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2015年10月 3日 (土)

「オープンダイアローグ」について

フィンランドでは、「オープンダイアローグ」という「対話」を中心とした療法が実践され、精神薬をほとんど使わず、統合失調症などの精神病の「治療」が行われているという。その治療成績が、一般の精神医療に比べて明らかに高いので、最近はさまざまな方面から注目を集めているようだ。

ロバート・ウィタカーの『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』の最後の方でも、簡単に触れられていたが、そのときはあまり印象に残らなかった。

が、このたび、斎藤環著+訳『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)を読んで、私も注目することになった。

ユーチューブにも、アメリカの心理療法家が取材したドキュメンタリーの動画がある(https://www.youtube.com/watch?v=_i5GmtdHKTM)。

斎藤環は、正直好きではなかったが、この本に関する限り、要領よく的確にまとめられた、よい本と言わざるを得ない。この治療法の先駆者である、セイックラ教授の論文も3つ収められている。

しかし、基本的に思うのは、本気で「開かれた対話」を心掛ける人達がいるなら、「統合失調」であろうと何であろうと、「治癒」に向けて良い効果を及ぼすのは、当然のことということである。ところが、「対話で統合失調が治る」などということに、驚いている方が、どうかしており、よほど「精神医学」に洗脳されているのである。

記事『一過性の現象としての「統合失調」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-eb39.html)及び『長期化させる要因』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-573b.html)でもみたように、「統合失調」は、「一過性の現象」であるのが本来の姿であり、「長期化」する方が、異常な事態である。「開かれた対話」による治療は、その本来「一過性」である現象が、「長期化させる要因」による長期化を免れて、本来の姿のままに現れたというに過ぎないのである

逆に言えば、一般の精神医学は、初めから、「開かれた対話」など拒否しており、本当に現象と向き合う気などなく、ただ、手に負えないものの「厄介払い」を代行するため、「治療」という名のもとに、それを無理やり抑え込もうとしただけである。そして、むしろ、それこそが「長期化」を促進させたにも拘わらず、それを、本来のあり様のようにみなしたのである。

ところが、この「オープンダイアローグ」は、ただ、そのようなやり方を止めて、本当に、現象に向き合い、助けになることをなすべく、一歩を踏み出したというに過ぎない。言い換えれば、本当に「治癒」を目指す気になった(結局はそうするしかないことに気づいた)、ということである。

簡単に言うと、そういうことに尽きるが、しかし、実際に行うとすれば、ことは、そう容易なことではないのはもちろんである。そこで、その「治療法」のポイントを、私の視点から、もう少し具体的にみてみよう。

一つは、「オープンダイアローグ」は、「対話」は対話でも、あくまで、「開かれた」対話ということである

「開かれた」とは、いくつかの意味合いがあるが、要するに、特定の見方や考えを持ちこまずに、また、誰が主導権を握るということもなしに、「対話」という状況そのものに「語らせる」ことである

これまでの精神医療は、「病気」とか「治療」とかいう発想をし、初めから、「価値判断」をもちこんで、しかも、本人を治療の「対象」として、対等の立場としては扱わないので、全く「開かれた」ものではない。

「オープンダイアローグ」の反対は、「モノローグ」(独白、独り言)とされるが、そのような関わりは、表面上、「対話」であっても、実質、「閉じた」「モノローグ」の「押しつけ」でしかない。

つまり、「開かれた」対話を目指すなら、「病気」とか「治療」、「診断」という発想そのものを、「止める」、あるいは少なくとも、「棚上げ」することが必要であり、そこに、そもそもの大きな関門がある。

本人が「対等」というよりも、それ以上の「主体」としての位置を認められていることは、「本人との対話で納得されたもの」以外の行為は、一切なされないことになっていることからも分かる。

なぜ、本人が「主体」かと言えば、それはもちろん、現象を経験しているのが、本人だからである。「病気」や「治療」という価値判断をもちこまないとは、起こっている現象を、「未知のもの」と認めることであり、その「未知」の言語化し難い現象に対して、何とか「言語化」しようと、本人がもがいているということを認めることである。

だから、この「オープンダイアローグ」は、本人に起こっている未知の現象を、「対話」という状況を通して、関係者の間で「共有」し、なんとか「言語化」することを手助けするということを、意図することになる

そのように、他の人々との間で、「共有」された形での、「言語化」そのものが、「治癒」をもたらすことになるというのが、高い治療成績の大きな理由といえる。

このような発想は、「人」や「物」ではなく、「開かれた状況」そのものが、「治癒」をもたらす方向に作用するという、一種の「信頼」に支えられているところもある。そこには、近代的な個人主義的発想を越えたものが、垣間見られる。これは、フィンランドという、ヨーロッパの辺境の地域性や文化性とも関わることと思われ、西洋近代の中心的な地域一般に浸透することは、確かに、大変なことに違いない。

次に、二つは、「オープンダイアローグ」は、「急性期」の早い段階での介入を行うということである。言い換えると、まだ「妄想」が「固定」される以前に、なされることに大きな意義がある

「オープンダイアローグ」を実践する病院では、電話がかかってきたら、チームを組んで、24時間以内に対応するという。それは、本人が、幻覚や妄想と格闘している「急性期」にこそ、「対話」を試みるということである。そこでは、「妄想」があるにしても、まだ強固に「固定」しておらず、変化の可能性が大きく残されている。

私も、「妄想」は、「壊れかかった自我の防衛反応」ではあるが、「固定された妄想」は、結局、混乱した事態を拡大させることを、何度も述べてきた。それは、「妄想」が、確かに「自我」の崩壊を防ぐ役割をするものの、「固定された妄想」は、それ自体が、いわば、二次的な被害をもたらすからである。その「被害」は、その「妄想」が、さらに相乗効果により、「幻覚」を助長することにもよるし、「妄想」が、周りの者と軋轢を生み、それがまた、葛藤や「迫害」の意識を拡大することにもよっている。

いずれにしても、一旦、「妄想」が「固定化」したら、それを変えることは容易ではないから、その「固定化」の前に、対応する必要がある。「オープンダイアローグ」は、「妄想の固定化」する前に、(「無理やり抑えつける」のではなく)
「開かれた対話」の力により、「未知の現象」に、何とか「言語化」を与えることによって、それを防ぐように作用する。そのことが、「治癒」に向けて、大きく影響しているのである。

「妄想」というのも、また一つの「モノローグ」であり、本人が、「閉じた」形で、起こっている現象に、即席に与えた、「言語化」である。その「モノローグ」を、何とか、「開かれた」場へと持ちこみ、関係者の間で「共有化」された形での、「言語化」をもたらそうというのが、「オープンタイアローグ」の試みといえる。

「開かれる」というあり方は、本人に関わる、関係者に求められるとともに、本人自身にも、求められるのである

このように、「オープンダイアローグ」には、十分の意義があると思うし、本当にそれがなされるなら、「治癒」的な結果がもたらされるのは、当然のことである。特に、「急性期」には、この療法を中心的なものとして試みることに、私も賛成である。

しかし、私は、「オープンダイアローグ」という、「集団的」な関与ないし介入には、やはり、「危険」な面も多くあると、思わざるを得ない。それのみに、頼るようなことは、避けたいのである。

そこで、次回は、そのような面について、述べたいと思う

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コメント

<ティエム様>、ご無沙汰しておりました。

・・・「集団的な」【医学の】『介入』による[画期的治療]・・・それが“オープン・ダイアローグ”・・・[直輸入!]

《次回が待たれます》

≪括弧の濫用は(なんだかあんまりなあ)でした。やめときます≫

先程は【名無しのごんべえ】で失礼しました。

「こんなしょうもないコメント書くのは、あのおばはんだけや」と思われたことでしょう。

いつも有難うございます。ゆっくりと次回をお待ちしております。

みるくゆがふさんお久しぶりです。

「オープンダイアローグ」は、本当に「オープン」になされる限り、意義のあるものに違いありません。しかし、医学関係者はもちろん、一般人も、そう「オープン」になどなれないのが現実です。だとすれば、もしこの療法を取り入れることになったとしても、実質、これまでと何ら変わりない、「押しつけ」的な「介入」に、体よく使われるだけのものになってしまう可能性があります。

私としては、その理念的な意義には、もっと注目してほしいという思いもありますが、残念ながら、現段階で、あまり実地に向けての期待はできないものです。

もし取り入れるとしても、急性期において、「実験的な試み」に止め、これまで述べてきたように、「放置療法」的な「療養施設」による「治癒」を中心にしたいです。

…ほとんど、次回述べようとしたことを、書いてしまいましたが(笑)。

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