本人に集団的な特性があり、日本出身の蜂もみんなで協力して天敵を迎え撃つという。
土地を原理にした万物の横断的分類
 地理学の専門家が見たら古い観点だと思うかもしれないけど


欲望は欲しがる習慣と表現してみる。
酒をやる人は酒をやらない人よりも
欲しがる習慣が多い。
逆に酒をやってても甘いものをとる習慣がなければ欲しがる習慣はその人より少ない。
これは欲望の数列的原理が多い少ないとも言える。
数列でなければ欲望は音楽的と表現してみる。

昨夜、私が自分の弱点を考察したのを認識したのか、幻聴がさっそく攻撃してきた。

歌を書いてみよう
安物と罵倒されてもいい
表現したくなったんだ
歌にしたら自分の主観でも許される気がして
書こうとすると思いは遠のく
俺に深いことなど書けやしないのか
書けたとして俺は深い人間じゃないんだ
だがお前は深い人間と思われたい
理想を書くたびに遠のく現実
だがお前は行動しない
批判をするたび増えていく敵
だがお前は平和を望む
プライドが引き裂かれ限界に至ったら
柔和な衣を脱ぎ捨て獣になる
だがお前は再び同じ衣を被り聖人でありたい

悪い魂だけ滅べばいいと思う。
しかし悪い魂をもっていた人の中にある善良な部分は生き残る。
こうして結局みんな生き残る。

私はいじめを受けたことがあるが
逆にその人たちとは別の人をいじめたことがある。私の場合、それを自分の汚い部分と認識することができている。私のような人間を悪だと断言して裁こうとする人もいるだろうが
私は自分自身がこうなので、善しかない人はどれだけいるだろう、と思う。悪を完全に裁きたい人は自分の中の悪い魂を完全に滅しているだろうか?悪い魂が自分にはないと言い切れるのか。そして他人を裁くという形で苦しめるより先に、自分の悪を滅するために自分を苦しめるのが先ではというアンチを提出しておく。そして完全な善に至った人はそんな不完全な人たちを裁くだろうか。誰も刑法がなくなるべきなんて言ってない。考えが及ばないところがあるので補足して読んでください。

だから自分の心を覗くこと、つまり質的素朴心理学は大事だと思う。悪い魂が発動するときの妙な感覚がある。それはいじめが好きなわけでもなく殴るのが好きなわけでもなくいまだに分析できてない感情である。

そして曼荼羅や天使の羽のような体験など
いろいろな不思議な体験をさせてもらっているので、もしかしたら霊界はそのうちこんな悪を抱える私でも救済してくれるのではないか。
もし救済されたら悪は滅ぶべきというのは天の観点ではないことになるだろう。もしそうなら天は私を許してくれたのだ。

フィギュアスケートはスポーツ感覚だったが、
表現でもあることをこれまでに意識してなかった。

フィギュアスケートに
オイリュトミーを応用できないだろうか。

過去に言われたことを今と関係付ける癖のある
人はそれが時に思い込みとなり失敗するが、
うまくいけばちょっとした合図だけで意を読み取れる

私は数学を物質的なものとしたが、
一番尊敬の感情をもって取り組めたのが
数学の古典だった。
ページを尊敬の念を感じながらめくっていった。その本はよいものだと思うから与えた。
これがネットだったらこんな体験は
できなかったと思う。尊敬と権威が同じなら
それの権威を自分で認められるような体験はよいものだ。権威を盲信するのがダメなだけで、尊敬して権威を感じること自体はよい体験だと思う。

ゲーテ、ヘーゲル的な概念の真理が気にくわなくてその真理への憎悪を抱くのは勝手だが
そうではなくて、
実はある真理を語る人物が嫌いだからその嫌いな人を否定したいがためにその人が関係しているものを否定することで語る人物まで否定しようとするのかもしれない。そのやり口はなるべく真理を低いものと同列にみて語る人物と関係付けるというもの。だが、その否定してくる人物よりは真理体験が豊かであろう僧侶などは悟りをクソカキベラと一緒にして表現したりする。真理は低俗なものまで表現できる応用範囲を持つ。その真理の応用範囲の広さを応用して、俗なものあるいは自分が反感を抱くもので真理を代表させて否定に使っている。
なんと真理は個人の嫌いなものにまで現れてしまうのだ。真理の応用範囲が嫌いなものに及ぶおかげで、その真理を否定に使えるようになるってこと。

楽典で振動数の比があるが、比という小学生レベルの算数の考え方を忘れていたがどうにか思い出せた。基準に対してもし二分の三の比にあるなら、基準を二分したもののうちの一つを三倍したらよい。これが純正音程、つまり度数と対応付けられる。

私が概念的なことばかりコメントしていたから、私を概念野郎とみなす人や概念的なものに反感を抱く人もいるかもしれないが、私は本を買ってないという状況があり、その中でできることは現実の観察だった。概念は現実の観察のための手がかりだった。だから概念のことばかりコメントしていた。デジタル世界だけの理解では文脈を読み取れず人間理解は不十分になることがわかる。結局、みんな自分の反感を排泄しているだけなのだろうか。

まさにお前に俺の何がわかるってんだというセリフを言う機会である。

共感や現実離れした道徳心からの言葉と反感憎しみからの言葉がネットで対立している。誰もが両方の部分から発することができる。
どちらにも、お前は言うほどの完全な善人でも賢者でも功績がある人でもないだろ、お前も誰かに迷惑かけてるはずだ、やここはガス抜き場なんだ寛容になれよ、や、では読んだ人を傷つけてもいいのか、あらゆる領域で善をなせ理想を現実にでき粗雑な魂を一切もたないような完全な善の人はほとんどいないから、誰も守れと言えなくなり現実が無法地帯になるなどの批判があると思う。

もしここで両者に共通してる部分を見つけるなら、どちらも物質的な知性を頼りに反論している。コードロジーなどで運命を知れればいいのかね。ネット上の話を超えてしまった。
ともかく、私のような理想を抱くも現実離れして悪を抱える彷徨える人間には否定しまくりたい人がついたりするが、私の運命をコメントしてみたらいいと思う

私は思索的な人間でそれをネットに書き込んできた。
反感憎しみ的な発言を続けていたらネットの世界は狭いのかだんだんネット上のいろんな人が自分に対して敵意をもっているという感覚になった。つらかった。しかし一応共感的な部分道徳心から来る思索もやっていた。しかしそれすら反感の目で見られているという感覚。学問的な思索もやっており、それで円と現実を一致させたイメージを完成させ、科学は経験の限界を決めることができるのか、魔術は未来の科学と一致するという考察や思考の現象学をしていた。そんな中で反撃にあい幻聴が再発し入院する。あらゆる人たちが自分に対立し自分に反逆するという現象があった。待合室で座っている自分が右を向いたときその中のほとんどの人が左を向き左を向いたら右を向く。その中のある人を後ろから見たら私の目線に気づき睨み返してくる。入院先で老哲学者に出会う。あらゆる学問に詳しい現象学者だった。医学的な哲学もやってるらしい。哲学をなめたら死ぬことになるとも言っていた。
現実と関係ある哲学をする人という印象で秘密結社に所属していたこともあり時空を超えることができるという。だがそれにも限度があるとか。そしてもうすぐ誰もが時空を超えれるようになる、とも言っていた。ぜんぜんもうすぐではないが嘘か本当かはたぶん50年後にわかることになる。また、彼に魔術について聞いたらほぼ私と同じようにそれは科学という見解を持っていた。彼は自分が何者かはその時にわかる、と言っていた。その人からヘーゲルを教えてもらい彼はヘーゲルを天才だと言っていた。ヘーゲルも思考の現象学という着眼点を実現していた。そしてオリジナルな曼荼羅と実際に実現した近未来を見ることになるなどがあり今に至る。幻聴は私の思考を分類して楽しみ、ある思考には哲学、といい別の思考では心理学と分類していた。入院先には経済学がいたらしい。

50年後にその老人が生きているのか謎である。
反感に生きたら痛い目を見たがたぶん自分の学問的な思索の成果が救いになったのだと思う。

悪に対して善で返したり許したりするのは
どんな場合かがわかった気がする
たぶん根底に人々を分裂させようとする
アーリマンの働きがある場合、悪で返したり攻撃したりして、つまり悪の善用で返すとかえって悪に荷担することになるのだろう。実は悪の善用のアーリマンによる悪用なのである。だからそれに対抗して人々の結びつきを保つために善で返したり、許すといいのだろう。敵を愛するのもアーリマンに対する反抗になる。

これで勧善懲悪の中に許しや善での返しが含まれることになった。分裂を目的とする悪にはキリスト教で対抗する。

そして勧善懲悪ができる権利があるほど
お前は善を完成しているかという問題は
確かに私は悪な部分もあるのに関わらず他の悪を発動している人々に攻撃を加えている。
だから私自身も悪をなしたり悪の魂の部分は誰かからその部分を攻撃されたり、悪が酷すぎるなら滅ぼされることを許すでいいのかもしれない。抵抗はどちらもしていい。
これが上から目線ではない勧善懲悪観である。
また悪人でも悪人がかつてした善行に応じて慈悲や救いがあってもいいと思う。自分の善行が悪行の結果を救う鍵になる。

全ての人が攻撃対象となりえて
平等な勧善懲悪観は殺伐としている。

ここから考えるのが難しくなってきた。
許しがアーリマンへの対抗手段だけでないなら
ここで自分の魂の闇を大目に見るなら他人の闇も大目に見るべきなのだろうか。
許すべきものは許し懲らしめるべきものは懲らしめる

許しの限度を超えると懲らしめられるべきものになる。


善行をした人には慈悲を与えるべきなんて言葉は無意味だと思う。
いくらべき論をかざしたところで
現実はその言葉に従わない
思考をこねくり回しても無意味な場合がある。
現実の観察が必要
善行をほどこした人には善い結果が実るようになる、などの因果がわかればいいと思う。そして既に善因善果、悪因悪果という知恵が出ている。その知恵がわかっても人を変えることなどできないと思う。心理を対象化している意識もあるが、善悪を対象化している意識は口うるさく感じられるかもしれないのがこの意識の欠点

私も結局、批判を口うるさくしてしまった。
私は矛盾している。
いくら口うるさい批判を受けようがその批判のほうが手にしたものより価値がないという場合もある。批判対象の手に入れた経験や幸運などの何かより価値ある批判をできる人が本当に意味のある批判をしている人なのだろう。
どんなに批判を受けようがそんな言葉の群れを無力にしてしまいそんな言葉とは無関係にそれらより価値あるものを手に入れたらよいのだろう。いろいろな批判を受けている人が神的に救われた場合など。


批判を批判する人に対してお前は矛盾した人間だろうだから俺を批判する力を持たないと指摘できるが、批判する人否定しまくりたい人自身にも矛盾した人間だろうから批判する力を持たないと指摘できる。

何かへの批判をしてもよいし批判に対しての批判をしてもよい、その代わり批判する人は自分に対する批判を許すでいいのかもしれない。自分に向けられた批判に対して反応してもよい。


批判はその人の考察の一つで、
あらゆる範囲にわたる考察をしようとするなら
生の人間に踏み込むしかないのだろう。
否定しまくりたい人、批判しまくりたい人は
一人の人間に固執するのでなく否定する自分を含むあらゆる人間に目を向けたら何か成果があるかもしれない。自分を否定的に見るというのが他の自分が否定する人間と自分を平等にするためのポイントだろうか。そして自分を肯定的に見るところもあるだろうから、他人も肯定的に見たらいいのではないか。それで表現の自由や平等という普遍的な観点に昇り上がった。

学問ばかり対象とする意識も、ある学問の陰を炙り出すことでその学問に好感を持つ人の反感を買うことになるが人の行為にチクチク関わらないためまだ生々しくない。哲学は意識の全範囲にわたる考察をするため、生々しい人間の行為や誤り、矛盾の考察にチクチク踏み込まないと完成しない。そしてそれら具体的なことから普遍的な観点が浮かび上がってきた。

中には沈黙する人もいると思う。
口が黙っていても内部は活発に動いていて
考えが浮かび上がってくる。
この沈黙する人が行為として内部を外部に移したのがコメントである。

批判すること、批判を批判すること、普遍的なものばかり考察する、沈黙すること
これらが全て私の中にある

ちなみに私の強い至福のような愛のような
良心の目覚めは憎悪や反感に生きる時代の前に生成しており、憎悪や反感と並存して進められていった。全ての人に憎悪が向けられていたわけでなく、たぶんいじめなどに対して向けていたが、その義憤は上から目線の義憤であり、自分のかつてのいじめ行為に向けられるようなものではなかった。私はいじめ行為が先にあり、その報いを受けたのかいじめられた。

私を理解してもらえるような人生の書き方が難しいみたいだ。
私の現在の人生を書く理由の一つは、私のように矛盾や不完全性を抱えた人間にも関わらず
将来的に神的な何かを経験できるかもしれないことを示したいからで、もし経験がこれからも実際にあれば示そうと思う。

私は霊的な覚醒に向けて頑張ることを目的にできるほどでもないのに、もし覚醒に至ることができたら、私の人生全体とコメントは至る前の私に向けられた全ての評価より意味のあるものとなるだろう。
もしそうならなければ暇つぶし程度のものだろうか。


シャンティフーラのブログによれば
既に音楽業界は
悪魔崇拝の手に落ちているとか。

語り手であるお前も歌ではないが、
世界に向かって言ってやるがいい!
俺は悪より正義でありたい!
俺は悪より善でありたい!
俺は偽より真実を選びたく、
醜より美でありたい!
反キリストでありたくない!と

私が遭遇した哲学者が本物だったら
めちゃくちゃ凄い人であるにも関わらず
そう言われるまではそんな凄い人とは気づけない感じの翁であった。
ああいう人が昔は翁神扱いされるようなタイプの人間なのだと思う。

私が憎悪や反感に生きるのを
やめたのは自分にも不正があることを
痛感したからだと思う。
自分が不正にも関わらず上から目線だったこと
に無意識的に気づいたのかも。

人間が自然に生きるとは人間的に生きることだと思う。人間は人間だから人間的に生きるのが最も自然である。

私は現代日本音楽はあまり聞かないが
現代ガンダムを見ているから
使命とともにある男たち?の歌は聞いている。
旗をあげろ!という歌で悪くないと思う。
私は自分の音楽のセンスに自信がない。

さて音楽業界は悪魔崇拝に
汚染されているという。
そこでよく記憶に残っているのが
世界の終わりだが
その歌詞の内容に大切な人を守るためなら手段を選びたくないから
俺は悪にだってなってやるぜみたいなのがあった。アンチヒーローというタイトル
だが、言ってやるがいい!
その守りたいという気持ちは気持ちとしては善なるものを含んでいるのだと! 完全な善かどうかの細かいことは難しいが守りたいという気持ち自体は善を含んでいると思う。

本当の悪はデトロイトメタルシティの
クラウザー様の殺害というタイトルの歌詞、
俺は友達恋人いねえ、それは俺が殺したから、
俺に父ちゃん母ちゃんいねえ、それは俺が殺したから!となるんじゃないか。

世界の終わりは善や正義に反感を抱くが
善を無意識的に肯定しているという考察

でもその歌詞だけを見た考察だから決めつけかもしれないが。

実は自分の言葉のせいで犯罪が起きることが
あると思う。反感に生きていた頃、
攻撃してくる人間は自分が攻撃されることを
覚悟しなければならないみたいなことを
言ってたら、本当に中学生が正当防衛だと思ったのか攻撃してくる人間に対して
暴行事件を起こした。
やり過ぎだったのかどうかもう覚えてないが、
自分の過激な言葉が実際に事件につながるかもしれないのだ。

悪を奨励する風潮が事件に関わってしまう可能性があるのだ。

歌詞やネットは言葉を言いたいだけ
言って無責任だが、死後があるなら、死後に
責任を取らされるだろう。

正義や光を選ぶ人たちの中には合わない人、嫌いな人がいたとしても、それでもその人たちの属する正義や光を否定しまくることを選ばずに、正義や光に属することができたらいいのになと思う

音楽には倍音があるらしい。一つの基盤となる音を鳴らすと倍のヘルツの音が鳴るらしく、耳でもそのいくつかは確認できるらしい。
簡単に言えばドを鳴らしたらそこから上の音符も鳴っているイメージ
そんなこと全く気づけなかった。
全音符や音符の音の長さも分数で表現されるが
これも基準を分母の数だけ分割した単位をその分子の数だけかけるというイメージと全体を基準とした場合にどんどん細分化されるというイメージで理解できたと思う

音符の法則に今さらながら気づいた。
義務教育で習ってもそこに気づけなかった。

全音符は真ん中が空いていて、線がない。
真ん中に黒で塗りつぶされたり線が加わることで順に半分になっていく。逆に線がなくなっていくことで順に二倍になっていくという法則

ネット発言歴の中で
私は卑屈だとか卑しいという評価をいただく
ことがある。
私は矛盾した人間だから大ざっぱなところがありながら繊細なところがあったりするように
もろもろの俗な性質もあわせもっているのだと思う。
きっと卑しいのは私の一面に過ぎないだろう。
悲しみのあまりもう一人の自分を生み出す
ほどに高貴な思いをもてるのだから。
私はある人より言語処理能力があるらしいので、その人より知性的かもしれないが、
私の感覚はその人より愚かである。
その人の感覚は私よりも理性的である。
身体的なことや美的感覚に優れている人はその身体が体現する理性が鋭いのだと思う
卑しいと言われている人間が一貫して卑しいなら、むしろ自分を一貫させているのだから凄いと思う。

私の知人はもう一人の私を見たという。
椅子に座っていたようで触れたら透き通ったらしい。私はその頃、その知人の不幸に強い悲しみを受けていた。その思いのエネルギーが届いたのだと解釈している。

私の不思議な出来事の一つに、もう一人の私の出現があったことを忘れていた。

自分で自分の良い性質を言う人に
対して悪い点を発見してどうにか言う人は
もしかしたら他人のよいとこを認めたくない性質を持つ人なのだろうと思う

人を認めたくない人間などの言葉は
私の誤解です。

矛盾した人間であることも文字だけで捉えられることではないと思う。

指摘に対して指摘返しをしない
のを心掛けてみようと思う
指摘で揺らいだみっともない心はさらけださないようになりたい。
心の揺らぎには沈黙と忍耐で対応すること
これを心に刻めたらいい。

欲望を制する自制心が強い、そんな人は私より純粋で高貴な魂の部分だとみた感じ思う

工事現場には作業員、作業員には作業服
で子育てするなら自分の産んだ子供を育てること これは状況に対して一致する要素とその要素以外の要素がその状況にはめ込まれたら、非文とも言える不一致で異常な状況になりうるということ。

例えば工事現場で働く女性がドレスを着ているのはおかしいというTPOの場合や、個人的には、飲み会に誰を呼ぶというので、よく呼ばれない人は、飲み会という状況にそもそも不一致なのだろう。実は服と時や場所の一致以外にも、時や場所に能力が一致するかどうかという観点もある。他にも時や場所に行為が一致するかどうかなどで、これらは統語論的だと思った。

音楽的認識ができないかと思う。
心臓の鼓動が音楽だとしたら
心臓音楽の拍子に乗せて行為を展開したら
音楽的生活になるだろうか。
タンタンタンという拍子は時間的にその間隔で展開するリズム。このリズムを普遍的なものと見ることができるだろう。
タンタンタンというリズムに、ドレミを乗せるように、行為を乗せていくのである。

そして感情によって拍子が変わる。

ネットでは一部だけ評価されるにとどまるが
もし私の生活全体が様々な観点をもつ評価者、批判したい人に監視されるなら、
逐一いろんなことに対して言葉が
とんでくると想像すると非常に狭くるしくなる
と思う。

人智学のルシファーの働きの説明で
ルシファーは人間を自由にするといいながら
道徳的機械にしようとするなどという一件矛盾した説明がある。
私の感覚的にはルシファーは不健全な統一で
国家論で言えば国家による国民の一元的統一になると思う。

この自由にすることと道徳機械にすることの矛盾した働きは、ルシファーの性質で説明できます。これはある働きが矛盾した結果を生みうることの例でもある。

ルシファーは人間を高く、軽く上昇させようとする。これが物質的なものから引き離すように作用し、人間を霊的道徳機械にする働きもあれば、全ての要素より高く上がり全てのものを自分の下の中に包み込むというイメージになり、自我の膨張として欲望や利己主義、名誉欲、虚栄心などになり悪を生み出すことにもなり、その自分を周囲より上にあげることが、別の角度から見て神的なものからの離脱、下降となり、自由という結果になったと考えられる。

要するにルシファーの膨張、統一の力が自我に組み込まれた結果、人間は悪と自由を得ることができ、ルシファーは今度は人間を道徳で統一しようとしているのではないだろうか。 

下に位置付けられるものが
支配的に統一されるという一見不自由な力が
関係付けられるものによっては自由の力にもなるということ。

悪は地獄に落ちると言われるが
悪と地獄のイメージは同類だと思う。
悪は神によって滅ぼされるのではなく
自分で自分を滅ぼしたが理想かな。
神にも霊を滅ぼす権限はないと主観的に思う。
勝手に相応しい場所に吸い込まれていくだけ。
つまり、死後の状況は非文的にはならないという意見。例えば唯物論も、物という無常な力を一番に位置付けるものだから、自分で自分を分解、滅ぼしてしまうことになるのではないか。

死後の魂界では自分の行いが自分に向かってくるらしい。
そのようにカルマによってかつての行いが今回の人生で自分に向かい立つようになるらしい。
つまり、魂界においても地上界においても自分に向かい立っているという部分があるだろう。
どれがかつての自分の行いなのかわからないけど。

ティエム様、すみませんお借りします。

のめーる様…でしたでしょうか。(違ってたらすみません)いつも有難うございます。なるほどなあ、と思ったり、はっとしたりしながら読ませて頂いてます。

それでも最近中々落ち着いて読めなくて。いえ本当は読解力がこちらないです。沢山過ぎて読みきれないのもあります。原始人の私にはいっぺんには消化しきれないのです。お許しくださいませ。

ティエム様の記事も中々消化しきれてなくて。日常に一喜一憂して深い思索に臨みきれていません。大事な何かが足りない日々です。

けれども、日常も大事ですから(^o^ゞ くたびれた時は、休み休み行きましょうね。私も休み休みです、最近は休みっぱなし(汗)ですな。細くても長く読みたいです。

どうぞお身体にお気をつけて、穏やかなお年をお迎えくださいませ。・・・あら、2016年来てますね今(^^)

今年もよろしくおねがいします。

みるくゆがふさん。自分のペースで読んでもらえばいいので、どうぞプレッシャーには感じないでください(笑)。日常を疎かにしてしまったら、それこそ、「ルシファー的」な方向に行き過ぎてしまうことになりますし。

のめーるさんのコメントは、私もざっと目を通させてもらってますが、なかなか全部は読めてません(笑)。

「批判」というのが、実際に、ネットなどに文字として出ているものを言っているのか、いわゆる「声」として聞えるものを言っているのか、気になるところはありますが、それに特に囚われている様子はないので、なによりと思います。

また、今回の、「ルシファー的なもの」についてのコメントは、私の捉え方とも、ほとんど共通していますし、とても的確にまとめられていると思いました。

のめーるです。
読んでいただきありがとうございます。

実践と言えば、大学時代はひとりでトイレに捨てられたゴミを拾ったりした。
トイレはゴミ箱ではないけど、掃除のおばちゃんがどうせ拾うと思ってトイレに捨てたのだろう。

拾うために時間を取ったのではなく、何かのついでにやってみただけである。

楽典を一周読んだ。まだ疑問は残る。
長短は何をさすのか理解していない。
速さ強さ、リズムなどは音楽を超えた概念で
速さ強さ、リズムなどは音楽以外のものにも並存して現象する存在共通の性質だと思った。

面白さは偏りにあるのかもしれない。
偏っていたほうが面白いという仮説。
言葉ではめったにない新しい単語と単語の
組み合わせのほうが面白く感じられると思う。
それが絵画にも言えるらしい。正方形の画用紙より長方形のほうが面白いし、画面の分け方は二等分でないほうが面白いという。
だから建築物も絵画が立体的になったものとして同様のことが言えるのかもしれない。
お笑いもどこか異常なところが面白いのではないだろうか。

そして3の法則があり、3は人間にしっくりくる数字だという。これらの要素が大中小となったら面白いという。つまり要素どうしもそれぞれが同じ偏差上に横並びではなく、偏りがある。
絵画は偏りの空間の中で偏りのある配置をすれば面白くなるのだろう。だが、これは一面的で、もっと深い考察ができるはずだと思う。

真ん中、中庸ばかりだと面白くないが、真ん中を保って状況にあわせてずらしていけるように、真ん中であることを固定しなければよいのだろう。

光の中に色が含まれるという見解は
ニュートン的であり、光と闇から色ができる
というのがゲーテ的らしい。
ゲーテは色彩論を究めることで独自の文化に
至ったとか。

私の内部に真理がなければ
なんになろう、と思う。
自分の中に真理がなければ
全てはむなしい

真理は暮らしながら
時を待つしかないのだろうか

不快なものを
受け取らないように意識的な行為ができるようになってきた気がする。

楽譜のドレミがゆっくりだけどだんだん読めるようになってきた。

思考においては広くやってきたが、意志活動においては深くやっていくことになるのだろうか? 思考は数多く、浅くだが、意志活動においては思考よりは携わる領域は少なく従って深くなっていくと思う。意志活動においては専門的、思考活動においては全域的。
意志活動、つまり実践は、私の場合、音楽と仕事になると思う。これまでは広域に思考を展開していた普遍的世界学のうち、掘り下げる領域として特殊世界学としてそれらがあると位置付ける。

音楽は本当はやりたくないが、
成り行きですることになった。

ルシファーは統一的だがアーリマンは分離原理

暇な時間は思索をする。
思索のために必要な概念は
アリストテレスの形而上学、カテゴリー論と
ヘーゲルが書いた哲学入門と
シュタイナーの自由の哲学に
神智学、ゲーテの認識論要綱に神秘学概論を
読めば広範囲にわたる思索のための概念が得られると思う。これに全域の要素を組み合わせてファンタジーを生み出すことができることを付け加えておく。あと対象を自在に対象を基盤にして膨張、収縮、伸長などして形や色を変え、部分を付け加えたりしてだんだんと新たなものにしていくという思考に数式を視覚化しグラフにしたものを現実に応用することは数学の真理の変容性であるという考え

一つのネジについていろんな角度から考え
植物的ネジについてファンタジーするという行をした。
植物的ネジはそのネジをひねり込むとそれが種になっていて、ひねり込まれたものの繊維の中に根が入り込みさらに強くくっつくようになるなど。

いろいろと思索の材料はあっても
大きな欠点は
無力であるってこと。
知恵の輪やルービックキューブなど
現実のゲームを計算的に解けるようになるわけでない。ギミックを理解する工学的思考が欠けていると思う。
この無力な思索にも良さがあるとしたら
頭の良さ、知性にも種類があるようである。
哲学的な無力な思考と、工学的思考、実践的思考と呼びうるもの。
全体性を目指すなら工学的思考もできるべきと思うので現実は厳しい。

細かい人はどちらかと言えば実践的思考が得意だと思う。

哲学的な思考はおそらく瞑想のためにあるのだと思う。それでも工学的思考もできたほうが、さらに深いものとなると思う

知恵の輪やルービックキューブなどから
実践的思考、技術者的思考、工学的思考などと呼べるものがどんなものであるかが
わかる。それは哲学とも関係している。
つまりそれらはどうすればどうなるという
因果関係の知恵の集積であり、
どうすればどうなるという
それら商品の因果関係全体を把握しておれば解けると思う。
これが人生哲学となれば、こんな人はこんな結末になるという論展開になるのだろう。
もし人生哲学に必然性があるなら面白いと思う。ある原因は必ずある結果を含む。これが植物の種が枝分かれするように矛盾した結末を生みうるかもしれないが、その原因が必ず一つの結末しか生まない場合もあったりして。
実践的思考を因果関係と捉えると、概念的哲学の一部の応用となる。

緻密な制作物は緻密な因果関係の集積なのだろう。

車などの機械操作も一つ一つの操作できる
ものを動かすことによる因果関係の集まりで、
操作しているのではないだろうか。
そしてこの観点をヒントに、もっと大きなもの、社会を操作するためにはどんなものがあるかを考察できるかもしれない。例えば宣伝はそれを受けたものをその商品へと動かしうる操作ではないだろうか。しっかりした宣伝ならば、それは入力の一つ、力なのである。

社会を操作するための一つに、有名であることがある。誰もが知っているから、誰もに入力しやすいのではないか。そして言葉もあるが、
言葉は嘘でも気付かれなければ通ってしまうという欠点がある。

仕事でもそれに生じる様々な因果関係に精通しておけばうまくやれるだろう。

時間が空けば思索しようと思う。

人間の成長は頭部から脚部へ、中心から末梢へ、粗大運動から微細運動へと展開していくようである。全体から部分

驚きが生まれるような思考は
今日はできなかった。
欠けている思考は何かわかっている。
周囲の制作物がどんな仕組みでできているのかという思考が欠けている。例えば書物はどのように作られているのか、蛇口はどのようにして設置するのかなどである。
このような思考を進めれば哲学的思考が全域に渡り、ファンタジーが全域に渡ったように、
再び全域から何かを得られるだろうが、なぜか気が進まない。たぶん私が実務的な人間ではないからだろう。実務的な人間はこうやって地道に力をつけていくのだろうか。
空間を操るという漫画にありがちな空想的能力より、現実の地味な書類整理能力などのほうが実際の力だと思う。

例えば仕組みの博物学的記憶を応用して、
簡単な工作ができるようになるかもしれない。
数学やパソコン、設計が得意な人がやればもっと力になるだろうか。

キリストやブッダが悪魔に唆され、それに
打ち勝ったように、幻聴の死ねなどの罵詈雑言に打ち勝てば次のステップになるのかもしれない。

個人的になるのはルシファーの熱の力で
集団から抜け出すというイメージだが、
では集団主義はアーリマンの重さの力で
集団的な力に埋没するってことだろうか。
単なる個人主義でもなく集団的なものへの埋没でもない次なる概念は集団的なものへと関係する自立した個人で、重力に負けずに大地から聳え立っている。集団に埋没した集団意識は植物や動物のような意識であり、個人主義過ぎたら、それは周囲と無関係になりすぎた利己主義過ぎて、悪魔的であり、
やはり現在の地球と人間の関係のような集合から自立しながら集合と関係している意識が、
人間的な意識なのではないか。
それは周囲と関わりながら集団心理から来る不道徳性や、日本人的な空気などに流されないような、
個性的な人間であれってことだろうか?
個性的な人間は不道徳な空気や失敗を生む
空気には抗える、
空気を読まないことができる人間であるべきだと思う。そうしないとみんなで犯罪したり、みんなで破滅に向かうことにもなりかねない。

地上に生きる間は個体的な自我として人体の中に制限されるが、死ねば自我は宇宙大になるという。自我が役立たなくなるというのは、自我が消滅するのではなく、この死後の宇宙大の自我に生きたままなり、この意識で新たな文化が生まれるようになることかもしれない。 

もしもそうではなく、自我の消滅ならば、それは神による殺戮だと思う。人間は自我があるからこそ人間ではないのか。自我がなくなるなら、人間はただの外皮、道徳的ロボットになってしまう。つまり自我の消滅を良いものとする話はルシファー的な悪魔的なものであるとみなすことも可能となる。

アーリマンとルシファーを調和させると、
ちょうどヘーゲルのロゴスになるのかもしれない。すなわちキリストである。
アーリマン的な重さが普遍的なものとして様々な要素を引きつけて統一するが、行き過ぎたら埋没する。ここでルシファーが働きかけて要素を重さから上昇させて聳え立たせ、ある意味ピラミッド的な、重いものを下にする統一が生まれ、行き過ぎたら、他人を自分より下にするなどの利己的なものとなる。しかしうまく行けば他人も大地から聳え立っていて、大地に対するピラミッドは一つではないことがわかる。

重さの大地、普遍の中で区別、つまり分離が生まれる。

こうしてルシファー的なものとアーリマン的なものが統一され、ヘーゲル的なロゴスとなると考えられる。

普遍にも個別性があり、個別にも普遍性がある。だからアーリマンやルシファーはどちらも両方を持っていると思う。

もしかしたらヘーゲルのロゴスキリストを参考にして、バランスはどのくらいがいいのかがわかってくるのかもしれない。

例えば食べなさすぎは脂肪がなくなりやせ細り軽過ぎになり
食べ過ぎは脂肪で膨れ上がり重過ぎになる。
もしも体の重さが普遍に位置するとしたら、
体の軽さが個別に位置する。
ロゴス的な身体は、重さと軽さを併せ持つ。
つまり、脂肪がつくべきところは脂肪がついており、脂肪がそこまでつかないべきところにはついてない。つまり、体は、脂肪がつかないほうがいいという極と脂肪が付いたほうがいいという極の二つがあり、どちらかの極を信仰すると病気になるのだろう。

脂肪で満たされたほうがいい箇所もあるのだろう。つまり、部分的には重いほうがよく、部分的には軽いほうがいい。これが全体として絶対的に軽いほうがいいとなっても、全体として絶対的に重いほうがよいとなってもいけないと考えられる。軽いとは脂肪がついてないことで、重いとは脂肪がついていることだとしています。

学ぶことを通して世界を読めるようになれたら、と思う。
本で学んだことを経験により裏付けて、
経験を深めて本で学んだことを超えて知恵に至る。未来の兆しや自然の機嫌が読めるようになり、人里離れた森に入ると精霊との交流が始まり、精霊からも自然の秘密を教えてもらい、
気候の偶然性やあらゆる偶然性から、何かに気づけるような。

空模様の違いや、なりそうな天気、個々の石の個性の違いや地方の自然の深い特徴に気づける
には本を超えた経験が必要かもな、と思う

簡単に言えば
気功やヨガや武術と医術と芸術と薬草学、
栄養学、調理法を
どれも人間の身体に関わることとして
深い見識をもっていて自然や毎日の生活を
深く読み取ることができるような人という理想
こういう隠れた賢者のような人はメルヘンなどでは貧しいみなりをした不思議な謎の老人みたいに登場してくるという印象

世界の秘密に
通じているという条件を忘れていた。
こんな人物のメルヘンでの登場の仕方は、
無名でみすぼらしい格好をした老人として出てくる印象 

まあこんな理想を挙げても
目的にできないのでそれとは違った何かに
なっていることだろう。

シェイクスピアに出てきたこういう賢者は
王の前に出没して、王の意識を変えてしまった。

思想は無力なのかもしれないが、本当はどんなに凄い思想でも、語るものの言葉に力がないだけかもしれない。

言葉に力を持たせるには、たぶん外面的にではなく、内的に立派な人物であればいいのだと思う。

たしか、南郷継正という武道理論家の
本から考えたことだが、これが
本に書いてあったのか自分が影響を受けて考えだしたのか忘れたが、武道はまず正しい型を
覚えさせることで上達していくというのがあった。これは何にでも応用できそうな上達法だと考えていたが、音楽の練習でも無意識のうちに応用していた。

例えば覚えられないドミソなどの音名は
まずそれをつまづきながらも正しくその箇所を
正しく読み、正しく弾くことをやっていたら次第に読めるようになっていた気がする。だからこの他にも、音符を正しい長さで弾く試みを続けていたら、次第に音符の正しい長さがわかるようになっていくのだと思う。

真理だと思ったら目玉が出てきて、それを何も考えずに海につけたらコルク詮になるという一杯喰わされる夢を見たがシュタイナーの言うように、確かに別の世界にいたという夢だった。
これは全てを書ききれない。真理だと思う前に上昇して宇宙的な映像が流れ、そこに黄金の鎖のようなものがいかにももうすぐ真理に到着できますよみたいな感じで流れていきコルク詮に過ぎなかった。実ははったりだとわかったら、月星人の観光客のいたずらだと言う設定になっておりこの夢全体が中継されてたらしく、そのテレビから飛び出したら、学校にいて、みんなが探してたらしく、そしてみんなも月星人の観光客のせいで私が消えたと予想してたらしく、なぜか応仁の乱を引き合いに出されたが、だんだんこれは夢だとわかり、いつでも目覚められるようになり、自分の意志で目覚めた。

こんな夢は前にも見たことがある気がする。
この種類の夢ではないが、ゾンビが出てくる夢で、ゾンビを撫でたら笑いの仙人がでてきて不思議な感じだった。

夢は霊的な存在が人間をテストするために使われる時があるのかもしれない

不思議な夢を見たのは、その日の夜に、小学校以来であるいろんな簡単な楽譜を呼んでいくことをしたからだと思う。

新しいことをやると夢も新しくなる気がする

同じ種類の動物にも個性があるので、
動物学もたぶん類的な考察のみでは
成り立たないと思う。
色彩は光と闇でできるらしいが、
この光と闇の相互が色彩の原現象なのだろうか? 原現象についてははっきりと理解していない。

水たまりを避けて通る品のある歩き方をする
上品、綺麗好きな犬から、
水たまりを突き進む大胆な犬が産まれたことがある。

着ている服が目的を表示して、そのうち何をするのかが予測できる。
そのほかの道具も目的を表示するのがある。
例えば鉛筆だと、普通に使うなら何かをそのうち書く、描くのだろうとわかる。

大切な人を守るために手段なんか選べないから悪がいいみたいなことをリアルに推し進めたら、確かにそれは守りたいという善を含んではいるけど、特定の超裕福なファミリーの利己主義的な他者洗脳搾取的な陰謀論の張本人の境遇を言い換えたことになると思う。つまりこうである。大切な人以外の人間には価値などないから、家畜扱いして我々だけに有利な世界を作ってやろう、これが悪になりたいという主張の現実ではないだろうか。

本当は自分にとって大切な人以外も誰かにとって大切でかけがえのない人かもしれないのだ

鉱物のうち土は、歩くとき、ぬかるんだ土やコンクリートなどの状態があり、鉱物は商品に加工されたり、宝石になったりする。
このように土の現象を具体的に考えることができるが、これを水にしたら、川や海、プール、霧、水たまり、氷などであり、植物動物についても具体的にどのような種類のそれらがあるかを考えるという種類の思考がある。

これも現実的思考の一つだと思う。
ぬかるんだ土は避けて歩く
汚い水で手を洗わない
風的な天気については、雨風は避ける
火を扱うときは気をつける、などの
日常的なささいな自然との関わりも、
こうして並べてみると面白いと思う

生活領域を区別する遊びもある。
例えば家庭領域、習い事領域、仕事領域
ネット領域 など
これらの領域でそれぞれできることはなんだろうかなどと考えていける。

音名は一番イタリア語読みが自然に聞こえる。
ドイツ語読みは自然に人工的な記号を対応付けて読むような不自然だと思う。
それは例えば
人間や岩に対して数字で読むような不自然さである。
日本語読みよりもイタリア語読みのほうにセンスを感じる。ではイタリア音楽はどんな曲があるのだろうかと意識は移行する。

まあ何か理由があってドイツ語読みも使われてるのだろうけど。

得られるものは得ようの思考は
断念を含んでいるから
持たない方向と持つ方向の中間だと思う。

日曜大工の手伝いをしながら同時に認識を行った。

今回の因果関係は木材の全体と部分だ。
全体から部分を切り取り、切り取られた部分をつなぎ合わせて全体を作る。要するに木材全体と道具があれば何かが作れるであろう、木材があり、道具がある、だから何かが作れる。そして木材全体の中から部分的に様々な形が含まれている。

熊手の知恵に驚いた。砂利と砂があり、砂利だけを集めたい。散在するものを点にするように凝縮させる。隙間のない爪では砂も砂利も全て集めてしまうので、隙間を開けることで、大きな砂利のみを集めるのである。
高校の化学実験にも似たようなのがあった気がする。確かスクロースとショ糖の実験かな。簡単に言えばザルの論理に過ぎないのだが、
自分でイメージを作って理解すると驚ける。

笑いについてをまとめると、
笑いはおかしい、つまり普通ではないと
言い換えられるなら、偏差が高いことや低いこと、つまり、ある異常性があるのかもしれないが、これで抽象的なネタが思い浮かんだ。例えば異常なことを普通な空気でやったり、全て普通のことをしているはずなのにどこか異常というのを強調するネタ。

コメントでの笑いは周囲とある文脈を共有していて、過去に出された言葉を
それとは関係はないが、そう表現してもよい状況の中で使ったり、ある分野の文脈を共有しているなら、その分野の様々な言葉を使った機知のあるコメントを使ってみるなどだと思う。

サッカーの文脈で誰々選手がゴールを決めたみたいなニュースに対して、結婚のニュースがあるなら、彼らのコメントにもゴールという言葉を入れたら、結婚はサッカーであるという、ある意味異常な比喩が完成して、面白くなる気がする。
つまり過去のものを現在に組み込むのは、過去のものと現在のものを組み合わせて珍しいメタファーを作れば面白くなるのだろう。メタファーは言語学の分野でもある。


テレビで見れない種類のお笑いはテレビ以外の生活の中にあって、どうもテレビ以外の場合のほうが簡単に笑いやすい気がする。

愛はお金じゃないというのは本当だと思う。
なぜなら動物にも愛情があることと
愛は金よりも古い時代からあるだろうし
お金は応用範囲が広いが
愛はお金よりも応用範囲が広いので、
論理的に言うならお金は愛であり、つまり
お金は愛の表現として使え愛はお金じゃない。
例えば親への肩もみは親子愛の現れだが、
金はかからない。

Twitter一生やらないとは言わないが
うるおぼえだが
それでは私が言ったことはそこまでリツイートされずお気に入りもつかないのに
私が言ったようなことを経歴や
業績の豊かな人、フォロワー数が多く人が言ったらリツイートされお気に入りが多くついたりしたというのがある気がするので、結局つぶやきの言葉ではなく肩書きなのかと思う。

私がもし肩書きがたくさんあっても
肩書きを書かずに言葉だけを届けるみたいな
信念はないけど、
純粋な言葉の力を確かめたければ肩書きを表示しないという方法があると思う。

音程に長短と完全、増、減などがあるが、
長短と完全についてはなぜそんな区別が
ついているのか理解できた。
ある度数の2つの音が構成する
全音と半音の数が同じ度数で二種類に分かれて、半音が多いほうを短とし、全音が多いほうを長とするのだろう。
完全の場合はある度数にある2つの数のそれぞれが全音と半音の数で見たら一種類しかない場合を完全と言うのだと思う

シュタイナーの音楽の話で、
個々の音にメロディー性を感じとれる時代がくるという内容の話があったが、
それはたぶん個々の音から発する倍音に自覚的になるってことだと思う。

上司と部下のピラミッド関係は、上司による下部の統一ともとれる。つまり上司という概念が部下という概念にとっての普遍にあたり、部下は特殊にあたる。上司概念にも種類があり、詳しくないが普通科のレンジャー部隊の隊長などとして、まるで実際に活動する人々を同時に活動する概念とみなすことができるかもしれない。理想化されてはいるが。
実際に体を動かすことが同時に認識でもあるものはたぶん社会認識だと思う。

破壊的な概念の反対にある創造を目的とした組織、軍隊のようなものがあれば、活動であり、思想であり、芸術でもあるような何かになるのだろうか。それは唯物的な手段を超越した、魔術的な組織であるべきだと思う。このような理想は神の活動でなければありえないのかもしれない。

作曲はリズムを決めた後にメロディーを想像するのだと思う。

ト音記号やヘ音記号の名前の意味は、記号の中心に来る線がト、つまりソやへ、つまりファだからそう呼ぶのだと気づいた。

自由7科、リベラルアーツと呼ばれる伝統的な学問体系がある。
文法、修辞学、弁証法の3つと
数学的な算術、幾何、天文、音楽である。

現代的に言えば哲学的なものと数学的なもの
に分けられるだろう。自由になるための学問としてこれらがあげられるなら、数学だけでも哲学だけでも、完全にはなれないってことだろう。
これらそれぞれの学問には女神がついているという。もしかしたら特定の学問に関わると特定の天使が働きかけて民族神のように導いてくれるのかもしれない。

私が哲学者に窮地に出会ったのは女神のお導きだったのかもしれない。

全領域を食べ尽くすのは難しい。
学問の全ての領域を歩くだけでも時間がかかる。
このような広い範囲を持つ特定のものを
全体的にすると言う方法の他に
広い範囲を持つ特定のものから、
特定の範囲だけをして、その他の全ての広い範囲を持つものからも同様に特定のものだけつまみ食いして、それらを深めていくというやり方がある。

第一の方法は学問を包括的にするのか、
あるいは芸術を包括的にするのか、などだが、
第二の方法は、学問のうちの人智学のみをやり、芸術のうちの音楽だけをやり、意志的な仕事を深めていくなどというやり方である。

第三の方法はそれらの中から、特にその一つの領域だけで全体を包括するような分野を深めていくと言うやり方で、これは二種類ある。
博物学的な個々の本質を取り出していくゲーテ的な方法と、最小のものが全体でもあるようなヘーゲル的な方法 学問においては彼らかもしれないが、芸術では全人間的な芸術をやることになるだろう。ヘーゲル的な観点からしたら詩になる。なぜなら理念と形態に動きが加わっているから他の芸術の要素を含むからである。ゲーテ的な観点からしたら、全ての芸術の理想が音楽的なものらしいので音楽をやれば全ての芸術の理想に通じることになる。音楽は全人間的らしい。今度は意志の観点だが、仕事は分業化に向かうらしいので専門的にやってもいいと思う。あとは小さな奉仕活動を気が向いたらやるとか

考えどうりにはいくとは限らないので、これも自然に任せるしかないのかもしれない。

詩を音楽にのせると歌になり、
詩を絵にのせると漫画になるなら
詩を彫刻や建築にのせたらどうなるのか

文系、特に美術系や哲学系、宗教系
で学歴主義なのは変な気がする。
真理に近いそれらの科目が外的な価値に惑わされていいのだろうかと思う。
真理に近い条件に学歴は関係ないと思う。

学問という真という価値を担う領域に
属するのに外的な価値に惑わされていいのだろうか。妄想だが、企業も学道を歩んだ人たちが採用されているはずなのに外的な価値に惑わされたり、
真の価値にふさわしい活動や商売をしているだろうか? 企業も私のように理想を体現してないのかもしれない。学問を利用するが、真の価値は捨てている場合があるのかもしれない。学道を歩んだ人たちなのに、学歴差別があっていいのだろうか? 
本当は無知だけが罪なのではない。
学識や洞察があることでかえってその真理に準ずる振る舞いや活動をしていないという罪があるのだ。知っている責任である。

学歴から何がわかるのかの考えがあるから学歴主義になっているのだろう。
でも真理に近い人かどうかは学歴ではわからないと思う。

学道を歩んだ人たちで構成されている
大企業であるとしても自分たちのために政治献金をするような企業は、自分たちの直接の利益にならなくてもいいから、みんなのために献金しないなら内的な価値を持たない普通の企業が大きくなったものに過ぎないだろう。

それよりは無名でも内的な価値のある企業こそ真の企業だと思う。

美しい国日本という理想はそれが完成されたとしても、美しいマスクをつけた醜い日本に過ぎなくなるのかもしれない。
まずはそれを唱える政治内部から美しくならなければ本当に美しい日本は完成しないだろう。

たぶん政治家がいろんな高貴な理念をかざしたら、政治内部自身がその理念にふさわしいものにならなければ、国がその理念を完成することができない。まずは政治家自身がその理念にふさわしいものに進化し、身近な周囲もそのように変えて内部から外部を変えていくようであるのが理想だと思う。

つまり政治家に求められる資質は自分を変えていける力なのかもしれない。生命霊の能力だと思う。

詩って言ったけど
詩は哲学的な面白い世界の見方を提供するような、
たぶん哲学詩とみなしうるものを、
ここのコメントで提供してきた。
私の場合は書きたくなるような
面白い世界の見方を見いだそうとすることが、
素朴な詩作、思索の一部だったのだと思う。
理論の研究はせずに他人の面白い見方を集めていこうと思う。

対象をなんと解釈するかのうちに
擬人化の他に擬自然化があるが哲学は
それを対象は何であるかとして、対象と
何かの概念を結びつける。
結びつけるということでは詩も哲学も同じだと思う。哲学は存在を理念とするが、良寛さんは自分を紅葉に喩える。
喩えればいいってもんでもなくて驚きの伴う結びつきでないとダメだと思う。
雪のように白い肌という表現には何の驚きもないでしょう。
しかし良寛さんの紅葉の詩には
驚きがあった。

哲学の総合や全体性の形成も詩だと思う。

笑いの考察内容は
笑いにならなくてもコミュニケーションの助けになることがわかった。
リフォームの番組を見たら
私の頭もリフォームしたいと結びつけ
コミュニケーションになった。

音名が身体の構成要素に対応する
呼吸と心臓の比率が四分の一のリズムらしい。
そのリズムの中で身体の重層的な構成要素が各々活動することで音程が作られ音階になる。

動きを含む詩であることを忘れていた。
直観的哲学は芸術的でもあるのでいいかなと思ってしまったが間違いだったってこと。

物語的な文学と音楽を暫くやるだろう。
文学作品は家にあるのと図書館にあるのをとりあえず読もうと思う。


ネット盗聴はそれを主張しても
統合失調症を疑われ、その風潮を隠れ蓑にできるから、捕まらないって点があると思うが、
それも神や死後があるとわかればしなくなると思う。
ネット盗聴の罪以外の罪など死後に全ての真相が明らかになると思う。

賭けをしよう。もし私が自然死をして
死後の世界があり神がいるとわかったら、私の絶対的勝利であり、死ぬと無になるなら、無神論者の絶対的勝ちである。でも唯物的に考えることもできると思う。
つまり心や自我とは生きたエネルギーなのだ。
高次元にあるエネルギーの種類の一つとして人間エネルギーがあるのかもしれない。この次元にあるのが鉱物的エネルギーだけかもしれなくても、高次元の世界のエネルギーの種類はまだわからないだろう。意識が実験に作用するらしいが、ここから、人間エネルギーがあるのもおかしくないと言えないか? だから死後に人間エネルギーが体から抜け出して、さらに高次元の世界に住むことになる。生きたエネルギーがあるなら、そのエネルギーにも幾つかの種類があるだろう。その生きたエネルギーのうちに、
神と呼ばれているエネルギーがあってもおかしくないんじゃないだろうか。

意味の広い単語は別の単語を含む。
音楽の段階で言うとある一節の音の単位は別のある音の単位を導くものである。そして特殊を含む普遍は幾つかの特殊から普遍へと関係しているが、その関係は特殊は普遍であると言い表せられ、幾つかの特殊から一つの普遍へと、一つに収束していく複数の楽譜があることになる。

音楽で統一を表現したいなら、ある特殊、普遍
別の特殊、同じ普遍とやっていけばいいのかもしれない

違った曲に同じフレーズを入れることで、
それらを統一されたもののように表現できるかも

芸術についての考え

芸術は精神の表現だとしたら、
その表現手段で区別される。
精神の中に特殊として各種の芸術手段がある。
そして精神から手段への推論が時には音楽と呼ばれ、時には文学と呼ばれたりする。
芸術とは精神から手段による発露への推論であるって考え

文学のために語学やろうかな
これまでかじってきた
語学を深めていき、
それにロシア語をプラスする
という読み方をしよう。
まずはロシア語入門からやろう。

やっぱり語学はやめとく。
自分の場合、
音楽も文学も本格的過ぎずに
ほどほどにすることになるのが
現実だと思う。
どれも深入りしたことがない新しい領域。
長く続けるつもりだが一生続けるかは未定。
文学はまずロシア文学全集を一巻から読む。
音楽は楽典を頭で理解し、感覚でも理解するためにじっくりやれたらいい。
曲を聞いてそれが何の表現なのか感じられるようになれたらと思う。

文学を読んで何になるって気持ちがある。
これは勉強の合間にでもやればよいことではないかとも思う。
能力は経験が内面化したものだから
文学経験を積んでも何らかの能力になるはずである。

まずは文学を読む意味について考えながら
読んでいこう


文学を読む理由は
ネットに答えがありました。
でもその答えはみんなの胸の中にも隠れているだろうものです。
どうやら、感性が豊かになるかららしいのです。

そしてシャンティフーラの竹下さんによると感性が能力を作るみたいですね。

私はこの人生は一つのことを深めて
世間に目立つような活躍は
しなくていいかなと思う。
それよりあらゆることに高い適性を持つ
ような器用さの天才を目指したい。
幾つもの来世をかけてそうなるために
なるべく領域横断的包括的で、力にならないと
言われがちの非専門的にやっていきたいと思う。でも、新たな考えが浮かんだ。
魂の愛の能力を育んでいけば、それが
もっとも包括的で最高の能力であろうという予感である。

愛の領域に関する分野に取り組めばいいってこと。

なんでも自由ってして羽目を外しすぎたり
命が危険だから禁止しているのに決まりを守らないなどは
ただの悪だと思う。
不正な自由とは悪のことだろう。

感性について考えてみた。

感性は現実が受けとる人の中でどのような現実として形をとるかってことも一つにあるのだと思う。
そして受け取る人の中にある形を形成するための型がこれまで学んできたものによって
育つ。たとえば音楽を知ることで、世界から音楽的なものを見出すことができるようになるだろうし
ある曲について深く知っていることで、世界から、その曲的なものを見出すことができるようになるだろう。
つまり自分の中にあるもので世界を見ることができるようになる。
ゲーテ的な観点では、人間の目は光に由来するから光を見ることができるという。
身体に自然に備わっている感性が感覚なのかもしれない。目は光的な型を持つから、光を見ることができるってこと

哲学的感性や音楽的感性の中には認識の型を育てるものがあるって考えだが、
では文学を読むことで養うことのできる感性とは具体的には一体なんなのであろうか。
それを私の問いにしておこう。まあこの問いは文学青年や文学少女を観察してたらいずれわかってくるかもしれんな

人生に楽しいことがないんで、
せめて人生を有意義にしようと思う。
そしたら人生は死んでも別の形で
続き、記憶がなくなっても
自分のやってきたことは残り続け、
その成果が別の形の中に反映される
と考えておいたほうが
有意義な人生を設計するのに役立つ。

だから楽しくなくても領域横断するために
音楽と文学を続けよう

自転車は
こげるようになったら楽しかったので
楽して楽しもうと思うのが私にとっては
間違いなのかもしれない。
はじめは、できないという苦を経てだんだん
できるようになっていき、自由になっていき、楽になっていき、楽しくなっていくのだろうか。だからできることが少ないと人生はつまらないと感じるのかもしれない。できるようになるまでにも苦痛を伴うので、やろうとせずに、従って人生は楽しくならない。楽しくないとは
力のないことの証なのかもしれない。
思考が楽しくなるのは自由な思考ができるようになってきたらだと思う。恐らく意識魂になって、自己の霊性を直観できるようになってきたら思考は楽しくなるという理論


神経は外界の思考性が身体に刻印され、思考性の型が身体に内蔵されるようになり、それにより外界の思考性を感受できる感性を持てるようになったのかもしれない。つまり神経の根拠に外界の思考性があるので、神経が先にあるから概念的なものを感受できるのではないとも考えられる。概念的なものが神経より先にあるから、人間に神経があるのだ。

文学的感性の一つが何かわかった。
それは文学的認識方法であり
抽象である。
例えば罪と罰で言うなら
頭脳と理論に対する神と良心などとして物語の対立要素を抽象する認識方法である。
この対立の認識の感性は現実にも応用できるだろう。

ここでわかるのはこれは学問的方法を文学に応用したらこうなるってことであり、ここに詩人的感性を応用したら、考察の代わりに詩や歌が読まれるのかもしれない。ということは結局それらは小説や文学自身から汲み取られた感性ではないことになる。でも仕方ないことで、
芸術を認識するためには芸術は学問的な殺伐としたものにならざるをえないのだろう。
文学自身が創作のためには認識を土台にしているのもありうるしな。
芸術を認識に変える以外に、芸術を芸術に変える方法があるだろうってこと。
もしかしたら文学は認識を芸術に変えたものであり芸術の認識は芸術を学問に変えたものなのかもしれない。

物語のどこに芸術性があるのか考えてみる。
聖書だと、死からの復活や病気が癒されるなどの、苦痛や怒りからの解放、浄化や悔い改め、進化など、ある変化に
物語の芸術性があるのではないかと思う。
例えば罪と罰で言えば一連の過程を得てラスコーリニコフが良心に目覚める変化に芸術性があるのではないか。
だから文学で養うべきは以前のそれと比較して変化した部分を見いだすあるいは変化の過程を把握する感性かもしれない。変化への眼差しは文学以外でも養えるが、文学では精神が動いている。精神の行為、特殊の全体を把握したら、その人物という精神の動態が明らかになり、従って普遍特殊という精神性が見いだせる。これが空間的な、変化以前の精神性。
文学から学べることは、たぶんこの精神とは停滞し変化のないものではなく、閉じているような精神でも外の影響を受けて変化すること。
つまり外によって内が変化する。主観概念は外に開かれている。主観とはどうやって別の立場に変化していくのかも学べるかもしれない。

文学で精神の動態を知り、変化の過程を知ることができると予想するが、これは一つの原理を直観すればよいものではなくて、様々な個性や過程を知ることで、様々なそれらの型を蓄えることになると思う。この型がどんな能力につながるのかわからない。たぶん、その個性を憑依させた言動ができるようになるのかもしれない。文学から培われた記憶は演劇能力となる。自分でありながら別人を体験できるようになる。以上は未経験者の予想に過ぎない

文学はロシア文学はやめて
ファウストをやろうと思う。
ファウストは全人的人格で自分の傾向と一致するのを忘れていた。このファウストはシュタイナーによれば全ての人に備わっている個性らしいです。
もしかしたらいろんな人からファウストを見いだせるようになるかもしれない。

いつか、シュタイナーのゲーテやファウストに関する著作を読もう

ファウストは自らの内の神を原理としており、その永遠の活動性が魂に与えられて努力家、活動家となり、自由への意志を持つ個性で、
要するに意識魂の性質をファウストの個性にしているのだと思う。ファウストを読んでいたら頭に潤いを感じた。

言葉がむなしいからいつか感覚的な分野に
向かうかもしれない。
感覚的な分野は仕事や気功、音楽、白魔術、
いか超などかな。

ファウストは学問的な悟性魂を究めるような生活では
満足できなかった、そこで感受魂的な快楽、欲望の領域に降りたがグレートヘンの悲劇に終わり満足はできなかった。だから悟性魂のもう一つの側面である心情魂のヘーレナの美の生活へと移ったがそれも満足に足るものではなかった。その後に創造的な世のため人のために自由を勝ち取るという善と自由の意志の意識魂的な生活で、
留まれお前はいかにも美しいとして満足することができた。人間は意識魂的な生活で魂を満足させることができるのだろうか。なぜなら、 それが魂にとっての最も内的な生活で、自分自身だからである。つまり、善なる自由への意志を持ち努力する活動的な生活は外的なようでいて、最も内深くを源にする生活なのである。と読みました

声の概念は体と咽頭の変形で
高い声、低い声などの複数の質を作り出す。

音声学は母音と子音は口腔内の変形により
作り出された口腔の特殊性とみなすと解釈

人間は努力する限り迷うものだと言う。
言葉は灰色だが、私の口から出た言葉は、
知識を血肉として性格や体質にまで作用させたものの言葉ではない。まだ知識を表面的な頭に
飾っているに過ぎないものの言葉だ。

だから知識を深めていこうかなあ

霊学を血肉化しながらも、音楽や気功
といった感覚的なものをやるのもいいかな。
ある学問をやりたいという衝動はよくある
話だが、その他に、知的でない、感覚的な
分野を極めたいって衝動もあるのだろうか。
ファウストが学問ではなく、
感覚的な領域に属するものどもをやっていたなら、どんな境地になっていたのだろうか。
知的なものは灰色であるが血肉化することができるらしい。では、感覚的なものを深めたら、その境地はどう表現されるだろうか。
例えば気功をやっておれば、身体内部の知覚ができるようになってくるらしい。
その感覚は知性を灰色と表現するのとは違って、
どう表現されるだろうか。

耳の能力は絶対音感が有名だが、
他にも母音や子音を聞き分ける能力がある。

力をつけて成果を出せるためには、
いくらか専門知識をつけないとだめだと
思うが、成果に捕らわれなければ
自由に学んでもよいのである。
専門的に学んで力をつけた人は
これからもその専門を深めざるをえなくなり
時間を犠牲にすることになる。
誰の役にも立たないが
学びたいことを学ぶ人がいてもいいではないか、と思う。力をつけなくてよいのは、
力がないから自信はつきにくいが、
力をつける必要がないから、それに拘らずに
学んでいけるのは恵まれていると思う。
最先端の分野に携わる人は自分の意志でそこ
にいったのだろうが、その分野につきっきりにならざるをえないとしたら、学ぶ領域が限定されてしまうから時間を犠牲にしてる。

ゲーテ、ヘーゲルの改善者がシュタイナーであるが、シュタイナーの改善者がいないなら、
まずは古い人智学に留まらざるをえない。
新しくても人智学の方法の
改善したものによる内容でないなら、
人智学の発展系列とは別のものだ。
人智学の発展系列でまだシュタイナーが新しいなら、シュタイナーを学ぶしかない。

曲の発達史が面白そう。
曲を総合して動物と人間は腕と頭が自由に
なっているかどうかの違いだと観察するように、ある曲の進化系として別の曲を位置付ける。歴史的なものとして観察するのは既にあると思うけど、このような発達の観点のもとの音楽史ってあるかな?
なくても研究したら見いだせると思う。

演奏の力も発達順に弾いていくと意識的に
身についていくのでは。

シャンティフーラの竹下さんによると、
ゲーテもシラーもシュタイナーも
ハルマゲドン計画を企てていた連中に含まれるそうである。
つまり、彼らは光の振りをした闇の者であることになる。

霊的成長は参考になる文献やセミナーが
本当かわからず
のめり込んだら危険なので、
自分で体験できる感覚的なことをしようかな。


それでも、シュタイナー教育はプラス評価にしているとみる。つまり直観全てが嘘とは限らないのだろう。

霊学ではないが霊性が宿っていそうなものや 感覚的なもので霊的であるものは
論理学や数学、音楽、気功、
スポーツ化していない武術や
人間関係による、霊的存在どうしの
相互作用などだと思う。

なお、竹下さん的には
ホツマツタエはどうやら正しいようである。

私は何かを学ぶことに捕らわれているのだろうか。

次の本はホツマ文献にしようかな。
あと音楽をほどほどやりながら、
仕事をほどほどやりながら、
人間関係をやりながら狭い領域で
生きていこうかね。

エーユー職員の携帯個人情報の盗聴騒ぎがあった。
写真もメールも企業側に送られてから個人に届くとか。
秘密にしたい情報は携帯に撮らない、送らないほうがいい。
今回の職員以外にも盗んでいる人がいるかもしれないし。

もし企業が腐ってたら、携帯に集まった個人情報を盗み見、監視して、どこかに売ったり、企業戦略に役立ているだろう。そして企業側がある個人情報に注目して、その人を監視するのもありえる。

中国の企業なら個人情報監視は
ありうると思う人もいるだろう。
企業は道徳を守るとは限らないのである。
日本に陰湿な特性があるとしたら、
ばれないようにやっている可能性がある。
教師にも警察にも政治家にも汚職がある、
きっと企業にも汚職が満ちているだろう。

ファウストは
短文の羅列、つまり詩で構成された物語で、
3の法則を使ったり両面あるなら両面を全部描いてみせたり、小世間の人々、大世間の人々を描くにしても、なるべく多くの精神を描くようにしていて、つまり多方面に向かっていて、活動的な努力家を主人公にしている。

狭い世界でしか生きれないそれ
以外の点でも惨めな
私にとっての読書はせめて思考だけでも
広い世界を形成してくれる。
つまりこういうことである。
例えば音楽や数学、哲学などの世界は楽器、頭脳、目の前の直観がそれらが目の前にある狭い領域であってもその中に法則の広大な内容が含まれているのだが、それと同じように、小世間から全ての人間個性や出来事が原理のように含まれてはいないので、小世間だけの生活領域では、大世間を経験したことにはならないのだ。
法則は普遍的であり、局所的な場所に通じるから、局所的な場所から普遍を見いだせるが、小世間と大世間の関係はそんな関係になく、二元論的なのではないか。


確かに小さな家庭の中にいる人間が王の活動と同じ経験はできないが、ごく小規模なものとなった同じ類の経験はできるかもしれない。
政治、経済、精神がどれも小世間の規模で経験することになるが、それは大世間のものとは別のものだろう。だから問題は小、大という特殊性の違いにある。小さな世間と大世間は個別普遍の関係ではなく2つとも人間生活の特殊性なのだろう。

小世間と大世間に関してはそれの原理は
どちらも人間でありどちらも政治的、経済的、精神的な活動をするのだが、
その規模で違ってくるなかな。
政治においては
活動の内容がより公的なものとして広がっていき、経済としては末端から上層部への関わりとして上昇していき、精神としては学ぶ者から教える者へと深まっていく。この3つは、
横のつながりも上昇していく。
大世間と小世間は同じ人間を原理とした
異なる役割を持つ2つの領域で、
どちらかが、どちらかの役割を完全に
含むのではなくて、人間の活動の2つの側面だと思う。人間という大きな円の中に真ん中くらいの少数の円といくつもの小さな円があるイメージ。

狭い世界に生きる人は、その個別的な状況からでも普遍的なことは学べるが、人間の活動領域の一部のみ体験している。
認識からはおとなしく止まっていても普遍を学べるが、
実践的なことは自分の中から特定の活動を発現させえる状況にないとその実践は学ぶことができないのだろうか。

頭脳は思考の知覚器官とする
それ以外の知覚器官は思考以外を対象とする。
頭脳は自分で内部の自然を働かせて思考を作り知覚する。それ以外の知覚器官は他者の働きを知覚する。
感性、感覚は理性の別の姿だという考え。
知覚内容も知であると。
全知を目指すなら頭脳だけに集中すべきではない、となる。

感覚的な内容にも概念が見いだせると予想してます。

例えば音楽の度数の種類に長短があるが
ある度数の長でくくられる音程は短でくくられるものより多いが、このような音ではない数による規定ではなく、感覚的な音の質の幾つかが、感覚的でありながらも、そこに共通する感覚があるから、長や短としてまとめられるのではないかって予想。

つまり単語と単語の関係を形成する言葉的な概念ではなくて、深い傾聴から把握できる、
全く感覚的な概念があると予想する。
視覚的な感覚的概念は既に発見されている。
それは私が見いだした品詞の哲学である。

度数は概念的に理解できる。
ある度数はその中にあるそれぞれの音程が、
同じ音質に聞こえる。
この大まかな感覚が微細なものとなり、長短の感覚に別れる。私はまだ長短、完全の感覚は掴んでないが、大まかな度数の感覚は掴めた。
例えば二度はどれも主音は違えど同じ間隔を開ける。その同じ間隔によって同じような音質となる。要するに音楽における感覚的な概念として、音程がある。音楽における言葉が音程だとしたら、音程が意味を作るだろうと予想できる。事実、音程は音と音の関係であり、意味とは主語と述語の関係で文ができるように、関係が意味を作る。

度数は音楽における意味の単位だと予想する。
これが度数や音程を学ぶ意味だろうか?

視覚的な概念として品詞があり、聴覚的な概念として音程があり、思考にも概念がある。
何でも言葉で表現するのに反感を持つ人がいるかもしれないが、音楽的な言葉は、人間の言葉とはまた種類の違う言葉だ。つまり神にとっての多言語は口から出る言葉の範疇を超えた言葉なのだろう。

ここのコメントで広範囲の領域で、
ゲーテ、ヘーゲル的な概念を見出してきた。
これほど誰にでも共有可能な真理は
ないと思う。
だから私はヨハネ福音書の冒頭が信じられると
思うし、ゲーテ、ヘーゲル的なものが闇のものと言われようが、彼らは一つの真理を
持っていたと思うのだ。
これに反対する人たちの他の真理原則も同様に地上に現れるものだろうから、この概念の真理と同じくらいの応用範囲を持たなければならないだろう。おそらくこのヘーゲル的な真理は
反対者がいても破壊不可能な類の真理だと思う。でも反対者の真理も破壊不可能な類かもしれない。そんな時はもう一つの観点も受け入れようと思う。

デスメタルやアンチゴッド的な
音楽ができるのも、神が言葉と音程
を作ってくれたおかげなのだ。

建築はもとの原料の全体から部分を切り出してそこから新しい全体を作るという、
全体と部分なる概念的なものに頼っているし
彫刻は潜在から顕在への過程が概念的だ。
絵画は対象に色彩を加え形容詞を加える点で概念的だ。色彩だけにしても、光と闇の原現象から多彩な色彩が生じるらしいので、概念的だ。
あるいは白紙に線や色をつけて形容詞化は概念的だ。
音楽にも概念が見出された。詩は言葉なので、
既に概念的である。

アンチゴッドを芸術的に表現するためには神のつくりたまいしものを利用せざるをえないのかもしれない。

やっぱりヘーゲルの法哲学で、
君主制を上に持ってきたのは、
そうしないと命が危ないとか
出版させてもらえないなどの事情がある
のだと思う。
ヘーゲルがわかりにくい
言葉で真理を表現したのにもわけがあるはず。

真理を喋り過ぎたら私以外の人間まで
殺されてしまったり、企業や国からの
嫌がらせを恐れるので、
私もそろそろ黙ろう。
語学哲学や音楽哲学の発見だって、
もともと無意識に発見されていたことだしな。

哲学的に本当に大した仕事が
できるわけでもないのに、命を危険に晒している気がするのだ。

国や企業が誰かに嫌がらせすることがないとも言い切れない世の中だ。

もっとどうでもいいことを
書き込む。

何かを無くしたら、ポケットの中に入れっぱなしか、外出先に置き忘れたってことの
他に、かさばって一目ではわからなくなっているかだ。
一目ではわからない場合、目の前の
視界のもっと奥を見る必要がある。

道具は使用方法の
観察による理解なしに使うと間違う。

いろいろな理想を立ててみても
高すぎて実行できるものではなかった。
文学では、それに表現された個性を
演じられるようになり、最後には
ほとんどの個性を身につけてどのような振る舞いもできるようになるのが理想だが、
その個性に現代的な形式をまとわせながら
しかもその個性に相応しい振る舞いを
できるだけの想像力と実行力がなかった。

私の歩んできた道によって洞察力が身についてきたらしい。これにより自分より経験のある
音楽の先生が気づけなかった楽典のことを気づくことができた。

でも興味のないことには
私の洞察は働かない。なぜなら観察しないから。
テストでもはかれない能力だと思う。
人生の何気ない自然な場面でわかることだろう。
テストも万能ではなく、測れないこともあると思う

例えば建築だと全体と部分という概念的なものによる芸術だとしたが、いかにするかの観点、が残っている。全体から部分を切り出して、再びつなぎ合わせて全体を作るのだが、それをいかにしてやり遂げるのか。
これはいかに切り出すのかという動きの特殊性、すなわち副詞的なもので、いかにとは副詞だ。建築のために板を切り出す場合も石を彫り出す場合も、画用紙に形を描く場合も、その動きは線的な動きだ。だから真っ直ぐにか、曲線的の2つの特殊性がある。これは実際に作業をして作っていく過程で直線的な動きと曲線的な動きの配列にならざるをえず、その総体が全体像になるってこと。

当たり前だけど幾何学に属する領域では
幾何学の要素を使うことになるのだろう。
だが動きでもあるので当たり前だが力学になる。
もともとニュートンのプリンピキアは
力学的なことを幾何学的に表現しているので
力学と幾何学は通じるところがあるのだと思う。線形だから、線形代数にもなってきて
力学と幾何学と代数が通じてくると思う。

いかに表現するかは、それを表現されたものにする。こうして動詞は形容詞に変化し、動きの副詞が形容詞副詞に変化する。つまり、美しく表現するなら、美しく表現されたものになる。名詞の中の形容詞と動きは動きを形容詞に、形容詞を動きに変化させることができるという仮説を立てる。この動きを形容詞化したのが分詞ではないか。

ものを美しく表現する
美しく表現されたもの

動きの表現するの特殊に動きの副詞美しくがあり、その中に目的のものがある。
ものという名詞に形容詞の表現されたもので特殊化され、さらに形容詞副詞で特殊化される。
美しく表現されたもの、とは、特殊なものであり、ものを美しく表現するとは特殊な動きである。きっと、特殊な動きは、対象を特殊化するのだろう。だから動きが形容詞になれる。他の文例。人を呼ぶとその人は呼ばれた人として特殊化する。

表現の道具ではなく、
表現の全体像の源泉は型にあると思う。
内部に創造の源泉、型があるから現せるのかも。
型は学んだこと、経験、記憶などだろう。
無限の創造力があるなら、
それは応用力が無限に豊富な型だと思う。

ゲームやアニメプランナーの想像の源泉に
夢があると思う。
実際、私もオリジナルアニメを何度か夢の
中で体験した。
人間の中には過去に縛られないオリジナリティある創造力が眠っていたらよいのだが。

私の夢は、体を木造式の機械、
カラクリにした人間などがいる、
圧倒的、絶対的な悪の組織が
暗躍しているのだが、
その絶対的な力に対抗する魔法道具を持つ魔術結社がいるという希望ある夢でした。その一人が何やら決めゼリフのような詩を言っていた。

民衆の監視は、特定の人物のみだと、
お前にそんな価値はなく、自意識過剰、病気と
思われがちだが、そもそも民衆全体を監視しているって考えはどうだろう。確かに民衆のうちの一人を監視するのは意味ないかもしれないが、民衆全体は監視する意味が出てくるのでは。

民衆監視などして利益を得ようとする組織
は自分たちが黒幕だと思っていて、自分たちの背後には何もないとしているかもしれないが、
善なる神がその背後にいて、悪の組織に対して怒っているかもしれない。

魔法入門 真を見抜く方法というサイトや幻の桜というサイトを知った

直観的言語哲学ができるかもしれないってこと。

魔法入門をいつか読んでみたい。
私がそれを読んでも実践する気がないけど。
私が何かを学んだところでなんになるのだろう。
私の人生に使命、意味など感じられない。
進化がなんになろう。
存在してなんになろう。
人のために生きてなんになろう。
苦しみに耐え欠乏を忍び商品を買うために
生まれてきたというのか。

特殊な行為は対象を特殊化する、
言い換えると行為者を軸にするなら対象は
行為者の働きの中に含まれて行為者の飾りになるが、逆に対象が軸となると、行為者が対象の飾りとなる。例えば私が皿を洗うとそれは私に洗われた皿となる。皿にとっては洗う行為が自分にかかる形容詞になるのだ。
こういう言語哲学を学びたいのだが、
言語哲学にそんな分野があるだろうか。
言語哲学は論理学をやってないと難しいイメージがありまだ手を出してない。

言語を使う側は言語を抽象物としか把握できない人がいるだろうが、言語の制作者は、言語を世界から作り出したとしたら、制作者の言語感受性は抽象物には止まらない、イメージ豊かなものだと思う。直観的言語哲学は言語制作者の感受性へと導くのが理想かもしれかい。

これは文法を世界から取り出すという試みだが、意味の探求も面白いと思う。
ものにも者物などがあり、同音異義語がある。
恐らく言語制作者は、
無秩序に言語を作り出したわけではなく、
ある世界観の中で言語を制作した。
語学哲学は直観的に
文法を把握する試みの他に、
一つの語学全体を把握して古代の世界観を復活させる試みにもなればよいと思う。
この世界観を復活させて辞書を作ると、
辞書を読むことが哲学書を読むことと同義になる。

単語の探求の例

性質、性格、性的のうち本質的な単語を探す
それはおそらく性質だと思う。男性女性という物質体の性質に、心理的、エーテル体的性質だ。他に同音の聖があるが、どう考えられるか。

内的な気持ちよさを感じている
このみずみずしさは甘さでもある
朝の清々しい空気を吸っても甘さを感じる
食事をした後にも心地よさを感じる
眠る時も同様である。寝過ぎると気持ち悪いが。
頭脳の甘さと鼻腔の甘さ、口腔の甘さ、
覚醒時の心地よさ、睡眠時の心地よさ
そして全身を淡く循環する生気
自然は私を快適に作ってくれたのだ。
この快さにどんな意味があるというのか
この快さはなぜそう感じるのか
これが朝の詩である。

詩の概念的形式を考えた
内から外へ 外から内へ
抽象から具体へ、概略から微細なものへ
上から下へ、下から上へ、
天から地へ、俗から聖へ
要素を配列し全体の形成へ

さらなる面白みへと飛翔するには
哲学性に音楽性を与えることだろう。

私には詩のペルソナがいないのだが
詩を考えることは面白いので詩を書く

地球は人間に自分を込めて生成した
それは人間の物質体の成長と同じ
内部から外部への形式である。
そして人間は物質であることにとどまらず
霊の花を咲かせた。
人間は地球に咲いた霊の花である。
自然に停滞がないならば
人間も自らを込めつつ
自らを超えつつ何かを創造すべきだ。
それは霊の果実、人間性の結晶を孕むものだが、それは地球が人間を
生んだように、別種の存在を生み出す果実だ。
人間から生まれると言われる四大エレメントは
人間性を彼らの母星にしたらよいのに

理想へ向かって努力するという小説の個性を
育めたらいい。
そもそも自分でオリジナルの個性を
創作したらよいのだ。それは自分の理想を体現したような個性で、簡単に言えば頭でっかちになって理想の立場からものを語ってしまうけど、その理想の立場を個性として育成していくのもありだと思う。それは現実的言論には使えないが、創作には使えると思う
キャラクターデザイナーが絵画の技術で自分のオリジナルキャラクターを創作するように、
自分で個性を創作できたらいい。

私は善の理念に従って活動してきたつもりだ。
確かに私の不完全性から誤りをしでかしてしまったこともあるが、失敗から、結局はより善なる存在へと私を導く教訓と改善への情熱を得るように努めてきた。というセリフを想像した。

私には創作衝動がなく
自動筆記もできないので、
思いついたときに少しずつ
個性を作っていくしかない。
個性を集中して作る努力をしないのだ。

哲学に音楽性を加えて詩にすること、
それは絵画と音響を音楽的哲学的に配列することでもあると思うが、
その詩は単なる抽象を超えたイメージと感覚の調和した配列なので魔術と関係付けられると思う

哲学に音楽が加わり、
視覚と聴覚、光と音の統合した詩となり、詩が魔術と統合する。音楽を学んだ後は詩を学び、その後に魔術を学ぶのもありかも。

魔法を理解したらこれまでやってきた
直観的把握を魔術利用する道が開けるかも
という希望を持つ。

私は自分をどんな境地へと誘うのか

芸術は創作以前の問題で、
芸術的感性がないのもあり、
まずは音楽だとソルフェージュや
音楽史を学び、音楽的感性を養うのを
優先したいと思っている。
それで少しでも、美を判断できるようになれたらよいと思う。

もともと私には創作力がないなら、
感受性を高めるしかない。

自分で制作できないのに、演奏だけするのは、
つまらない。制作できないなら演奏だけでなく、感受性も高めたい。

彫刻は外界に表象を刻み込んでいる。
彫刻は外界の記憶だ。
永年残る彫刻や建築は外界に刻まれた記憶。
もっと踏み込むと制作、
実践とは外界に認識させることなのかもしれない。
実践者自身が概念であり、
その主体となる概念が実践、つまり推論することは宇宙が推論して認識することだ。

宇宙はたぶん個人の多元的活動原理を普遍にした実践の総体を概念的な推論として認識しているのかもしれない。
つまり、あらゆる場所の実践や運動は宇宙に遍在する宇宙思考の一部である。
人智学をこの観点から読み直すと、三つの世界の七つの領域はそれぞれの世界の中にある七つの理念と考えられると思う。

私は精神的に幼いって
ことがわかった。
理想とはほど遠い。
それが嫌だがなすすべがないし
変わるための努力もできない。
なんで生きてるのだろう
欠乏をしのぶためだなんて

私には学問も芸術も魔術も
必要ないみたいだ。
俗物の凡人なんだ。
なぜ必要もないのに生まれたのか

来世のためだと思って音楽はソルフェージュやら音楽史を苦労しながら学んでいくつもり。
詩の方は詩史がないのが困りもの。
詩の感受性を身につけることなどできるだろうか? 
哲学をやってきて、
ゲーテ、ヘーゲル流の感性を身につけることができたが、それは理解のために必要な材料が世界と自分の日常生活にあるから音楽や詩よりは楽にできたと思う。ゲーテ流の哲学は普遍的過ぎて変性意識にならなくても体験できる。
哲学は日常の俗なるものも高いものにする

この哲学の感性の他に音楽と詩の感性を
つけた境地はなかなかよさそう。

私でもわかる数学の計算でも、
美しい式やその美しい式への具体的数字の
代入結果を記憶するのは有意義なことだと
思う。
詩や音楽にも形式において数学的美しさが
見られる場合があると思うので。
詩は幾何学的に見られる場所があるそうで。
逆に音楽や詩も気に入った楽譜や文を記憶するのは無為なことではないかもしれない。

シュタイナーは霊的視点で文学の発達、
進化史を明かしている。

日本にも、詩の発達史があればいいのに。

ゲーテの、好意ある読者たちに
という詩を読んで考えたこと。

何をもって芸術と呼ばれるのかの考察
その一つは創造性にある。
悩みや不徳も歌にしたらめでたい姿との
内容をうたっているが、
これは否定的なものに別のむしろ肯定的な姿を与えることができるとして、否定的なものに、
新しい姿を創造している。

ここに驚きがあり、この驚きを、概念的文章で表現せず、歌で表現している。

芸術は真実の表現手段の一つで
表現手段が概念的になると哲学で、
歌などになると芸術になるのだろうかと考えておく。

なんか、私の哲学的感性を利用して
分析できるゲーテの詩があるので
ちょっとした驚きだ。
創造性、弁証法、特殊化、一般からの分離、特別、矛盾性などが歌に登場していると思う。
などがといったが、これらはどれも同じ原理を様々な角度から言ったものである。
これらはどれも驚きを呼ぶものだと思う。


愛してくれ、よく知ってくれる人に憧れるので、近くても遠くなり、胸の秘密を打ち明けてしまいたいのに、それができないという矛盾的な心境、言い換えると葛藤。葛藤は矛盾的な状況だとしたら哲学的なのかもしれない。

遠いものを近くにする発想は、テレビの遠くの出来事を近くにするなどとして商品開発にも弁証法は無意識に役立っていると思う。
電話も携帯もインターネットも、近くて遠いのだ。
商品開発も含めた工学の技術発達史も面白そうだ。

その人の見えぬところは全て墓なのは、
つまり、その人が特別な存在で、
世界一般に対してその人が特定化され
世界一般に、なんと一人の人間が対置されている。世界一般は墓となり、その人は安らぎとなる。

恋心などによる特別な人間とは、
世界集合全体から特別なものとして特定され
浮き上がったもので、視覚で言うと視野全体の中の見られているものである。

あと魚には水、王には城などとして、性に合致した場所や、上下、幸運と不幸などの対比による全体性の驚きがある。

あとは悲しみなどの感情の理念の現象を歌った歌がある。理念の現象という視点。
一つの歌の中に矛盾などの弁証法的原理が
使われている場合と、矛盾は見当たらないが
理念の現象である場合があり、どちらも結局は
精神的だ。

詩も考えないと読めないことがわかった。
だが、私の詩の解説は詩を殺している気がする。
芸術とは認識の土台、骨組みに肉付けしたものであるなら、せっかくの生き生きとした内容を
無視してレントゲンをとり骨だけを見ているような感じだ。
でも認識だから仕方ないのかもしれない。
認識は芸術を骨にするが、逆に芸術に衣を着せたりさらなる展開へと運動させることもできるだろう。つまり芸術に対して、認識は根本へと戻っていくが、芸術に対して芸術を行えば芸術の肉体にさらに衣を着せることになる。

音楽でも哲学的感性が生かせそうな気がする。
例えばリズムがゆっくりか、速いのかの違いは、全体として見れば一小節の幅がだんだん小さくなり、つまり、凝縮、することで、小刻みにメロディーが入ってくることになる。
編み目の広い網の間隔が段々と狭まって布になるイメージ。
ゆったりした部分と速い部分、高い部分と低い部分、など、音楽理論でもこの違いを、詩のように、対比として、全体性の中のそれぞれの部分として理解できるだろうと予想しておく。

音楽にも驚きや弁証法的な部分や矛盾、全体性を現すような対比、そしてある理念の現象などが見られると予想する。

音楽や詩の感受性の一つが哲学的感性と近いものかもしれない希望を持つけど、それだけでは学び足りない。やっぱりそれらの発達史を知りたいと思う。ゲーテ詩集を自分なりに理解できたら、今度は世界文学の発達史とそれにのった本にいつか取り組んでみよう。音楽はソルフェージュなども必要だから詩より時間をかけることになるだろう。

音楽と詩に五年以上時間かけようと
思っていたが、感性を養う分にはそれほど
必要ないのかもしれないな。
哲学を学ぶ時間が芸術を学ぶ時間でもあったのだ。一に多が含まれるなら哲学を学ぶことは
それ以外の複数を学ぶことでもあったのだろう。
数学ができるなら二刀流で
かなりの領域を学んでいることになったと思う。
これらの後は気功をやろうと思う。
これは深みに入るには五年以上必要だと思っている。味感覚の洞察もできたらいいのだが。

ティエム様すみません、コメント欄お借りします。

のめーる様

空にわき上がる雲のように書き綴られるのめーる様の膨大な文章、最近は現実生活の一端から凝視される世界を平易(一見平易)な表現で浮かび上がらせるのが面白いです。
読解力あまりない私は、浜辺を歩きながら珊瑚や貝殻を拾うような感覚で、学ばせて頂いております。有難うございます。
徹夜の日もあろうかとお察しします。お節介ではありますがご面倒でもお身体のメンテナンスに、時々はごゆっくりと休まれてくださいませ。
「詩を認識、……せっかくの生き生きとした内容を無視してレントゲンをとり、骨だけを見ているような感じだ」の文に感じるものがありました。
肉付けして、衣をまとわせていく「芸術」、レントゲンとったり診察台の上緻密な作業で骨だけにしてゆく「認識」
しかし、芸術の骨の姿、骨格にも「美」はあるといえなくもないのです。それはアーティストが希求する「美」とはまた異なる道行きです。
「美」を感受し、胸が熱くなる。揺さぶられ落涙する。なぜなのか。哲学科学がいかように進んでもその学問的解答の扉を見つける日はないと、科学的根拠なく私は信じています。
認識を科学の分野にも置き換えながら書いてみます。
科学に「美」をみる人の喜びはどこにあるのか。骨格をうち眺め、顕微鏡に見入り、「美しいなあ…」と溜め息つく喜びは。
それは科学による森羅万象の征服ではなく、森羅万象に人間の及ばぬ何かを無言でさとされる瞬間こそが、科学に生きる人の喜びなのかもしれません。
砂浜にひとり立ち、科学医学の範疇はとうに風に吹き過ぎて、精神の海原と虚空を眺める胸のなか、しずかに芸術が孕まれ育まれ、踏みしめる足元よりつながり物質へと生みい出されていきます。

みるくゆがふ様

骨格にも人間に及ばぬ美や何かがあり
科学者はそこに感動する
確かにそうかもしれませんね、
科学に惹かれる人は私とは違うところを
見ているのかもしれない。
形式美なる言葉もありますしね。
そして科学にも仕組み、システムに対する
驚きがあって、そこを面白いと思う人がいるのかも。私も熊手の仕組みを観察したときは、
面白いと思いました。人間に及ぶのでも、
美しい設計図なども有ると思います。

風景画の表現の一つに、草の塊がある。
樹木から生える一枚一枚の個々の葉を描かずに、集合的に描くのだとか。
つまり、葉っぱという分散した対象を
一つにまとめるような全体性を描いていると考えられる。


風景画は見た目をそう見えさせる対象の特徴を
うまくつかんで、それを絵画法則にし
表現しているのだと予想する。
対象の見え方の特徴は
深めることができて微細に描こうと思えば
どんどんその特徴を加えていく。
その特徴をどんどんなくしていけば抽象画になる。特徴とは、それを特定するための徴だろう。世界一般から離脱してそれを全体の中からそれと見定めるための徴だ。普遍にも特徴がある。
抽象画は何が何だかわからないが、この抽象画あるいは普遍画に備わる普遍的特徴に、
特殊な特徴を加えていき、対象が具体的になっていく、と考えると、これが絵画の概念的なところだ。

絵画法則の探求は面白そうだが難しそうだ。
普段意識してないところに目を向けないといけないから。
人間を描く場合はその人の内面の特徴を
外面の特徴として表現する場合もあるので、内面の違いによって付け加える特徴に違いがでる。平面全体に、ある段階にある平面全体を加えていく、そこにまた、ある平面全体を加えていく、あるいは段々と取り去っていく。ここに概念があると見た。初めの平面全体は普遍と呼べて、だんだん重ねていくと具体と呼べる重層的とも呼べる平面になるってイメージ

芸術の逸脱という観点は普通一般からの分離であり、ファンタジーもそのようなところがあり、ここにも驚きがあると思う。
逸脱の表現をして次の表現の
発展があるとしたら、その逸脱した表現が、
普通の表現と調和したような表現をしたら、
弁証法的発展になると思う。

恋人は普通一般からの逸脱、特別だから、
恋愛も芸術になるのかもしれない。
気がふさいでいたのに好きな人を見たらからりと晴れるのは、気分の天候が曇り空だったのが、恋人を一目見るや空が開いて光が差し込む。他の芸術の観点には、変化があり、変化も、気分のふさぎが気分が晴れになるという、あるものの真逆な、反対の状態への変化という面白みがあり、この反対のものへの変化の考えは、既にアリストテレスの自然学で見られる。

雲は天空を塞ぐので、雲は開けから閉まりへと、天空の状態を雲は反対のものへと変化させる

知識は幾らあっても足りないくらいだが、
金は必要以上にあることが起こりうる。
脂肪が付くべきところには付き、つかぬべきところにはつかないほうがよいといっても、
それは脂肪があまりついてない人なのだ。
つまり必要以上にあるとは、肥え太っていることと同じで、金で肥え太ると誰かがやつれてしまうなら金では太らないほうがいいのだろう。

恋人に会う夜は心の炎が燃えたち輝くので
昼だが、恋人と離れる朝は、炎が静まり冷たい夜だ。
みたいな歌を影響を受けて想像した。
歌からこの歌が生まれた。

この本の中にある小曲集は一つ二つを除いて
全て概念的に理解できた。

物語詩になると難しくなる。
人の描写は感覚していることや、心情
性格、職業などで、性質が描写されると、
その性質が展開する。描写は特徴を並べ立てていく。

動きの描写も特徴を並べ立てていく。
移動なら、移動によって結びついた物や場所の
言葉が並べられていく。
場所になると、場所の中の描写が始まり
場所の中で動き
未知を既知にする驚きの探検になる。

盗むこと、忘れること、女を捨てて逃げることはどれも失うことであり、失うことで変化が起きる

いろいろな対象の形態などの特徴の
直観は画家だけでなく詩人にも役立つ視点だとわかった。

物語詩から。
期待と反対のことが起こる。ここに期待と反対のことの対比がある。
女を棄てるのはこれまでの二人の関係からの分離
恋い焦がれは特別な関係になる方向への動き
大切な形見を捨てて自分が死ぬのは、それを人間界から自然界へと分離させ、自分も自然界へと向かうこと。

特別な関係を結ぶこと許していることで生じる行為の描写

嫌いなこと、避けてたことをするようになる
というあるものが反対のものへの逆転。

この逆転はラノベでよくありそうな、
さえない普通の高校生が特殊能力に目覚めるという、普通から分離し、普通から特異への逆転などがある。

これまでのことや関係から分離することによる変化と、その変化によって反対のものに逆転することによる変化など。
しかし反対のものに逆転しても変わらないものがあるなら、それは本質的なのかもしれない。
例えば愛し合うものどうしがいるとする。
ある日常の状況から非日常などの
反対の状況になっても愛し合うなら、
その愛は本物の愛みたいな物語もありうるだろう。

ティエム様すみません、コメント欄お借りします。

のめーる様、返信ありがとうございました。

言葉は空間にも反対、対比を見いだします。
前に後ろに右に左に押し合いへし合い、などです。

算数の領域では対比は分数や比として現れているのでしょうか。算数の中に当たり前な、世界一般原則的な、比較の法則が含まれているのだろうか。

霊界は現実と似ていないだろう。
なぜならそこで働く法則が違うから。
地水風炎があるように見える世界でも、それは地上の法則とは別の法則から出来ているので、
地上とは同じようには見えないと思う。


ゲーテのような詩を実際に
作るのは私には難しいが、
私がゲーテのような弁証法的な詩を
作っても彼と同じだけの価値があるのだろうか。詩には弁証法的なものがあると
わかっても弁証法的な詩であれば
どれもゲーテ並みの評価に値するのだろうか?
まだ未熟だから、芸術における本物がわからない。
また、弁証法的だから美しいのだろうか。
メッセージ性はあっても美しくないなら、なぜ芸術手段に訴えるのか。美しくなくても、迫力などで感覚に訴えたいから芸術にしただけなのか。

ゲーテの詩を読んで、何が美しいのかよくわからない。驚き面白さはわかるがね。
美の感覚とは何かまだわかってない。
生き生きとした麗しさが美なのだろうか
驚きと通じるのが美なのだろうか

真善美がわかってこそ真の教養だ。

芸術で逸脱のテーマがあるが、
実は逸脱というテーマが生まれる前から
恋人の特別という意味での普通からの
逸脱があった。
恋愛ものにしても逸脱にしても何が美しいのだろう。
もしもバランスが美しいというのならその秘密は比にあるのか? バランスは五対五を意味しない。もしそうなら人間の顔もその半分半分の比で美しいことになる。黄金比も半分半分ではない。ある意味偏っているのが美におけるバランスなんだ。
逸脱や恋人はそれが特別になることで普通一般に対してある比を生むから美しいのでしょうか? 普通一般と恋人は美を生む比の関係にあるのかもしれない。だから、恋愛は全体との関係があってこそ、美しいことになる。
感覚としてはどうか?もある。

弁証法的形式が美しいとしたら、そのロゴスも美しい比の中で要素が関係しているから、美しいのでしょうか。

安部首相も、ここで使ったような
論理を使って全体としては裕福だと言ったらしい。それは身体の脂肪の付き方で使った論理だと思う。部分的に脂肪がついて、部分的に脂肪が付いてないのは全体としてはやせているとの論理だ。

誰もが生活できるだけの金は必要だ。
だから肉体の脂肪の配分のようにはいかないだろう。
全体として裕福なのは、
全体に普通に生活できるだけの金がある
ときだと思う。
そうでなければ不健康な脂肪の付き方と
同じで全体として醜い社会だろう。

部分的に貧乏で部分的に裕福で、全体として裕福だとしているのだ。でもあるべきところに金があるわけでないなら醜い社会に過ぎない。
そしてみんなにある程度の金はあるべきだ。
身体も全体としてやせていると言えるためにはあるべきところに脂肪がついているのが条件になる。美しい肉体と美しい社会は同じような体つきにならない。

美は比だと言われている。
私も今はシュタイナーのように美は
法則にあるのかもと思っている。
それは質に量が重なったもので、
法則という内容が同時に
応用数学的な形式の側面を兼ねている。
この内容と形式を兼ねる法則が、
法則的に展開するところに美があると思う。
自然の美に対して芸術は未知なる霊界の自然、つまり精神界の美を物質的自然界で表現したもの。

物質的自然界に降ろした形式は
どうしても数学的になるので、
数学の証明の知識だけでなく、
数式や論理式の様々な展開を記憶しておけば
それが美的感覚を養うことになるのかもしれない。非線形モダンの作品にも法則性を感じる。

でも自由詩がある。
自由詩には詳しくないが、
もし対比、離脱、反対、
矛盾、逆転、理念の現象などの弁証法的表現をするなら
それも弁証法という法則の展開だ。

芸術はゲーテとノヴァーリス
の二局面、つまり建築、彫刻への方向、
空間的なものへの方向と、音楽、詩的な時間的なものへの方向とがあるらしく、
ノヴァーリスも学びたく思う。
彼も全体性を目指した人だ。

ゲーテ、ノヴァーリス、ヘーゲル、シュタイナーは全体性だ。

これまで学んできたことが
有機的に関連しあい、
趣味全体と仕事が相互作用して
実用性を超えた部分、役に立たないものは
実用性を含むようになり、実用性が役立たないものに役立ち、役立たないものが実用性に至る
ような全体性を持つのが夢

数学がめんどうなら、いろいろな芸術に接することでいいのか

楽器は和音をそれ一つで弾ける。
人間の場合、二人など複数になって
個々の声が集まり和音になる。
これがハモりである。

学習した内容の型が
仕事空間に張り巡らされて
仕事に役立つ可能性がある。
そして仕事は認識の材料となり、
認識を育てるのに役立つ

論理学のab=baの意味を考えてみる。
厳密にはどちらも言葉であるが、
その言葉の表現が違うので違うものである。
イメージとしてはaがbより大きいなら、横に長い長方形であるか、縦に長い長方形であるかの違いであり、どちらも等しいとすることで、
テトリスのように回転させることができるって意味になるというアイデア。
左辺と右辺は、確かに意味が違うものになる。
テトリスでわかるが、縦でないとはまらない場合や、横でないとはまらない場合があるから、左辺と右辺では意味が違うが、それを等しくすることで、回転可能なものにする。これで横は縦に、縦は横にできるようになる。

この論理式は、
縦長の長方形だったら、横長の長方形に
変形でき、横長の長方形だったら、
縦長に変形できるって意味にとれる。
この両項は実はどちらも同じ一つの量に等値を
付けれる。その一つの量が普遍であるが、この場合、二次元に分割された形として現れていて、この量の二次元という特殊な分割法の中で二つの現れ方をしている。この量がもし三次元という特殊な分割法にあるなら、別の現れ方をしただろう。
つまり形の連続。
この概念的な内容がトポロジーと通じることになるなら、ab=c=baの単純な論理学の前提のような論理式をさらに基礎付けるような
もっと単純なトポロジーがあるってことでしょうか?

論理学は私には難しいが
意味を考えるのは面白い

思考認識は面白く 感情、芸術は美しく、
意志活動は楽しいのかもしれない。

楽しいなる感情は忘れてしまった。
美なる感情は知らない。
美に感動したことがないのだ。

思考が二人を殺した。
そして面白さが食べた。

楽しさがない、美も感じない。
面白さは思考の中に引きこもっている。
まだ魂は天使の羽根の中に
閉じこめられていて、眠っているんだ。
でも今は思考の夢を見ていて
いつか美と熱意の世界に覚醒するための
養分を蓄えているのだろう。

特定の何かを製作する技術は
その技術を応用して別の特定の何かにすることができる。
専門技術でも応用範囲は開いている。
木工船舶技術を自転車製作に応用するなど。

役に立つものが別の役に立つものへの応用だ。
役に立たない哲学も、役立つものへ応用できそう。
直観力や発想が仕事空間の中に入り役立つかもしれない。

テトリスやぷよぷよみたいなゲームで、
ブロックが同じ量であればどんな形にも変形できるのを積んでいくってゲームのアイデア

ちょうどヌーソロジーのブログが
黄金比のことを書いていた。

ちなみに女性のほうが感覚が開いている
女性のほうが感覚が繊細、つまり体が弱い
というイメージが正しければ
感覚的な分野や感覚派は女性的で、
理論派は男性的になる。
そして感覚からロゴスを見いだすのは
男性的なものと女性的なものの統合だ。

魔術の学院というサイトを知った。

やっぱり魔法修業する気にはなれないな。
まだその時ではないのかも。

それに私の場合は
魔法修業に時間をかけるより
心の清さだとかもっと道徳的になるような
努力に時間をかけたほうがいいかな。

道徳を自分の最高の
魔術にできたらよいと思う。

感覚的なものは取りあえず音楽だけにして
道徳的な実践をやろうとしている。
それはヤマ、ニヤマの実践で
まずはそれらの言葉の記憶から始めて
次に一つずつ習慣化していこうと思う。

知識、理念を得るのではなく
理念になるってこと

道徳的理念をたくさん
かき集めてそれらを体得する試みも面白そうだ

例えばヤマニヤマに書かれてある
戒律以外にも、道徳的な理念として
節約や有言実行などがあるけど、
道徳的理念を全部集めて、それらを一つずつ身につけるのだ。

本当は順番が逆で、ある程度理念を体得してから、学問や魔術をするのが正しい順序だと思う。

気功をやっていると芸術作品からでも
気を感じられるようになるとか。
色や文字、音などからも気を感じられる。
芸術では、思考による感受と
ただ感覚する他に、
言葉にできない気を感じる感受
自分の気を動かし、気を周囲から集めて
気を放出する。

地球には気脈があるらしい。
昔は気脈のスポットに寺などを立てたのだろうと思う。

気を感じられない人間
にとって古くて新しい世界だが、
古過ぎて前世の自分が既に体験済みな可能性がある。
気は模倣魔術を使っているのがわかった。
新しい気の運動は言葉を模倣するオイリュトミーになると思う。

樹木や動物に
仲間として受け入れてもらうために活動
するのはどこかよい。

森林の仲間に受け入れてもらうのだ

ヤマとニヤマを生活の範囲とできる範囲で
実践しさらにあと一つ努力を加えた。
だからずっと活動しっぱなしである。
休みもするけど。

その新しい生活の効果があってか
夢の内容も新しくなり、透き通った海の底に
もぐり、未来の日付が表示されているのを
見つけた。残念なことに忘れてしまったが、
その日に何かが起こるのかもしれない。

戦争があって、いろいろあった後に
漫画屋に入り、
オリジナル漫画を二冊渡されて、
店から出た後に、砂浜で終わりではない、
始まりだと決めて終わる夢を見て気づいたら泣いてた。
これも道徳的理念の生活をやろうと決めた後に見た夢で、私にとってはそれをするのはよいことなのだと見た。
自分を信じて試してみよう。

日常生活について思考を試みるとつまらないが
ここはカテゴリーミステイクで
日常生活は思考して価値がわかるものではなく
活動して価値がわかると考える。あるいは
カテゴリーミステイクではないが、全面的な思考ではない。
活動して身体で知覚するとわかるのが生活で
頭だけで知覚しようとしたら活動的な身体の知覚を捉えるのを逃してしまい、また活動することによる活気も再現できずにいる。つまり論理だけでは現実を捉えられない。
現実を思考以外の領域も
知覚して全面的に体験してから
その現実が判断できると考えられる。

活動の連続は思考から見たら
つまらない日常の連続に過ぎないが
感情や意志の面を考慮すれば、
もっと肯定的な成分があると考える。

何かをもらう夢から、
実際にエネルギーをもらえることがある

作品は世界にばらまかれているが
どうしてその作品が創造できたかの
秘密は隠されている。
隠されているならばばらまいた場合、
密かに命が狙われる可能性もある。

全ての人が創造の秘密を手にすることが
できる世界だったらよいのに。
そうなると、単なる芸術家では
食べていけなくなるけど、
創造性はそれでも是非大衆化して欲しい

自然の中にいる人間が自然を内部に
吸収して自然を分解し、結び合わせて
製品に加工し、人間の中に流し入れる

整った思考の世界を冒険していても、活動経験が少ないと途中で頓挫する。
意志の世界の冒険はごった返しの無秩序で
存在が自由に並んでいる。
唯一の意志の世界の統一は、
まさに意志自身だ。
一つの領域で活動を深め活動を繊細にしていける。ピアノ奏者の指使いや折り紙の様々な折り方など、一つの領域で活動を妙なるものにしている。
そして多方面へ向けられた活動力。

ティエム様、コメント欄お借りします。


道徳的生活、日常生活。悩ましく、可笑しく、時にほのかに温かい現実世界の営みに取り組まれるとのこと、昔々の私が、やはりこの「現実世界」に姿勢を正して向かおうと強く意識した日があったのを思い出させて頂きました。(ご不快かもしれませんすみません)

行動しなければ始まらないという立ち位置は、この世ならではですね。思索だけでは、あの熊手のフォルムは完成には至らないのでしょう。
この熊手がまた実際、みごとに大小落ち葉を山とかき集めてくれます。
ところが柏の葉(柏餅の大きな葉)に特化すると、ある程度の量ならば(個人的には)ホウキよりも熊手よりも、素手で次々拾い集めるほうが速かったのが、面白いところでした。

水道の蛇口がいきなり取れて、部屋に噴水が飛び散ったら、行動に次ぐ行動あるのみ。(行動も幾通りもあります)

「自分を信じてやってみる」いいことですよ。体得という言葉もありますね。挨拶もマナーも、他にもあれこれ、失敗の味わいも、辛抱の味わいも、行動への意志あればこそです。

ゴッホの作品に履き古された靴の絵があります。若い日私はその絵に何も感じなかった。三十数年もの歳月が流れ、最近偶然本でその絵を観て、なんか歳月の重さがですね。わが手も足も、現実生活を汗流して行動してくれたこと。年を取るのも悪くない。そんな思考へと導いてくれました。

おばあさんのこんな話も、まあ今日はお許しくださいませ(^_^;)

みるくゆがふ様

コメントありがとうございます。
今日も頑張ります。
言葉自体に年齢はないと思います。
言葉は身体よりも長い間、若々しさを保ち、
成長していき、身体よりも衰えが
遅いのかもと思ってしまいました。
精神は身体とともに成長するが身体とともに衰えはしないのかと問いができました。
また、言葉に魂が性別を与えることができますが、言葉自体に性別はないのかもしれないと思いました。
私たちの内面には性別によって本質的形態の変化しない器官があるのだと。
しかし別の論理層では、論理は男性的で、感覚や想像力は女性的とも言えます。
でも内面に生じるあらゆる論理や数学は男性女性を超えたものだと思います。

途中まで気功を読んでましたが
次は西洋音楽史を読もうかと思ってます。
そして演奏する楽器の音楽史も読む。
紹介された音楽を比較してみたい。
楽譜も音楽史に紹介された奴を読み込んだり比較したい。

生活はヤマニヤマで、その中に読むことがあります。心を高めてくれる本を読むだとか。
そこに理論的な霊学と実践的な霊学の科目を当てる。
生活の中に理論的なこと実践的なことが含まれる。

それとは別に感覚的なこととして音楽分野がある。

また別に仕事がある。
これで人間のだいたいの領域は網羅したことになる。

つまり学問 芸術 宗教 仕事 生活
理論的、感覚的、実践的
これだけの領域から
一つずつかいつまもうとしている。
利他的活動は仕事と生活に含まれる。
あとは大きな世間と恋愛を
経験できないくらいだが、
ここまでやらせてもらえるのだから、
知足できる。
 

あと禁欲として不摂生を避けるために
走りを始めました。ハードではないけど。

さきほどの領域の他に、体を動かす領域、スポーツ、武術があるんだった。これはもしかしたら音楽をある程度やったら、オイリュトミーを学ぼうとしているので、いつか満たされる。
オイリュトミーは武術に影響与えうるだろうか。そしたら、ジークンドーの、水のような武術から、言葉のような武術に進化するかもしれないと思う。

詩人、吉田一穂も美とは構成、比率、調和とのことを書いていた。

音楽ではリズムの前後間隔的対比とメロディーの上下的対比がある。
楽章は前後する別の楽章と対比できるかもしれない。

比率をわきまえた作品はどれも美しいことになるなら、作品に競争は生まれないはずではないか。もしかしたら芸術作品は競争主義ではないのかもしれない。競争があるなら、たぶん比率の美の観点の他に、表現力の観点があるのだと思います。

比率や弁証法が美を生むなら
日常に実は美が潜んでいる。
何かになるように目指すとは
でないをであるに、否定的状態を肯定的状態にもたらすこと、そして否定的状態でありながら、その状態の中に肯定的状態を目的として両立させている。例えば、あの人の近くにいたい、立派な職人になりたいと願うのも詩的状態と言える。

善に弁証法、対比を見いだす試み
悪を前提とした悪からの解放、浄化は
悪から善へ、苦痛から喜びへの反対の類への移行

禁止する、あるいは推める善は
その善が完成したら純粋、普遍の類に上昇する。あるいは純粋でない類ではできない守れないことをできる意味での対比、普通、つまりここでは非純粋ができないことができる。しかし純粋は内部に非純粋を抱えていて、純粋が王になったとしよう。

だから、真とは概念であり、善とは概念であり、美とは弁証法である

パウルベッカーの西洋音楽史

音楽史の発達史的、進化論的考察の批判
それに対して同じ力の変形という考え方を
持ち出す。
幼稚から大人へではなく、同じ力の変形。
どちらにしろそれら2つの考え方は
弁証法的思考に含まれる見方で、
なかなか期待できそうだ。
つまりこの彼の西洋音楽史は
音楽のメタモルフォーゼを描こうとしていると見た。
これにより、私は音楽のイデアを感じられるかもしれない。

ゲーテ、ヘーゲル的な、概念的な思考は
役に立たない分野で普遍性を発揮してくれた。

私は本当に普遍的なら、実践的な領域では
役立つ力に変化すべきで、普遍的なら、
役立たないものから役立つものにも変化できるべきだと考える。

哲学は技術には何の役にも立たないのか。
つまり、技術に概念性はないのだろうか。
実はある。
私がわかる限りでは、
可変性、可動性あるいは柔らかさと
不変性、不動性あるいは硬さを利用して
物が作られている。
例えば木製の自転車は木の柔らかさ、可変性を利用して曲げられ、木の硬さを利用して形態を維持しているし、ノリは固形物と固形物の間に入れる変形する柔らかく、後で固形物になる品物だ。工作は木を切る形で変形させ、そこに不動な釘を打ち込み形を作り、紐は可変性の塊である。車はタイヤなど動く部分と座席など固定した部分に別れる。

仕事の技術分野は、これらの概念性を意識して当たってみよう。

睡眠不足したら高い確率で、頭痛が
起きる。この頭痛は、
遊んだり人混みの多い場所にやられたときや、
夜でも目が冴える体が戦闘モードに
なっている時の頭痛と同質に感じる。

自立神経の乱れが原因かもしれない。このような幾つかの場所で同根の原因を見いだすのが医学の面白いところ。同質の不調は同じ原因かもしれない。自立神経の乱れが精神病を誘いうる。

睡眠不足すると頭痛になるのを普通に
思ってたが、そうではないらしい。
睡眠不足の頭痛は危険信号だとか。

私は小さな世間の中や人混み、めんどうな人間関係のいざこざ、きつい仕事を避けて生きるのが体質にあっているのだ

発達史と似た展開が音楽にある。
音符は全音符を基準にすると
だんだんと分割されていく。
それらを表示する記号はだんだんと
線が付け足されていく。
音符が分割されていくにつれて
その記号が発達しているように見える。
しかしどの音符も音楽には必要だ。

歴史的、時間的展開の理念は進化論的なそれと
変形的なそれがあることがわかった。
この2つの理念は歴史と時間的展開が見いだされる限り応用範囲が広く分野をまたぐだろう。それだけ基本的な理念なのだ。どちらも弁証法的な理念であり哲学が実際に学問の基礎に座している。つまり、種の起源は進化論を明らかにしたが、それは生物学を超えた生物哲学であり、この生物哲学はほとんどの歴史に応用可能性を開くため生物哲学を超えて一般哲学の理念にまで上昇したのだ。

音楽で練習時間がとれないが
技術をなるべく多く身に付けたいなら
なるべく技術をたくさん注ぎ込んだ曲を選んで練習するといいかも。

初めて聞く曲なのに
懐かしく感じる曲は
脳の錯覚ではなく
かつて曲の作る雰囲気を
無自覚に体験したことがあるから
と考えます。

進化論的歴史生成が面白いので
比較の面白みが今更わかってきた。
どうでもよい人間観察からでも
この面白みを引き出せるはず。
人間の場合はパウルクレーの
ゲーテ的芸術史観のように
同じ力の変形と考えたり、
音符記号の生成のように
発達はしてもどれも必要と考える
ことから優劣付ける見方に
緩衝材を加えられるかも。

優劣はあるはずだ。
そうしないと
憧れも尊敬も消えてしまう気がする。

この場合のどうでもよい人間観察とは
個的でほぼ無関係な遠くにいる他人の観察であり
無関係でなければどうでもよくはない。
単語のどの部分を見て発言しているのか、
部分によっては真逆の発言がありうる。
このどうでもよい
人間観察を実はどうでもよくない内容にしうるのが、やはり人間観察であり、人間観察から
普遍性を見いだしたり比較するならどうでもよくはなくなると思う

そしたら他人の不幸は
どうでもよいのかと
反感を抱く人もいそうだが、
実は他人への共感を持っていれば
遠いけど近くなるのだ。
だから他人の不幸はどうでもよくはなくなる。
一方ではどうでもよい他人観察が、
観察自身によって普遍性を帯び関心を抱くようになる、これは思考の類であり
もう一方ではどうでもよい他人が共感によって
遠くて近くなる。さらに意志はどうでもよい他人を実際に近づけ関係する。

だから人の思考に対して否定を向けたくなる時もあるのだが、相手が何をイメージしてそう言ってるのか相手も視点を変えられるから、肯定的見解や別の見解も持っているが今は否定的に言いたくなる、別様に言いたくなるイメージについて思考を巡らしているのだろうと
思っておく

多機能製品から一部の機能を離脱、独立させた
製品を作るというアイデア。

例えば携帯から、目覚まし時計機能だけ欲しいなら、
携帯電話ならぬ携帯目覚まし時計の発売。
これは充電式なので電池を買わなくていい。
充電式目覚まし時計と言い換えられる。

多機能製品から一部機能を独立させる、
あるいは一つの機能を集めて多機能製品を作る

理屈に従う人と感覚に従う人がいる。
理屈に従う人は理屈にだけ理性が
備わっていると思っているのか、
感覚に従う人に自分の正しさを主張する時
がある。そして感覚に従う人に理屈に従えと
強制してくる。
逆に感覚に従う人が理屈に従う人に強制するのは見たことがないが、なんでも感覚に従っていると理屈に従う人にまで被害を及ぼしうる。

分析哲学系は思考の限界に関心があると
思うが、
本当は感情や感覚の、理性、の深さがどれくらいかの知と、その限界の知にも、関心を持つべきではないか。
理性を司るのが思考だけでないなら論理学だけに興味を持つべきではないと思う。

思考の限界と感情や感覚の限界を知ることで、
どちらかを優先する人どうしの喧嘩を防げて、
足りない部分を補えるようになりうる。

脳は物質の中では精妙で、
まるで非線形な姿をしている。

脳にもメタモルフォーゼがあるとしたら、
それを機能で捉えるなら、
機能のメタモルフォーゼがあるかもしれない。
そうしたら、脳にも美と真が宿っているのがわかるだろう。

実際、脳は、非線形で、はっきりと分かれておらず、同じ神経なはずなのに、様々な働きを各所でしている。
たぶん神経がメタモルフォーゼしているのだろう。原神経とか、原脳、原機能が予想できる。

機能のメタモルフォーゼが
想像あるいは解明できたなら、
工学にも生命的有機的な美を宿らせられるようになるだろう。

個々の可動性に注目して、
その全体からどの動きを取り出すか
によって、働きが変わり結果が変わる。
楽器は口や腕の動きから音を取り出す。
音は空気の可動性から
取り出された空気の動きと唯物的に考えられる。

可動物から
音符のような単純な動きを
順に取り出し総合的な動きが意味を持ち
メロディーになる。

仕事をうまくやるには、
たぶんこの可動性と不動性を
意識することだと仮定するが、
可動性の中で個々の動きが総合されなければ
まだ実用的でない。
個々の動きを結びつけて
意味のある動きを
作っていくと可動性は総合されて
実用的になると思う。
意味のある動きを何度もやっていくと
それが体得されると思う。
abcdとabghの順番が体得されabが身につく、
こんな抽象が何度もされて個々の動きが、組み合わされた動きとして記憶され、それらがさらにまとまり、動的文法になるのかもしれない。
こうして個人の型ができる。
すなわち、可動性は形式を得る。
もっと深く言えば作業の形式を意識したら
もっとうまくやれるようになるのかも。
可動性の概念を深めることで、それから形式へと発達した。
可動性の様々な動く可能性、
動的可能態はそこに形式が与えられて
形式に制限された全体に至る。
形式に制限されない場合の全体は
無秩序だったり意味のない組み合わせと混ざるが、形式によって意味のある動き全体が区別される。
形式は動きの組み合わせに
秩序や意味を与える

たぶんこれが関数の意味だろう。
そしてちょうど、
ある記号論理学の本に、関数とは述語と書かれてあったのを思い出した。

私には数学的感性が足りないのが残念だ。

対象から取り出す
バラバラな動きの集合があり
それに意味付けする形式が加わり、
バラバラな動きが、まとまりのある動きの集合へと移行する。これは形式が加わってない場合の集合より限定、制限されている。
組み合わせの形式だから、もとの集合より広くなると思う
仕事でうまくやるためには、
動きの関数を意識し、試行錯誤しながら
作っていくことと見たり。

ヘーゲル的には形式、法則は特殊性だ。
私の理解では可能性一般からいくつもの形式をへていくつもの現実集合に至る。
同時にこれが種から発生する系統的植物と比喩され、植物の先っぽが個別性となる。

法則を統一する法則は主語が述語でもある、
すなわち、主語が動きでもあるなら

アルファベットは実は口腔の多様な声として
統一されている。これが文法によってある文として奥にある口腔の一見バラバラに見える統一から前方に出てきて声文として固まり、個別的でも前方に統一が生まれる。

普遍が形式をもち、形式が普遍から素材を取り出してまとまりのある個別な統一を作る。

でも意志は普遍なのに、身体の形式になっているから難しい

意志は普遍であるが意志が働いて特殊な意志
になると、身体に働いて特殊な身体になる。
特殊な意志も身体自体も意志の特殊である。

わからなくなった

粘土は揉むと形状を変え、
自我が刻印され、内面化する。
この内面化は言い換えると特殊化だ。
しかし粘土は自分の力で特殊化してない。
特殊化の力は外部より得た。

身体も同様に、意志の特殊意志への
特殊化の過程が身体に刻印され
この特殊化の力が身体の形式となる。
ここで意志は身体の特殊となっているが
それは意志が身体に働きかける普遍性が
働きかけられる対象にとっては、
あの直観的文法論の如く対象にとっては特殊性となり、働きかけが刻印されるからだと考える。

意志から特殊意志への過程があり、それが身体に働きかけるという意味で、意志は身体の普遍だが、身体が働きかけられ過程を刻印される点では身体の特殊化であり、身体にとっての特殊となる。

特殊な意志が身体に形式を与えて
素材となる身体から行為を生み出す。
意志によって身体から取り出せる動き
が意味を持つ。
一つの文だけで一つの統一であるように
あるいは一人の人間だけで構成要素の調和と内から外への統一を目指すように
行為も特殊な意志の形式と素材となる手足の統一か。意志は右手左手など、体の部分を素材にして組み合わせて動かす。もともと身体が出来上がった作品なので、素材という感覚を抱きにくいが。でもこう言うとどうだろう。
音楽がいろいろな音を素材にするように、
いろいろな動きを素材にして目的を達成すると。
仕事でうまくやるための一つに、形式の獲得がある

素材と力、あるいは素材と形式
素材は外的な力を自分の外的な法則にして
外の働きで自分を特殊化する

新しい音楽様式は今は滅びてしまった古い音楽様式だ。
ギリシャ音楽は音階を高い方から数えた。
それはギリシャ音楽が言葉と密接な関係に
あったからだという。

このギリシャ様式を復活させるだけで
新しい音楽になるだろう。
なぜならかつての
ギリシャ音楽を再現できないから、
新しい現代的ギリシャ音楽にならざるをえないからである。
古代の滅びた形式を現代に応用することで
新しい内容を生み出す方法

最小のリスクで最大の利益を得るという
経済学の合理性は
最小で最大の普遍原理の概念と通じる。
もしこの合理性を変えることで経済学が
発展するならば、
ゲーテ的な一つ一つから
本質を取り出す方法
を新しい経済学の合理性に
することができるだろうか?

音はドレミファソラシド
と下にあるドを基礎に上昇していく。
まるで地上から天へと上昇していくようである。

頭痛よ去れ
お前がもし仕事中に
いらんことに訪ねてきても、
私は追い払う術を持たぬ
ならばこれから先、
やっていけるだろうか?
健康よ来たれ
お前が私と共に
暮らしてくれる友になるなら
頭痛も風邪もお前を嫌うので
私は元気にやっていけるのだ。

神よ頭痛がします、助けてください
神よこの苦しみから救ってください
私の他にも苦しんだり悩んだりしている
人々が大勢いますが、
我々を生じさせた責任のために、
我々全ての苦しみを背負って
共に生きてください

これまでの罪で
地獄に堕ちた人間は
苦の体験によって、
結局は救いの道が開けるべきなのだ。
地獄に堕ちるべき人間は
地獄に堕ちるべきなのだ、
性にあった自然な場所が救いの道へと続く
たぶんそうしないと一生救われないだろう。
以上は私のファンタジーである。

全ては美の美の一元論の意味
美は比率だから、法則性は美だ。
だから自然と精神的自然は全て美しいのだ。
たぶん宇宙の真理自体が、
感受性の豊かな人には美に映るのだ
だから全ては美だと表現できるのだ。
そして一見これは確実に醜だとしても、
全体との関係においては美になるに違いない

人間の内蔵や地獄絵図、よくある悪魔の絵、
ぶつぶつは醜いが、
醜は実は潜む法則性を理解したら
美しいと反転できるかもしれない。
つまり、内から見たらなんでも美しくなるのかもしれない。

善も美だとしたら、それは中庸だ。
つまり行為の程度が両極の中で
美しい比率にあること
真も法則性として、ある比率を生む

だから真善美は比率だ、
別の見方では三者は概念だ。

比率を見いだす感受性を育てると
人生は美に満たされるのだろう。

無理かもしれないけど、
やっぱり純粋数学に挑戦してみよう。
自由を達成するために学ぶのが一番いい気がする。

自由のためにできる学びは
古来のリベラルアーツで、
そこに言語、哲学、数学が含まれる。
シュタイナー的リベラルアーツは自由の哲学に載っている。その一つに自然科学がある。
これはたぶん、
物質の可動性を見極めて、
これを動かせばこうなるという法則
を理解して、物質を操作、変化させ、
価値を作ることだ。
だから、自分の力で自立し、価値創造するためには自然科学が必要になる。
また、この価値は道徳的であることだ。

他には霊的意識を達成すると自由になれる。
これは道徳的生活や行をやってみるしかないだろう。

自由のために、これら全てをやってみるのが理想だ。

スマホの特徴は区別の解消と、個別の集合への包摂、凝縮にあると見た。
区別の解消とは、ボタンとアプリの
共通点において一体化すること。
どちらも区別するために、区切りがある。
どちらも見た目にはボタンのようだから、
アプリ、あるいは画面にボタン機能を付けると発想したと思う
凝縮とはインターネット機能の小型化。
そして集合への包摂とは、
個別情報をインターネットによって、集合的情報と接続したこと。


自然科学で価値を創造するために
あらかじめ道徳理念を具体的に想像して、
それにより現実と乖離した場合に、
自然科学を応用して、現実を
道徳的想像に近づけること。

なぜ社会科学ではないのかがわからない。
まだ道徳的想像力がなんなのか自信ない。
たぶん、善だったら、宗教書のように ひたすら具体的な善のイメージを作っていくことだろうが、
残念ながら、記憶にない全く新しいイメージ
を作るのが難しい。どうしても過去の繰り返しになってしまう。
だが一応新しいイメージを作ることができた。
テレポート技術を使った輸送業運搬業

やっぱり数学は諦めます。
オイリュトミーも諦めます。

数学を諦める代わりに
論理学概論と論理学入門を読んでおきます。
その後、霊学と行に集中したい。
オイリュトミーやらない代わりに、音楽に
集中します。
オイリュトミーの代わりに気功もやる。
気功はスポーツの代わりにもなる。
オイリュトミーはできる環境がないから
無理な望みでした。

知足がなぜ清いのか
欲望がないから。
あるいはむなしい物質的外的な
対象を愛さずに精神性や心、
愛を愛しており
愛とはつまり心の本質なので、
自分と離れることがないから、
それだけで満足できるのだろう。
他人の心や愛情の現れ日常生活でも満足できるようになる。

惨めさを感じるが、
それはあるを愛しているから
ないを感じると不快になる。
この不快感を知覚に利用すると
自分にはないものを
意識すると惨めさを感じ
自分にあるものを知覚すると優越を感じる。

でも必ずしも感じるとは限らないが、あってそうな理論仮説だと思う。

これは私の傷や食欲、否定の心の理論と通じる

愛する対象を変えていけば心は変化する。
時間をかけて、だんだん愛せるように
なっていくのかもしれない。

高校三年でも中学レベルの英語力らしい
たぶん、教師が語学で哲学に達しておらず、
広い普遍性を感じさせず
語学が実用に過ぎない、道具に過ぎないもので、それそのものの価値を見いだしてないから、生徒も語学そのものに価値を見いだせないのかもしれない。

たぶん、学びには2つの方向がある。
哲学に向かう方向と技術に向かう方向である。
日本はだいたいが技術に向かう方向なので、
何事もどうでもいい日常生活の
一部でしかない価値しかもたないような
装いになってしまったのだろう。
しかし哲学が技術になるならば
乾燥した技術に少しは新鮮さを取り戻せるだろう。

私の立場では現実そのものが言葉になる。
神の言葉は人間の言葉の他に、自然もそうである。物質以外も神の言葉だ。
思うに、批判家はなぜ、現実の自然批判をしないのだろう。それも、言葉で織られた体系なのに。
それと同じで、
もし正しく直観できたなら、それを批判して
否定的に見ても、それは批判しても仕方がない自然を否定的に見ているのと同じで、その直観内容の真実性そのものは
何も傷つけることはできないだろう。

西洋音楽史読み終わりました。
あの方法を応用して現代音楽史を
作れそうだ。
ロックバンドはボーカルが中心核、
つまり普遍であり、
肉声が主人でそれに楽器が従うと考えられそう。
それに最近では、小説を呼んでいるかのような
言葉が中心の音楽になっている。
また、これまでの長々と眠くなる壮大さから、
眠くなる前に聞けるような、
短さに、音楽の風潮が逆転している。
例えばゲーム音楽は、オーケストラと比べて、
何かが短いので、眠くなる前に聞ける。
ゲーム音楽でも壮大さを表現することができるが、それが言わば、一つの楽章に濃縮され一つの楽章で終わるのかもしれない。圧縮と膨張の関係にあるだろうか。

実験はピアノで言うと、
自然は常に複合的だから、
和音と似ている。自然は常にある和音である。
自然は現象のハーモニーと言えよう。
このハーモニーを出すために押している
指の位置を、確かめたい要素だけ変えずに、
他の要素の位置を変えたり、押すのをやめたりして実験するイメージ。
例えば地球圏内における物体の落下は
物体と空気のハーモニーだが、空気を押すのをやめて、物体だけの音にするのだ。

論理学の本はざっくばらんに
覚えてる程度で片付ける。
今回は科学方法論の章を
ざっと読むだけにした。

次はもう行の本を読んでから、
それを始めよう。でもまだ持ってない

それと平行して音楽と気功をする。
気功はまず、スワイショウの解説と
それの15分の実施を今からする。

夢がオリジナル曲を歌っていた。
歌詞まで作っていた。
途中の拍子は覚えてる。
絶えず夢の中にいる状態なら、
オリジナル作品が作れそうなのに。
あとは技術が必要になるけど。

哲学的技術を使ってる夢も見たことがある。
サンスクリットのような文字で括られたカテゴリーがだんだん拡大していき、位置が特定する技術

動物の避妊はたしかに、
それで育てられもしない子供ができなくなったり、病気を防げるなどかわいそうな目に合わせるのを防げるかもしれないが、どっちにしろ、
避妊させること自体がかわいそうに思う。
自然の賜物は自然のままにするのが理想だから。でも、まあ、私の考えを理解できない人はいる。
よりましな悪を選んでいるに過ぎないことを。
ペットショップはおかしい。
命のためを思えば
動物を飼わないほうがいい場合もある。

思考は面白い
感情は快い
意志は楽しい

戦いも立場の違う集団が対比されている。
ツリーのような対戦表のスポーツで優勝するとは、その時代に
普遍者になることだ。優勝者から、末端がわかれていく、逆に、末端がだんだんと統一者になっていく。
覇権争いで勝つことも勝者が敗者を包摂する形だろう。

だから、勝利者に相応しいのは、
普遍的精神を持つもののみとわかる。

スポーツはその分野で自由な人間になっているかどうかを決めるものかもしれない。
それが普遍の別の意味だ。
国どうしの覇権争いの上位に立つものは、
精神性でもない野蛮な武力を基準に立っているのだろうか。

これらのことは全て人生の一部分に過ぎない。
人生の勝利者が絶対的な勝利者であろう。
つまり、自由な精神を持つものたちが、人生の絶対的勝利者、王者だと思う

私は無性愛者かもしれない。
児童の頃から、性愛に興味がないのだ。
言い換えると結婚や配偶者はそこまで要らないのだ。
もし性愛に目覚めることがあれば
勝手に目覚めてもいいがそれまでは
そこは受動的に生きようと思う。
生殖行為の経験がなくこれは性魔術でエネルギーをもらえる手段でもあり、
その恩恵に預かれないのは惨めな感じだが、
これは私が自分で選んできたことだからいいのだ。

前にも書いたが、
全く自然と運命に任せようと思う。
不幸せでもいい。
惨めな絶対的孤独が修行になる。
絶対的孤独から力を得たい。
人生の泥沼を経験するのだ。
絆の力と、孤独の力の対立だ。
孤独な人間は早死にするらしい。
孤独が惨めなのは認めるが、
私のやりたいようにやって孤独なら、
それでいいのだ。利他活動は仕事でできる。
別に孤独を貫く信念はないけど。

私は精神的に幼いのだろう、だから
人間への関心が開かれていないのだ。
だから恋愛、友情、個人的原理らの探求は
人より浅いだろう。
それがわかっていても、私は私のやりたいことを、まずやっていく。
私のやりたいことを、やっていく人生のために、精神的に幼くなったとも考えられる。
私の人生の全体は夢の中なのだろう。
夢を持ちながら生きるのは、子供時代の意識と似て、人生全体が子供時代になるのかもしれない。
夢から醒めると大人だが、
大人の現実主義が真実の現実を語るとも限らないのだ、
子供の素朴な、全てのものには魂があるという可愛らしい感覚のほうが真実かもしれないのだ。

それぞれの人間の運命を観察できる霊力があればいいのだが。

孤独は独身のことと、
老齢になり、知り合いがみな死んだこと
この2つをまとめて絶対的孤独と言いました。
現在は孤独ではありません。

音楽はまた新しい見方ができた。
リズムは数列的なロゴスであり、数式で
統一されている。
この数式の値は変化可能で、それによりリズムも変化する。

音程は度数感覚があり、感覚的なロゴスである。

長さにもロゴスが見いだせる。
簡単に言うと、全音符を普遍とするそれである。

もしかしたらいろいろな次元から音楽をロゴスと見なせ、それらの特殊化が楽譜形態とみなせるかもしれない。
それを考えてみる。

リズムの数式が、一定のリズムを作る。
それが拍子として大枠でまとまりを得て
長さの全体が決まり、その長さの全体によって
音符が分化できるようになる。
また長さの分化が終わり、リズムの中に音符が生じると今度は音符どうしが互いに関係を結ぶようになる。この結びつきにより、音符を単位とする線ができる。この線の変形により音程が全体的に決まり、メロディーとなる。
伴奏のハーモニーは、言わば外装であり、
その外装をつけた伴奏される音符が垂直的全体の一つの音となる。あるいは休符に外装をつけて結局は伴奏が核の音になる場合もある。

これが音楽の変容体だ

リズムから拍子が決まり拍子が全体の長さを決める。全体の長さの線が区分されまたそれが高くなったり低くなったりと、全体の長さの線が変形されギザギザになったりする。
伴奏は変形して伴奏されるものと垂直的全体として一つの音になる。

芸術は概念的なものの積み重なりと考えられる地平を私が開きました

絵画について

描かれる対象から読み取れるある特徴を
表現の素材にして、描かれる対象のその特徴のみで、その対象の全体を描くという特徴を抽象し、それを強調して描く方法があるとしたら、
他にはある表現の素材に使われたそれら特徴を、総合して全体を描く総合的描写方法もありうる。

また、概念的な特徴を掴んだ描き方はどうすればよいのかの考え、人それぞれですが、私は、
まず対象の一般性の特徴を掴み、それを描く、次に、対象の個性を掴み、その一般的な特徴で描かれた絵に、その個性により変形させる。
さらに、この個性に性格や自我などの内面を担わせることで、例え一般的特徴から物理的個性によって変形された身体でも、さらに内面的個性によって変形させるという描き方、これにより、同じ身体でも違う個性として別物に描ける

仕事学
まず場所がある。
場所は区間の中で行為が配置されている。
場所でできることが違うのだ。
だからそれぞれの場所で生じる
現実は違ってくる。
これは時間についてもいえる。
場所と時間の中には様々な状況がある。
この様々な状況に対応する、相応しい、
言い換えると、相応する動きをしたらいい。
相応しい動きが一つでないとしたら、
ある一つの状況に対して相応する多の活動があることになる。
例えば雨天なら傘を持ち、晴天ならもたないなどであり、まるで、天気と行為がアナロジーになっていて状況の属性と同じ性質の活動をしているみたいで面白みがある。

仕事学は
時と場所の状況の属性に一致する
動きをアナロジーに展開するとうまくいくと
考えておく。動きの詳細については関数、文法の体得である。
あとは想像力だ。
実は物理学もアナロジーがある気がする。
例えば物を押したら前に進むのは、
後ろの前に押す活動が、アナロジーのように物に伝わり、その物も前に進む。

商品企画開発も、人間全体から、
ある特徴というか、需要を持つ人間を想定して、その集団に相応しい商品を作る。
あるいは人間でなくても、
自然環境が汚れていたらその状況に相応しく、
それを綺麗にする。状況に相応しい動きが、その状況を変化させる場合がある。
企画開発は外向けに、与える動きだと思う。
それにより、変化が起きる。
汚いから綺麗へと反対のものになったり、普通の状態から喜びや快が生じる変化など
商品は弁証法を無意識に利用している。

可動性と不動性の観点に関数と文法
時と場所と自然と人間に相応しい
動きの研究、これが仕事学かもしれない。
時と場所に相応しい行為は
既にニコマコス倫理学にも書かれてある


個別の状況に相応し、普遍的な仕事能力があるとしたら、全ての状況を含む状況がなくてはならないが、そんなものはなく、個別の状況しかないなら、仕事能力は個別的になるが、
あるいは似た状況のある仕事能力をカバーしていると考えられる。

どんな状況にも器用に対処する能力は
霊学を深めることらしい。

ファウストに出てくるホムンクルスが
こんなことを言っている。

人間の負けず嫌いの性分は多目に見ておやりなさい、誰しも自分の身を守って人間になっていくのです。

これは現代にも言えることだなあ

霊界は自分の主観が影響して体験が変わるのがありうるから、
霊学は精神的科学でなければいけないのかも。そうしたら、霊的世界はちゃんとしたある意味客観的世界として現れるだろう。

老哲学者は文系も理系も学んでいて
その人の研究の文脈があって
魔法は科学の未知の部分みたいなことを
言ったのだと思う。

時空を超えた話をしてやると言ってから
結局もうあうことはないだろう。
聞きたかったなー。

その人は、理論ではなく、
なんと経験として時空を超えたのだとわかる。
これは、どんなうるさい否定理論も四の五の言わせぬタイプの経験だったのだろう。
言い換えると新しい現象の発見、
及び魔術的世界観復活の可能性が開けた。

でも、作り話かもしれないがね

散歩がてらに通り過ぎる数々の
建築物はその概念の変形体が羅列されてあるとみなせば、眺めるのも面白いかもしれない。

音楽は
自分の人生の文脈の中で理解できるもので
いいのかもしれない。

私はざっと、バッハとモーツァルトを
聞き、ベートーベンの運命を
思い出してみたが、それよりも私の知っているゲーム音楽のほうがいい。
作品の普遍性が芸術の価値だとしたら、
私の好きなゲーム音楽にも実はそれがある。
それは死へ立ち向かう、死という
物質界における真実をテーマにしているところだ。レクイエムもあるが、それは死者のための歌で、ゲーム音楽は生きている人間の人生の死闘を主題にしていると感じる。

ゲーム音楽にも普遍性があり、これまでの音楽とは違ったジャンルの
音楽芸術とみなしてもいいのだと思う。

別にそこまで悪でもないのに
攻撃されている人はキリストや
預言者の境遇に近い。
彼らも攻撃されて生きてきた。
もしあの世があるのなら、
攻撃するより、攻撃された人のほうが
大いに報いがあるだろう。

だから、悪は避けるべきだが、
悪は長い目でみて親切な悪なのだ。

もしかしたら、だからこそ敵を愛せとの
教えがあるのかもしれない

今日もオリジナルアニメを夢見した。
見る前に思考した、
自我が強ければそれが外部に及び
自我の弱い人間を支配してしまうのではと。
そしたら、水晶でできたような青い建物に
赤いマスクの霊がいて、ある人物にとりつき、
全ての自我を奪い操ろうとする、それに対抗するために女性の魔術師が現れて、リスペクトという青色の魔法を使って自我を取り戻させるが、結局、命を犠牲に、
全ての人間に本来の自分を取り戻させた。
その魔術は自分の命を犠牲に、自分からある精神的存在を取り出して宇宙まで上昇し、地球に放射した。すると、巨大な桃色の花びらが現れて、歌詞の単語に叡智が含まれる歌を
歌う女神が誕生した。全部書ききれないが。

自分自身に立ち返らせるコメントは可能か。
支配の反対に自分の心に依拠する自立があるのかも。

のめーるさん、提案ですが、この辺りで、私のコメント欄での発信を終わり(卒業し)、自分のブログなり、ホームページなりを開設して、発信を続けてはどうでしょうか?

正直、私は、初めは、のめーるさんが、精神的に不安定にならずに、コメントを続けられるか、疑問に思っていましたが、その心配もなく、現在では、ほぼ安定して、自分の考えなり、発想を発信することができています。そして、それは私のものとは違った独自のものになっていますので、もはや私や私のブログの読者のことを気にせずに、自分で自由に、自分の責任のもとに、情報を発信すべきときに来ていると思います。また、その方が、のめーるさんの自立のためにも、よい効果をもたらすと思います。

今すぐというわけにもいかないでしょうが、どうぞ、検討してみて下さい。

なお、ブログ等を開設した場合、私のブログのコメント欄にぜひURLをお知らせ下さい。

ティエムさん、提案ありがとうございます。
でも、まだブログを始める気にはなりません。
私は弱いところがあり、まるで自分のブログが攻撃者に狙われてしまうのではないかと
妄想してしまうのです。
だからティエムさんのブログで代わりにやってました。
でも、卒業はすることにします。
実は今度はアナログな日記をやってみようかと思ってたところです。ティエムさん、これまで受け入れてくれてありがとうございました。

最後の考えを書きます。
神秘学概論の最後の序文の最後によると、
彼の話は神秘学概論に肉付けしながら読めること、つまり神秘学概論が世界観の全体像。
神智学が個人の人生ならそれはもっと大きな全体の過程を描いている。
ハルマゲドンは闇の陰謀である説に
対して、社会が人間のメタフォアならば、
社会もいずれ死ぬ、滅ぶことになる。
社会の中の物質を担う人間や組織と
精神を担う部分では、精神が生き残り、
肉体は滅ぶことになる。だからハルマゲドンは自然なことなのかもしれない。死期が近いのだろう。企業も世界的企業であっても物質的部分でしかない企業がありうる。

社会は死んで新たに生まれ変わるのかも。
社会システムの発達史と捉えるか、社会システムの変形とも捉えられそう。

のめーるさん。私は、その「攻撃されてしまうという妄想」を乗り越えるためににも、ブログをやってみたらいいのではないか(実際やってみたら、そんなこともないことを学習できる)という気がするのですが。

でも、今はまだその気にならないというなら、しばらくアナログでやってみて、ブログの方でやる気になったら、やってみるということにしたらいいと思います。

とぎどき私のブログにコメントすることなどは、今まで通り歓迎しますので、遠慮なくどうぞ。また、もしブログを始めたときは、ご連絡下さい。

これまてどうもお疲れさまでした。

ティエムさん、書き忘れてたことがあるので、
書きますね、のめーるです。

絵画方法論の考察は
まだ抽象的だった。
それは抽象画から写実画への過程が
抽象から具体性へ至る要素の重ね合わせと表現していたと思う。

この理論をもっと具体的に考察する
焦点や目の動きを考えて構図を決める。
ここにはどのように形を配置するかの
考察も含まれており、それで奥行きがあるかどうかが決まる。

構図の考察の後、形を表現する。構図に
従って形を配置、変形させる。
形は一般的特徴と個別的特徴があり、
先行する構図に依存し、構図段階の絵画をより具体的にしたものである。この後、明暗、影を表現しより具体的な段階にして、最後に色彩で決まる。構図、形、明暗、色彩、4つの成分はこのように重ね合わされ、構図が最も抽象的秩序を与える。全ての成分に一般性と具体性があるかもしれない。全ての成分はまた、精神を通して変形させそれを表現する。
この絵画理論が正しいとしたら、
ロゴス的過程を無意識に採用していたのがわかる。作業過程も表現になるのだろう。

以上です。統合絵画理論を作ろうとする動きがあるみたいです。

のめーるさん。自分で言ったことは、ちゃんと実行するようにして下さい。

今後、自分の考えは、アナログで綴るか、自分のブログ等を開設して、綴るようにして下さい。
「ときどきのコメントは歓迎」と言ったのは、何か私の記事に関連することでの、コメントということです。

厳しいようですが、以後このようなコメントをされたときは、削除することにします。
「特別扱い」をしないということですので、どうか了承下さい。

初めの頃は、自分の思考なり発想を、アウトプットできないことが問題と見受けられましたが、今は、思考活動の方に行き過ぎて、思考と意志がアンバランスになっていることが、問題です。


シュタイナーも、意志を鍛えるには、自分で決めたことを着実に実行していくことしかない、と言っています。何か、理想的なことではなくて、本当にささいな、日常的なことでも、自分で決めたことを着実に実行していくことが、重要なのです。それが、少しずつでも、意志を鍛えて、自分に自信をもつことにもつながっていくのです。

のめーるさんの、「攻撃されるのではないかという恐怖」は、自分の意志に自信をもつことができないことの、裏返しという面があると思います。自分の決めたことを着実に実行することで、自分の意志に自信をもてれば、攻撃されるのではないかという恐怖も、薄らいでいくと思います。

今の場合は、アナログでやるというなら、アナログで自分の考えを綴ることをちゃんと実行することです。ただ、私は、いずれ、自分でブログを開設することを目指して、やることを勧めます。ただし、アナログで綴るにしても、一日に、一テーマについて、一回だげということを守るようにして下さい。今、あまり思考活動の方に行き過ぎることは問題です。

そして、それを着実に実行できるようになったら、ぜひブログでの発信に挑戦してみて下さい。ブログは、コメントを受け付けない設定にもできますし、始めたとしても、いつでもやめることもできます。やってみたら、「攻撃される」というのは、杞憂であることが分かる思うし、実際攻撃されたとしても、それに対応するのは、自分の意志に自信をもてるようになることで、むつかしくなくなることが分かると思います。

また、たとえ、攻撃されてやめることになったとしても、それを恐れて、思考だけでやらないことにするのと、実際に実行してみて、やむなくやめるのとでは全然意味が違います。

私も、もう少し早く対応すべきだったと、反省しています。今は、明らかに、「依存症」に陥る一歩手前のような状況になっていると思います。このまま私のコメント欄で続けることは、もはや、何の発展性もないばかりか、それから抜け出られなくなる可能性があります。

どうか、意をくんで、そのような方向で挑戦してみて下さい。もう一度言いますが、本当にささいなことを、確実に実行していくこと、特に、自分で人を前にして言ったことは、(多少意地とか、体裁を保つためとかでもいいので)、やっんと実行していくようにしていくことです。

http://blog.goo.ne.jp/alotofmega

ティエムさん
のめーるです、ブログ作ったので張りますね

のめーるさん、ブログ開設おめでとうございます。

相変わらずの(?)内容で、私には理解し難いところもありますが、現在の地球の文明が崩壊した後の、一つの総合的な学または実践の方向を示すものという気はします。

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