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2015年10月15日 (木)

「オープンダイアローグ」と「放置療法」の併用

記事『一過性の現象としての「統合失調」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-eb39.html)で述べたように、「統合失調」は、かつて近代以前には、共同体による「集団的癒し」により治癒がもたらされていた。だから、「統合失調」も、本来「一過性」のものであり得るということである。ただ、「共同体」が解体された現代においては、かつてのような、「集団的癒し」を復活させることは難しい。そこで、それに代わるようなものを、個人が身につけていくしかないと、私は述べいていた。

ところが、前回述べた「オープンダイアローグ」は、このような、共同体的な「集団的癒し」を志向するものといえる。恐らく、フィンランドの西ラップランド地方では、かつての共同体のあり方が、まだかなり残っているのだろう。それで、このような療法は、受け入れられやすい基盤があったと思われる。

もちろん、現代の共同体は、かつての濃密な共同体とは異なるし、実際、治療に当たるのも、医療スタッフと家族などの関係者であって、「共同体」なのではない。それは、いわば、「疑似的な共同体」であるが、「オープンな対話」により、何とか、かつての共同体に近い治癒的な環境を、作出しようとしたということができる。

「統合失調状況」についても、かつてのように、予め、「共同体的な理解」をもっているわけではないが、「オープンな対話」を通して、かつての「共同体的な理解」に近い、何らかの「共同化し得る言語化」をもたらすことで、なんとか癒しの効果を期したといえる。

そこには、個人主義の時代を通過しているからこその、個人の重視という面もあるのだが、基本的には、かつての「共同体的な癒し」が、モデルとされていると解される。それは、もはや伝統に基づいた、確たる方法ではなく、不確かで、手探りのものだが、それでも、現代において、十分の治療成績を上げているのは、逆に、いかに、現代の精神医療が酷いものかを、示すものなのである。

いずれにしても、このような「共同体志向」は、コンセプトとして、十分頷けるものがある。

また、現に「統合失調状況」にある本人にとっても、かつての「理解」が失われたのは周りの者と同じであり、特に、「幻覚」に苛まれる急性期において、「理解」の手掛かりが得られないことは、大きな苦しみをもたらす。また、誰にも理解されず、孤独に追いやられることにもなる。そこで、前回みたように、急性期において、この療法を施すことで、何らかの「共同化」がもたらされることは、そのような苦しみや、孤独を和らげ、治癒に向けて、よい効果を及ぼすことも、頷けることである。

だから、私も、急性期において、このような療法を施すことには、基本賛成である。

しかし、このような療法も、「集団」による「介入」なのであり、本当に「オープン」になされるのでない限り、結局は、これまでと何ら変わりない、集団の側の見方や都合の「押しつけ」に化してしまう可能性が高い。むしろ、「オープン」という大義がある分、実質「押しつけ」でしかないものを、体よく誤魔化すのに、利用される可能性も高まる。あるいは、「オープンダイアローグ」を形式的に採用しつつ、それでは治癒が成功しなかったとして、これまでのような薬物中心の医療をなすための、口実として利用される可能性もある。

そもそも、どんな相手であれ、人間が真に「オープン」になるということは、稀なことである。まして、確かに、危険性も秘めた、難かしい状況にある人間に対して、「オープン」になるなどということは、さらに難いことである。

実際、「オープン」というのは、前回みたように、医療関係者も含めた、集団の側が、「病気」とか「治療」という一方的な見方を止めるか、少なくとも棚上げにしなければ、成り立たないことである。そのようなことが、「集団」の力が強く、「医療」や「薬」への盲目的な信仰の甚だしい、日本のような環境で、可能なことかは、かなり怪しいと言わねばならない。

そこで、このような療法は、取り入れるとしても、それに頼るようなことは避け、急性期において、実験的に、なすに止めたいのである

私は、前から述べていたように、「介入」ではなく、「一人で放っておいてあげる」こともまた、治癒に向けての、重要な要素だと考える。一種の、「放置療法」である。(記事『「精神病」の「放置療法」と抵抗』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-e1b2.html 参照)本人の陥っている状況について、理解が得られないことや、孤独が苦しみになるのは、確かであるが、一方、本人にとっては、他人や集団からヘタに干渉されることも、大きな苦しみとなるのである。なまじっかな干渉や介入がなされるぐらいなら、放置される方がよぼどよいし、治癒的な環境としても、適しているといえる。

このような「介入」による苦しみは、現代の社会及び精神医療が、「患者」を「病人」として、一方的に、治療の対象として扱うことによっているし、周りの者との、さまざまな葛藤や軋轢が避けられないことにもよっている。このような状況にあっては、それらを避けることが、むしろ「治癒」的な環境を、整えるのである。「オープンダイアローグ」の発想は、「集団的介入」ではあっても、少なくとも、こういうものを遠ざける方向にあるので、その限りで、治癒的な効果を発揮できるのである。

しかし、「一人で放っておかれる」ことの真の意義は、そういうことにはない。それは、起こっている現象と、時間をかけて、じっくりと向き合うことを可能にする、ということにこそある。既にみたように、「オープンダイアローグ」も、かつての「集団的癒し」のような強力なものではなく、基本的に、混乱や苦悩の状態を、和らげるのに過ぎない。それは、真に、体験を共有するものでもなければ、真の「理解」をもたらすものでもない。結局は、そういったことば、本人である自分がなすしかないことなのである。

言い換えれば、「オープンダイアローグ」のような療法は、単に、混乱に陥る前の、元の状態に戻るという意味での、「治癒」を目指すものである。ところが、「放置療法」的な、「一人でじっくり向き合うこと」は、単に元の状態に戻るというのではなく、混乱の状況を乗り越えることで、元の状態を超えていくことまでをも目指す。「イニシエーション」として、乗り越えることで、成長を果たすということである。少なくとも現代では、そのような点にまで、共同体が関与することは、あり得ないことなので、個人が努力により、なすしかないのである。

ただ、繰り返すが、「一人で向き合う」ことは、最も激しく現象に見舞われている、急性期において、やみくもに混乱を深めたり、それを防衛するため、「妄想」を固定するなど、マイナスの方向にも大きく作用する可能性はある。そして、その場合、「一人」では、それを修正する機会に欠けることにはなる。だから、それを解消できるようなものとして、「オープンダイアローグ」を実験的に施すことには、意義がある。実際には、この点も、予めの知識が行き渡れば、一人で対処できる可能性も高まるのだが、現状では、「共同性」の力を借りる方が、効果を発揮することも多いと思われる。

そういうわけで、一見相反するようだが、「放置療法」的な発想と、「オープンダイアローグ」的な療法を、うまく併用していくのが、「治癒」に向けたよい方法といえる。しかし、その場合にも、全体としてのコンセプトを言うなら、「放置療法」的な発想の方こそが主になるべきで、「介入」はあくまで最低限に抑えることにしたい。

但し、現に混乱の状況にある者を、「一人で放っておいてあげる」には、ある程度保護的な環境が必要となる。つまり、そのための、一種の「施設」が必要である。しかし、記事『「精神医学」と「もともとの問題」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-436a.html)でも述べていたが、それは「治療」を施す「病院」とは全く異なり、あくまで、本人の「療養」のための施設である

ただ、本人が必要とすれば、先の「オープンダイアローグ」のような療法、または、カウンセラーや体験者などのアドバイスを受けることができる。医師は、最低限の身体的ケアをなすものとして、関与を認めてもよいだろうが、それは、精神科医である必要はないから、精神科医の関与という余地はもはや生じない。(つまり、精神医療は不要になり、それまでそれに当たられた莫大な費用が、そのような施設の運用につぎ込めるということである!)

もちろん、現在のところ、こういった治癒方法には、あまり現実味はないし、もし、なされるとすれば、かなりの危険が伴うことも予想される。それを受け入れるかどうかは、社会の問題であるが、しかし、その危険が、現在の精神医療がもたらすものに比べて、より大きいものかというと、そんなことはないはずなのである。

いずれ、実験的にでも、そのような方向に踏み出す試みが、なされればと思う。

 「荒廃」をもたらすもの

未だに、「統合失調」を放置すると、「荒廃」し「廃人」になる、などと信じている人も多い。それも、「統合失調症」という「病気」が厳としてあって、その「病気」が、必然的に「荒廃」をもたらす、というのである。何とも、「オカルト」じみた、「病気」が信じられているものである。これはまさに、一つの「都市伝説」である。実際、このことは、多くの者が、「統合失調」に、何らかの「オカルト」的なものを含みみていることを、浮かび上がらせてしまっている。

確かに、「統合失調」という「状況」が、「荒廃」をもたらすことはある。しかし、それは、その者の陥った、具体的な状況が、「荒廃」をもたらすのであって、何か「病気」とういうものがあって、それから必然的に、もたらされるわけではない。

しかも、その「状況」には、その者を取り巻く、社会的状況というのものが、大きく関わっている。中でも、精神医療との関わりこそが、多くを占める。記事『長期化させる要因』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-573b.html )でも、まとめた(「荒廃」とは「長期化」ということの一つの現れである)ように、「病気というレッテル貼り」、「病院という劣悪な環境」、「精神薬」など、多くが、精神医療との関わりで生じているのである。

つまり、実際には、精神医療こそが、「荒廃」をもたらす、大きな要因となっているのである。

「オカルト」的なものに対する「恐れ」こそが、この「都市伝説」の元なのだが、その「オカルト」的なものを封じ込めようとして、実際には、医療が、「荒廃」を生み出している。そして、その「原因」を、元々の「病気」なるものに転嫁して済ますとき、この「都市伝説」は「リアリティ」をもって再生産されるのである。

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コメント

ティエムさん、ご無沙汰しております。
7月にはご相談のお願いをしていながらそのままになってしまい、すみませんでした。
統合失調症になった子どもの状態・状況が刻々と変わってしまい、すぐに判断して対応する必要があったので、相談する余裕がなくなってしまいました。結果、心ならずも抗精神病薬を増やすという方向に進んでしまい、長期化の可能性がでてきたので、その失望感からしばらく心の整理が必要でした。
でも抗精神病薬の怖さやその処方の根拠のあいまいさについて、多少学んでいたので、薬は最小限の量にとどめることができており、また入院という手段も取らずに、今の所何とかやれています。それはティエムさんのブログからも多くを学ばせてもらったからだと思います。感謝いたします。
本当は薬も一時的にとどめるようにしたかったのですが、継続的に飲むようになってしまいました。でも私たちの場合、それが歩むべき道だったのだと今は思っています(思うようにしています)。
なぜなら薬を極力用いずにその症状と向きあうことは、現状では本人や家族にとって難しかったからです。とてもそれを耐えきることはできませんでした。ティエムさんがおっしゃるように、安全に守られた療養所のような所があればよかったのですが、それも探せませんでした。何度も二人で山奥にこもることを考えましたが、どこか躊躇があり、決断には至りませんでした。
継続的に抗精神病薬を飲むことは、もしかすると長期化を引き起こしているのかもしれませんが、その分、あまり大きな社会的問題は起こさずに済んでいます。そして本人の苦しさも和らいでいるように思います。このように病気と気長に付き合いながら、さまざまな学びや社会的支えを見出しながら、本人が物心ともにしっかり安定してきたら、徐々に薬を減らしていければと思っています。あせらずやっていきたいと思います。
大事なことは、統合失調症についてのさまざまな考えや見方を知り、それぞれの危険性や間違った部分、正しい部分、利点、欠点などを斟酌しつつ、さらには社会情勢や家族や地域の社会的条件などとのかねあいを考慮しながら、何より本人が、そして家族が、できるだけ納得できる道を歩んでいくことだと思うのです。
そんなことは言っても、どうしようもなく選択させられてしまうこともあるかもしれませんが、そんなときは、それはカルマだと思って、受け入れるしかありません。

話は変わりますが、オープンダイアローグについては私も関心を持っています。ティエムさんの危惧もなるほどと思いました。やる側がその危険性に無意識であれば、かえって体制の強化の方向に向かってしまうかもしれませんね。でもそうではなく、この方法の眼目である「不確実性への耐性」「対話主義」「社会ネットワークのポリフォニー」が本当に機能するならば、個人の尊重のもと、主体的な選択がなされ、納得した人生が歩みやすくなるのではないかとも思います。きっと今の日本でこれを本気でやろうとするならば、今ある合理的な治療システムを捨てる覚悟が必要なのではないかと思います。医療者側からの押しつけはしないというのがルールですから。そしてまた精神科医の権威は大きく失われるので、斎藤環さんがおっしゃるように精神科医たちの強力な抵抗があるかもしれません。
ティエムさんのおっしゃる放置療法との併用ですが、このように考えてみました。
オープンダイアローグではあくまで本人や家族の意思を尊重するわけですから、その本人や家族が「放置療法を選択したい」と言ったならどうなるでしょうか。おそらくまずは医療者たちとの対話になるのでしょうが、その意思が強ければ、チームはそれをできるだけ成就できるように環境を整えようとすべきなのではないでしょうか。そして専門チームがそれを常時サポートするなら、家族も本人も放置療法に耐えやすくなるかもしれません。
そもそもダイアローグというものは、ブーバーによれば、それは「言語」によるものだけではなく、「存在」そのもの、「ただ共にいること」がすでにダイアローグ(対話)だそうですから、このオープンダイアローグもダイアローグの意味をそこまで広げて考えて欲しいと思います。そうすれば放置されている当人と、それを見守り支える人たちとの、非言語のオープンダイアローグというのもありだと思います。
まだこのオープンダイアローグのことについては、よく分かっていませんが、この日本の精神医療の状況に大きな変化をもたらす可能性があるのかどうか、しばらく勉強していきたいと思っています。

NH 改め Nomad Souさん、ありがとうございます。

私も、現状において、統合失調状態に陥っているときに、病院にかからず、精神薬も使わずに、対処するというのは、非常に難しいことと思っています。それは本人や家族がそれに耐え得るかという問題もありますし、本人や家族だけの問題ではなく、周りや社会との関係の問題もあり、強制入院という制度もありますので、そうせざるを得ない場合もあると思います。

一方で、私は、病院にかかることが、その場合以上に、良い対処法になるかというと、決して そんなことはないとも思っています。より酷い状態に陥ることも、ままあるでしょうし、精神薬により、一見「大人しく」なったようにも見えても、それが本人にとって本当によいことかどうかは別問題でしょう。

現状においては、どのような対処法をとったとしても、「危険」と背中合わせで、ある意味、運と成り行きに任せるしかないということになってしまうのでしょう。ただ、今後に向けてということでは、病院に頼るのではなく、本人において、また社会において、何とか対処するという方向に進むしかないと思っています。このブログも、そのような方向に向けて、なされるべきことを考察しているものです。この点については、譲るものは何もありません。

ただ、様々な事情から、病院にかかることを選ばざるを得なくなった場合には、できるだけ、信頼できる医師や病院を選び、精神薬も最小限にしてもらえるよう働きかけるしかないでしょうし、実際、NH 改め Nomad Souさんは、そのようにされたのだと思います。子どもさんも、結果として、かなり落ち着いた状況にあるようで、なによりと思います。

具体的に、子どもさんがどのような状況にあるかは分かりませんので、具体的なアドバイスはできませんが、とりあえずは、今後もその方向で、暖かく見守っていってほしいと思います。

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